5.土蜘蛛Ⅰ


 土蜘蛛は、古来より日本で語られてきた蜘蛛の妖怪だ。

 様々な形の伝承として言い伝えられ、一説には獣頭蜘蛛身の異形を持ち、人を襲うとされる。


 現代においては、ほぼ伝承の通りに鬼の頭に虎の胴体、蜘蛛の脚を持つ《夢邪鬼ナイトメア》として確認されている。言うまでもなく《ネームド》。

 山や森の奥深くに住みつき、その大きさは二メートルから五メートル。大型の土蜘蛛は、Bランクの冒険者でも単身で討伐するのは相当厳しいと言われる。


「つ、土蜘蛛ってこんな所に出るんですか!?」


 アズマに横抱きにされたさくらは、彼の首に両手を回してしがみつきながら泣き叫ぶ。


 アズマは時折背後に視線を向け、ドスドスと地響きを鳴らし樹木をなぎ倒しながらこちらに駆けてくる土蜘蛛との距離感を確認しつつ、鬱蒼と茂る植物の合間を掻い潜るように進んでいく。

 現在、彼我の距離は三十メートルほど、この調子なら逃げ切れるだろう。


「普通は出ないな。土蜘蛛が住んでるのはもっと奥の方だ」


「じゃぁなんで!?」


「知らん。でも一つ分かったのは、昼間あんな所にいたオーガ。ヤツがあんな場所にいたのは、コイツから逃げて来たんだろうな」


「そ、それじゃあっ、私が襲われたワイバーンもアレから!?」


「さぁどうだろうな。どっちにしろ今言えるのは――、やばいってことだ」


 不意に、アズマが立ち止まる。


「ど、どうしたんですか!? 早くしないと――。――っ!?」


 さくらがアズマの見ている先に視線を向け、絶望の表情を浮かべる。

 アズマたちの正面に広がるのは、断崖だった。


 崖の向こうに覗く景色の高低差から、ここを飛び降りて下に逃げるのも厳しいことが分かる。道が途絶え、土蜘蛛は無慈悲に距離を詰めてくる。


「お前はここにいろ、俺が何とかする」


「あっ、え? アズマさん!?」


 アズマはさくらを降ろして土蜘蛛がいる方へ睨みを利かせると、抜刀した。


 その時初めて、アズマが剣帯に差している赤と黒の二振りの内、赤い刀を抜いたのをさくらは見た。

 アズマが赤い鞘に収まった刀を抜いた瞬間、ドクンと大気が脈動するような錯覚があった。その刀身すらも赤々しい刀を心臓として、大気中に血液が巡るように鼓動する。


 ――なに、あれ……っ。


 明らかに普通の武器じゃない。まるで生きているようだ。


 アズマが赤刀を構え、地面を蹴った。目にも留まらぬ速さでアズマは駆け抜け、実際にその途中で姿を消した。否――、消えたのは姿ではなく、存在感だ。


 視線の先に映る土蜘蛛の巨体――二メートルはありそうな虎の巨躯と、それと同じくらいの長さを持つ八脚。

 その鈍重そうな巨体に見合わぬ速度で突き進み、木々をなぎ倒しながら土蜘蛛は吠えた。

 鬼面に刻まれた赤い口腔がパックリと裂け、赤黒く染まった牙が覗き、獣のような咆哮が鳴り響いた。


 生臭い臭いが一帯に広がり、まだ二十メートル以上離れているというのに、さくらはその迫力に気圧され尻餅をついた。


「あっ――」


 その次の瞬間、土蜘蛛の咆哮が、悲鳴に変わった。

 土蜘蛛の太く長い脚が一本、その中程から切断されていた。その直ぐ近くに、赤刀を構えるアズマの姿がある。


 土蜘蛛の巨躯が一瞬揺らめく。


 それを見て、さくらはいけると思った。やっぱりアズマは凄い。

 Bランクの冒険者でも単身で遭遇すれば命があるか分からないと言われている土蜘蛛相手でも、彼なら――――。


 しかし、そんなさくらの思考は、切断された土蜘蛛の脚が瞬く間に再生したのを目撃して、白く染まった。

 茫然と固まっているさくらと、遠くにいる土蜘蛛の視線が重なる。


 鬼面の上で怪しく光る澱んだ眼光が、無防備なさくらを捉える。ニタリ、と笑みを浮かべられた気がした。


 鬼面の口が縦に裂け、そこから射出された糸が、さくらに迫る。




 さくらが冒険者になろうと決めたのは、ちょうど中学生になる少し前のことだ。


 当時、《夢幻特区》で大量発生した《夢邪鬼》を自衛隊や冒険者が押し留めることができず、東京の居住区域までなだれ込んでくるという事件があった。


 居住区域まで侵入した《夢邪鬼》はそこまで多くなかったが、戦う術を持たない人々は混乱の渦に呑まれた。事態は紛糾し、街はパニックになって、酷い有様だった。

 その騒ぎに巻き込まれたさくらは親と逸れ、一匹の《夢邪鬼》に追い詰められてしまった。そんなさくらを助けてくれたのが、一人の冒険者だ。艶めいた赤髪をなびかせる、目の覚めるほど綺麗な少女だった。


