第21話
霧の向こう側の空に、夕日の名残が染みわたる。
夜目を効かせながら書物をめくる千月がロクサーヌの目覚めに気が付いたのは、彼女が「フロネー……」と、親友の名を口にしたからだった。
「頭、痛うないか?」
千月はいつになく柔和な表情で、側で眠っているロクサーヌの腫れあがった瞼を見つめた。
「もうわかんないよ」
そう気色ばむロクサーヌの目頭は、涙がすっかり渇いている。神鳥の助け舟は覿面のようだった。
「あたしは半端者やし、あんたが死んでしもうたら、紋呪を刻まれた王族は居らんくなる。あんたはな、あんたが思ってる以上にシンフォレシアにとって無くてはならん存在なんやで?」
ロクサーヌはむずかる子供のように俯けになると、エキゾチックな、仄かに甘い匂いが彼女の鼻腔を舐めた。
「これ、貴女の召し物じゃ……」
驚いた彼女が顔を上げた先には、にんまりと笑った千月が待ち構えていた。ロクサーヌは曇っていた顔が綻びたのに気付くと、咄嗟にジャケットに顔をうずめた。
千月はロクサーヌに愛嬌を感じたがさて置いて、書物の読破を急いだ。といっても、意味はほとんど理解できていない。千月が図書館から持ち出していたのは、シンフォレシアの歴史のあらましが記載されているという古文書だった。全二冊からなるそれら書物は約6世紀以前と以後で区切られ、一冊目の後半には初代シンフォレシア王の勇士が絵も交えつつ描かれているようだった。しかし、肝心の文章を読めないのでは無用の長物に過ぎない。
千月はロクサーヌが顔を伏せたままなのを横目で確認して、背中を丸めた。彼女はロクサーヌには気丈に接しているが、その実、焦燥に心が捻り潰されそうだった。水上機の脱出が失敗することなど想定しておらず、もちろんバックアップも用意していない。波止場の付近には町もなく、今日の食料すら手持ちにはないのに、あまつさえこの島にはイポスティの手が行き渡ろうとしている。行方を眩ませ続けるのは不可能に近かった。
一刻の時間も惜しいのだが、微かな希望を込めて、千月はロクサーヌの肩をつついた。
「これ、読める?」
ロクサーヌは寝返りをうって、そっぽを向く。
「すねんとってや。ここにイポスティを倒すヒントがあるかもしれんやろ?」
その可能性に思うところがあったのか、ロクサーヌは再度寝返りをうって、千月の両手に目を落とした。柳眉を寄せて視線で紙面をなぞる姿は、どことなく似つかわしくない。
「……読めないことはないけど、古い文字も混ざってるから時間がかかる。丸々1冊なら、最低でも1か月」
愛想のない返答を言い終わると、ロクサーヌは千月に背を向けた。
彼女は一国の主として生きるにはまだ荷が重いのかもしれない。千月は、気ままな振る舞いをするロクサーヌに胸中で所感を抱くと、
「なんでそこまでして私を守るの?」
と、鬱憤の抜けきらない声でロクサーヌに訊ねられた。
「わざわざ聞かんでもええって」
「貴女は外の人だったんでしょ? この国に尽くす理由がわかんないの」
「……長くなるけど、ええか?」
無言を了承だと受け取って、千月は口を開く。
「簡単に言えば、父ちゃんの頼みや。オーリオ・シンフォレシア。名前くらいは知っとるやろ? 日本名は吉田
血のつながりを示す系図を、千月は指で砂浜に引いていく。ロクサーヌの父ネオスを遡り、祖父デメトリオスを経て、大伯母クロエを下ると、従伯父オーリオへと至る。ぼんやりと千月の指を追っていたロクサーヌは、二人の血縁関係の由緒を知り、
「じゃあ、千月さんは私のお姉さん……ってこと?」
と千月と目を合わせた。
「あたしはハーフやし、
ロクサーヌは途端に立ち上がって、持ち上げた衣服の砂を払った。外の世界の兵士の戦闘服を模した、薄手のミリタリージャケットをロクサーヌは物珍しそうに思いながら手渡そうとする。
「すねるのはもうええの?」
と、いたずらな笑みを満たした千月に、ロクサーヌはジャケットを強く握った。
「っ! ……意地悪。返さないよ?」
頬を赤らめたロクサーヌを、千月は「かんにんかんにん」とあしらった。
「もう真っ暗やな」
西の空を塗り直していた橙は、今となっては残滓すら残さずに沈んでいた。太陽が無くとも月光は降り注ぐが、文字を解読するには心許ない。火を焚いたとしても不安定な炎光はむしろ視界を歪ませてしまうだろう。明日の日の出と同時に行動するために、千月は安全な寝床を工面しようと立ち上がろうとした。だが、ロクサーヌは悄然と、千月の隣に腰を落とした。
