第4話
王城は今朝から異例の慌ただしさに翻弄されていた。既に到着した二人の王子を厚くもてなすだけでなく、時代の王とその弟妹が、王の子らに紋呪を与える刻呪式が始まろうとしていたからだ。さらには、後にロクサーヌの誕生日パーティーも控えているため、城全体が息をつく暇もなかった。それでも、準備に奔走しているのは召使いや料理人などの雇人のみで、王族の周囲は幾分大人しかった。
ロクサーヌが身支度をしている化粧部屋では、複数のメイドが彼女を囲んで、麗しい姿へと着飾らせていた。群青のドレスに身を包み、三つ編みの髪の毛は後頭部で団子に纏められている。貴族の代名詞とも言える装身具は、ロクサーヌの意向もあって控えめに留められていた。
メイド達はロクサーヌの美しさをみるみる演出していく。ロクサーヌは生まれ変わったような自分の姿に息を漏らすが、同時に耳を高くそば立てて、ある合図を待っていた。
「終わりましたよ」
メイドがその一言を放つと、ロクサーヌは感謝を述べて、いの一番にラウンジへ向かった。
「セリス兄様!」
ロクサーヌは走る勢いのままでシンフォレシア家の次男、セリスに抱き着いた。身体強健の彼だが、容赦ないロクサーヌの突進には微かな呻きを零してしまう。
その声も、彼の苦笑も、幸福の最中にあるロクサーヌは当然スルーして、声にならない喜びに浸っていた。
「お久しぶりです……!」
「誕生日おめでとう、ロクサーヌ。最愛の妹を祝えて幸せだ」
兄の感触を顔面でたっぷりと満喫したロクサーヌは、しかし顔を離すとみるみる蒼白になり、口を覆った。これから刻呪式だと言うのに、セリスの胸には白い化粧がくっきりと移っていた。ロクサーヌは汚れを落とさなきゃとも、下手に触れればもっと事態が深刻になるかもとも考え、手をまごつかせていた。
それでもセリスは表情一つ変えず「衣装くらい替えが効くから大丈夫」とロクサーヌをほとんど説得のように宥めた。その甲斐あってロクサーヌが平常を取り戻したのを認めると、セリスは、
「ロクサーヌとお話をしたい気持ちでやまやまだが、これから用事があってね。父上に呼ばれているんだ」
と決まり悪く言った。
ロクサーヌはセリスの一回り大きな手を取って両の手で握る。油っ気の少ないさらさらした肌触りを堪能しても、彼女は俯いたままだ。
「顔を上げて、ロクサーヌ。君には元気いっぱいの笑顔が似合っているんだから」
ロクサーヌは照れくさそうにセリスの指先を擦り続けたまま「ふふ」と、セリスを見上げた。慈しみを含んだ爽やかな彼の笑顔は、かつて三人で王城の中庭を駆け回っていたままだ、とロクサーヌは思った。あともう一人、隣に居たあの人はどこにいるのだろう。
「メラク兄様はどこにいるの?」
「先に父上の所へ行ったよ。すぐに僕も行くからね」
「もう、20歳の誕生日なのに二人とも冷たい」
ロクサーヌが唇を尖らせていると、ファシアが緩やかな足取りで、彼らと少しの距離を取って止まった。滑らかに一礼する姿に、年齢の高さは窺えない。
「セリス第二皇子。ご壮健で何よりでございます」
「ああ、ロクサーヌの。大変だろうが、良くしてやってくれ」
「それ、どういう意味ですか?」
セリスは鋭い視線を向けるロクサーヌに屈み、白いおでこにキスをする。
「何でもないさ。刻呪式の後はパーティーもある。またすぐに会おう」
ファシアと握手を交わしたセリスは「それじゃあ」と、溜飲の下がらないロクサーヌを置いて、ラウンジの境界を跨いでいった。
残された彼女は肩を落とすや否や「それで、どうだった? フロネーは居た?」と、ファシアにしつこく尋ねた。
「フロネー様は……見ておりません」
眉を下げるファシアを一瞥したロクサーヌは、青みが増したような彼の白髪に数秒、目を取られてしまった。
「そ、そう」
取り立てて気にすることでもない、とロクサーヌは結論付けた。そのはずが、気の抜けた返事が転び出てしまう。ファシアの毛髪の青には何かの気配が含まれている、と感じ取ったが、それでも、彼女は優先すべきことを思い出して、ファシアに詰め寄った。
「でも私、招待したんだよ? ほんとのほんとに来てないの? 見落としてたりしない?」
ファシアは重く首を振って否定する。ロクサーヌは、じわじわと駆け上がる感情にいたたまれなくなって「私、探してくる!」と走り出そうとした。
彼女の動きが止まったのは、ファシアに手をがっしりと掴まれたからだった。
「お待ちください。そろそろ式が始まります。どうか準備のほどを」
「私が王女なのはわかってる……。それでも、私はフロネーの親友でもあるの!」
「フロネー様は!」
瞬発的な怒号が部屋を走り、時が止まった。誰もが動きを停止し、ファシアへ視線を向ける。ロクサーヌは聞いたことのない男性の声に短い悲鳴を漏らした。
自身でさえ驚いたファシアは咳払いで立て直し、諭すように口調を改める。
「ご存じだとは思いますが、フロネー・ダーソス様の師はイポスティ。そして彼の師は、かつて王城を血で汚した、カタストなのですよ」
ロクサーヌは否定したくて我慢ならなかった。確かにそれは重大な事件だったが、生まれる前のことで親友が悪人に仕立て上げられるのは不条理に違いなかった。
「わかってるよ! でも、フロネーはなんっにも悪いことはしてない! いつも私を助けてくれたし、離れてたって私を支えてくれてる! なのにフロネーをここに通さないなんてひどいと思わないの?」
「仕方のないことです。王城の平和は常に保たれなくてはなりません。一度でも致命的な過ちを犯した一族は排されるのが、ここのルールです……!」
「……ッ!」
反論が喉まで出かけた時、ロクサーヌの体で鈍い衝撃が唸った。心臓が地面に引っ張られるような息苦しさ。一秒もない苦痛だったが、彼女の反抗を止めるには十分だった。
「失礼した。ロクサーヌ、ファシア君。そろそろいいかな」
先ほどセリスが去っていった扉に立っているのは、右腕の袖をめくり、紋呪を晒すネオスだった。彼の隣には困り果てた二人のメイドの姿もある。
「お父様……」
気勢を削がれたロクサーヌは有無を言えずに父のもとへ歩いていく。途中立ち止まった彼女は、無気力に振り返った。
「ファシア……。もう私に姿を見せないで」
ロクサーヌの後ろ姿が扉で遮蔽される。ラウンジには、ロクサーヌのヒールの音が壁越しに響いていた。
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