第15話 勉強会とモデル
昼、喫茶『渚』にて。
夏弥はもちろん、悠星。そして、矢瀬と秋羽兄妹、田嶋剛。
要するに、いつものクラスのメンバーが集まっていた。テスト前の最後の日曜日。香星高校では、部活は禁止になる。
「なんで、お前らもいるんだよ」
「いいだろう」
テーブル席に、五人で座っている。
悠星と剛が二人で、その向かいに、矢瀬と秋羽と夏弥。
「夏弥も勉強するのか」
「一人だけ、仲間はずれ?」
「いや、別にいいけど」
「それに、今日は、那雪が店員やってくれるみたいだし、お姉ちゃんは、客として自由に過ごすのだよ」
「妹に苦労を押しつけたな」
店員として、那雪が働いていた。喫茶店のお手伝い。
少し緊張しているが、お冷やを運び、飲み物の注文を受けたあと、テーブルにそれぞれの注文を持ってきていた。
「わたしは、いい姉をしてるよ、ねー、那雪」
「うん、そうだね」
飲み物を置きながら、自然と答える那雪。
アイスコーヒーが3つ並んで、オレンジとミックスジュースが二つ。
悠星と矢瀬と夏弥の分。そして、剛と秋羽。
「言わせられてないか」
「悠星。実は、保護を名目に、連れ帰ろうと・・・・・・」
「どこまでいけば、そんな邪推が」
「那雪に告白しているところから」
そういえば、そうだった。
いや、それはもういい。ロリコンとかいう汚名さえ返上できていれば。
告白は真実だし、事実だから。否定のしようもない。
「二心を持つのは良くない」
「お兄ちゃんは、絶対、そんなことしないのに」
分かってるよ。最後は、学校を選択するように、どちらか一方を選ぶしかない。
もし、人生が二度あるものなら――。
悠星に、選べるわけもない選択なのに。
本当は、二人が幸せなら、それだけでいいんだ。
「恋バナは、あとにして、勉強するぞ」
「はいはい、女たらしさん」
「矢瀬、秋羽のあたりは、いつになったら優しくなる」
「甲子園に行ったらだな。一週間恋人になってもいいんだろう」
「ま、一週間なら我慢しても――」
「ダーメ。危険だから」
「夏弥、お前に俺は、どう見ているんだ」
「思春期の飢えた獣、世界の中心で愛を叫んだけもの」
よし、もう、勉強しよう。
返事をしていたら、始まらない。
不毛な恋愛話から逃げて、勉強に集中した。机のノートを見て、無理にでもペンを動かして、文字を書いていく。そうしていれば、思考はしていなくても、徐々に、初めの五分が、一時間へ二時間へとなっていく。始める前までの、先延ばしの不安が忘れられて、ずっと間延びしていく時間が後に続いていく。気づけば、終わってしまう、あの感覚。
懐かしい勉強内容。自分は、未来から過去を見ている。そう感じる。悠星は、ペラペラと教科書をめくっていく。ページの一つ一つが、既視感とともに、流れていく。現在の意識。現在なんだよなぁ、今は。周りのテーブルを見る。変わってしまっている過去。ここで、夏弥と二人で勉強した。夏弥、憶えているか。高校生活の終わり、最後、一気に受験勉強に力を入れざるを得なくなった俺を。いらだっていて、少し八つ当たりもした、そして、結局は、未練がましく大学でも野球をした俺を。
薄いガラスが一枚。磨りガラスの現実感。
ふと、忘れることもある。自分が、戻ってきた人間だということを。リカバリーの効かない状況から、再帰したことを。
夏弥が、数学の問題を解いている。もしも、今の自分に、以前の記憶がなければ、俺は、きっと夏弥を選んでいて、なにも考えないで、幸せで。カウンターを見ると、那雪が、すこし手持ち無沙汰にしていて、こちらを見ていた。目が合う。手を小さく振ってくる。以前の自分だったら、どう返していたのだろう。意識なんてしていなかった女の子に。今の距離感。今の、自分と那雪の距離感。少しだけ手を振りかえして、笑みを見せて、勉強に戻る。
野球をしているとき――一番、現実感がある。ここが、『現在』だという。
甲子園に行く。
行って、どうなる。それから――。どうしたいんだろう。
そうすれば、なにか、報われるのか。それとも、資格を得るのか。
人生をやり直す。そのとき、自分はなにを変えたいのか。そして、変える力があるという証明は。
過去を知るのは、同じ過ちをしないため。じゃあ、未来を知るのは――。選択と結果における人間の意思。
でも、歴史は、不運の繰り返し。そして、未来は、誰の目にとっても――未来を知った者にとっても、偶然の連続にしか見えなくて。
「遠い目してる」
「少し問題が難しくて」
「そっ」
夏弥。瞳を覗くと、不安に吸い込まれそうになる。胸騒ぎ。偶然が、今を壊していかないか。ここじゃないどこかに行ってしまいそうな、考えないようにしている予感。どこかに穴があって、絶望に導く地雷がセットされていないのか。
「わかんないの。教えようか。わたし、解けてるよ」
夏弥の目が、揺れている。その奥には心配が色濃く出ていた。いつも、明るく振る舞う夏弥の――。
「大丈夫。ちょっと、甲子園に行けるか考えていただけだ」
「・・・・・・ねえ、そこまで行きたいの。どうして」
テーブルのメンバーが沈黙していて、全員が言葉を聞こうとしているような気がした。緊張が空気を覆っていた。胸の奥に、重いものを感じる。
悠星は、ただ――。
「過去の自分が、それを望んでいたから」
あのとき、甲子園に行けるなら、全てを犠牲にしていいと思っていた自分に。
「小さい頃からの、夢だよね」
そして、犠牲にしてはいけないものに。
犠牲を払わせた代償に。
「ねえ、行けても行かなくても、わたしは、気にしないからね」
「――分かってる」
そう言って、また勉強に、戻って――。
「わたしは、気にするからね。きっと文句言ってやるから」
「それも分かってる」
秋羽は、自分の言いたいことを言うやつだ。特に、俺には。
「俺は、三点以内なら、文句はない」
「あ、俺は、昼飯おごってくれたら文句ないぞ」
「それなら、わたしも、やっぱり焼き肉で手を打とうかな」
「おい、負けたピッチャーへの追い打ちをやめろよ。ちょっとは慰めろ」
†††
昼飯に、カレーを食べて、五時ぐらいに勉強会を終えたあと、悠聖は、一人、喫茶店に残っていた。夏弥に、一つお願いをされていたからだ。
「ごめんね、どうしても、モデル欲しいみたいで」
「いや、いいよ」
二階にあがっていく。
お願いとは、那雪の美術のモデルになって欲しいというものだ。
鍛えた男性がいいらしく、お父さんではダメらしい。
那雪の部屋のドアを夏弥がノックする。入るよー、と言って、すぐに入る。返事を待つ気はないようだ。
開けると、絵を描くためのイーゼルの後ろに、那雪が立っていた。イーゼルに画用紙が置かれている。
「よろしくお願いします」
那雪が真剣な表情でこちらを見ている。
「はい。じゃあ、脱いで脱いで」
「は?」
「いや、脱がないと描けないでしょ」
「ちょっと待て。モデルって」
「ヌードに決まってるでしょ。いいから脱ぎなさい」
夏弥が悠星の服を引っ張る。
「ヌードは、ダメだろ」
「お姉ちゃんのなら、すでにありますよ」
「那雪。それは、言わなくていい。というか、見せたら――那雪のあれを」
「えっと、見せないよ。さすがに」
おい、何があるんだ。
未来の俺も知らないような、何かがあるのか。
悠星は、那雪の部屋を見回す。普通の女子の部屋だ。別に、美術関連以外は、特徴も無い。机と椅子。本棚には、イラストや美術の本。壁に、何枚か飾られている絵。裏返っていて立てかけられているキャンバスと数冊のスケッチブック。あとはパソコン机があって、ペンタブレットがパソコンの前にある。
「で、さっさと脱ぎなさい。諦めて」
「断固拒否する」
「上半身だけですよ」
「・・・・・・じゃあ、いいか」
「はいはい、さっさとする。もう面倒くさいんだから」
「ヌードとか言うからだ」
悠星は、諦めて、上半身を脱ぐ。少し肌寒いが、全然我慢できる。寒さよりも、視線の方が気になる。
「夏弥は、出て行かないのか」
「危ないでしょ。そんな状態でいたら、いつ発情するか分からないし」
「人間に発情期はない」
「万年、発情期とも言える。悠星、あんまり身体を動かさないでね」
「じろじろ見るなよ」
「モデルでしょ。それに甲子園行けば、日本人全員に見られるのに」
「二人とも、すこし静かに」
「「はい」」
すでに、那雪が、真面目な表情で、目を細めながら、デッサンに着手しようとしていた。まだポーズもしていないのに、何かを考えているのだろう。悠星には、全く分からない感覚的な――。
しばらくしたあと、ポージングが決まって、なんだかマッスルなポーズをさせられていた。裸にされたし、描きたいのは、筋肉なのか。夏弥、お前の妹の方が、筋肉フェチなのでは、と心の中で思った。
小休止を挟みながら、二時間。結構、疲れるな。
普段しないようなポーズだったが、力は抜いているつもりなのに。
「満足した?」
「うん」
「那雪、見てもいいか」
「えーっと、だめ。恥ずかしいから」
「夏弥、恥ずかしいのは、俺の方じゃなかったか」
「那雪は、あんまり見せたがらないから」
「被写体には、自分の絵の姿を確認する権利があってもいいような」
「見ても面白くないと、思うけど・・・・・・」
そう言いながら、那雪は、悠星を手招きする。
普通のデッサンだった。いや、それ以外なにがあるだろうか。
まぁ、全然良し悪しは分からないけど。美術の授業とかで見るような陰影のついたデッサン画。俺は、今、これぐらい筋肉質なのか。ちょっと盛ってないか。
「うわー、ナルシスト」
自分のデッサンを眺めていると、夏弥が、後ろから言う。
「違うからな」
「服、着てよ。いつまで女子の前で裸でうろつくの」
「分かってるよ」
椅子にかけておいた服をとって、すぐに着る。
全く、理不尽だ。
「あの、これはお礼」
「これは?」
裏にされた絵をもらう。
「お姉ちゃんの脚とシューズのデッサン」
「ちょっと、那雪っ」
「冗談。これは、甲子園の風景画」
ホームから電光掲示板を見た風景。マウンド、ファウルライン、黒土、天然芝、外野席と広告看板、そして、薄明かりの先の青空。誰もいない吸い込まれていく透明な球場。
「ありがとう、部屋に飾っておくよ」
「はい」
那雪は、不安そうだった顔を、さっと朱に染めていた。
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