青空の記憶~TO MY DEAREST~

1.夏休みのさくら


「あっづぅ……」


 さくらは机に突っ伏しながら唸っていた。


 うだるような暑さ。

 ジトジトとした湿気が鬱陶しい。汗で張り付いた服が気持ち悪い。

 ハンカチで汗を拭く気力も湧かない。


 ここ最近の中でも、今日の暑さは特に殺人的だ。

 夏休み前の最後の難関である期末試験も先日終わり、今日は終業式だった。

 先生が長ったらしい注意喚起をするためのHRもついさっき終わって、言ってみればもう夏休みに入っている。


 教室にはクラスメイトがまだ半分くらい残っていて、めいめいに楽しげな会話を交わしていた。

 夏休みに何をするかとか、夏休み明けに受けることになる冒険者本免許ライセンスの試験について話しているのも聞こえてくる。


 一方で、さくらが帰路に着くでもなく、誰とも話さず机に突っ伏しているのは、単純に暑すぎて席を立つ気にならないからだ。


「夏だなぁ……」


 開け放たれた窓から救いの風が吹き込んで、体を気持ちよく冷やしていく。

 さくらはふと、一か月ほど前にこの目で見た〝夏のイデア〟を思い出した。


 まるで、夢のような体験だった。

 学校の演習として《夢幻特区》に入り、不幸にも皆と逸れ、一人の冒険者に助けられた事から始まった一日未満の短い冒険。


 今まで見た中でも一番恐ろしい《夢邪鬼ナイトメア》と一戦を交え、その果てに辿り着いた幻想的な絶景。

 思い返してみても、本当にあの日のことが、現実に経験した出来事だと信じ切れない。

 そのくらい、普段の日常とギャップのある濃い時間だった。


 あの日、夏のイデアを見た後、さくらとアズマは半日かけて街に戻り、別れたきりだ。


 あれ以降、アズマとは会っていない。

 連絡先も交換しなかったし、そもそもの出会いが偶然で、成り行きだったのだ。


 無事に街に帰るというさくらの目的が達成された時点で、さくらとアズマがそれ以上の時間を共に過ごす理由もない。ないのだが……。


 ――なんか、もやもやする……。アズマさん、今何してるかな。


 あの日経験したことは、さくらにとって紛れもない非日常だった訳だが、アズマにとってはそこまで特別なことではなかったのかもしれない。


 だとすると、さくらは今こうしてアズマのことを考えている訳だが、別にアズマはさくらのことなど気にかけていないだろう。

 そう考えると、モヤモヤとした気持ちがさらに大きくなる。


「うー……」


 煮え切らない気持ちと熱さに滅入る気持ちが混ざって、自然と唸りが漏れた。


 さくらは何気なくいじっていたスマホをタップして、写真フォルダを開く。

 アルバムを少し遡ると、あの日撮った〝夏のイデア〟と、さくらが無断で撮ったアズマとのツーショットがあった。


 我ながら、あの時は普段と違う空気に充てられていたせいか、大胆なことをしてしまった。色々思い出して、顔が熱くなる。


 アズマと連絡先は交換しなかったが、会いに行こうと思えば彼に会うことは可能だ。


 さくらはあの日、アズマの所属ギルドが【不知火】であると聞いた。

【不知火】の本部は、ここからそう遠くない。

 行ってアズマの知り合いだと言えば、繋いで貰うことくらいはできるだろう。


 しかし、さくらの方からそれをするのは、何だかさくらがどうしてもアズマに会いたかったと示すみたいで、少し癪だ。

 あのアズマという男は、それを知れば間違いなくさくらを馬鹿にしてからかってくるだろう。

 彼と一緒に居た時間は一日未満だが、それくらいのことは分かる。あの人は、そういう人だ。


 それに、さくらにとって【不知火】とは、アズマとは関係無しにとても特別なギルドなのである。

 アズマに出会う前から、さくらの心にはずっと【不知火】の文字があった。いつか必ず訪れようとは思っているのだが、如何せん緊張してしまう。


「あー……うー……っ」


 さくらが内なるモヤモヤを吐き出すように唸っていると、不意にさくらの前に一人の少年がやって来た。


「さくらちゃん、大丈夫?」


 さくらは顔を上げて声の主を確認する。矢野やの朝陽あさひ

 クラスメイトの一人であり、同年代の中ではさくらが気兼ねなく話すことができる数少ない男の子だ。

 色白の美麗な顔立ちに、しなやかな細身。人当たりが良く、成績も優秀で、女子からの支持が熱い白皙の美少年である。


 朝陽は、帰ろうともせずに机に突っ伏していたさくらを心配してくれたらしい。


「あ、矢野くん。大丈夫大丈夫、ちょっと暑すぎてまいってただけだから」


「あー、確かに。今日ホントに暑いよね」


