第12話「優しい家族」



「それでね、明日一緒に映画を見に行くことになったんだ」

「え~、すごい! 映画デートね! お母さんドキドキしちゃう♪」

「デートじゃない!!!」

「ひっ……ご、ごめん……」


 しまった。また衝動的に怒鳴ってしまった。志乃さんとの関係をからかわれると、自分の生死がかかっているからと、すぐに強く否定してしまう。母さんはすぐ泣いちゃうから、伝え方には細心の注意を払わないといけない。


「でも、ゆうちゃんが志乃ちゃんと毎日楽しんでるみたいで、すごく嬉しいな」

「もう……だからその呼び方は……」


 土曜日の朝、僕は母さんから志乃さんとの最近の様子について尋ねられた。僕が照也君や星羅さんと一緒にお昼ご飯を食べたり、休日に遊びに行ったりしたことも、日頃から楽しく聞いてくれる。

 最近では僕の話に志乃さんが登場するようになり、変な期待を抱いている。僕と志乃さんはそういう関係じゃないし、そもそも一線を越えたら死んでしまうのだ。


「母さん、今日は仕事ないの?」

「うん、今日は学校お休みだから」


 母さんは僕の学校とは別の、隣町の高校で社会科の教師として働いている。おしとやかでとても優しく、美人だから多くの生徒に慕われているらしい。近所でも噂になるほどだからなぁ。父さんが惚れるのも納得できる。


 まぁ、家では僕にベタベタくっついてくるし、父さんともすぐにイチャイチャするから呆れるところもあるけど。


「さてと、今日はお掃除しなきゃ。今日はお父さん帰って来れるみたいだし、お買い物も行かないと」


 母さんはカップの紅茶を飲み干し、キッチンに向かう。スポンジを握って泡立たせ、皿洗いを始める。台には明日のお弁当のおかずに使うであろう豚肉が解凍されて置かれている。

 母さんが作ったお弁当は、不本意ではあるけど会話の話題になった。志乃さんの家のことも少し知れたし、味も絶品だから彼女と共に過ごす時間に程よい彩りを与えてくれる。


 大人のくせに子供っぽい親だけど、これでも僕のことを大切に思ってくれているんだろう。そのことだけは感謝しなければならない。


「母さん、手伝うよ」

「あら」


 僕は母さんの横に並び、もう一つのスポンジを取って皿を磨く。いつの間にか自分より小さくなっていたお母さんの背丈に気が付いた。横から手を伸ばして皿を掴んだ時も、母さんの手が自分の手より小さいことに軽く衝撃を覚えた。


 お母さん……こんなに小さかったっけ。女性だからということもあるけど、それにしても普段から接している時には気付かない弱々しさを節々に感じる。


「ありがとう、優樹」

「う、うん……」


 僕は照れ臭くなってうつむく。母さんが久しぶりに僕のことを「優樹」と呼んでくれた。日頃からそう呼んでくれと自分から頼んでいるくせに、いざ実際に呼ばれると恥ずかしくて体中がむず痒くなる。僕より身長低いのに、頼もしいほどの母性を感じる。


 こんな小さい成りで、いつも家事を頑張ってくれていたんだ……。




“いいわ、優樹君のお母さんに悪いし。それに、親任せはダメよ”




 先日の志乃さんの言葉が頭に過る。母さんに志乃さんの弁当も作ってもらおうと言った時に返されたものだ。

 考えてみれば、僕は自分でお弁当を作ったことがあっただろうか。学校で不定期に訪れる「ふれあい弁当の日」なる日には、弁当作りを手伝ったりする。でも、そんなきっかけがない日は当然のように母さん任せだ。


「母さん、月曜日の弁当は僕だけで作るよ」

「あらあら、どうしたの急に……」

「いや、別に……ただ、作ってもらってばかりじゃいられないっていうか……」


 母さんが目を丸くして僕を見つめてくる。母さんにもそうだけど、こうして親と向き合う機会をくれた志乃さんには、感謝をしなければならないな。


「ふふっ、優しいのね」

「そ、そんなんじゃないよ……///」


 瞬時に頬が赤くなったのを感じて、僕は顔を反らす。志乃さんの台詞が移っちゃったかな。

 優樹。優しい人間になってほしいからという願いを込めて、父さんと母さんが付けた名前。僕は二人の望み通り、優しくなれているかな。志乃さんが少しでも前に進めるように、支えになれているかな。






 その後、僕は一日母さんの家事を手伝った。一緒に洗濯機を回し、洗濯物を庭に干した。家中の床を磨き、風呂やトイレを掃除した。近所のスーパーに買い物に行って、荷物を持った。

 文章にしたらたったこれだけのことだけど、あっという間に時間が過ぎ、夕食を作り始める頃にはもうヘトヘトだ。家事を一通りこなすだけで、貴重な休日が一瞬にして溶けていった。母さんはこれだけのこ苦労を毎日重ねているんだ。お金が貰えるわけでもないのに。


 お金……?


