第5話
刻呪式を終えてから、ロクサーヌは右腕をしきりに気にしていた。ネオス達から与えられた紋呪———神鳥との縁は、あたかも小動物が駆け回るような微細の刺激を絶えず彼女に伝える。ロクサーヌが流し目で横を見ても、兄達に変わった様子はない。むしろ平然と前方を眺めて、これから行われる紋呪のお披露目を期している。この廊下の突き当りには、街の広場を臨めるバルコニーがあった。紋呪を授かった王子、王女を一目見ようと、今では数多のシンフォレシアの民が集っている。
「お進みください」使用人の声が、三人を誘導する。緊張は、ロクサーヌに悩む間も許さなかった。
蒼い空の下に現れたのは、三人のネオスの子達。広場の何千という人々が、日光の熱よりも熱く声を上げる。長男のメラクは前腕の内側を民草に向けて言葉を述べる。同様にセリスも人民の上に立つ意気込みを語った。そして、ロクサーヌも右腕を翼のように広げようとして、
「——————」
ただ、震えていた。
ロクサーヌは黙したまま、眼下の広場を観ていた。広場が麦の実で敷き詰められたかのような、見たことのない光景に圧倒されていた。目を細めれば、その実の一つ一つに目や鼻や口が付いており、ロクサーヌの言葉を待望している。
彼らは人間だ。私の姿を目にするためにこの場に集まった、国民なのだ。それに応えなければ、と強く思うほどに、ロクサーヌの四肢は強張るだけだった。
固まったままのロクサーヌに、民衆は困惑を隠せない。不測の事態でも起こったのだろうか、と近くの者と目を合わせたり、肩をすくめたり。そうしたざわつきがロクサーヌの耳にまで届くころ、一人の少女が大声を上げた。
「がんばってー! ロクサーヌさまー!」
辺りは静まり返った。だが、彼女の声を皮切りにして次から次へと声が上がった。一人の少女から声援が波及し、広場の誰もがロクサーヌを鼓舞していた。
激励に目頭が熱くなったロクサーヌは、小さな肩を震わせる。第一王子メラクは、その一方の肩に手を添えた。
「緊張するのはもっとも。ロクサーヌが王女になろうとしている故のことだ。けどね、その責任に打ち勝つ必要はない」
「そうだ。今すぐに王として民を率いろと言われているのではないし、立派に成長できました、と彼らに示せれば十分だよ」
と、第二王子セリスも、ロクサーヌの肩を叩く。
「うん……心強いよ。ありがとう」
臍を固めて右腕を広げたロクサーヌに、幼い面影はなくなっていた。
「私はシンフォレシア王国第一王女、ロクサーヌ・シンフォレシア。……三人目の紋呪継承者として、我が紋呪を供覧に付せることを嬉しく思います」
初めは静寂だった。しかし、紋呪とロクサーヌの両方を視認した者からやがて声が張り上がり、広場は歓喜に包まれた。
民衆の声援で、ロクサーヌは魔法にかけられたかのように王女の身分を受け入れられていた。彼女が身に纏う青色は水を想起させ、凛々しくなった顔立ちは指導者への道を歩み始めている。国民と共に世を渡る王女の威厳は今、形作られつつあった。
だが、ある老人は明確な敵意を向けていた。
所狭しと集う人だかりには不自然に開いた穴があった。地面が抉れている訳ではない。危険物があるわけでもない。ただそこには、二人の人間が居た。物憂げにロクサーヌを見つめるのは紅の髪のフロネーだ。彼女が侍るように佇むのは、黒いローブを着込んで顔を隠す男。カタストの弟子であり、フロネーの師匠、イポスティだった。
「けしからん」
姿を隠していても、彼のいら立ちは鳴りを潜めない。両手で持った杖で、しきりに地面をコツコツ叩いている。
「フロネーよ、あれらが神鳥様の恩を仇で返そうと画策するネオスの子だ」
フロネーは、何と返せばいいのかわからなかった。神鳥にお伺いも立てずに開国を目指すネオスは裏切り者と言われても納得がいく。けれども、ロクサーヌはネオスの娘だ。イポスティに同意を示せば、彼女はロクサーヌをも貶めることになるのは目に見えていた。
「危険、の一言で王城から神鳥様の御業たる錬金術を排し、あまつさえ錬金術師達をも迫害した! そして神鳥様と袂すら別とうとする……」
怒りの勢いに口を任せる彼は、固く口を閉ざしたまま表情を険しくするフロネーへ弁明するように改めた。
「お主がロクサーヌと懇意なのはわかっておる。それでも許せんのだよ。神への冒涜は、死をもって償われなければならん。お主も理解しておるな」
もはや脅迫に至った言葉では、なおさらフロネーは首肯できない。
「今更迷おうとも、もう手を下したようなものじゃろうて」
「……ごめんなさい」
フロネーが言えることはそれしかなかった。地面に向かったままの謝罪は誰に宛てたのか、ひどく曖昧だった。
「まあよかろう」
イポスティは棒になった左足の代わりに杖を突いて、とぼとぼと広場を後にした。
「ごめんね、ローシー」
城内に戻るロクサーヌの後ろ姿を、フロネーは潤った目で追っていた。
刻呪式とパーティーを終えたロクサーヌは、気分が晴れないまま自室のベッドに横たわっていた。
「フロネー、どこ行ったんだろ」
幸い、紋呪のお披露目はなんとか終わったものの、パーティーではずっとフロネーの事ばかり頭に思い浮かび、上の空だった。
ロクサーヌが臨席する儀式には、欠かさずフロネーの顔が見えていた。何か不都合があったのだろう、とロクサーヌが考えるほど、悩みは深く根付いてしまう。右腕の紋呪も心なしか曇っているように見えた。
眠れないまま、ロクサーヌは自室のバルコニーからまた街を眺めた。昨日よりも青い灯りは多い。刻呪を祝う祭りが終わっても、民草の熱狂は衰えを知らないのだろう。お酒を飲んで、仲間とダンスを楽しんでいるのだろうか。ロクサーヌは想像して、そっと微笑んだ。
「フロネーが居たら、今日はどんなに楽しかったんだろうね」
ロクサーヌがつい漏らした本心は、せき止めていた悲しみを涙として流出させた。
「会いたいな、フロネー」
昨日の夜も眺めた森は、彼女の瞳を掴んで離さなかった。
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