20 鏡よ鏡

 ダレンの依頼を受けた日の夜。俺はジアと電話をしてダレンについての話を聞いた。

 ジアとはたまにこうやって夜な夜な電話をすることがある。何を話すわけでもなく思いついたことをポンッと話題に出すだけで、いつの間にか時間が過ぎていく。こんなに時間をかけて人と話すことなんてゾーイになってから経験したことで、俺にとってはこういうなんでもない時間も楽しかった。


 その時も花壇の話から気づけばダレンの話題に移っていて、ジアは一体何の用だったの? と興味津々に尋ねてきた。

 俺がメイクアップアーティストの勉強を手伝うと告げたら、彼女は驚いた後で楽しそうに笑った。

 ジアからの情報によれば、ダレンはあまり学校でも目立つ方の生徒ではないらしい。確かに俺もこの短期間で色んな生徒と関わる機会があったけど、彼のことは知らなかった。


 ダレンがメイクアップアーティストを目指していることはジアも知っていて、去年くらいまではモデルになる生徒も多かったという。まぁプロを目指してる人から化粧の勉強が出来るのならそりゃ需要はあるよな。だが本人も言っていた通り、拘束時間が長いことが仇となり最近は活発にモデルを引き受ける生徒は少ないとのこと。


 藤四郎時代に見たテレビでよく芸能人のメイク時間の話題で盛り上がっていたことを思えば、しっかり化粧をするにはそれなりの時間を要すのだろう。しかしこっちの世界の人間は最初からかなりの仕上がりで生まれてきているから、そんなに時間をかける必要なんてあるのかな。


 ジアの話を聞きながら、俺はふとそんな疑問を思う。

 もうちょっとその疑問を掘り下げてジアに訊いてみても良かった。けど、俺もそろそろ眠たくなってきて……。

 結局その日は、ジアによる激励の言葉を受け取ったところで通話は終わってしまった。



 ダレンに呼ばれたのは依頼を受けてから三日後のこと。空き教室を借りたというダレンに呼ばれて行ったのは校舎の一番上にある端っこの部屋だった。中に入ると既にダレンが待っていた。彼は散らかっていた椅子を教室の隅に寄せているところだった。

 まだいくつか椅子が残っていたので手伝おうと駆け寄ると、俺に気づいたダレンがそっと振り返る。何度見ても肌の綺麗さと睫の迫力に視線が向かってしまう。


「ゾーイ。引き受けてくれてありがとう」


 ダレンは残りの椅子をすべて隅に寄せて微かに笑う。使われていない椅子と机がなくなった教室の中心部分は、一つの椅子と三つの机のみが残っていた。机の上には道具を入れた鞄が二つ置かれていて、どちらも大きく膨らんでいる。


「時間、かかっちゃうと思うけど大丈夫?」


 ダレンが椅子の前に置いた机の上に鏡を設置する。


「うん。大丈夫。今日は何も予定ないし」


 続けて美容院なんかでよく見るカットケープを鞄から取り出し、バサッと広げた。俺は返事をしながら見惚れるほどスムーズに準備を進めていく彼の姿を観察する。いくつかのブラシを確認するダレンは、突っ立ったままの俺を見て椅子に座るように促す。


「でも、メイクってそんなに時間がかかるものなんだね。わたし、あまり化粧しないから分からなくて」


 椅子に座り、目の前の鏡越しに見えるダレンに声をかける。


「場合にもよるよ。しっかりやりたい時は、どうしても時間がかかるものだし。表現したいことのこだわりは譲るべきじゃない。そういう時は、時間なんて惜しくないからさ」

「ははっ。なんだかもうプロみたいだね」

「まさか。まだまだ全然だよ」


 絵具の道具のようなパレットを開いたダレンは、鏡に映る俺と目を合わせて静かに首を横に振る。


「だから実験を重ねていかないといけない。それには一人では無理なんだ。でも、付き合ってくれる人がなかなか捕まらなくてさ。ユキに聞いて、ゾーイにお願いしてみたけど……ほんと、助かる」

