11 仕掛け網

 新聞配りのために俺は早速動き出した。

 先生から許可をもらった翌日はいつもより一時間以上早く目覚めて急ぎ足で学校まで向かう。

 ただ配るだけだと生徒たちが興味を示してくれないことは分かる。

 校長に媚びうるためになんかやってんなぁくらいな白い目で見られることだろう。


 だが俺には秘策があった。

 退屈な紙面を一応目に通したからこそ気づけたことがある。

 ちょうどゾーイが復習のためにまとめていた学習ノートをおさらいしていた俺は、校長の新聞に隠された本意を見出したのだ。


 鞄をロッカーに放り込んだ俺は図書室の前に積んである新聞を抱え込む。俺が手にした時から部数が減ってないように見えるが悲しいことにそれは正解みたいだった。

 校門から校舎へと続く真っ直ぐの道。俺はここを校内の大通りと呼んでいる。生徒たちは一日のうちに二回は必ずこの道を歩く。今朝はその大通りで、登校してくる生徒たちに新聞を配る予定だ。

 途中、廊下をすれ違った教師が新聞を抱えた俺を見て呆気にとられた顔をしていた。明らかに呆れている顔だった。そういう時はゾーイのことが視界に入るんだな。


 いいさ。今はそんな顔をしていればいい。

 でも始業のチャイムが鳴る頃には、あの教師の顔つきは大きく変わることだろう。

 俺はこの新聞をすべて配りきる自信があった。すべては勤勉なゾーイが残してくれたヒントのおかげだった。


「おはようございまーす! 朝刊です! 一部いかがですかー?」


 俺は出来る限りの元気な声で校門を通り過ぎていく生徒たちに新聞を差し出す。

 予想通り最初の生徒は行く手を阻む新聞を鬱陶しそうに避けて顔をしかめた。彼の近くにいた生徒も何事かと顔を上げ、新聞を見るなり苦笑する。俺と目が合った彼は明らかに不機嫌な顔で「うるさい」と呟く。おお。もしかして寝起きが悪い系男子だろうか。じゃあ俺がその目を覚ましてやるよ。


「ご存知ですか? 今回の特集はラツィーニの”寓曲”です。今度の定期論述試験のテーマと同じなんですよ。ぜひ試験対策の一つとしてどうでしょうか? 校長自らの発行ですから、きっと素晴らしい私見に学びを得られますよ」


 俺の言葉を聞くなり不機嫌な男子生徒の目に光が宿る。


「え? それほんと?」

「はい。わたし、すべて読みましたから。”寓曲”をうまく要約してまとめてあるので、要点はこれを見れば十分に理解できます。原典をすべて読むよりもずっと時間の節約になりますよ」

「へぇ……」


 彼はぺらぺらと喋る俺の顔を見て興味深そうに眉を動かす。


「じゃあ一部貰おうかな」

「はい! ぜひぜひ」


 そのまま新聞を受け取り、彼は紙面に目を通しながら校舎への歩みを再開した。


「ねぇ、私も貰ってもいい?」

「もちろん!」


 話を聞いていた女子がそわそわとした様子で声をかけてきた。俺は満面の笑みで彼女にも新聞を手渡す。


「ありがとう。論述試験の基準点が高すぎるから、ずっと億劫に思っていたんだ。これで少しは気が楽になった」

「ふふ。わたしもそう思う」


 くすくすと笑い合った彼女が立ち去ると、また別の生徒が俺のところに来て新聞を受け取った。

 校門を見れば、次の登校の波がやって来た。俺は改めて先ほどと同じことを大きな声で伝える。


「今度の論述試験のテーマの”寓曲”、この新聞を見れば対策はバッチリです!」


 すると面白いくらいに生徒たちが俺の方に吸い寄せられていく。


「新聞にそんなこと書いてあるなんて知らなかったよ」

「もしかしてこれまでもそうだったのかな?」

「ありがとう。教えてくれて。これで勉強が捗る!」

「よく気がついたね」


 登校してくる生徒たちは次々に新聞を手に取り、図書室の前で途方に暮れていた新聞の山はどんどんその高さを低くしていった。

 俺も休みなく宣伝文句を声に出し新聞を配り続けた。

 この新聞は全面に渡って”寓曲”という長編叙事詩について書かれている。校長がピックアップした作品なのだが、彼は内容を分かりやすく要約するだけではなく、注目ポイントや解釈の仕方などを記載していた。


