ある少女の追憶
長い間、同じ部屋を眺めていた。変わらない位置で、変わらない薄暗さ。そしてずっと続くぶくぶくした音。変わっていたのは、たまに誰かが、様子を見に来るみたいに私を覗いていたこと。判然とすることはそれくらいしかない。目も鼻も耳も、大雑把な刺激しか受け取っていなかった。
この記憶が何を意味するのか、私にはさっぱり。まるで蒸気のようで、掴もうとすると指の間をすり抜けていく。
きっと、私の始まりはここなんだと思う。これより前の記憶はないし、後に在るのは、甘美と辛酸の綴り。
だから私の夢は、水の音で始まる。
ぶくぶく、ぶくぶく———その音が止むと、私は木張りの廊下を歩いていた。放課後すぐ、目指しているのは実験室。窓から見える中庭には、私と同じように書籍を抱えた学生が、談話しながら別棟への道を辿っている。何とはなしに見た平凡な光景に、私は数秒立ち止まっていた。
私は特別だった。
頭が良く、錬金術の才も認められたばかりに、老若の隔たりなくもてはやされる。その応酬として期されていたのは、才知の十全たる発揮。
紅色の髪を手繰って、空想する。制服も髪の色も違う彼らと同じになれたら、友達ができるのかな。なんて、心の間隙を知らない感情で埋めようとする。
でも、知り得ないことを知ろうとしても、得られることはない。空想を止める瞬間はいつも、その結論を思い出していた。
合鍵を扉に挿し込んで、回す。開錠の手ごたえの代わりに、実験室から慌ただしい物音が聞こえた。中を窺いつつ開けると、彼女は黒板前の長机で孤独に俯いていた。青い髪がカーテンのように横顔を隠していているけれど、泣き顔に染まっているのは簡単に想像できた。
錬金術のことしか頭になかった当時の私でも、彼女が誰なのかは漠然と知っていた。このシンフォレシア王国を統べるネオス王の娘、ロクサーヌ・シンフォレシア。王族がスクールに通うのは前例のない事で、物珍しさから生徒に、先生に、保護者に群がられるのを毎日見かけていた。彼女はどんな人にも、その淑やかな笑顔で対応していたのに、今の彼女はとても———
「ロクサーヌ様……ですね?」
私が近づくと、ローシーは後ろを向いて、何事もなかったかと言わんばかりに、
「そうですが、あなたはどちら様でしょうか」
と、鼻をすすりながら、涙声で答えた。
「フロネー・ダーソスです。……お困りですか?」
ローシーは意地を張っていたのか、無言のまま震えていた。
民衆の世界に混ざっていても自分は王族だから、貴人として振る舞うべきだ。でも、それじゃいつまでたっても錬金術はわからない。そんな葛藤があったんだと思う。じゃなきゃ、広い実験室に誰も呼ばず、一人で錬金術を習得しようなんて、無謀すぎる。
でも、ついには真っ赤な目と腫れた涙袋とを私に向けて、訳を話してくれた。聞くと、初めての実技試験が翌日に控えており、それに向けた練習がなかなか実らないままで途方に暮れていたらしい。
「私は王女なのに……」
王族に生まれた責任を、この時から彼女は呟いていた。
当時の私は「自分は彼女と似ている」と無自覚に思っていたと思う。
だから私は早速ローシーを催促して、彼女の実演を事細かに観察した。お題は、植物の種子の発芽を促進させる術。物質の循環の促進と抑制を基本とする錬金術の、初歩中の初歩と言ってよかった。
ローシーは不器用に手順を踏んだ。土壌の具合、薬草を絞る力加減、液体を混ぜ合わせるタイミング。完成した薬品を種にかけても反応は無かった。今日何度目かの失敗に、ローシーは決して私に顔を見せない。
私は遠慮のない評価を彼女に伝えた。ローシーは踏み台を降りると、机の片隅に小さな身体を隠した。
「もうおやめになられますか? それでも私は構いませんが」
私の声が聞こえる。人形が喋るような、淡々とした、起伏のない声だった。
「まだやるもん!」
ローシーは口調を整えるのも忘れていた。ひどく悔しかったんだろう。
今度はローシーの隣に立って、手順を懇切丁寧に説明した。彼女は理解できていない、というわけではなさそうだった。彼女が持っていた指南書には試行錯誤のメモが細かに書かれている。でも「成功させるんだ」って力み過ぎてて、ミスが絶えなかった。
傾いていく陽が空気を橙に染める。やっぱり彼女には難しそう、と私が書籍を持ち直した時、たった一度だけ、種は発芽した。
