第35話 ヒイロは魔王のお気に入り

 もう既に消えてしまった傷が、ずきんと痛むがした。


「大丈夫です。ごめんなさい、心配かけちゃって」


 かつてカスダルに刺されたお腹は、魔王様に既に癒してもらって疵痕一つ残っていない。

 大丈夫と示すようにお腹に手を触れ、私は笑顔を作る。


「心配くらいさせてほしい」


 私の笑顔を見ても、魔王様は悲しげな表情を変えない。頬を撫でる、魔王様の瞳は今日も優しい。

 まるでみたいだと、きっと私も魔王様も思ってる。


 ーーカスダルが魔王様に傷をつけた日のことだ。

 カスダル・ララさん・そして私のパーティが魔王城玉座の間まで到達したとき。

 何度挑戦しても魔王様に傷一つ負わせられない実力差を前に、カスダルはある方法を思いついた。

 カスダルの傷を癒そうとした私の首根っこを掴んで、カスダルは私を魔王様の盾にした。

 怯んだ魔王様の不意を突き、私を差し貫くことで魔王様に傷を負わせたのだ。


『なんと……』


 背後から剣で貫かれた私を見た時、魔王様は信じられないものを見たという風に、綺麗な金瞳を見開いた。


『……己を案じる聖女を盾にするのか、この国の貴族は』


 私の後ろで、カスダルが鼻で笑う。


『どうせ聖女だから治せんだ。俺の婚約者おんなをどう使うかは勝手だろ』


 カスダルがそう言った瞬間、魔王様はカスダルを風で吹き飛ばした。

 そして傷つけられた己を構わず、血を流す私を抱きとめ傷を癒してくれた。


『魔王……様……?』

『すまない、このような児戯が、この国に長く続きすぎてしまったばかりに』


 魔王様は私の服に空いた穴まで塞いで癒し、カスダルに魔紋を与えて城から転移で追い出した。


 ーーああ、思い出すだけでお腹が痛くなる。

 あの時私を案じてくれたのと同じ眼差しで、私を見てくれている。懐かしいなあ。


 なんて回想に耽っていた私の前で、魔王様は意を決したように一人小さく頷いた。


「……良い機会だ。皆に、魔王としての意志を示そう」

「え? あの、意志とは一体……」


 何を言いたいのかわからない私が首を傾げていると、魔王様は突然マントを翻し、私の前に跪いた。


「え」


 そして。まるで騎士が貴婦人にするように、私の手を恭しく取った。


「えっ……」


 えええええええええええええええええええええええええ。

 叫びは、声にすら出せなかった。

 冒険者の皆さん、スタッフの皆さんといった周囲のギャラリーは唖然としてこちらを見ていた。

 彼らの注目を浴びた中、魔王様は真っ直ぐ私を見上げた。


「ヒイロ殿。いつ何時でも、私は君を見守っている。……姿……君に危害が加えられるとするならば、あまねく全てを敵に回しても私は君を守ると誓う」

「ま、ままま魔王様……」


 魔王様の満月みたいな綺麗な瞳に、真っ赤になった私の顔がはっきり映っている。

 身長差があるからこんなに近くで顔を見たことがなくて、私は胸がどきどきと高鳴るのを感じた。


「ああ、あの、私はそんな誓いをしてもらえるには勿体無いですよ」

「私が勝手に誓うだけだ。君は好きに生きてくれれば、それでいい」


 魔王様は微笑み、私の手の甲にちゅっと口づけを落とす。


「魔、魔王様ァ!?」


 ギャラリーが「おおお……」と静かに湧く。

 私の声は裏返る。

 魔王様は私の手の甲に頬を擦り寄せ、薄くはにかむように微笑んでみせた。


「……誓いをこうして与えるのは初めてだ。どうか受け取って欲しい」

「な、ななな、なんで、私なんかに……」

「『私なんか』など、淋しいことは言わないでくれ」


 魔王様は少し切ない顔をして、名残惜しそうに私から離れた。

 私は混乱で頭がぐちゃぐちゃだった。

 カスダル襲来、魔王様登場、ヴィヴィアンヌさんの件。

 情報量が、情報量が多い。


「ヒイロ殿。君に大地の加護が在らんことを」


 魔王様がマントと長い黒髪を翻す。

 その瞬間、きらきらと輝く煙のようなものが辺りを覆いーーそのまま煙と共に消えるように、彼の姿は見えなくなった。

 私の手の甲に、唇の温かな感触を残して。


「……行った、のか?」