「ふふ。お役に立てて光栄です。でもなんでわたし? ポスターの顔みたら、思わずメイクしたくなっちゃった?」


 あまりにも未完成だから。

 心の中で勝手に自虐が走る。たまにこういうことがある。俺が意図しなくても、心の奥底から自分を苦しめる言葉がぽっと湯気のように出てくるんだ。

 もしかしたら、ゾーイにはそういう癖があったのかもしれない。

 俺もそういう気持ちは分からないわけでもないし。

 ああ。せめて俺がこの癖から抜け出さないと。

 彼女が自分を傷つけることはもう終わりにしないといけないのに。


「違う。あのポスター、すごく出来が良かったからさ。ユキにはデザインセンスなんて皆無なのにおかしいと思って不思議だったんだ」


 ダレンは俺の問いをきっぱりと否定して机に瓶を並べていく。


「ポスターのモデルの子が考案したって聞いて、なら、センスもあるゾーイに手伝ってもらえたら一石二鳥だなって思ったんだ。終わったらアドバイスも貰えるかもってね。その方がやりがいがあるから」


 淡々と理由を述べるダレン。机の上にはもういっぱいに道具やら何やらが置かれていた。これまで縁のなかった化粧用品らしきものに囲まれ、妙な緊張感に包まれる。

 あれ。よく考えたら、これからダレンが俺の顔にこれらの塗料を施していくってことだよな?

 え? それって、とてつもなく距離が近くない?

 脈拍が早くなる。いけない。このままだとまた胸の中の恐竜が暴れ出す。


「ふぅー…………」


 心を落ち着けようと深呼吸をする。ダレンはまだ準備に集中していて俺のそんな動作には気がつかない。今のうちに、出来る限り精神を統一しておこう。


「ゾーイ」

「な、なにっ?」


 まだ整ってないってば!

 慌てながらも返事をすると、視界いっぱいに真っ黒な幕が覆いかぶさり瞬く間に消えていった。


「じゃあ始めるね」


 首の後ろでテープを止め、ダレンが俺の両肩をポンッと叩く。どうやら真っ黒な幕はカットケープだったみたいだ。鏡に映る俺の首から下は黒一色に変わっていた。


「ああ。そうだ、今日の実験についてちゃんと説明してなかったよね」


 瓶の蓋を開けるダレンの手がぴたりと止まり、思い出したかのように呟く。


「じ、実験?」


 え? メイクじゃないの?

 ダレンの言葉に不安を覚えた俺が振り返ると、彼は鞄から一枚の紙を取り出し俺に見せてくる。


「今日はゾーイに悪い魔法使いになってもらうね」

「はっ!?」


 ダレンが見せてくれた紙に描かれていたのは、いかにも意地の悪そうな老婆の魔法使いのイラストだった。いくつかの角度で同じ老婆が描かれていて設定画のようにも見える。

 鏡のそばに紙を置き、ダレンは改めてコットンを手に取った。


「えっ。メイクって、もしかして特殊メイク!?」

「うん。……あれ? 言ってなかったっけ?」

「言ってないよー!」


 鏡に映る俺の顔はまさに眉がハの字になっていた。ダレンはきょとんと瞬きしているし。いや、確かにメイクであることに間違いはないんだけど。


「……やっぱり、特殊メイクは嫌?」


 ダレンの声の調子は変わらない。でも、やっぱりどこか残念そうな顔をしている。


「ううん。いやじゃないよ……? ちょっとびっくりしただけ。す、すごいなぁって!」


 椅子の背に腕をかけ、身体を捻って俺は力強く主張する。本当、想定外だったから驚きはしたけど手伝うのが嫌というわけではない。ダレンは食い入るような俺の表情を見て再びゆっくりと瞬きをした。あ。今度はがっつきすぎたかな。反対に脅かしてどうするんだ。


「ふふ。だからメイクの時間がかかるんだね。理解できましたっ」


 ダレンを怖がらせないようにどうにか笑顔を取り繕ってみせる。ころころ表情を変えることに慣れていないから、表情筋が強張ってちょっと硬い笑顔かもしれない。けど、それはもうしょうがない。

