第3話

 


 突如、腕を引っ張られる。瞬間広がる、香水とアルコールの混じった匂い。見上げると、髪を金に染めた端正な男が俺の腕を握っていた。


「お兄さん、邪魔になってるよ」


柔和な笑みを痴漢野郎に向けて男は言った。柔和というより、人を馬鹿にしているような食えない笑みだ。何となく、この男はこの男で嫌な感じがした。


「降りるよ」


その言葉に痴漢は小さく舌打ちすると去っていった。腕を引っ張られ、電車を降りる。あれ程遠くに感じていたプラグドアを抜け、ホームに俺は立っていた。


 男は右手に持っていたスマホを鞄に直し、俺の方に向く。


「大丈夫?」


「……あ、はい、ありがとうございました」


軽そうな男。遊び人。そういった単語が似合いそうな男。あまり関わり合いになりたくない人種だが、助けてもらったのは事実だ。


 男は大学生か専門学生だろうと思われた。切れ長の目、筋の通った鼻、薄い唇と、顔立ちは整っており、背も高い。なんとなく、どこかで見たような気がする。


「あ、一応君の名前教えてくれる? 間違ってたら笑い者だから」


「え、冬川雫です。えっと何か?」


やはり知り合いだっただろうかと記憶を探る。といっても、地元から離れたこの地に知り合いなどいないと思うが。


「いや、確認だけ。君のお陰で今日はいい日になりそうだよ」


「は、はぁ。本当にありがとうございました。…なかなか降りれなくて、困ってたんです」


俺が痴漢に遭っていたことに気づかなかったのなら、そういうことにしてしまおうと噓を吐く。男は少しだけ笑みを深めた。


「そっか。じゃあ、僕もう行くね。次のに乗らなきゃいけないから」


 男が電車に乗り込むのを見届けてから、俺は男子トイレに向かった。いまだ感触が残る耳を入念に洗うために。


 気色が悪い。鏡に映った顔は疲労がにじみ出ていて、いつも以上に白く見えた。帰りも電車に乗らなければならないことを考えて、陰鬱な気持ちになる。思い出したくもない感覚がまだ残っている。まるで穢されたような気がして吐き気がした。


 夢中で耳を洗うといつの間にか肩が濡れていた。ハンカチで拭くと、それをポケットにしまう。


「学校、行かなきゃ」




 駅から徒歩十分。坂を上り続ければ、正門が見えてきた。柊高校だ。


 校門前で腕時計を見ると、SHRには十分間に合うくらいには余裕がある。いつもなら如雨露じょうろを片付け終わっている時間だ。案の定、校舎内に入る前に必ず通る花壇は雨が降ったわけでもないのに土が濡れている。


「おはよう、冬川」


丁度、如雨露を持った女子生徒がこちらに気づき声をかける。髪の毛を二つにまとめたこの生徒は同じ部活の甘井あまいだ。下の名前は本人曰く、馬鹿な親がつけた馬鹿な名前、らしい。名字で呼んでほしいとお願いされて、甘井と呼んでいる。俺と同じであまり家族とうまくいってない様子だ。


「おはよう」


花壇には白い花弁を持つスノードロップと、一年草の色とりどりのパンジーが咲いていた。水滴が陽の光を反射させ、輝いている。


「冬川、なんか顔色悪い」


甘井の言葉にそんなに顔に出やすいかと思う。いや、この女は鋭いというか、人のことをよく見ているんだった。


「ちょっといろいろあっただけ。今日の放課後、俺当番だっけ」


放課後は部活に顔を出さなければならない。大抵の仕事は水やりだが、甘井が朝に水をかけているので、俺は雑草取ったり、土や肥料を運んだりという力作業を担当している。


「うん。雑草生えてきたから取らないと。寒いから上着忘れないで」


「ありがとう」


甘井の気遣いにお礼を言うと、甘井はすこし間をおいて口を開く。


「……あと、相談があるんだけど」


 

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