第26話 残光


「お兄ちゃんのおかげね」


 朝の教室で、秋羽は隣の席をかりて座っていた。


「完投した投手のおかげだ」


 まさか、そのまま投げ続けるとは。

 結局打たれることはなく、悠星の完投は完全試合として幕を閉じた。

 地方の新聞欄では、スポーツ欄の一面とはなったが、特に全国紙で何もなく――。

 誰の栄光も自分のためにある。大勢は次の夏次の夏と時間が埋もらせていく。ニュースはいくらでも世間では転がり続けている。芸能のゴシップ、プロ野球の話題、他のスポーツの記録、政治家の不祥事。


「あと一勝よ」

「そうだな」


 学校でも多少の盛り上がりはしている。何度か甲子園に、行っているからそれほどでもないが。

 悠星は周りの視線が多少気にかかる程度。


「決勝どうするの」

「監督が決めることだ」

「やっぱ先発は佐野先輩かな」

「佐野先輩も簡単には打たれないよ。それに決勝で先発一年生は、プレッシャーが凄いだろう」

「突き指は大丈夫なの」

「まぁ、全然直ってるみたいだな」


 ピッチャー陣は万全だ。香星高校は堅守を誇る。

 あとは打撃だ。矢瀬が何発か打ってくれると楽なんだが。明央のピッチャーもそんな生半可な投手ではない。

 どっちが勝ってもおかしくない。激闘になるだろう。完全試合も明央相手にはありえない。140キロ代のストレートなんてノビがあってもポンポン打ってくれるかもしれない。


「そういえば、甲子園行けたら付き合ってくれるんだっけ」

「ほんの少しの間だけね。三股男に恋愛指南でもしようかしら」

「しなくていい」

「あら、残念」


 夏弥、もう少しだ。

 もう少しで。

 これで許されるだろうか。結局、何もできなかった贖罪は。

 甲子園に行けたら……。それでいいよな。

 自分勝手なのかもしれないけど。あのとき、青かった自分の、分かりやすい感情の置き場に。


「岩沢さんはまだ来てないわね」


 秋羽は、悠星の視線が彼女の椅子に向かっているの気づいていた。


「珍しいわね」

「そういう日もあるだろう」


 偶然はそこまで遠慮なしではない。

 こんなところでまた大切なものを奪ったりはしないはずだ。死は平等に訪れるけれど。


「何、顔青いよ、悠星」

「おはよう、岩沢さん」

「おはよう、何、どうしたの。秋羽さんにひどいことでも言われた」

「ちょっと、わたしは何もしてないから。岩沢さんが遅いから心配してたんだよねー。わたしを無視して」

「そっ。まぁ、悠星、心配症だから」

「ピッチャーとしてのメンタルが心配になるわね」

「よーし、いいこいいこ」


 夏弥が冗談じみた調子で頭を撫でてくる。

 勝たないと。チャンスは、もう一度回ってくるか分からない。

 絶対に、負けられない。


「秋羽、夏弥、今度の試合、勝ってくるよ」

「当たり前でしょ。負けたら、許さない」

「……」


 秋羽は調子よくそう答えた。

 夏弥は、無言でただ微笑んでいた。


 

† † †


 

「那雪、どうかしたのか」

「いえ、わたしも少し大事な試合前にお時間を頂こうと思って」

 

 夏弥と前にランニングをした公園のベンチで、那雪と悠星は缶コーヒーわたし飲んでいた。

 今日は星が綺麗で夏は大三角を描画している。

 

「お姉ちゃんには内緒ですよ」

「内緒でもバレそうだけどな」

「それは仕方ないですね」


 公園のベンチからは池が見える。夜の池は街灯に照らされて、池の上の通り道の踏み石が存在感を見せている。

 那雪は、コクっとコーヒーを少し飲んでは離している。


「早いですね。まだ一年生ですよ」

「行ける時に行かないと。来年行けるとも限らないし。今年もだけど」

「ふふっ。そうですね。取らぬ狸の皮算用にならないようにしないと」

「勝負は最後までわからないし。大一番だよ。優勝候補筆頭なんだから、明央は」

「勝負の世界ですね。美術だと、スポーツほどは明確にはつかないですから、すごいなぁって思います」

「……那雪。甲子園行ったら——」

「チヤちゃん言ってました。お兄ちゃんは最近怖いって。あんまり話してないって」

 

 遮って、那雪はこちらを見つめていた。その瞳は優しげだった。

 そういえば、二週目、あまり妹のことを見ていなかった。野球と岩沢姉妹に時間を割いて。


「悔いがないように試合をすればいいです。応援、チヤちゃんも来てるから、見てあげてね」

「ああ」

「ふふ。素直で不思議です。わたしとお姉ちゃんには甘々ですよね」


 那雪が言いたかったことは、とても分かりやすいことで、でも全部を単眼で集中していて見落としていたこと。

 視野が狭いのは10代を生きている当時より、今の方なのかもしれない。スポットライトは眩しすぎると周りを見えなくしてしまう。目標は、それだけが目印になりすぎて。


「ごめんな。チヤにもあとで謝っておくよ」

「そうしてあげてください」


 さて、そろそろ缶コーヒーも飲み終わるし、あまり遅くなるのも問題だ。

 立ち上がると、裾を那雪に掴まれていた。


「もう少し、見ていましょう。池に月が映って綺麗ですよ」


 水月が街灯をかいくぐって、かろうじてその半円を明らかにしていた。半分の月が空にのぼっているのだろう。

 悠星は、座り直して、その揺れる月の儚い様子を眺めた。

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