 にしても、モデルをやる生徒が減った理由がよく分かったような気がする。

 普通のメイクと違って特殊メイクだと施すのも剥がすのもかなり時間がかかる。技術も特殊だから普段使いに応用できるとも限らないし。ただ座っているだけだと疲れてしまう。そりゃ手を挙げる生徒もいなくなるよな。


「わたしは気にしないから、好きに実験台にしてくれていいよ。その代わり、しっかり勉強に繋げてね」


 身体の向きを正面に戻して鏡に映る自分を見た。

 特殊メイクなんて当然したことがない。間近で見たことすらない。メイクが終わった時、この顔は一体どんな風に変わっているんだろう。純粋な興味が湧いてくる。

 それに、さっきまで緊張で吐きそうだった心も落ち着いてくれた。普通のメイクと同じで距離が近いのは変わらないはずなのに。なんだか予想外の展開でそんな空気が吹き飛ばされたからだろうか。


「ありがとうゾーイ。うん。君の協力は無駄にはしないから」


 ダレンも気を取り直したのか、彼の表情に静かな情熱が宿った。

 化粧水のようなものをコットンにつけて肌を撫でた後、ダレンはスポンジに下地を染み込ませ俺の頬をぽんぽんと優しく叩く。マッサージみたいに気持ちよくて、つい頬が綻んでしまった。表情の変化に気がついたのかダレンの口元が柔く笑う。


「痛かったりしたら言ってね」


 慣れた手つきの彼はあっという間に下地を塗り終えてファンデーションを塗っていく。鏡で具合を確認した彼は次にペンシルを手に取った。


「特殊メイク以外のメイクも得意なの?」


 無言のままってのも気まずくて、俺はなんとなく彼に訊いてみる。


「うん。普通のメイクも勿論勉強してるから。そっちの方が得意だよ。去年は途中まで普通にメイクモデルを手伝ってもらったりしてた。でも特殊メイクの方の技術がなかなか身につかなくて。そしたら、モデルになってくれる子もいなくなっちゃったんだけどさ」

「家でも練習してるの?」

「してるよ。あ、あとマスク作りとかもしてるからさ、夜中に部屋に来た親に悲鳴をあげられちゃったよ」

「あはははっ。リアル過ぎたのかな?」

「ただの人間のマスクだったのに。それ以来俺の部屋はお化け屋敷って言われるようになった」

「ふふっ。楽しそうな部屋だね。将来はやっぱりそういう道に進みたいの?」

「うん。一番やりたいのは特殊メイクだけど……いろいろやれたら楽しいかなって思う」

「将来映画のクレジットで名前を見かけることになるかもね。わたし、絶対に探しちゃう」

「見つけてもらえるように頑張らないとだな」


 今回使う肌の色を作っているダレンは、ブラシをパレットの上で回しながら鏡越しの俺を見て微かに口角を上げた。


「ねぇ。わたし、時間がある時は手伝えるから、また実験台にしたくなったら声をかけて」

「いいの?」

「うん。だって、将来の大物アーティストとのコネ、作っておかなくっちゃ勿体ない」


 冗談を言ってみせる。ダレンが大物になる可能性は十分にあると思っているけど。ニッとわざと大げさに笑う。ダレンも俺の表情を見てクスリと笑った。


「じゃあもし成功出来たら、君にたくさんお礼をしないといけないかも」

「その時は何をお願いしようかな?」

「はは。ちゃんと考えておいて」


 会話をしていくうちにも、ダレンは順調にゾーイを老婆へと変身させていく。

 こうやって自分のまま他の誰かに変化していくって過程も見ていて楽しいな。


 鏡を見ていると真剣な表情をしたダレンが映る。ダレンは本当にメイクをすることが好きなのだろう。繊細な作業に集中しながらも、彼の瞳は生き生きとしていた。その瞳をちらりと見やれば鏡を通して目が合う。不意な拍子でちょっと心臓が跳ねて、俺は急いで視線を正面に戻した。


 今回のテーマは意地悪な魔法使い。

 だがどんな姿をしていようと、この場に魔法使いがいるとすればそれは間違いなく彼だ。

 まさに魔法の腕で、こんなにも楽しい気分にさせてくれるのだから。

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