第38話 尾藤志信の思い 下

「ヒイロ殿……」


 思い出に浸りながら、男ーー魔王は月明かりに照らされた手のひらを見つめていた。

 その時、足音を感じる。ヒイロが目を覚ましたのだ。


「おっと、変装しなければ」


 急いで髪を纏めて頭巾を被り、仮面をつける。

 その数秒後、廊下を歩いていたヒイロが、窓の外ーー屋根の上にいる魔王シノビドスをみて微笑んだ。


「シノビドス、起きてたんだ」

「ござる。ヒイロ殿は?」

「んー。悪い夢みちゃって、ちょっと目が覚めちゃったんだ」


 屋根から降りて隣に立つと、ヒイロはシノビドスまおうをみあげてふにゃりと笑う。

 寝巻きの上から肩にショールをかけて、髪を下ろした姿は無防備で愛らしいと思う。光輪に髪が絡まって静電気のように数本浮いているのも彼女らしい。

 あまりジロジロ見るものではないと気づき、シノビドスまおうは月に目を向ける。


「月が綺麗だったゆえ」

「本当、綺麗だねえ」


 ヒイロはシノビドスまおうの隣で、眩い満月にウサギのような紅瞳を細めた。


「月を見ていると、ヒイロ殿の光輪わっかを思い出すでござるよ」

「ふふ。確かにこれ、暗いところでは灯りになるしね」


 隣に立つ少女の、肩の細さや頬の白さに胸が甘く苦しくなる。

 柔らかな髪に触れたいと思う。昼間口付けた手の甲に、もう一度唇を寄せて、愛をささやきたいと思う。


 ーーけれど。

 男はシノビドスであり、魔王だ。


「綺麗……だな」


 何が綺麗なのか、主語を誤魔化した言葉一つ絞り出すのが精一杯だ。

 ぎゅっと、拳を作って衝動に耐える。隣でヒイロが思い出したように話しかけてきた。


「そうだ。ねえシノビドス。ホットミルク飲もうと思ったんだけど、よかったら一緒にどう?」


 緋色の名前によく似合う、赤い瞳で見上げてくる彼女。

 苦労を重ね、人に傷つけられてきた娘なのに、よくわからない胡散臭い男にも、こんなにも優しく微笑んでくれる。

 ーーヒイロはだれより、綺麗だと思う。


「良いでござるか? ならばお言葉に甘えさせてもらいたいでござるよ」

「ふふ。ちょっとパンを浸して、疲れを取る異能かけてあげるね」

「おっ、それはかたじけない」

「そうと決まれば、お夜食お夜食〜♪」


 彼女の無防備な優しさは、彼女のかけがえのない長所でもあり、危うさでもある。

 男は、この素朴な少女を守りたいと強く願った。

 添い遂げることができない身だとしても。


「ヒイロ殿」

「ん」


 台所に向かう彼女を呼び止める。

 ほぼ無意識と言っていいくらい、勝手に言葉が溢れだした。


の名前は、志信シノブだ」

「えっ」

「シノブ・ビトウ。井河藩尾藤家イカワハンビトウケ二十一代当主ニジュウイチダイトウシュ志信シノブ。それが私の、の本当の名と身分だ」

「じゅ、呪文……?」


 目をぐるぐるにするヒイロに、シノビドスまおうはクスリと笑う。


「なんでもないでござるよ、ヒイロ殿」


 様々な名を持つ男は首を横に振り、困惑する愛しい娘に笑顔を返した。


 ーー本当の正体は、明かせないからせめて。名前を聞いて欲しかった。

 覚えてくれなくても構わない。

 たとえ、男の身勝手な自己満足であったとしても。

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