第20話

 主翼をもがれた寸胴の機体が海水を飲み込んで、沈んでいく。砂浜でその沈没を憮然と眺めていた千月は、シンフォレシアから抜け出す足を失って途方に暮れた。

「これじゃあ霧を出ても帰られんな」

 と、千月は砂浜でしょぼくれるロクサーヌに目を遣った。

「……ごめんなさい」非難するような視線を感じて、ロクサーヌはぽつりと口にする。

「乗り物をダメにしたことは、悪いと思ってる。でも、フロネーを助けに行かないと!」

 反省の色が窺えないロクサーヌに、千月は大きくため息をついた。

「そんな身体でどうやって戦うんや?」

「……紋呪がある」

 籠手を着けた右腕をロクサーヌは掲げたが、虚勢を張っているのか、拳は震えている。

「あんたほんまにアホやな。さっき死にそうになったん忘れたんか?」

「もっとうまくできるはずだもん……」

「それは力を使いこなせる奴が言えること。せっかく命を拾ったったっちゅうのに、死に急がれたら報われへん。あたしも、あんたのために尽くしてきた人達もや」

「……」

 ロクサーヌは俯いて、間が持てないのか、砂を指で弾き始めた。

「おまけにフロネーは生きてるかわからんし、そもそもあの巨人は生半可な力ではダメージすら与えられんやろう。今イポスティに盾突いても十中八九損や損」

 いくら巨人の肉体を形作るのが土といえども、莫大な重量の巨躯を維持するために圧縮された土の塊は、城壁に類する強度を持つ。加えて、ゴーレムに造詣の深いフロネーですら、あの咆哮を防ぐのはやっとのことだった。巨人の眼下から生還した千月にこそわかる恐怖は、ロクサーヌには計り知れない。

「あたしにはあんたを守る使命がある。聞き分けのない子供やないんやから、これ以上やんちゃせんといて」

「もし私が、聞き分けのない子供だったら……?」

「上等や。そん時は後悔すんなよ」

 猛禽の爪を生やしてギラつかせる千月にも物怖じせず「後悔なんてしない」と、ロクサーヌは立ち上がった。

「もうええて。シンフォレシアのためにも大人しくしてくれや」

「フロネーを見捨ててまで守るシンフォレシアに何の価値があるの!?」

 ぱちん、と弾ける音。気付けば千月は、我慢できずに爪の背でロクサーヌを叩いていた。

「あんたは王女なんやで……! その口は、この国の人達を王女として導くためにあるんやろ! フロネーさえ助けられれば国ことはどうでもええっちゅうんか!」

 千月は爪の生えていない手でロクサーヌの襟首を掴んだ。ロクサーヌは怖いのか、目を閉じながらまだ反抗しようともがく。

「私は指導者なんかじゃない! 王権なんかちっとも欲しいと思わない! どうせメラク兄様が次の玉座に座るんだし、お父様もそれをわかって私に自由を認めてたんでしょう?」

 不意に、千月は掴んでいた腕を緩めた。憤りは依然ある。けれども、これ以上彼女を責めるのは良心が痛んだ。

「そうか、あんたはまだ知らんかったな……。ええか、よう聞いてくれ。ネオスもあんたの兄ちゃん達も、みんな亡くなってしもうたんや」

「亡く……え?」

「3人とも城で果てた。信じられんなら自分の紋呪で確認したらええ。あたしは異邦人でも、シンフォレシアに忠を誓った使者。国に関わることに嘘はつかん。あと、これは……」千月は、血の固まったバッヂをポケットから取り出して「……ファシアのものや」と告げた。

「———」

 ロクサーヌが恐る恐る目を下ろすと、瞳に溜まっていた涙が一気に流れ落ちた。

 急に、ロクサーヌは島の内部へと振り向く。振り落とされた涙がキラキラした雫となると、千月はそれらを胸で受け止めて、咄嗟にロクサーヌを羽交い締めにした。

「おい、どこ行くねん!」

「城に戻るの!」

「あかんって! 王城は神鳥過激派が占拠しとる! 殺されてまうぞ!」

 ロクサーヌの絶叫が、夕焼けに染まりつつある空をつんざいた。急速に高まる熱を感じ取った千月は、拘束を諦めて退いてしまった。

 砂浜に座り込んで、ロクサーヌはしどけない泣き声を上げる。砂に灯った青い炎が彼女をあやすように纏わりついて、哀惜ごと包み込んでいく。

「ロクサーヌ!」

 このままでは焼かれてしまう、と千月は手を伸ばそうとするが、炎が作り出した幻影に目を奪われてしまった。

 酸素を燃焼させ、エネルギーを熱と光で放出する炎の質量は限りなく無に等しい。扇げばゆらりと身をひるがえし、絶えず形を変容させる現象でしかない。

 ———しかし、ロクサーヌから燃え上がった炎はその常識を打ち破った。その炎はまるで芯が通っているかのように、根を、幹を、枝を、葉を、樹皮や葉脈に至るまで繊細に再現している。

「クスノキか……?」

 青火の高木は、見たところクスノキに似ていた。一本の幹では頼りなく思えるほど木の葉は縦横無尽に茂り、葉は濃い青色をしている。その旺盛さに、千月はいつの間にか畏敬の念を抱いていた。

 枝から、火の実が落下した。続けざまに数十個の果実がとめどなく落果する。幹からもマグマのように樹液が分泌され、砂上にねっとりとした線を引いた。樹が泣いている。千月はロクサーヌの凄惨な号哭を聴きながら、そう感じた。

 千月は変身させた腕で、縦長で下部の膨らんだ、燃え盛る果実を手に取った。すると、果実は瞬時に灰となり、砂の上に紛れていく。

 千月は「あちち……」と手を冷ますが、炎は腕に燃え移らなかった。その性質、背中の紋呪の疼きを以て、千月は樹の正体を悟った。

「ペルセア……神鳥の祖先が留まったと云われる聖樹か。相当、神鳥サマに気に入れられているみたいやな」

 この奇跡は、神鳥の思し召しに他ならない。それだけでも尋常ならざる恩寵ではあるが、かの神が現出させたのは、自身のルーツとも言える尊き存在にまつわる樹木だった。それは大河ナイルの恩恵により、砂漠地帯であれど文明を繁栄させた古代の国の神話だ。

 遥かな過去、遠き西方の土地の出来事であっても、千月が青火の樹木の真を直観的に看破できたのは、神鳥の縁者であるからこそだった。

 千月は身に湧き上がる感動に従って、拝礼を行う。

 死を悼む声が治まりだすと炎の樹木は衰微していき、その中心の灰の絨毯の上には、長閑に眠るロクサーヌが横たわっていた。

「これで立ち直ってくれたら楽なんやけどなぁ」

 ロクサーヌを囲う残り火から、千月は彼女を抱え上げた。

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