第20話 吹奏楽と夕暮れ
「応援歌とか訊かないのか」
七月、県体がそろそろ近づいてきていた。
学校のお昼も、徐々に暑さが強くなってきた。完全に窓が閉じられ、クーラーがそろそろ、かけられ始める前。大多数の学生は、もっと早く入れて欲しいと感じているが。
全開の窓が、生暖かい風を教室に運んでいる。下敷きで仰ぐもの多数。
涼しげな秋羽も少し、暑そうにしている。
「県大会程度で図々しい」
「秋羽って、応援に向いてなさそうだな」
「別に、チア部とか応援部に入っているわけじゃないから」
「それは、そうか」
スカートで脚をあげたりする秋羽。想像もつかないな。
真夏の熱奏も、そこまでイメージが湧かないけど。
「あ、10月だから。吹奏楽部の全国は。応援よろしくね」
「それは、俺に、東京まで飛べと」
「チケット買えるかしら」
「全国出てからな」
「それもそうね。それで、何かリクエストでもあるの」
「いや、ないな」
「あっそ。というか、あなた、定番の曲ぐらいしか知らないでしょ」
「カルミナ・ブラーナとか」
「そんな定番は知らない。アフリカン・シンフォニーとかSEE OFFとかね」
曲名を言われても、全く分からない。
聴けば、分かるのだろうけど。
「まぁ、集中してなさいよ。どうせ、敵の応援を背に投げるんだから」
「思ったんだけど、楽器って、熱とか日光とか大丈夫なのか」
「大丈夫なわけないでしょ。木管とかは使わないのもあるし。オーボエとかクラリネットとかね。メインは打楽器と金管ね。雨とかも降ると最悪ね。楽器は、デリケートだから」
「大変なんだな」
「テレビで、タオルで覆ったりしているのも見るでしょ」
「そう言われたら、そんな気も――」
「アルプススタンドに楽器を持っていって、終わり次第、交代するのも結構な作業なのよ」
「まだ経験ないだろう」
「経験させてね」
「・・・・・・」
たしかに経験できなかったら、野球部が原因なわけだ。甲子園は、一日4試合、パッパと応援が変わっていくから、急がないといけないのかもしれない。それを身をもって経験するには、野球部が甲子園に行く以外にない。
「結局、秋羽は、どうして甲子園で吹きたいんだ」
「そんなの――」
言いかけてやめた秋羽は、窓の外を見る。学校の敷地。グラウンドが広がっている。
今は、だれにも使われていない広い土。
「それが、父親と母親の出会いのきっかけだからよ」
「えっと」
「付き合っていいんだって。甲子園に行けたら、お兄ちゃんとわたしで」
義理でも兄妹だから、ハードルを置かれたということか。
でも。
「秋羽って、予想以上にブラコンだったんだな」
「なに、悪い。お兄ちゃんは日本一のスラッガーなんだから」
「それは、間違いない」
そう間違いない。矢瀬昴は、最高のバッターだよ。そう、人生をやり直すまでもなく、完成された打者だ。偽物の小手先のピッチャーとは違う逸材で、いずれプロ野球界のスターだ。
「本当は、明央のはずだったんだけどなぁ。父と母と同じ」
「それは悪かったな」
「いいわよ。お兄ちゃん、楽しそうだし。やっぱり、不利な状況から結果を出す方が燃えるから」
「ちゃっかり不利と言ったか」
「大本命は明央でしょ」
「真っ黒に日焼けさせてやるから、見てろよ」
「そう。じゃあ、ちゃんと対策しておくわね」
†††
グラウンド。練習前のアップを終えて、各自のストレッチ中。
「矢瀬、妹と付き合うのか」
「ん、そういえば、お前には、妹がいたな」
「人の妹に手を出そうとするな」
チヤには、近づけさせないからな。
「冗談だ。梓に聞いたのか」
「まあな」
「ただ、そういう条件なだけだ。別に、俺は岩沢でもいいが」
「・・・・・・」
「だから、分かりやすい。冗談だ。恋愛話は、甲子園に行ってからにしろ。全部それからだ。冷静にならないと、二度結婚することになる」
それは、自分の父親への痛烈な皮肉か。
悠星たちは、キャッチボールの号令で、練習に戻った。
練習の終わり、県体のメンバーが発表された。
ピッチャー佐野玲、キャッチャー根元裕也、ファースト小手川早樹、セカンド前島流、ショート吉永優、サード矢瀬昴、センター宮本啓、レフト小島直也、ライト瀬戸寛人。
悠星と剛は、ベンチだ。
「今年は、今までで一番強いチームだ。自信を持て」
橋村監督の定番のセリフ。これを三年間で、三回聞ける。ソースは、自分自身。
ようするに、毎年、最強のチームなわけだ。右肩上がり。
