真実を明かすとき

第36話 尾藤志信の思い 上

 ふと、月が眩しいと思った。


「月、か……」


 遥か昔に離れたままの遠い故郷の夜空と変わりなく、今宵も美しい満月が煌々と空に輝いている。

 男は聖女に与えられていた寝室で夜空を見上げていた。

 男は大地と繋がって以来、睡眠を必要としない体となっていた。


 そのため、いつも男は夜に聖女の元を抜け出し、魔王城と人に呼ばれる居城の管理を行なっていた。

 ーーしかし今夜は居城に戻る気になれなかった。絶対、心の乱れが顔に出てしまう。


「……私は本当に、なんということを……してしまったのか……」


 男は昼間に自分がやった行いについて、独り思い出し羞恥に顔を覆っていた。


「あああああ」


 誓いの口づけなど。

 衝動的にやってしまうなんて自分が自分で信じられない。


「この国の騎士ならともかく、私のような男が、斯様な心疚しいことを……あああ」


 彼女は唇で触れられて嫌ではなかったか。

 彼女は、どう思ってくれているのか。

 ーーあの愛おしい聖女にとって、己の好意は、迷惑ではないだろうか。


「い、否。優先すべきは彼女を守る事。私がどう思われようともそれは些事」


 男は顔を覆いながらも、後悔はないと己に言い聞かせる。

 自分の羞恥や逡巡よりも、彼女を守ることを優先した行動だった。

 魔王の姿で衆目の前に現れ、聖女ヒイロに誓いのキスを与えることは、彼女の後ろ盾だと示すにはこれ以上ない有効な方法だった。

 冒険者も貴族も、おいそれと彼女に手を出せないだろう。


「……そうだ。後悔はない」


 仮に強引なやり口に嫌悪感を抱かれたとしても、己の誓いが彼女を守ることになるのなら、自分がどう思われようが構わない。


 けれど。

 ヒイロは一方的に誓いを立てた自分を受け入れてくれた。

 真っ赤になって驚いていた様子だったが、頬を撫でても、傅いて手の甲に口付けても、彼女は少なくとも、カスダルを見るときのような嫌悪と恐怖を滲ませなかった。

 もし本当に嫌だったら、信頼してくれている「シノビドス」に対して、強引な魔王に対する愚痴の一つくらいこぼしていただろう。


「脈ありだと、思っていいのだろう……か」


 口に出して、その本心の浅ましさに転がりそうになる。


「あああああ」


 受け入れてくれたのは率直に嬉しい。

 できればこのまま、魔王と聖女として仲良くしていきたいと思う。


 ーーだが。

 男には後ろめたいことが二つある。


 一つ。シノビドスと魔王の顔の使い分けをしていること。

 二つ。『魔王』として大地と契約を結んでいるが故に、ただの男として彼女を幸せにできない、己の立場。


 男の金の瞳が翳る。闇を溶かしたような髪が、月に照らされた男の顔に暗い影を作った。


「拙者がただの男ならば、ヒイロ殿に素直に愛していると云えたのに」


 ぽつり、独り言をこぼす。


「けれど……私がただの男ではないから、……こうして、君に巡り会うことができた」


 魔王と呼ばれる不老不死の身となった、運命を呪えば良いのか感謝すればいいのか。

 今夜の男にはまだ結論が下せなかった。


「ヒイロ……殿……」


 つぶやいた、その時。


 ーーっ、ご……い……許し……


「ッ!!」


 男は弾かれるように顔をあげ、聖女の眠る部屋の方を見た。


 ーーごめんなさい…………痛く、しないで……


 野鳥と虫の鳴き声で意外と煩い寝室に、それ以外の音が聞こえてくる。啜り泣くような、苦しむような女の声。

 男は眉根に深い皺を寄せ、足音も衣擦れの音も立てずに木製のドアを開く。

 板張りの廊下を抜けた向こう、聖女の部屋から啜り泣きの声が聞こえた。


「う……許し、て………ごめんなさい……ごめんなさい…っ…」


 男は音を消して聖女の寝室のドアの前に立ち、深く溜息をつく。


「今夜も、魘されているのでござるな……」


 そのまま唇の動きだけで術を紡ぐ。

 悪夢に魘されているらしい聖女の泣き声は止み、次第に静かに深い寝息へと変わっていった。


「どうか穏やかな眠りを……ヒイロ殿」


 男は安堵の息を吐き、部屋の前からきっぱりと踵を返すと、廊下の窓からひらりと屋根まで登った。


 赤煉瓦の屋根は眩い月光で輝いている。

 男は月に目を細め、長い黒髪をするりと、頭に巻いた頭巾から零した。


「ヒイロ殿は……いつになれば、悪夢にうなされずに済むだろうな」


 聖女ヒイロは最近は随分とよく笑い、よく寝付き、元気に過ごしている様子だった。

 しかし先日カスダルが聖女食堂にまで乗り込んできたので、かつて心と体に負った傷が再びじくじくと彼女を苛んでいるようだ。


 シノビドスの前でも魔王の前でも、ヒイロはいつだって明るく気丈に振る舞う。

 だが男は気づいている。ヒイロは幸せに慣れていない。

 明るい笑顔で笑うくせに、幸せはいつだって手のひらからこぼれ落ちて、長く続かないものだと思い込んでいる。


 だから辛い目に遭ってもすぐに笑える。

 ひどいことをされても、当然のことだと諦めてしまう。

 男は月を見上げながら、彼女との出会いに想いを馳せた。


 ーー玉座の間にて、カスダルに貫かれて傷を負った彼女の表情は、男の瞼の裏にまだ焼き付いている。

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