第25話 時間
それは、唐突であんまり嬉しいことではなかった。準決勝の応援の激しさの中で、悠星はグラウンドの上に立っていた。
佐野先輩が軽い突き指で投げれないという運命の悪ふざけのような事故だ。練習中の不幸な接触だった。
だけど。
「緊張するか」
「別に。いつもと同じだ」
剛がマウンドから離れて行って、1人、その場で息を吸う。応援席を見れば、夏弥と那雪。トランペットを持った秋羽。
空は快晴で、日照りは頬を熱くする。帽子を整えて、プレートを踏む。白球は、手の中にある。
予備動作に入り膝を上げて、指先から白球が離れ、ストレートが試合の開始の音を響かせた。
145キロ。球場のスピードガンが球速を表示させた。まだ、もう少し上がりそうだ。
坦々とリズム良く、投げさせてくれる。剛のリードに従って、そこにコントロールよく投げ分けていく。
プロで通じるとは、まだ自信がわかなくても、高校生相手なら、伸びとキレは十分でコースにも決まっている。
打たれるとは、まったく思えなかった。
明央に当たる前に、準決勝で敗北するわけにはいかなかった。
悠星のピッチングが続くなか、味方の援護はなかった。矢瀬の長打とフォアボールは得点にはつながらず、打線は凡退を続けて打席もまだ二打席。
剛も悠星も相手のボールをキレイに打ち返しても、守備に阻まれていた。悠星のファーストライナーは、完全に抜けたと思ったが、相手の好守によってゲッツーになっていた。
「そろそろ得点が欲しいぞ」
「このまま0点だと怖いな」
「だったら、ホームランを打ってくれよ」
「簡単に言うな」
「せめてもう少し休めるといいんだが。うちの攻撃早すぎだろう」
ベンチに座って、水を飲むと、横から剛が暑そうにしながら同じベンチに座ってきた。
「それは相手方も思っているだろうよ」
「うん?」
「まだ1人もランナー出してないぞ。完全試合だな」
「そうか。打たれてなかったか。いや、どっちみゼロゼロで同じだ。ランナー出そうが、取れてないし」
「矢瀬、謙虚だな。悠星は」
「そういう記録に興味がないんだろうな」
三者凡退。
すぐに、またマウンドだ。悠星はグラブを取って、声援の響く舞台に上がる。
少しずつ球速は落ちてきている。けれど、監督は変える気はなさそうだ。少なくともランナーを1人出すまでは。
剛のリードにシンカーが入り、三者連続三振で7回を終えた。変化球中心の配球に変わっても、コントロールは落ちていない。
チラリとマウンドから下がる前に、応援席を見つめる。岩沢姉妹がハラハラとしている緊張を胸にしているのが分かる。
二週目でもギリギリの試合をしているな。早く点を取らないと。打つしかない。当然の決まり。野球は0点では終われない。
「悠星と俺で行けるか」
ベンチに戻って、8番打者の剛が準備をする。
「とりあえず、9番なりに頑張るさ」
「もっと打順上だといいのにな」
「いいさ。おかげで少し疲れない」
打つ。一打席が重たい。それがトーナメントという無慈悲な一度限りの決戦の中であれば、さらに。
夏を映し出す鏡が何度も反射して色々な姿を描き出していても、誰に取っても夏は一度だけの、その夏だ。
季節は巡る。この暑さも、喉元をすぎる。
全ての球児の悲しみも時間は泥のように眠りにつかせる。
剛の打球が、ショートの脇を抜けていく。ネクストバッターサークルで優星はその光景を幻を見るように感じていた。
応援の歓声はうねりを上げていく。震える身体に反響する。トランペットの大きな音が聴こえた。
いつものルーティンでバッターボックスに立ち、相手のピッチャーに向かう。8回まで投げ続けている向こうのエース。そろそろ疲労も見えてきている。それに三打席目だ。さすがに、打っていかないと。
球場は静まり、投手がモーションに入り、外角低めに丁寧に入れてくる。見逃して、1ストライク。
土をスパイクで踏み、踏み込む足を調整しながら、息を吸って吐く。大丈夫、見えている。
確実に、打って決める。
投手の2球目の高めのボール球を無視する。
グリップを握る左手とそれに添えられている右手。少しバットを回して、握り直す。
快晴だ。空は青一色。
そこに——。
一筋の飛行機雲のように、白球が飛び込んでいった。
快音が鳴り、すぐにフェンスに直撃した。
剛が二塁を回って三塁。ランナーコーチは腕を回す。さらに三塁を蹴った。
悠星自身も、二塁に向かう。外野からいい球が返ってくる。ワンバウンドして、キャッチャーが捕球する。
スライディングで交錯するボームベース。土埃が舞う。ヘルメットが脱げて、そばで回っている。
「アウトッ!!」
審判の判定の声が高く響く。
敵側の応援席で歓声が鳴る。剛は、トボトボとヘルメットとバットを拾い、自軍のベンチに戻って行った。
遠い一点だ。
でも、次は、一番打者、矢瀬昴だ。
今大会、最も多い本塁打と1番の打率を誇るスラッガー。
ここが勝負の別れ目と球場の騒めきはボルテージを増していく。
でも、敬遠だろうか。ここを敬遠しても誰も文句は言わない。よほど澄んだ青い心を持っていなければ。
向こうのタイムがかかる。伝令とバッテリーがやり取りをしている。悠星は、その様子から勝負をしそうだと思った。
そしてタイムが終わったすぐ後だった。
初球を投げた瞬間、その球はバックスクリーンに入っていった。
矢瀬は、ボールを見送り、自然と歩き出した。完璧に捉えていた。
勝負した結果だった。
残酷に、時間は巻き戻らず、進んでいく。また一つの夏を終わらして。後悔のないように。
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