6.土蜘蛛Ⅱ
一度狙いを定めた獲物を見失い、苛立たし気に木々をなぎ倒していた土蜘蛛は、背後で何者かが枝を踏みしめる音を聞き、その鬼面を背後に向けた。
「こっちだクソ蜘蛛!」
黒髪の人間――、土蜘蛛の敵だ。今この場で、真っ先に潰し殺すべき害敵だ。
「――――゛ギ゛ィ゛ィィイイ゛イイ゛イッ゛ッ――ッ!!!!!」
絶叫が森を揺らす。土蜘蛛は八つある脚の二つを振り上げ、黒髪の人間を叩き潰そうと振り下ろす。剣閃が二度瞬き、脚が中程から切断される。しかしそれは無意味だ。脚はいくらでも生えてくる。
途端、黒髪の人間が土蜘蛛に背を向けて逃げ出した。――逃がす訳がない。
土蜘蛛は八脚を大地に叩きつけ、黒髪の人間に追い縋る。相手も速いが、十分に追い付ける。所詮は矮小なる弱者。どう足掻いても土蜘蛛の首に武器を向けられない以上、負ける道理はない。
土蜘蛛は、小賢しく森中を逃げ回る黒髪の人間を、弄ぶように追い回し、衰弱させていく。
時折黒髪の人間の姿が消え、見失うのは業腹だが、またすぐに見つけ出す。何としても潰し殺す。――殺す。
随分と長い間逃げ回られたが、やがて黒髪の人間は逃げるのをやめ、膝に手をついた。大きく荒い息を繰り返している。終わりだ。
その時、背後に別者の気配が現れる。まだ倒れていない樹木の上から、叫び声を上げながら、土蜘蛛の首を狙って片手剣を振り上げ、小物が跳んでくる。
「――ぁぁあああああぁぁぁあああっ!!?!」
あまりにもお粗末だ。
もう一人いることは土蜘蛛も把握している。黒髪の人間よりずっと弱い、薄桃色髪の脆弱な人間。
まるで脅威に値しない。
しかし、脅威ではなくても、よもやこの間に土蜘蛛がその存在を忘れているとでも思われたのか。愚かだ。浅はかだ。これまで土蜘蛛が一体何匹の人間を喰い殺してきたと思うのか。
口が忌々しい刀で貫き塞がれ、糸は吐けないが、他にいくらでもやりようはある。
土蜘蛛の首筋にその人間が飛び乗る寸前、土蜘蛛は首をグルリと回転させて起こし曲げる。
宙で身動きが取れないまま、無防備に飛び込んでくる愚かな人間を喰らってやろうと口腔を裂き開ける。
――しかし、その人間は、土蜘蛛の鬼面の少し横を通り過ぎて落ちていく。
初めから人間は土蜘蛛の首など狙っていなかったのだ。一体何がしたかったのか。訳が分からない。そうか、恐怖で足元が狂い、飛び降りる先を見誤ったのか。
愚かだ。
その時――、下方で風が吹いた。土蜘蛛の首元に向かって、何かが飛んでくる。
――何だ? あの人間では、このぬかるんで枝葉だらけの地面を蹴って、この高さにある土蜘蛛の首まで跳躍することなど――――。
土蜘蛛が最期にその濁った視界で捉えたのは、腰の刀に手をかけ、空中に浮いたまま抜刀する黒髪の人間の、勝ち誇った笑みだった。
「悪いな――、〝俺たち〟の勝ちだ」
チャンスは一度きりだった。
さくらが右腕に刻んだ《念力法章》は、まだ十分に使いこなせているとは言えず、《
たったそれだけで、さくらは体内の《
だが、それも上手く行った。上
手く土蜘蛛の気を引きつつ、アズマを狙い通りに宙へ飛ばすことができた。死に物狂いだった。たぶん人生の中で、一番集中したと思う。
「はぁ……っ、はぁ……っ、……つぅぅ……っ」
さくらは足首を押さえてうずくまる。
着地に意識を裂く余裕がなかったため、地面に足を着いた時に思いっきり捻ってしまった。
下手したら折れているかもしれない。
痛みに苛まれながら横を見ると、地面に横たわった土蜘蛛の巨体と、鬼面が分かたれて転がっていた。
おぞましい生き物だ。写真や動画で見るのと、実際にこの目で見るのとでは、天と地ほどの差がある。
そのすぐ隣では、アズマが刀を納めていた。
チンと鳴る涼やかな金属音を聞いて、本当にこの化け物を倒すことができたのだとさくらは実感し、安堵する。
ジュウジュウと音を立て、溶けていく土蜘蛛の巨躯。
同じように崩れ溶けて、そのグロテスクな中身を晒している鬼面の頬に突き刺さっていた脈打つ赤刀をアズマは引き抜いて、刀身に付着した血を拭きとることもせずに納刀すると、さくらの元へ歩いてくる。
そして、足を押さえてうずくまっているさくらを見下ろすと、嫌味なく微笑んだ。
「見習いにしちゃ上出来だ。少しお前の評価を改めないとな。お前にこんなことを言うのは何か癪だが、まぁ、助かったよ」
「…………じゃ、じゃあ……、名前で、呼んでください」