 固唾を呑んで見守っていた 冒険者さんたちがぽつりぽつりと呟く。


「終わったんだ。聖女ちゃんは勝ったんだ!!」

「聖女ちゃん!!! すげえ……!!!」


 そしてーー土地を揺るがすような歓声が、一斉に湧き上がった。


「うおー!!!!! 聖女ちゃん!!! やりやがった!!!!!」

「魔王様に愛されし聖女って、スッゲーーーー!!!!!!」

「魔王様、魔王様ってまじの魔王様なんだろ!? すげえよ!!!!」

「うおーーーー実質聖女ちゃんが魔王様じゃねーか!」

「何が実質だばか!! 実質の意味を辞書引いてこい!!!!」


 歓声が湧き上がる中、シノビドスがぬるりと調理場の奥からやってきた。


「あっシノビドス」

「出遅れて申し訳ないでござるよ〜」

「ううん。私にとって大切な調理場を守ってくれて嬉しいよ。ありがとう」


 私が見上げてお礼を言うと、シノビドスは仮面の頬をかいて照れるような仕草を見せる。そしてササっと落ちたパンへと近寄った。


「あーあー、全くもう。パンが勿体ないでござるなあ。カスダル殿はひどいことを……」

「あれ? 見てたの?」


 調理場は食堂の一番奥だ。店の外であるここは見えなかったと思うのだけど。


「えっとー……忍びの者ゆえ、千里眼でなんでも見通せるでござるよ」

「そっか!! 頼もしいね!!」

「ござるござる」


 シノビドスはぱんぱんとパンについた土を払う。


「もう食べられないでござるねぇ」


 すると一人の冒険者さんが名乗りをあげた。


「あっそれなら僕が貰っていいですか? 木炭デッサンの消しゴムに使いたいなって」

「おお、良い引取先が。ヒイロ殿、お渡しして良いでござるか?」

「もちろん!」


 和やかな会話を交わしていると、気持ちが落ち着いてくるのを感じる。

 冒険者の皆さんはトラブルに慣れていて、ハプニングを楽しむ気風の人ばかり。

 カスダル乱入に魔王様の登場だって、彼らにとっては面白い珍事件でしかない。


「じゃーね、聖女ちゃん!」

「ご馳走さん! 今度魔王様にサイン貰っとけよ!」


 場の空気はすっかり日常を取り戻し、彼らはそれぞれ再び、張り切って仕事に戻っていった。


「片付けよっか、シノビドス」

「承知」


 私はふと、先をゆくシノビドスの背中を見ながら思い出した。


 カスダルが魔王様に傷をつけた、あの一件。

 あれは本当に悲しくて、人生で2本の指に入る最低なことだったけれど、その後に私は出会ったんだーーシノビドスに。


「ねえ、覚えてる? シノビドスがカスダルパーティに参入してくれた時のこと」

「無論。しかと覚えているでござるよ」


 尋ねれば、シノビドスはいつもの柔らかい声で答えてくれる。

 仮面があるので彼がどんな顔をしているのかはわからない。

 けれど。


「……あれ?」


 私はふと、シノビドスの姿に、魔王様の優しい眼差しが重なった気がした。


「ん、どうしたでござるか? 何かあったらすぐに言うでござるよ」

「ううん、なんでもないよ。心配してくれてありがとうね」


 あ〜失礼だな、私。

 シノビドスと魔王様は違う人なのに、私に優しいからって印象重ねちゃうなんて。

 慌てて首を横に振る私に不思議そうな仕草をしていたシノビドスだったが、特に追及することはせず、そのまま腕をまくって流しへと向かった。


「じゃあ拙者、ちゃちゃっと皿を洗うでござる」

「助かるよ。よろしくね〜」


 彼が私の横を通り抜けた時、シノビドスからふわっと獣オーク骨スープの匂いが漂う。

 魔法調理場で手伝ってくれていたから匂いが染み付いているみたいだ。

 匂いを感じた瞬間、私はさっきの感覚の理由がすとんと腑に落ちた。


「そっか。魔王様も獣オーク骨スープの匂いがしたから、似てる気がしたんだ」


 一人納得した私は、早速腕まくりして片付けに取り掛かった。

 




 ーー聖女異能の結界は、獣オーク骨スープの匂いを食堂の敷地内に閉じ込めていた。

 だからことに、気づかないまま。

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