 助けてくれた彼女には深く感謝したが、ただそれだけなら、さくらが冒険者を目指すこともなかったと思う。

 さくらを変えたのは、次の彼女の言葉。


「ねえ、あなたはこの世界をどんな風に思うかしら」


「え……、へ?」


「酷い世界だって言う人もいるわ。昔はもっと日本も平和だったし、もっとたくさんの人が安穏と暮らしていたの。でも退屈なつまらない世界だったわ。それが今は違う。あなた、《夢幻特区》に行ったことはある? すごいわよあそこは。あの場所には人類の夢が詰まっているの。珍しく、綺麗で荘厳で、素敵で素晴らしい夢のような全てがそこにあるのよ。ナイトメアという悪夢を代償に、人類はどんな夢もこの手に収める可能性を得たのよ! さいっこうだと思わない? 自分自身のチカラで、自分の望む夢を手に入れるために冒険をするの。この手で、この身で、どんな夢だって叶える。それが冒険者なのよ! 強くて傲慢で強欲で夢見がちで、自分を満たして、人だって助ける。最高の職業でしょう?」


 大きく手を広げながら、赤い髪を優雅に揺らしながら、赤い髪の少女はそう言った。

 その後、彼女と別れてからも、彼女の言葉が胸に残り続けた。


 さくらは、冒険者としての自分を眠りながら夢で見るようになって、冒険者を夢見るようになった。だからさくらは、親にワガママを言って、冒険者学校の中等部に入学したのだ。




 気付けば、投げていた――――。


 ついさっき、さくらに向かって「焦った所で何か得がある訳でもない」などと偉そうに語っておきながら、明らかに焦って愚行を起こした。

 土蜘蛛の口内から放たれた腐臭のする太い糸が、さくらに向かって放たれたのを見た瞬間、アズマは手に持っていた赤刀を投擲していた。


 その刀は真っ直ぐと赤い線を引いて土蜘蛛の横面を貫いて、深々と刺さり込む。土蜘蛛が絶叫し、大きく揺らめいた。

 さくらに向かって射出された糸は、ギリギリの所で逸れ、彼女のすぐ近くある樹木に絡み付いていた。今投げた赤刀はアズマの切り札だ。易々と手放していいものじゃない。もっと他にやりようはあった。


「チッ」


 己自身に苛ついて舌打ちを漏らす。が、余計なことを悔やんでいる暇はない。

 アズマは剣帯の黒い鞘から刀を抜くと、無茶苦茶に八脚を振り回している土蜘蛛に肉迫する。


 無差別に行われる脚撃が、周囲の木々を切り倒していく。アズマはそれを見切り、掻い潜り、脚を中程から二本飛ばした。

 切断面からダラリと緑の粘着液が滴るが、断面の肉が盛り上がり、脚は恐るべき速度で再生する。

 数本切断しても、残りの脚を斬る前に再生されては、土蜘蛛の身体を倒すことができない。

 