さくらは痛む足に顔をしかめながら上半身を起こして、荒い息を整えつつ、そう言った。
人生の中でも一、二を争う窮地に立たされた恐怖とそれを無事に抜け出せた安堵、自分の力で何かをすることができたという達成感、それらがぐちゃぐちゃに混ざり合って自分でもよく分からない涙が溢れそうになるのを必死に堪えながら、さくらはアズマを見つめる。
「さっきも、一回呼んでくれた気がしますけど、そうじゃなくて、ちゃんと私に向かって、……〝さくら〟って呼んでください、呼んで、欲しいです……」
するとアズマは、可笑しそうに小さく吹き出して笑うと、半ば呆れたように、むしろ感心するように、口を開いた。
「やっぱりお前は大物になるかもな、――さくら」
「あ、あの……アズマさん、やっぱり恥ずかしいんですけど……」
アズマに背負われて、ゆったりと流れていく森の景色を眺めていたさくらは、小さな声で恥ずかしげに言った。
「私、やっぱり自分で歩きます」
「アホ、それだと遅くなるだろ。大人しく背中に居ろ」
土蜘蛛との戦闘後、足首を捻ったさくらは、アズマの《治癒》で治療をしてもらったが、完治はしなかった。
アズマの
今のさくらは歩けないことはないが、未だに痛みが残り、いつものような速度で歩くことはできない。
土蜘蛛が一帯で大暴れしたせいか、周囲に生き物の気配はほとんど無かった。
《
しばらく、アズマとさくらの間に会話は無かったが、特に気まずい雰囲気はなかった。
少なくともさくらはそう感じた。
むしろ恥ずかしい。まさかこの歳になって、おんぶして運ばれることになるとは思わなかった。重いと思われていないだろうか。
気恥ずかしさを誤魔化すように、さくらは口を開く。
「あの、アズマさん……」
「なんだ」
「冒険者って、やっぱり大変なお仕事ですよね」
「そうだな。さっきみたいなイレギュラーが起こることもある。ま、《夢幻特区》なんてそんなもんだ」
「…………」
「どうした? 怖くなったか?」
「それもありますけど……、なんでアズマさんが冒険者になったのか、気になって」
「稼ぐためだな。冒険者は金になる」
「え」
予想外の返答で、さくらは少し面食らった。
「今、冒険者は日本で必要不可欠な存在だ。《夢幻特区》内の調査に、《夢邪鬼》の駆除、それを担ってるのは冒険者が中心だし、《夢幻特区》で採れる《夢晶(クリスタル)》がないと、今の日本は機能停止する。だが見ての通り《夢幻特区》は危険な場所だ。当然、そんな危険を冒している冒険者は実入りがいい」
「お金の、ためなんですか?」
「他に何かあるか?」
「あの、私は、アズマさんがカメラマンとして、《夢幻特区》の綺麗な景色を撮るために冒険者になったのかな、と。そんなこと言ってたような気もしますし。今向かってる場所にも、写真を撮りに行く、って」
「あー……、そうだな、なんつーか」
アズマが言葉を濁す。どう説明したものかと悩んでいるようだ。
「別に俺は、写真を撮るために冒険者になった訳じゃねえ。冒険者のライセンスを取ったのは、マジで単純に金を稼ぐためだ。まぁ元々写真は色々撮ったりしてて、その延長で、冒険者の仕事中にも撮ってたら――って感じだな。あくまで写真家としての仕事は、副業みたいなもんだよ。ほぼ趣味だ」
「でも、今回は写真を撮るためにこんな危ない所まで来てるんですよね?」
「まぁ、今回はそうだな……」
「……?」
その時、少しアズマの声の調子が落ちたような気がして、さくらはそれ以上言葉を続けることができなかった。
二人の間に会話は無くなり、その場に響くのは、湿った地面を踏みしめる音、アズマが体を揺らす度に微かに響く衣擦れの音、風が枝葉を鳴らす音、それだけだ。
丑三つ時、空には満天の星が展開され、月光が眩い。
森の中はぼんやりと淡い光を灯していて、真夜中とは思えない程辺りを照らしている。
湿った空気の中に吹く涼やかな風は夏の気配を感じさせるが、少し肌寒い。
息を吸って吐いて、また吸うと、土の匂いと植物の香りがした。
アズマの背中は傍から見ているよりゴツゴツしていて大きくて、触れあっている部分が熱を持っている。
アズマが交互に足を踏み出すリズムに合わせて左右に揺れる背中は、どこか揺り籠を思わせる。気付けばさくらは、微睡みの中にいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます