第37話 尾藤志信の思い 中
ーーカスダルが魔王に傷をつけたあの日。
ぶすり。
嫌な音とともに、腿に痛みが走った。
剣はヒイロの腹を突き抜け、魔法で伸ばされた鋒が魔王の腿を貫いていた。
串刺したヒイロ越しにーーカスダルが口の端を吊り上げて嗤うのが見えた。
「嘘、カスダル様……」
大きな目を溢れそうなほど見開いた
真っ白な聖女装束に、満開の花のように鮮血が広がる。
「は、ハハハハハーーついに、ついにやったぞ!!!! 魔王に血を流させた!!! 俺はやったぞ!!!!」
カスダルの高笑いが玉座の間に響き渡る。
唖然としていた魔女が、悲鳴をあげるのが聞こえた。
「あ……魔王、様……」
ヒイロの瞳に、瞠目した魔王自身が映っていた。
少女らしく淡く色づいた唇から血が伝う。
「
魔王はそれだけで、彼女が歩んできた人生がどのようなものだったかを察してしまった。彼女は犠牲になり続けてきた娘なのだ。
「……っ!!」
たまらず魔王はカスダルを吹き飛ばし、聖女をかき抱くように腕に捉える。
腕の中でぐったりとする彼女の腹を撫で、穿たれた傷を掌で癒す。
「あ……」
「もう大丈夫だ。……傷跡ひとつ、残させない」
腕の中、痛みで脂汗を流す彼女が小さく笑む。
ふわりと、彼女からよく焼けた甘い焼き菓子の匂いが漂う。
優しい匂いと柔らかな笑顔に、魔王の胸は張り裂けそうになった。
それはカスダルに傷つけられた腿よりもずっと深い場所をえぐられる激痛だった。
「時間切れだ。去れ、痴れ者」
魔王は魔力でカスダルパーティの三人を転送する。
人間が魔王城に長居し続けると、魔王の契約した大地の魔力に精神を壊してしまう。
ヒイロだけを留めておきたかったが、それは魔王が魔王である限り不可能なことだった。
「ありがとう、魔王様」
ヒイロが小さくつぶやいて消えていく。
ーー気がつけば魔王は、ヒイロが消えた姿勢のまま、膝をつき滂沱の涙を流し続ていた。
「うっわ、はじめて見た。魔王サマが泣くとこ」
玉座の間の天井を飛んでいた、黒竜がふわりと舞い降りた。
魔王はすでに、大地と契約して数百年にわたる長い年月を黒竜と共に生きていた。
「美味そうな聖女異能の
「ああ……」
黒竜と軽口を叩いても、魔王の涙は止まらなかった。
『そんなに気に入ったなら攫っちまえば?』
獣らしい提案に、魔王はべとべとの顔を袖で拭い、首を振って否定する。
「ならぬ。私は王家のために、
「んじゃあの暴力男にされるがままにさせとくのかよ」
「……私は……ここを離れられない」
「ふーん。ま、それで納得できるんならそれでいーだろうけど」
「だが守ることは、できる。……
男の言葉と眼差しの強さに、黒竜は呆れるような驚くような瞠目をみせた。
「うわ、本気じゃねえか。魔王サマ」
決意してからの魔王の行動は迅速だった。
魔王は容貌を黒装束と仮面で覆い、王都へ帰還する直前のカスダルの馬車へと転がり込んだ。
目を丸くするカスダルに、魔女の娘に、聖女。
元気そうにしている聖女に安堵しながら、名を聞かれた魔王は本名を名乗り、こう告げた。
「拙者シノブ・ビトウ。イカワハンの生まれ。カスダル殿の武勇に感銘したゆえ、何卒拙者もパーティに加えていただきたく候」
失敗したのは口調だった。
数百年ぶりに本名を名乗ったせいで、言葉まで古語になってしまった。
「シノビドス・イガハン? なんじゃそりゃ」
しかも名前を聞き間違えられた。
まあ本名ではない方が今後助かることもあるだろうと思い直し、魔王はシノビドスとして話を進めた。
「拙者忍者ゆえ、魔王城の解錠や索敵で役立てるでござる。何卒拙者をパーティに加えてくだされ」
「ちっ、
突然の申し出に露骨に顰め面になるカスダルに反して、魔女ララは好意的だった。
「カスダル、せっかくこう言ってくれているんだから仲間増やしましょうよ。男がパーティに入るの嫌だからって、いい加減に規定以下の人数で討伐続けるのには無理があるわよ」
「チッ、めんどくせえな」
ララのとりなしもあり、カスダルはシノビドスの加入を認めた。
「ふふ、仲間が増えるの嬉しいなあ。私の名前はヒイロだよ。ヒイロ・シーマシー」
聖女ヒイロははこの時、突然現れた珍妙不可思議な黒装束仮面男に対しても、花のような笑顔を向けて手を差し出した。
「よろしくお願いします、シノビドスさん」
「……拙者などに敬語は必要ないでござるよ、ヒイロ殿」
握手をしながら、ヒイロの手の小ささに改めて
この子を必ず守りたいと、心に誓った。
緊張したあまりの謎口調のまま、面倒なので魔王はそのままシノビドスとして過ごしている。
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