38 選択

 無事に列を捌いた俺とシャイは、残った一つの風船を見上げる。

 緑の風船が青い空にぷかぷかと浮かび、風にそよいでいる。風船を持っているからといって飛んでいくことはできない。けど、ふとそんなことを考えてしまうくらい、一仕事終えた俺は達成感に包まれていた。


「シャイ、調子はどう?」


 空を見上げていた俺たちの前に、二つの人影がぬっと現れる。


「絶好調! ゲームも盛況だし、エミィも大人気だよ」


 正面を見れば、ヤクモとユキが立っていた。どうやらシャイの様子を見に来たらしい。

 ヤクモは嬉しそうに話すシャイのことを保護者のような眼差しで見守っている。一方のユキは。


「ん?」


 着ぐるみ越しに目が合った。久しぶりに直撃したユキの鋭利な眼差し。咄嗟に顔を逸らしてしまった。睨んでいるわけじゃないって分かってはいるけど。なんか。なんとなく。え。それってめちゃくちゃ失礼だ。


「シャイ。この中って誰が入ってんの? さっき代役を探してるって言ってたよな」


 ユキがエミィのことを指差しながらシャイを見やる。


「うん! えっとね……」


 待ってましたとばかりにシャイが口を開く。


「エミィ」


 俺はシャイが正体を言う前にぼそっと割り込んだ。


「は?」


 ユキは突然声を出したエミィを見下ろして眉をひそめる。正体をバラされても別に構わない。だけど、目を逸らしたことがちょっと気まずくて、つい口を挟んでしまったのだ。


「エミィ、です」


 ちょっとの間があった。まずい。どこで引き下がろう。

 シャイとヤクモは目を見合わせ、俺とユキにこの先の展開を任せてきた。


「風船、いりますか?」


 緑の風船を差し出せば、ユキは訝しげな表情をしたまま大人しく受け取ってくれた。これで目を逸らしたこと許してくれるかな。怖かったわけじゃない。だけどやはり失礼な態度を取ってしまったし。


「……へぇ。エミィ、ねぇ」


 風船をぼんやりと見上げたユキは、視線を戻してからニヤリと笑った。

 やっぱりバレている。ただでさえ着ぐるみの中は暑いのに。余計な汗まで流れてきてしまった。


「はい。エミィ、です」


 声が小さくなる。じりじりと顔を近づけてくるユキ。狭い視界にユキがどんどん広がってくる。

 たぶん、ユキが俳優になったらヤンキーものとか極道ものとか似合うと思う。近づいてくる彼の端正な顔を見ながらくらだないことを考えて気を紛らわせた。


「気にすんな。久しぶりだな」


 俺が肩をすくめていると、ユキはぼそっとそう囁いた。


「……え?」


 離れていくユキの顔。まだニヤニヤ笑ってる。

 ぽんっとエミィの頭を叩く音が響いた。軽く、優しいタッチだということは音ですぐ分かる。


「で。おすすめのゲームってどれ?」


 ぽかんとする俺を置いたまま、ユキはシャイの方へ向き直った。


「ユキなら、バスケットゴールかなぁ?」

「えー? ユキ、コントロール力ないのに?」

「しーっ! ヤクモ。これはワナだよ!」

「少しくらいひそひそ話してくれよ」


 ユキは呆れた声を出して細い息を吐いた。

 三人が話している様子を見ていると、初めて三人と会った時のことを思い出す。

 思えばあのポスターがあったからこそ。俺はこうやって、前に進み続けることが出来ているんだな。

 なんだか感慨深くて表情筋から力が抜けていく。

 鴨の頭が守ってくれている分、今、俺の警戒心はゆるゆるだった。万が一この頭が抜けてしまったら、それはそれは情けない顔をしていることだろう。


「ゾーイ!!」


 だがそんな緩みきった心を律するように、背後から凛とした声が飛んでくる。

 っていうか、ゾーイって呼ばれてしまった……!

 ユキがくすっと笑いだす。

 ああ。なんだか負けたような気がして悔しい。別に我慢比べみたいに何かを競っていたわけではないけどさ。

 呼ばれた方向を見やると、優雅な髪を揺らして走って来るリンエの姿が見えた。


「あれ?」


 どうしたんだろう。

 名前を呼ばれたことに焦った気持ちはどこかへと吹き飛び、俺は短い足でリンエに駆け寄った。


 リンエはエミィの姿を見て、切らした息を一度吸い込む。


「ゾーイ、で合ってるよね?」

「うん」


 何故バレているのかはさておき、真実なので頷く。


「ゾーイを探していたらこのクラスの実行委員の子が教えてくれたの。ゾーイがここにいるって」


 なるほど。

 まさかリンエには透視が出来るのかと思いかけたが、理由は実に単純なものだった。


「そんなに慌てて、どうかしたの?」


 既に呼吸が整ったリンエに向かって尋ねる。体力の回復が早くて羨ましい。


「うん。重大トラブル発生だよ」

「おお。あんまり良くない言葉だね」


 リンエの真剣な表情を見た俺はごくりとつばを飲み込んだ。

 ちょっと緊急の気配を醸し出していた俺とリンエの様子が気になったのだろう。

 ユキたちも俺たちの会話に近づいてきた。リンエは三人が傍に来たことにも特に関心を寄せず話を続ける。


「この後、バンドの公演聞きに行くって言ってたよね?」

「うん。すごく楽しみにしてた!」


 エミィを被っていることも忘れて身体を弾ませた。傍から見たら滑稽な光景かもしれない。


「そのバンドのボーカルに問題が起きた」


 リンエがそう告げると、ユキたちは目を見合わせて「あれま」と驚いた反応をする。


「今朝起きたら声が枯れていたみたいなの。夕方までには治るだろうって踏んでたけど、結局今になっても治らない。声が出なくて歌えないって」

「ええっ」


 なんだって?

