7.夏のイデア


「――おいさくら、起きろ」


 その声で、さくらは目を覚ます。


「ふぇ?」


 ここはどこだ。自分は今何をしてる? 


 空はまだ暗いが、少しずつ白み始めている。

 未明と早朝の間。夜明けの直前といった所だろう。


 頭にはぼんやりとモヤがかかったようで、異様に眠たい。あと、体が痛い。筋肉痛が酷い、節々の辺りが特に。


「も、もうちょっと、寝かせてくらさい……」


「アホか寝ぼけんな。着いたんだからさっさと起きろ、アホ」


 昨日散々聞いた声でアホと二度と罵られ、さくらは、そう言えば自分はアズマと行動を共にしていたのだと思い出す。

 寝ぼけ眼で見る視界にアズマの指が伸びてきて、ビシリと額を弾かれる。


「――ったぁぁぁあ……っ」


 額を押さえて、完全に覚醒するさくら。


 さくらは自分が置かれている状況を確認する。

 どこかの大きな湖のほとりで、さくらは樹木の幹に背を預けるようにして眠っていたようだった。


 そんなさくらの隣に、アズマがあぐらをかいて座っている。


「あ、あの、アズマさん、すみません。私、運んでもらってたのに、勝手に一人で寝ちゃってて……」


「寝ててよかったよ、どうせ起きててもうるせえだけだし。むしろ静かでよかった」


「むぅ……またそういうこと……」


 さくらは小さくむくれてアズマを見上げてから、気を取り直したように真正面に広がっている湖に視線を向けた。


 一見、何の変哲もない湖に見える。

 まだ薄暗く、《夢源元素ソムニウム》による発光も少ないせいで、あまり遠くまでは見渡せないが。


「ここが……、アズマさんが目指してたところですか?」


「そうだ。〝夏のイデア〟って呼ばれてる」


「夏の……イデア」


「夏のイデアは、かなり限定的なタイミングでしか見られない。まずここの湖は、集中的な雨が降り続けた時に水が溜まってできるもんなんだ。天然のダムって訳だな」


 確かに、昨夜まで梅雨の最後の悪あがきとばかりに豪雨が連日続いていた。


「いわゆる夏の始まりの時期に、そんな風にして湖ができて、それが残っている間の快晴の日の、夜と朝の境目に、夏のイデアは現れる」


「結構……シビアですね」


 だから、一人にしないでくれとさくらがアズマに助けを求めた時、アズマは自分の予定を変えるつもりはないから、勝手について来いと言ったのだ。

 あの場でもし、アズマがさくらを街か休憩地点レストポイントにまで送り届けていたら、夜明けに間に合うかどうか、怪しくなるから。


「そうだな、シビアだ。だから、運が良かった」


 そう言って、アズマが立ち上がってポーチから一眼レフカメラを取り出した時、空が一気に白み始めた。夜明けの気配が忍び寄る。


 その瞬間、さくらの目の前に広がる湖が、瞬く間に色付いた。


 まるで、湖に投擲した小石から広がる波紋のように、〝夏の景色〟が幾つも折り重なって広がり、溶けていく。


 ――――青く濃い空。青空。雲一つなく、吸い込まれそうなほど清々しい快晴。


堂々と駆け上がっていく真っ白な入道雲。

その雲は、思わず抱きしめたくなる程、もくもくと、やわらかく、圧倒的に天を押しのける。

青と白のコントラストが眩しい。

目の覚めるようようなパノラマ。

天気晴朗を切り裂くように、気高く勇壮に聳え立つは連なる山々。

稜線が美しく滑らかな線を伸ばし、時に険しく、豊かに緑を広げていく。

足先から地平線の先にまで、瑞々しい若葉色の草原が広がっている。

爽やかな風が草木を撫で、ザワザワと心地よい音色を奏でる。

向日葵が咲いている。

向日葵が、太陽に負けず劣らず快活に花開いて、それを見て少女が陽のように眩しい笑顔の花を咲かせる。

