第2話

 


 冬川ふゆかわしずく、16歳。只今、電車の中で痴漢に遭っている真っ最中。


 電車の中は相変わらず混んでいる。この人々の中で俺が今痴漢に遭っているということに気づいている人はいるのだろうか。まあ、気づかれたところで憐みの目で見られるのが精々だ。俺だって可愛い女の子であれば下心ありきで助けるだろうが、男が痴漢に遭っていても知り合いじゃないなら我関せずだろうし。


 『柊高校前』で開くプラグドアは進行方向の左側だが、俺は右側のプラグドアに追いやられている。いつもなら降りる駅に着く前に右側に移動しているのだが、完全に機を逃した。


 何となく、この痴漢の男が可哀想になってきた気がする。今の社会的立場を失う危険性を冒して痴漢しているのに、触っているのは男の尻だなんて。俺が振り返れば愕然とした顔をするのだろう。


「……ッ」


痴漢の手つきはどんどん過激になりつつある。先ほどまでは露骨に触っていたが、触るに飽き足らず尻の肉を揉んできた。生理的嫌悪でゾワァと鳥肌が立つ。後ろから興奮したような鼻息が聞こえた。


 なぜこの男はこんな危険を冒してまで痴漢をしているのだろうか。公共の場でプレイするのがお好きな特殊性癖なのだろうか。俺の尻の何が良くてそんなに揉んでるのだろうか。男の尻なんて硬いだろうに。何が悲しくて朝っぱらから男に尻を揉まれなければならないのだろうか。


「……っ、ぅ」


 気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。


 ゆっくりと柔らかさを堪能するように動く手。背後から聞こえる興奮したような息遣い。密着することで感じる、じっとりとした体温。この男の匂い。すべてが気持ち悪く、体が強張り、血の気が引く。


「……ねぇ、君こういうのが好きなの? 僕に触られて興奮してきた?」


耳元で囁く声に、俺は恐怖を感じた。よくこの状況で話しかけに来れるな。俺はお前みたいな特殊性癖は持ち合わせていない。耳にかかる生温く湿り気を含んだ息が、俺にまとわりついて気持ち悪い。


「………」


「学校はサボってさ、僕とイイことしない?」


鼓膜がぴちゃ……という水音を拾う。生温かい、ぬめっとした柔らかい何かが耳を撫でる。ナメクジが手を這うような感触と臭気が俺を襲う。耳が少し寒く、水に濡れた後のような――


―――舐められた。


耳を舐められたのだ。耳輪をなぞるように。ビクッと体が震え、動かなくなる。気持ち悪い、思わず吐きそうになった。この男が理解できない、自分の常識の範疇にない、まるで違う生き物のように思える。


 ガラス越しに男と目が合う。男は俺に気づくと、ニタァという笑みを浮かべる。俺は小さく悲鳴を上げて、すぐに視線をそらした。


「ね、いくら欲しい?」


耳元で囁く声は熱がこもっていて、思わず肩を竦ませる。その反応を男は鼻で笑い、尻を揉む手を止めない。


気持ち悪い。なんで俺がこんな目に遭わなければならないのか。この男は何なのか。何を勘違いしているのか知らないが、俺は興奮なんてしていない。お金なんていらない。離れてくれ。


 電車が止まった。


 『柊高校前』、俺が降りるべきところ。待ち望んでいた終わりが遂にやってきたのだ。


「降りなくていいの?」


男の声は喜色に満ちていた。嬉しそうな声。俺が動けないことをどう勘違いしたのか、弾んだ声だった。


 人が出ていく。俺は動けない。ただ、ガラス越しの自分が顔を歪めているのを見るだけしかできない。ガラス越しに、人がホームに降りるのを見ることしかできない。


早く降りないと、ここから降りないと。


そう思うのに、分かっているのに、足が動かない。


 


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る