 今日の一番の楽しみは三人でステージを見に行くことだったのに……!

 約束した時から待ちきれなくてうずうずしていたのに。こんな直前でお楽しみを取り上げられるとは。

 ずーんとした気持ちが胸を覆い、俺はがっくりと肩を落とした。


「……じゃあ、バンドの演奏はなし?」


 ユキがリンエに訊く。


「ううん。そうしてあげたいけど、正直難しい。今更スケジュールを変更するのは無理。空白を作ったら人がいなくなっちゃう。そんなの駄目って、トリを務めるチアサークルが怒ってるし」

「厳しいねぇ」


 ヤクモが同情するような声を出す。


「チアサークルは大会でも成績を残しているグループだし、この学校での権力は頂点。だから逆らえない。どうにか間を繋ぎ止めないと」


 リンエは早口気味で説明を続ける。


「だからゾーイ」

「え?」


 急に彼女の眼差しがこちらを向き、俺はぎくりと心臓を縮こまらせた。まさか?


「ボーカルの代理、やってみない?」

「えっ」


 シャイと俺の声が重なった。突拍子もない話に誰もが驚くのも無理はない。

 かくいう俺が一番驚いている。なんてことを提案するんだ。パーティーで少し喋るだけでも死にそうなくらい緊張したのに。そんな俺が大勢の観客の前で歌うだと? 無理無理無理。無理だって。


「そんなことできないよ。それに、わたし、別に特別歌上手いわけでもないし」

「何を言ってるの!」


 リンエが興奮した声でぴしゃりと言い放つ。


「音楽のクラスで、ゾーイ、あのボーカルに負けないくらいいい声で歌ってるのに!」

「……え?」


 何を言いだすのかと、俺はリンエを慎重に見上げる。


「私、ゾーイの歌声好きだよ。音楽クラスが一緒でラッキーだなって思うくらい。ゾーイ、もしかして自覚がないの? すっごく歌上手いのに」


 確かに音痴ではないなとは思っていたけど。でも自分の歌を聴く機会なんてほぼない。人並み程度で合唱の邪魔にならないくらいの実力はあると認識している。だけど、リンエのこの真摯な眼差しを見るに、実はゾーイって歌が上手いのか?


「ボーカルのダンテやバンドメンバーの許可ももう取ってある。ゾーイなら任せてもいいって言ってた。ゾーイの歌なら演奏にも負けないからって」

「…………そんな」


 どうしよう。

 脳では絶対に無理であり得ないって思っているのに。

 心の奥底にいる俺が、今の言葉がすごく嬉しいって喜んでる。

 ただのお世辞で、ステージにあげるだけの常套句かもしれない。けどリンエはそんなこと言わないって知っている。彼女は読書感想会でもいつも思ったことをズバズバという。いいところも悪いところも、どちらも本音で話すからこそ、彼女といると居心地がいいんだ。


「どうしたの? リンエ」


 俺たちの異変に気がついたジアとラーシャが駆け寄ってくる。手にはスナック菓子の袋を持っていた。無事に景品を獲得したようだ。

 リンエが事情を説明するとジアも残念そうな声をこぼした。ラーシャもまた「残念だね」とリンエを気にかける。二人にはまだ俺が代役になるかもしれないことを話していない。リンエは切なる瞳を俺に向けた。

 彼女だって俺を無理矢理にステージに引っ張り出すことはしないだろう。

 俺が無理だと正式にお断りすれば、また他の案を探そうとする。俺を責めることもないし、逆に変な申し出をしてごめんね、と言ってくる。そんな姿が容易に想像できた。


 エミィの頭の中で、俺はちらりと周りを見渡す。

 皆、ステージを繋ぐためにはどうすればいいのか新しい方法を考え始めている。

 誰も俺に負担を押し付けようとしない。断る権利を認めてくれている。俺の意志を尊重していることが伝わってきた。”ゾーイ”という個人の存在を認めてくれるから。どう答えようと、彼らはちゃんと俺のことを見てくれているのだ。

 じんわりと目頭が熱くなっていく気がした。

 素朴な感情が心に落ちて、気を抜いたら涙が出てきそうだ。

 何もなかった俺に希望をくれた。


 俺はゾーイ。でもゾーイは俺じゃない。

 こっちの世界に来た時、彼女の存在が俺の背中を大きく押してくれた。

 ゾーイという人間が残した軌跡のおかげで、俺はこうやって新たな目標に向かって猛進することが出来た。

 ここで臆病になってどうする?

 俺は、彼女の輝かしい未来のためにここにいるんだ。

 それならば、悩んでいる余裕なんてない。恐れる理由なんてどこにもない。


「リンエ。わたし、やる」


 水面に雫が落ちたように、俺を取り囲む六人が一斉に静まる。


「ダンテの代役、わたし、やるよ」


 もう一度しっかり宣言した。今度は自分にも聞こえるように。


「ゾーイ、いいの?」


 リンエはエミィの中にいる俺の表情を窺うように控えめに尋ねた。


「うん。もちろん。わたしに二言はないよ」


 まだステージに立つ実感など湧いていない。が、この決意だけははっきりと自覚できる。

 ユキやジアたちは口をつぐみ、リンエの判断だけを待った。

 俺の返事に一度は驚きを見せたリンエ。しかし彼女の表情はゆっくりと和らいでいき、次第に煌びやかな笑みへと移り変わる。


「ありがとう! ゾーイ……!」


 本当に大丈夫かな。彼女の笑顔を曇らせる結果になったら辛い。

 不安しかない。既に足が震えてきそう。けれど正直……。

 二度とないであろうチャンス。ちょっとだけ楽しみだと言ったら、罰当たりだろうか。

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