 “寓曲”は、俺が知っているものだとダンテの”神曲”と同じような位置づけにある作品だ。

 その本が分厚いことは俺でも知っていた。さすがにすべて読むには根気がいる。でもゾーイはそんな”神曲”に値する”寓曲”をきちんと読み込んでいたのだ。

 もちろん読んでいたのにも理由があって、ゾーイがただ読書家だからではなかった。


 この学校では、年に三回の定期論述試験が全校的に行われる。学年も関係なくすべての生徒が同じ試験に挑む機会となる。

 そこでは、毎回提示されるテーマについての論述が求められるそうだ。もはやプチ論文に近く、意見を述べることや考えをまとめることの大切さを身につけるための試験らしい。

 親切なことに、テーマは毎回事前に教えてくれる。ちょうど次の試験のテーマはこの新聞で取り上げられている”寓曲”。まさにタイムリーな話題だ。


 もしかしたら新聞のあまりの不人気さに校長が遊び心で今回の記事を書いたのかもしれない。

 手に取った生徒だけが気づくことが出来る最高の試験対策となり得るからだ。

 だから俺はお節介心と恩着せがましさを全開に、生徒たちにその事実を教えることにした。

 この新聞を読めば、気が重い試験への準備がしっかりとれる。


「校長による”寓曲”の記事です! 一部いかがですかー? 早い者勝ちでーす!」


 ここの生徒たちはそれなりに成績を気にしている傾向がある人が多い。だからこそ俺はこの謳い文句を見つけた瞬間から新聞の需要が高まることを確信した。

 本当は、知る人ぞ知る、の方が自分にとっても都合がいいのかもしれないんだけど。

 でも、それじゃちょっと自己中かなって思って。


 残り少なくなった新聞を見やる。顔を上げれば、生徒たちの手には同じ新聞があった。道行く生徒は余すところなく新聞に目を通している。何とも言えない壮観な光景だった。

 とにかく、無事に成功しそうで良かった。

 俺が安堵の息を吐いていると、また目の前に一人の生徒がやって来る。


「どうぞ! もう残りわずかです! Don’t miss it!」


 反射的に新聞を差し出す。差し出した先にいたのはぽかんとした顔をしているジアだった。


「ゾーイ、何やってるの?」

「新聞配ってるんだよ。ジアの分はもちろん取ってある」


 俺は鞄に入れていた新聞を取り出す。

 ジアは新聞を受け取りつつも眉をひそめる。


「これが、ミスコンのポイントになるの?」

「これはただのきっかけにすぎない。まずはわたしの存在を皆に知ってもらわないと」

「でも……、こんな、こんなので、せっかく試験で良い結果が残せるかもしれないのに、皆にその機会を分け与えるようなことをしてもいいの? それじゃ結局、ゾーイが不利になるだけかもしれないのに」

「それでもいい。今のわたしには、試験の結果以上に大事なことがあるから。それに、試験だってばっちり頑張るからさ。大丈夫大丈夫」

「だけどこれじゃ、ただ皆にいいように利用されるだけだよ? こんなことで知名度を上げても意味ない。良い人が損をするってよく言うじゃない」

「ふふ。じゃあわたしが、その常識を覆してみせるから」

「でもっ、ゾーイ」


 ジアが話を続ける間も俺は新聞を配る。彼女の心配はちゃんと聞こえているけど、その優しさに甘えてしまっては駄目なんだ。俺は心を鬼にして愛想を振りまく。


「俺にも一部くれる? ゾーイ」

「はーい!」


 名前を呼ばれて速やかに腕を伸ばす。俺が目覚めてから学校ではジア以外に名前を呼ばれたことがないという事実をこの時ばかりは忘れてしまっていた。だから何も警戒することなく返事をしてしまったんだ。

 ハッとして改めて相手の顔を見上げる。俺を説得しようとしていたジアも彼を見て思わず黙った。


「ありがとう。ゾーイ、先生の手伝いでもしてるの?」


 爽やかに笑う艶やかな瞳。

 一瞬、目の前には雪原が広がったのかと思った。ゾーイに声をかけてくれたのは、前に一度食堂の前で見かけた男子生徒。そうだ。こんなに近くで見るのは初めてだけど、印象的だったからよく覚えている。彼はラーシャ。彼こそがゾーイが恋した相手だ。