星を迎え入れる空とは反対に、ローシーのずっと暗かった表情が一気に明るくなる。10歳にとても相応しい、華やかな笑顔がそこにはあった。
「ありがと! フロネー!」
ローシーはずっとツンツンしていたのに、突然私のお腹に飛びついてきた。その時の私はどう応えたらいいのかわからず、もじもじしていたと思う。それでも13歳の幼い身ながら、ローシーの絹みたいな髪に覆われた頭をくしゃくしゃに撫でてあげたいとも思っていた。
こんなに美しい子に、王城の荘厳さは似合わない。悲しいことや苦しいことなんて忘れて、ずっと花園で歌っていて欲しい。
「本当に助かったわ!」
喜びを噛み締めるみたいに、私に回した手に力を込めている。こんな抱擁、初めてだった。両手に溢れんばかりの花を手にしたような幸福感が今も蘇って、私という存在の責務を軽くするような錯覚を見せてくれる。
「ねぇ、フロネー? 笑ってみて?」
あどけなくローシーは言った。人から笑顔を強いられる理由がわからない、なんて固いことを考えていた幼い私は、疑問で頭がパンクしていたと思う。
「なぜでしょうか……」
「だって笑わないんだもん、フロネー。こうするの!」
小さな手が凝り固まった頬肉を引っ張って、ぎこちない笑顔を作らせる。
「うん、似合ってる」ローシーは微笑んだ。
なんて可愛らしい。私は胸が高鳴って、息をすることさえ忘れていた。これが心を奪われるっていうことなんだろう。彼女以外何も見えない。あふれ出てくる感動を堪えきれなくなって、彼女に触れるために手を上げた。頭の上に手を移動させるだけでも、細い花の茎を折らないように、脅かさないように、丁重に。
そして、私の夢は鮮血に塗り替えられた。
「え?」
手が耳の辺りまで到達すると、何故か私はローシーの頭を両腕で鷲掴みにしていた。
赤い液体が、ローシーの割れた頭頂部から噴き出す。
私の腕は掴まれ、あの華奢な肉体から出力されるはずのない膂力で引きはがそうとする。
「フ、ロ……ネ」
体は全く思うように動かない。それでも私の手は力を込めていた。なぜか粘土よりも柔らかいローシーの頭部に10本の指が沈んで、ローシーはプレスされる。私は目を閉じることも忘れて、変化を細部まで目の当たりにしていた。
「やめろやめろやめろヤメロ———」
2つの目玉が飛び出ても、代わりに赤い眼孔が私の惨劇を見つめる。鼻と口は盛り上がって、唇はフと発音しようとしているのか、ぴくぴく縮小しようと試みていた。脳だったものがあふれ出る。頬に血の滂沱を作りながら、「コー」と、最期の命を吐いた。
ローシーは歪に口を空けたままの、醜いモノになってしまった。
べちゃ。ようやく離れた真っ赤な手は、彼女の死を定めた。
私の手に残ったのは、真っ赤な宝玉だけ。彼女を殺した報酬なのか、それは妖しい艶に濡れていた。
ああ。
この子は、ローシーは間違いなく、私が守るべき親友だったのに———。
上体を起こして、自分が床で眠っていたことを確認した。ここは自分の小屋で、手は血に染まってない。あれは夢だ。
何も入っていない胃が収縮する。吐き出した黄色い水たまりの中に、ぶよぶよした穀物の屑が混ざっていた。
———それにしたって厭な夢。冗談が過ぎる。
「はは、くだらない……」
あの夢は10年くらい前の、私がローシーを見つけたあの日のこと。今思い出すって、なんて奇遇なんだろう。けど私はローシーにひどいことなんてしていない……あの頃は、まだ。
気が付けば私の眼は、深紅の宝玉———『
咳が止まらない。眩暈は強く、床にもう一度体を預けても軽くならない。息が出来ずに、体が熱を帯び始める。
……苦しい。生きるのも同じくらい苦しいのに、立場ってのは非情なんだ。
体は必死に抵抗している。脳みその一部の領域に広がる死への羨望を無かった事にして、その他全ての細胞が生きろと叫んでいる。
死の衝動は、誇りと矜持によって/責任を示されて/論理的に考えて/情に絆されて、迫害された。私は散々、私の存在にこてんぱんにされながら従うしかなかった。
だって皆が寄ってたかって私に期待するんだもん。
数には勝てるわけないよね。
ごめんね、ローシー。
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