見たこともない少女。

まるで夏の化身のような明るい少女。

真っ白なワンピースを着て、その裾が風に遊ばれはためく。ラムネが弾け、アイスが溶ける。

そうめんが流れる。

風鈴が涼やかに鳴った。

縁側で扇風機がぬるい空気を掻き混ぜている。

朝顔が笑う。

蚊取り線香のにおい。

セミが鳴いている。

喧しい蝉時雨。

夕立が訪れる。

突然の大雨で、川が生まれて流れゆく。

肉を炭火で焼くにおいがする。

川はやがて海に続く。

砂浜と海、痛いほどの熱線、日焼け、潮の香り、はしゃぐ子供たち。

ビーチボールが舞う。

潮の匂い。

塩の味。

スイカが割れる。

気付けば日が暮れている。

送り火、迎え火。

薄気味悪い雑木林。

虫がいる、カブトムシもいる、クワガタもいる。

幽霊が見ている。

肝試しの悲鳴が上がる。

悲鳴なのに、どこか楽しげだ。

蛍の光がゆらゆらと舞い踊る。

花火が咲く。

空には煌めく大三角、壮大に輝き流れる天の川。

竹が伸び、短冊がゆれる。

祭囃子のリズム。

否応なしにワクワクする。

安っぽい出店。

浴衣を着た誰かとすれ違う。

溶けかけのかき氷にキンと冷える頭痛、ソースの濃い焼きそば、甘ったるいわたあめ。

白い雲のようなわたあめ――――白い雲がもくもくと伸び、青い青い空がどこまでも広がる。


 どの景色も、光景も、実際には見たことがない。それが何なのか、知らないものもある。


 だというのに、なぜか懐かしかった。どこかで見て、聞いて、嗅いで、味わった気がしてならない。


 憧憬と郷愁が混ざり合って吹き出す。あふれ出す。

 どうしよもなく、心臓が逸りだす。どうしようもなく、声を上げて叫びたくなった。夏だぞ、夏が来たぞ――、と。


〝夏の理想〟が幾重にも重なって、浮かんでは消え、また浮かび、混じり合う。


「夏だ……」


 どうしようもなく夏だ。ただ見ているだけなのに夏の匂いがした。夏の熱が肌を焼く。


「あの、アズマさん、これは……」


 目の前の湖に訪れた〝夏〟を横目にしながら、さくらはアズマに尋ねる。


 アズマは、一眼レフカメラを湖の夏に向けて、しきりにシャッターを切っている。


「言ったろ、夏のイデアだ」


 アズマは写真を撮り続けながら言った。


「でも、こんなの……」


「何が何だか分からないってか? はっ、ここがどこだと思ってやがる。《夢幻特区》だぞ、ここは。訳が分かるもんの方が少ねえよ」


 それは言われると、何も言えない。


 冒険者学校でも、《夢幻特区》には人の想像し得る全てが存在する可能性があるのだと、何度も聞かされた。


 アズマは膝立ちになって、真剣な表情で夏のイデアを撮影しながらも、口は動かしてさくらに説明を続ける。


「《夢源元素ソムニウム》は、人の想いに依って色んなもんを現実に持ってくる。それは《夢能アーキタイプ》とか《夢法術》っていう手段を除いて、基本的に人の意思でどうこうできるもんじゃない。それだって別に全部が人に都合良い訳じゃない。《夢源元素》が原因で起こる《夢想現象》は簡単に人を弄んで、殺すこともある。良い事ばかりじゃねえんだ。……だが、つまりそれは、良い事だってあるにはある訳だ。《夢幻特区》では稀に、人の理想と憧憬を詰め込めるだけ詰め込んだような何かが突然生えてくることがある。ちょうどこういうのだな。俺は学者じゃねえし、原理は知らん。――――でも、原因は゛人の想い〟だ。この世界では、人の想いが重なって積み上がって、こういう面白い何かが生まれたりするんだ。どうだ、ワクワクするだろ? そう考えると、こんなクソッタレな世界も、中々悪くねえ、って少しだけ思えるな」


