第5話 親方の気遣い

 夕食の片付けを一通り終え、そろそろ銭湯にでも行こうかという時間になったころ、綾子は親方に呼ばれた。

 普段入ることのない親方の居室の机には、着物や帯の図案がきれいに並べられている。

 先日の熱のことがあったので、親方と話をするのはどこか気まずい。うつむきがちに、親方の爪を見ていた。

 熟練の織り職人は、長く伸ばした爪の先にヤスリを当て、のこぎりのような刻みを入れている。横糸を織り終わるたびにその都度、指先でよこいとを掻き寄せる。その時に、この爪の刻みを利用して糸を引っ張るのだ。爪掻本綴織つめがきほんつづれおりと呼ばれる、西陣織の中でも最も難しいものを織るためのその爪は、綾子にとっては憧れだった。

 長年の経験によって培われた確かな技術と、研ぎ澄まされた指先の感覚で、キャンパスいっぱいに絵を描いていく。糸の一本一本が織りなす繊細で、立体感のある模様。この親方の織ったものは特に模様が細かいと評判だった。

 親方は還暦に手が届きそうな年齢だったが、がっしりしたその体格と、まだまだ黒いその髪から綾子はもっと若く思っていた。だから、香奈から親方の年齢を聞かされて、驚いたものだった。


「あんたに出張に行ってもらおかと思ってな」

 ふいに親方は、湯飲みを手にそう言った。

「出張?」

 予想外の言葉に思わず大きな声を出してしまった。


「いや、出張というより研修やな」

「はぁ……」

 親方は、何かチラシのようなものを取り出しながら続ける。

「来月、仙台である展示会に行ってほしいんや」


 ほらこれや、と渡されたそのチラシには、「西陣織展示会 杜乃もりの百貨店」と大きな字で書いてあり、開催日は八月八日とあった。

 おぼろげな記憶をたどると、確かこの日は仙台の七夕祭りの日だ。


「前の日の七日に夜行に乗ったら、次の八日の昼に仙台に着く。その足で、展示会を見てこい。ええか、しっかり見てきいよ。そや、あんた、実家は仙台やったな。そのままゆっくり二泊して、十日の朝、急行に乗ればええ」

 一週間早いが盆休みや、と親方は付け加えた。


 思いがけない親方の言葉に、ただただ礼を何度も言い、綾子は辞去した。

 階段を上りながら、思う。

 きっと、これは里心がついて熱を出してしまった情けない自分への気遣いなのだ。てっきり叱られると思っていたのに。

 入門わずか三月あまりの弟子には、考えられないほどありがたく、もったいない話だった。


 このありがたい「研修」に感謝しつつ、綾子は床に就いた。

 それからの日々、時が経つのが早かった。

 まとめノートのおかげか、織りにも精が出るようになったし、いくつか新しい織り方も覚えた。不安と苦痛ばかりだった織り機の前にいる時間は、充実したものへと変わっていた。



 そして今、綾子は急行「瀬戸」に乗っている。

 夜の車窓からはほとんど何も見えない。時折、遠くに街の明かりがわずかに見えるだけだ。

 窓には自分の姿が映っている。高校を出た頃と少しも変わらないように思う。

 でも、やりたいことだけは見つかった。そう思う。

 この急行列車に乗って、二時間あまり経過した頃だろうか。

 客室は寝静まり、列車がレールの上を走る音だけが聞こえている。

 綾子は目を閉じた。



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