 これでは土蜘蛛の弱点である首を狙えない。

 首を飛ばさない限り、あるいは胴体のどこかにある心臓――《夢晶》の核を砕かない限り、土蜘蛛は脚を再生し続ける。それが土蜘蛛の厄介さ加速させる一番の要因だ。


「――――゛ギ゛ィ゛ィィイイイイ゛イッッ!!!!!」


 耳障りな絶叫が森を揺らした。片頬からもう片方の頬まで、赤刀に貫かれて口を封じられた土蜘蛛が、その澱んだ眼でギロリとアズマを見下ろした。

 眼が真っ赤に血走って、ダラリと赤黒い唾液が垂れる。異臭が酷い。


「なんだってこんなとこに土蜘蛛が……」――いや、余計なことは考えるな。 


 アズマは首を振って無駄な思考を飛ばし、視界の端でさくらの無事を確認しながら刀を振るう。

 さくらをここまで連れて来たのはアズマの責任だ。自分が一緒なら大丈夫だろうという慢心が招いた結果だ。何としてもさくらだけは傷つけさせない。

 これはアズマのエゴだが、絶対に譲れない一線である。


 アズマは流麗な刀裁きで土蜘蛛の脚を三本斬り飛ばすと、それが再生されると同時に、ポーチから取り出した《法具》を投げた。――閃光玉、とも言う。


「さくら――っ! 目を塞げっッ!」


 閃光玉は、ちょうど土蜘蛛の鬼面の正面まで浮いた所で、弾けた。


 カッ! と、閃光が暗がりを切り裂いて、辺りを真っ白な光で染め上げる。

 眼を強く閉じ、腕で覆っていても、瞼の裏に強い光の気配を感じる程の光量。

 土蜘蛛の絶叫が、また森を揺らした。


 アズマは少し離れた所で目を押さえてうずくまっているさくらの元まで駆け寄ると、その小柄な体を肩に担ぎ、さらに地面を蹴飛ばして加速する。


「――アズマさんっ!? 大丈夫なんですか!?」


「俺のことは気にすんな。お前もケガはないよな」


「わ、私は、何ともないですけどっ」


「ならいい。結界の所まで戻るぞ」


 結界の効力はまだ残っている。あそこに戻ってさくらを置いて来れば、アズマも存分に戦える。というより、初めからそうすべきだった。


 アズマは土蜘蛛がなぎ倒した木々の跡にできた開けた道を辿るようにして駆ける。


 閃光玉が思った以上に有効的だったのか、十数秒ほど土蜘蛛は絶叫を続け立ち止まったままだった。

 しかし、その後すぐに土蜘蛛の咆哮はアズマたちに向けられ、荒々しく八脚を地面に叩きつけ、こちらを追い始める。さっきよりもずっと速い。随分と刺激してしまったからか、土蜘蛛もなりふり構っていない様子だ。


 だが、アズマとさくらは無事に結界を張った場所まで戻ることに成功する。

 光線で作られた正方形の中には、さっき置いていったさくらの片手剣とバックパックが転がっていた。


 アズマはさくらを降ろして、樹木の幹に片手を置きながら何度か深呼吸して息を整える。


「――よし。お前はここにいろ」


「え、え!? アズマさんもここに居ればいいじゃないですかっ。ここに居たら、外からは気付かれないんですよね……?」


「確かにそうだ。でもここがずっと使える訳でもない。もう予備はないし、あれだけヤツを刺激しちまった以上、ヤツもそう簡単にここから離れはしない。ここの効力が切れる前に、ヤツを殺す」


「で、でも――っ! 大丈夫なんですか!?」


「大丈夫だよ。お前はここで大人しくしてればいい。すぐ終わらせてやるよ」


 そう言ってアズマは抜刀すると、アズマたちを見失って結界付近をうろついている土蜘蛛を見やった。

 いくらこちらの存在感が隠されているとはいえ、この調子で動き回られると、最初そうされかけたように無意識の内に踏み潰される恐れがある。

 早くアズマが結界から出て気を引き寄せないといけない。


 しかし、足を踏み出したアズマの服をさくらが掴んで引き寄せる。


「お前、こんな時に――」


「違いますっ。し、心配なんです。わ、私ののせいで、アズマさんに色々迷惑かけてるのに、そのせいでアズマさんがもし、し、死んじゃったら……っ」


 さくらが唇を噛み締め、その瞳に目一杯涙を溜め、堪え切らなかった分が零れ落ちて、頬を濡らした。そんな彼女を見て、アズマは少し怯む。


「あのな……、じゃあどうしろってんだよ。どの道アイツは殺さなきゃなんねえ。なら、こうするのが一番アイツを殺せる可能性は高い」


「で、でも、アズマさん、さっき戦ってる時、〝マズイ〟って顔してました。私を守るために、あの赤い刀投げちゃったからですよね、わ、私の、せいですよね」


「お前のせいじゃねえよ。それにもしそうだったとして、お前は何が言いたいんだ」


「――私も戦います」


 さくらが胸に手を当てて、涙で潤んだ瞳で、真っ直ぐとアズマを見つめ上げた。


 アズマはすぐに「アホか調子乗んな」と言おうとして、しかしさくらの気迫に台詞を呑まれて思わず口を噤んだ。


「アズマさんの言いたいことは分かります! 私は役立たずの足手まといで、今日もアズマさんに助けてもらってばかりでした。アズマさんにお前は何もするなって言われたのも、覚えてます。アズマさんの言うことに逆らって、後でここに捨て置かれてもいいです。だって、だって、それでも――、私だって冒険者なんです! 見習いの最低ランクでも、弱くても、自分のチカラで自分の望みを叶える冒険者なんです! 私にだって、やれることはあるんです。助けられっぱなしで、アズマさんに迷惑かけてるのが、私が嫌なんです。ワガママですみません、でも、やっぱり、いやなんです」


 さくらはブルブルと震えている身体と腕を無理やり押さえつけるようにしながら、強く足を踏ん張って、アズマを見据える。


「アズマさん言ってました。冒険者にとって大事なのは、どんな時でも焦らず、策を立てることだ、って。考えを巡らせて、対処しろ、って!」


 確かにそれは、アズマがついさっき言った言葉だ。

 偉そうにさくらに上から目線で語った台詞。それは口にするのは簡単でも、実行するのは困難だ。事実、それをさくらに語ったのも、自分に言い聞かせるという側面もあった。


 アズマも、そんな高尚な事をどんな危機に陥っても、実践できる訳じゃないから。


「――私に、考えがあります」


 涙を手で拭ってから、震える手で片手剣の柄を鬱血するほど握りしめて、しかし落ち着いたハッキリとした声音で、さくらはそう言った。

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