「まさか私に本物のお姉さんが居たなんて。お父さんも教えてくれればいいのに」
「あたしは父ちゃんの役目を継いでるからな。唯一の使者やし、悪い大人に利用されんように要人以外には隠されるんや」
「千月さん、一人で戦ってたんだね」
ロクサーヌは千月の肩にジャケットを羽織らせて、言う。
「……フロネーもそうだった。スクールを卒業して離れ離れになってから気付いたんだけどね、フロネー、ずっと悩んでるみたいだった。たぶん、私と師匠さんのことだったんだろうな。一人で何とかしようとしないで、頼って欲しかった」
月明かりに照る籠手を、ロクサーヌは親しみを込めて撫でる。
「フロネーはね、千月さんみたいに気が強くはないけど、とっても優しくて、頼りがいがあって……」
ただでさえ気丈のない声が、次第に涙ぐんだ声に変わっていく。全身を小刻みに震わせる彼女の悲しみを、千月は見過ごせなかった。
「もう、湿っぽい話はナシナシ! あー、そういやあたしの話、まだ終わっとらんよな?」
「うん。続き、聞きたい」
ロクサーヌに涙を忘れさせようと、千月は父の旅路をまくしたてる。
「あたしの父ちゃんはあんたが生まれる前に旅立ったから、会ったことはないやろうな。
霧を抜けて、日本ていう国の和歌山ってとこに流れ着いて、そっからどうやって生きてきたんかは知らんけど、じきに母ちゃんと恋に落ちて、大阪に定住したんや。例えるなら、シンフォレシアの城下町みたいなとこやな。
母ちゃんは恥ずかし言うて馴れ初めを話したがらんけど、そりゃあロマンチックやったんやろうなぁ。右も左もわからんのに、よく知らん人間と恋したんやで? そんであたしが生まれたんやけど、でもな、父ちゃんは身体が弱かってん。難儀な病気にかかってしもうて、死ぬ前に紋呪をあたしに移しよった」
一瞥したロクサーヌの横顔が温和に戻りつつあることに千月は胸を撫で下ろして、話を続ける。
千月は十数年前の、シンフォレシアのことなど何も知らない平凡な中学生時代の記憶を呼び起こした。
人生の終末を目前に控えたオーリオの身体に繋がれたのは、もはや心電計のみだった。助ける手立てなどないと示すように点滴も酸素マスクも取り払われ、駆け付けた家族たちに彼が向けていたのは笑顔ただ1つだった。それは諦めか、受諾か。少女の未熟な観察眼でも見て取れた父の表情の奥底に、強がっている様子は全くない。死を実感していても臆さず、艶のない歯を見せる父がまさか死を軽んじているとも思えない。
これは受諾だ。自分の人生が『価値のあるものだった』と納得して、幕引きを迎えようとしている。至上の喜びに違いないひと時を噛み締めながら、オーリオは息を引き取った。
「父ちゃんは最期の最期までシンフォレシアを守ってくれとは言わんかった。それどころか何も言わんままずっと微笑みかけるだけや。ちょっとくらいおくびにでも出してくれたらええのに、満足気に逝きよったわ」
そんな『めでたしめでたし』みたいな最期を見せられたらそりゃあ、なんで父ちゃんが紋呪をくれたんか気になるやろ? そんで、あたしも父ちゃんの故郷の土を踏んだ」
父のあの笑顔の背景には、必ずシンフォレシアがある。そう確信した千月は数少ない父の遺品をくまなく調べ上げ、母すらも知らないシンフォレシア、その所在を探し当てた。しかし、そこは日本から約600海里離れた絶海。沖をも遥かに越える海路を航行するには、輸送タンカーにでも相乗りしなければ不可能だ。そこで、千月が選んだ手段は空路だった。
シンフォレシアの地に降り立った時、千月は覚悟した。父と同じように一人で戦い続けることになっても構わない。父の笑顔の理由を解明するのだ、と。
「これまで戦ってきてなーんとなくわかることは、この力はシンフォレシアを守るためのもんやってこと。あたしは、紋呪を持つ限り戦い抜きたい。だって、父ちゃんが紋呪を託した理由、ちょっとは見つけた気がしたからな」
「その理由って、シンフォレシアの人達?」
「そう。ここの人間は、あんたやアリオスみたいに馬鹿正直な奴らばっかやねん。それに、大切な何かの為に戦うのは案内悪くないもんやからな」
シンフォレシアを取り巻くしがらみからかけ離れて、千月は澄み切った表情を浮かべる。
ロクサーヌは初めて耳にしたアリオスという名前に言及したかったが、絵画のように静謐な千月の感傷に水を差す気にはなれなかった。
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