けど、今年は、本当に、もしかしたら、一番甲子園に近い年なのかもしれない。
解散して、グラウンドに礼をする。
夏の長い太陽は、暗闇の中へと消えていこうとしていた。
ああ、夏への扉が開かれていこうとしている。
あり得なかった、もう一度目の夏。第五の、季節。
消えていく黄金の林檎。
トンボかけをし終えたグラウンドの先—―。
まだ。もう少し先。
あと、二週間で、県体。
俺は、できるだけのことをしてきたのだろうか。
悠星は、グラブの白球を触る。落ち着く気がする。
天の光は、すべて星だ。
太陽が消えたあと――。
「なにしてるの」
夏弥か。
陸上部の練習も終わったか。
「すこし、感慨にふけっていた」
「早すぎない。一年でしょ」
「負けたら、どうしようか」
「負けたっていいじゃない」
「負けたくないんだ」
「じゃあ、勝てばいいじゃない」
「夏弥」
「んー」
トンボをつついている。アルミ製の軽いやつ。重い鉄製のもすぐ近くに。
今回は、マネージャーじゃない。
けど、既視感が、ない交ぜになる。全体が怖いほど、過去に見える。三年生の時、負けた後、俺はどうしたんだろう。悠星は——。
「勝ったら、付き合うか」
「わたし、景品じゃないよ。それと、前も言ったでしょ。行けたら、ロリコン認定を解消してあげる」
なんだ、その遠回しな妹推しは。
たしかに、前にも言われた気がするな。
「じゃあ、負けたら」
「よーし、泣けばいいんだよ。お姉さんの胸の中で。あっ、動画は回すから」
「黒歴史を保存しようとするな」
「思い詰めすぎなんだよ。まだ、一年生。来年があるじゃない」
「来年はないかもしれないだろ」
「なになに、なんちゃらの大予言とか、2000年問題とか信じてるの」
「一人の人間にとっては大きな一歩だ。人類にとっては、小さな一歩でも」
「もしインタビューで、突然そんなこと言うと、黒歴史が増えるよ」
「言わないよ。ただ、思い通りにはならないことがあったり、降って湧いて来る幸運があったり、意味が分からないから、いや、やっぱり、不思議だ。——夏は綺麗だな」
「お酒呑んだりしてないよね。支離滅裂だよ」
酒か。
結構、詳しいから、ちょっと驚かせることもできるけど、そんな悪ふざけは、冗談がすぎる。
悠星は——。
腕を見つめる。健全な腕を。
健康の意味を理解していない、健全な腕を。
何も失っていない。まだ——。
でも、ここからは、大会だ。何球投げていいんだろう。二周目でも一切分からない。全ては偶然のモヤの中。
今、夏弥が、自分を好きでいるのかも。
モヤがかかったままだ。黒くてぼんやりしている今の時間帯のように。誰そ彼時の、漠とした輪郭に、黒いシルエットのみ。
それでも、自分には夏弥だって分かるのだけど。
夏弥を——失いたくない。
「不安なの」
「全部、錯覚や幻じゃないかって」
「本当、いつから、こんな不安症というかメンタルが不安定になったのやら」
「ピッチャーは、いつだって繊細だよ」
「はいはい。シャキッとする。勝利の祈願でもしてあげようか」
「ミサンガは、もうあるが」
「自分との戦いに勝てるようにね。靴紐、あげるよ」
「なんだそれ」
「陸上部の後輩に送る伝統的なお守りだけど」
絶対、女子同士で渡す物だろう。
また靴フェチとか言いそうだ。
「どこにつけるんだよ」
「御守り袋にでも入れとけば」
「適当だな」
「頑張れ。それしかない。負けても立ち直る。何があっても全力だったら、そこそこ納得がいくよ。勝負には偶然はつきものだけど、自分の意思だけはホンモノでしょ」
「体育会系だな」
「そうだよ、陸上部だからね」
そう言って、負けてもいないのに、夏弥が、そっと悠星の頭を抱く。
「心音がする」
「そっ。心音フェチ」
「そんな特殊な——」
ギュッと強く胸に押しつけられる。
口が塞がれる。まぶたも閉じられる。
暗闇。
脈の音。
音。音。音。
トクン、トクン、トクン。
「よしよし、お姉さんの胸で、溺れなさい」
数秒、固まっていたことに気づく。
「——バカ」
「あれ、残念」
夏弥を離す、いや離れる。
「共感性羞恥するから、やめろ」
「あ、難しい言葉。照れ隠し」
「夏弥」
「なんだね、迷える子羊よ」
「生きてるっていいな」
死んだ星の光も、地球に届く。
それは、何も告げない、けど確かな光。
止まった心臓から流れていく生命の証拠。
かつて存在したという、残滓。
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