 涼しげな顔をしているのに愛らしさも兼ね備えた彼の容貌はホッキョクギツネのように凛として聡明だった。


「へあっ。えっと、ええっと」


 やっぱりこんだけ顔が整っていると迫力がある。

 前とは違って距離が縮まった彼といきなり会話をするのは俺にとっては想定外すぎて声が出て来ない。

 あわあわと口を開いたまま恥ずかしさだけが募っていった。


「それとも自主的? はは。試験の対策になるなんて、よく気がついたね」

「えええええっと。そ、そう、皆にも伝えた方が絶対にいいって思って! 校長先生の折角の新聞、読まないのは勿体ないし!」


 どうにか息を吸い込みながら首を何度も縦に振る。何故かジアも固まっていて、黒目だけで俺のことを見た。挙動不審だよなやっぱり。


「ゾーイは優しいな。俺だったら独り占めしちゃいそうなのに」

「ふ、ふふふふ。だ、だって、論述だから、結局最後は個人の力量に委ねられるでしょう?」

「確かにそうだ。同じ対策をしたとしても結果はバラバラだもんな」

「うんうん。ね?」


 ラーシャは納得したように笑う。嘘だろ。笑うと余計に可愛らしいじゃないか。かっこよさと可愛らしさが共存しているなんてズルすぎるだろ。

 これはゾーイが恋するのも無理はない。妙な納得感に包まれた。


「もう少しで捌けちゃうね。やっぱり早起きは三文の徳ってやつだな」

「うん。今登校してきた皆はラッキーだね」

「今日に限って遅刻した奴は悔しいだろうな」

「そうだね。……なんか、悪いことしてる気分になってきた。コピーして全員に配った方がいいかな?」


 もう手元に持っている分だけで新聞は配り終わる。となると、急に他の生徒たちに申し訳なくなってしまった。


「いや。しっかり早起きして学校に来た方が良いことがあるって思わせた方がこの先遅刻者が減って学校的にもいいだろう。生徒会の立場でも生徒たちの意識が向上するのは嬉しいことだし」

「生徒会……?」

「うん。そうだよ」


 訊き返せばラーシャと目が合う。やっぱり綺麗な形の瞳。見惚れていると、ジアが横から補足をしてくれた。


「今年からラーシャも生徒会の一員だよ。だから今回のコンテストは対象外なんだよね。もう、ゾーイったらうっかりさん。忘れちゃったの?」

「あ。ははは。そうだったそうだった。生徒会、頑張ってね」


 ジアに小突かれて俺は慌てて笑顔を取り繕う。


「ありがとう。ほんと思ったより忙しくて。でも、やりがいはありそうだから楽しもうと思ってる」

「ポジティブだね」


 あれ。意外と普通に話せるな。

 不意の登場に焦りはしたが、一度言葉を交わせば案外すんなりと会話が続く。

 彼を食堂の前で一目見た時は心臓に衝撃を受けたが、今はそんなこともない。むしろジアと同じですごく話しやすい。

 話しているうちにすっかり気が楽になって肩の力が抜けていった。


「だけどゾーイも忙しそうじゃないか。清掃員さんの手伝いをしているところを何度か見かけたよ? それに、ポスターの掲示を直したりしてたし。どうしたの? なんだか今年は積極的だね」


 さらっと言ってきたけど、ラーシャはゾーイの動向をちゃんと知っていたんだ。他の人にはそんなこと言われたこともないのに。


「うん! わたし、今年のコンテストに向けて気合い入れてるの。だから、なんでもするって決めたんだ。誰かの役に立つって、すごく気持ちがいいって分かっちゃったから」


 なんだかこうやって口にすると余計に恩着せがましいな。ラーシャに引かれないだろうか。


「……自己満足かな?」


 不安になって訊いてみる。けれどラーシャはすぐに首を横に振った。


「そんなことない。なかなか出来ることじゃないよ。ゾーイ、君の活躍を楽しみにしてるよ。でも、頑張りすぎないで?」

「うんっ。ありがとうラーシャ!」


 やっぱり話しやすい。彼の人柄のおかげなんだろうか。


「あ。ねぇゾーイ。もしよかったら、俺の依頼も聞いてくれたりする?」


 ラーシャはふと何かを思い出したように控えめな声を出す。


「なに? できることなら協力させて」


 俺としては新規の依頼は大歓迎だ。むしろこれが第一の依頼。新聞配りは、完全に自発的なものだったし。

 ラーシャは申し訳なさそうに眉尻を下げた。


「妹のミゼルなんだけど、転校したばかりで勉強になかなか苦労してるみたいなんだ。ゾーイは頭がいいし、授業のまとめも上手だろ? もし時間が取れたら、彼女の勉強を見てやってくれないか?」

「ミゼルの?」

「ああ。奨学金でここに入ったから、成績は絶対に維持しないといけない。彼女はそのことを意識しすぎてて逆に本来の力が発揮できてないみたいなんだ」

「……そうなんだ」


 なんだかミゼルに同情してしまう。

 ジアから二人の話を聞いていたからか。ミゼルがようやく手に入れた平穏をどうにか維持してあげたいというお節介心がふつふつと湧いてくる。


「うん。わたしで良ければ、いつでもどうぞ」


 人に教えるなんてちゃんと出来るか不安だけど。でも、ゾーイなら必ずできると信じられた。

 ラーシャは俺の返事に表情を明るくし、俺の右手を掴んで握手する。


「助かるよゾーイ! 生徒会活動が忙しすぎて全然ミゼルの相手が出来なくて……。ずっと責任を感じてたんだ」

「優しいお兄さんだね」

「その誉め言葉はまだ俺には早いかな」

「ははっ。謙虚なんだから」


 握手した手を離し、俺とラーシャは軽快に笑い合った。仮にも彼はゾーイの自殺の引き金となった要因の一つ。ラーシャと遭遇したら一体どうなるものかと思っていたが、彼の気さくさにだいぶ救われたみたいだ。それも嬉しくて、俺は素直に笑い声を弾ませる。

 その様子を、隣にいるジアは遠慮がちに見守っていた。

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