 アズマの言葉を聞きながら、さくらは、自分が冒険者を目指すキッカケになった赤い髪の少女のことを思い出していた。


 彼女は言っていた。


《夢幻特区》には、人類の夢が詰まっている――と。


「夏のイデアは、《就寝開闢》が起こる前に日本人が感じていた〝夏〟を、今この世界が夢に見ている光景だ、って聞いたことがある。ホントかどうかは知らねえが」


 改めて、さくらは夏のイデアを見やる。

 そこにはさくらが知っている夏も、知らない夏もある。


 知らない夏の方が多いかも知れない。

 でも、やっぱりどこか懐かしかった。

 不思議な感覚だ。


 そしてもっと純粋に、美しい光景だった。

 煌びやかで優美で、幻想的――。 


 気付けば、さくらも自分のスマホを取り出して、写真を撮っていた。


 この素晴らしい眺めを、自分の手元に収めたい。誰かに見せて感動を分かち合いたい、自慢したい。

 大変なこともあったけど、その末に、自分はこんなにも素敵な景色を見たんだぞ、と。


 心の中が、熱かった。夏の熱気のように熱い。


「俺の名前、さくらには苗字しか教えてなかったけどな」


「え? あぁ、はい」


あずまけいって言うんだ。蛍って書いて、ケイ。母親が付けてくれた名前なんだが、お袋も蛍を実際に見たことはなくて――――、あー……」


 そこでアズマは口を閉ざして、自省するように、どこか恥ずかしげに顔を手で覆った。


「話し過ぎた、忘れてくれ」


「え、話し過ぎ? 何が?」


「いや、お前も俺のプライベートの話なんか聞いてもつまらねえだろ」


「何ですかそれ。……ふふ、ふふふっ」


 さくらはあまりにも可笑しくなって、我慢できずに笑ってしまう。


 アズマが「なんだよ」と、苛立たしげにさくらをにらむが、全く怖くない。


 さくらの目に、アズマは至って冷静に写真を撮っているように見えたのだが、どうやらそうじゃなかったらしい。

 見た目以上に、きっとアズマも目の前のこの光景に感動していて、高揚しているのだ。

 だから口が軽くなっている。


「いいじゃないですか。私、アズマさんのお話もっと聞きたいです。聞かせてください」


「絶対にお前には話さねえ」


「えぇぇっ! 何でですか!」


「うるせえ黙れ」


「全く口悪いなぁ。アズマさん、ツンデレもほどほどにしないとモテないですよ」


「じゃあお前のそのウザさもほどほどにしろ」


「む……っ、え、そんなに私ウザいですか? ウソ」


「ウザい」


「またまたぁ、そういうのも照れ隠しなんですよね?」


 さくらがパタパタと手を振りながら、アズマに笑いかける。


「…………」


「ちょ!? 無視しないでくださいよ!」


 さくらをガン無視して、再び撮影に集中し始めるアズマ。

 よく分からないが、何だか負けた気分になる。


 そんなアズマを見て、さくらはどうにか彼に一矢報いてやろうと思い立ち、スマホを手に構えた。


「アズマさん! こっち向いて笑顔っ!」


 突如として大声を上げたさくらに、反射的にアズマが振り返る。


 そんなアズマの隣にさくらは滑り込むようにして、スマホを持った手をまっすぐ伸ばした。

 設定はインカメラ。

 いわゆる自撮りをする時に使うカメラモード。


 仏頂面の中に少しだけ驚きを覗かせたアズマと、悪戯っ子のように眩しく笑うさくら、その背景は燦然とした夏の世界。


 そんな一瞬が、画面に映っている。


「はい、チーズっ!」


 パシャリ、と。


 きっと、さくらは人生で初めての冒険をしたこの日を一生忘れないだろう。


 ――その証とでもなるべき最高の一枚が今、手元に刻まれた。

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