 朝陽は額に浮いた汗を拭いながら、燦々と主張を激しくしている太陽を窓越しに見た。


「ほんとにねー。……あれ、矢野くんそれって」


 そこでさくらは、朝陽が手に持っているA4判サイズの本に目を留めた。何だか、見覚えのある表紙だったからだ。


「あぁこれ? 図書館で借りてて、今日帰りに返そうとしてるやつなんだけど、興味ある? 《夢幻特区》の景色を集めたっていう本なんだけど、どれも綺麗で、すごいんだよ」


「アズマさんのだ」


 朝陽が持っている本の表紙に『東蛍』と記されているのを見て、さくらは自然と呟いていた。


 この写真集は、さくらも同じものを持っている。

 先日、お気に入りの漫画の新刊を買おうと書店を訪れた際、偶然見つけて衝動買いしてしまった。


 中身には、アズマが撮ったという《夢幻特区》の絶景が並べてあって、そのどれもが息を呑むほど素晴らしい写真だった。

 本当に自分が住んでいるのと同じ世界に、これらの景色が存在しているのかと、疑うものばかり。


 夢のような景色。

 そしてその一枚一枚が、息づくような風情を纏っていて、さくらが同じ場所に立って同じ光景を撮っても、ここまで生きた写真は撮ることができないと感じさせられた。

 あの日、カメラを構えていたアズマを隣で見ていたからこそ、思う事だ。


「アズマ……?」


 朝陽はさくらの呟きに首を傾げ、表紙に記されている『東蛍』の文字を見て、「あぁ」と得心したように頷いた。


「さくらちゃん。この人のこと、詳しいの?」


「あー……、うん、なんというか、ちょっとね」


 さくらは「あはは」と誤魔化すように曖昧な微笑を浮かべる。


 あの日、アズマと別れる時、さくらは彼に『別に無理に口止めする訳じゃないが、俺がさくらを連れて奈落森林に行ったってことは、あまり言いふらすなよ』と言われたのだ。


 故に、一か月前さくらが《夢幻特区》で逸れて一人になり、とある冒険者に助けられたことはクラス内でも周知の事実だが、その詳細を知る者は先生たちと家族くらいである。


 その後、さくらは朝陽と何気ないやり取りを二つ三つと交わしてから、別れを告げる。


「じゃあ、矢野くんまたね」


「うん、また登校日に。じゃあね、さくらちゃん」


 爽やかな笑みで手を挙げる朝陽に、さくらも笑みを浮かべて手を振り返す。


 ――よし、私も帰ろうかな。


 いつも一緒に帰っている友人が、今日は夏風邪を引いて休んでいるので、さくらは帰りの支度をして、一人で教室を出た。


 廊下を歩くさくらの頭に浮かぶのは、アズマのこと。

 そして、夏休み明けに受けることになる冒険者免許の本試験のこと。


 試験に関して、筆記で落ちることはまずないだろうが、問題は実技の方。


 さくらの冒険者学校の成績は、決して悪くない。

 座学の成績は上位だし、実技も中の上といった所だ。


 しかし一か月前、アズマと共に《夢幻特区》を探索した時は、全くと言っていいほど役に立たなかった。

 足手まといも良い所だ。


 この夏休みの間には、冒険者免許の試験に向けた講習も適宜開かれ、もちろんそれには参加するつもりだが、果たしてそれだけで大丈夫だろうか。


 さくらが通うこの冒険者学校にて、例年、高等部の二年生の間に本免許を取得できる学生は上位の二割ほどしかいない。また、本免許取得のための試験が行われるのは、半年に一度――三月と九月。

 これからチャンスは計四回ある。


 つまり言ってみれば、夏休み明けにさくらたちが受ける試験は、落ちてしまってもまま仕方ないお試し受験という認識がある。


 実際の試験がどんなものなのか肌で感じて、経験を積むため、という側面が大きい。そもそも、冒険者学校に通う者達は、卒業までに本免許を獲得するのが目的なのだ。

 二年生のさくらがそこまで焦る必要も薄い。


 しかし、である。果たしてそんな覚悟でいいのだろうか。


 そんな、失敗してもまた次があるなどという生温い気持ちで、さくらはあのアズマの横に並べるような冒険者になれるだろうか。


『私、いっぱい学んで、いつかアズマさんを助けてあげられるくらい強くなりますね』


 一か月前、《夢幻特区》で、アズマに向けて言った台詞が脳裏を過ぎる。

 調子に乗って口にした思い上がりの言葉だが、その気持ちに嘘はなかった。


 彼に負けないくらいの立派な冒険者になりたい。


 その信念が、確かにさくらの胸中にある。


「……よしっ」


 さくらはある決意を胸に歩調を速め、学校を飛び出すと、そのまま走り出した。


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