「あっ!!!」

「どうしたの?」


 ふと、大根を切る手が止まる。お金のことが頭に上ると、大事なことを思い出した。明日は志乃さんと映画に行くのだ。しかし、僕の財布にはそれだけの余裕が残されていない。先日ゲームセンターに行った時に、所持金をほとんど溶かしてしまった。


「お金……ない……映画……行けない……」

「あらあら」


 自分が記憶している限りでは、最後に財布を開けた時に、十円玉と百円玉が各数枚残っていただけだ。今や映画の鑑賞料金は千円を優に越える。高くなったもんだなぁ。現代の青少年が青春を謳歌する際、金銭問題は否が応でもまとわりついてくる厄介なものだ。




「じゃあ、映画代出すね」

「え? でも……」

「いいのよ。今日一日お手伝い頑張ってくれたお礼。楽しんでおいで」


 母さんの混じり気のない純粋な笑顔が、僕の心を貫いた。この時だけは、母さんがまるで全能の力を持った女神様のように見えた。日頃から家族のために必死に働いて、自分も余裕がないはずなのに……。


 僕は母さんに感謝した。普段からクラスメイトから優しい人間だと称賛される僕だけど、その優しさは間違いなく母さんから受け継いだものだと、僕は母さんの笑顔を見て確信した。血の繋がりが誇らしく思えた。


 これは、僕がこの世で唯一生死を気にすることなく、手に入れることができる無償の愛情だ。


「ありがとう、母さん」

「うん。その代わり……」






 ポチャン……


「ふふ、気持ちいいね~」

「いやいやいや、おかしいって!!!」


 僕は浴槽で大声で母さんにつっこむ。今、僕は母さんと同じ湯船に浸かっている。母さんはお小遣いを出す条件として、一緒にお風呂に入りたいと言い出した。

 高校生にもなって母親と一緒に風呂に入るだなんて、恥ずかしいことこの上ない。クラスメイトにバレたら、これまで以上にマザコンだと馬鹿にされる。だけど、これも映画代を貰うためだ。僕は羞恥心を圧し殺して我慢した。


「だって、もう何年も一緒に入ってないじゃない」

「歳を考えてよ!!! 僕もう高校2年だよ!? 子供じゃないんだから!!!」

「ゆうちゃんはいつまでもお母さんの可愛い子よ?」

「だからそうじゃなくて!!!」


 母さんが背後から手を回し、密着してくる。一応タオルを巻いているけど、柔らかい肌の感触が直接伝わってくる。母さんの胸は凄く大きい。その大きさも直で感じられるため、胸の鼓動が段々加速していく。


 いや、なんで自分の母親にドキドキしてるんだよ……僕は……。






 ガラッ


「母さん、私のヘアゴムどこか知らな……って……」


 やばっ、姉さんだ……。


「優樹、何やってんの……」

「ち、違っ、これは……その……」


 姉さんが唐突に浴室にやって来た。ヘアゴムの在処を聞きに来たからって、扉を開ける必要なんかないじゃないか。扉越しに聞けばいいのに……。

 母さんに抱き付かれ、満更でもなさそうな僕を、姉さんは汚物を見るような蔑んだ表情で見つめる。確実に母さんと一緒に入りたいと、僕がお願いしたと思い込んでいる。


「優樹……お前……」

「とっ、父さん!?」


 まさかの父さんも浴室にやって来た。仲睦まじく一緒に入浴を楽しむ僕と母さんを見つめ、不機嫌そうな表情を浮かべる。

 まさか……嫉妬!? 息子に妻を独占されたと勘違いしていることによる嫉妬だろうか。父さんは常に冷静でクールだけど、母さんが絡むと途端にポンコツになる。誤解を解かなくては。


「だから、違うの! これは……えっと……」

「優樹、後で父さんの部屋に来い」

「違うってばぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」

「あらあら……」


 上手く言葉が繋げられない僕を置いて、父さんは不機嫌なまま浴室を出ていく。母さんは相変わらずのほほんとした笑顔を浮かべるだけだ。笑ってないで弁明してよ! 母さんのせいで余計な羞恥心に襲われた。


「もう……母さん……///」

「ふふ♪」


 でもまぁ、普段から繰り広げる僕らの日時風景が、今思うと何だか微笑ましい。いいことも悪いこともあるけど、この浅野家に生まれてきたことが、少しだけ幸せに感じられた一日だった。


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