5.愛の話


 アズマはカミシロを追って、走っていた。

 カミシロが屋上に呼び寄せた《夢邪鬼》を倒すのに時間を喰われたため、一早くカミシロの元に向かわなければと、急いでいた。


 ほたるはまたもアズマの制止を聞かず一人で先に行ってしまった。

 さくらはアズマの足に付いて来れないのが分かり切っていたし、仁斗の身を案じる必要もあったため、半ば強引に屋上へ置いてきた。


 だから、今のアズマは一人だった。


 街中で暴れる《夢邪鬼》を走り様に斬り捨てながら、アズマは目の前に聳え、威容を放っている山を目指す。

 カミシロはそこにいるという確信に近い予感があった。


 早くしないと、何もかも手遅れになるかもしれない。

 カミシロの具体的な狙いが何も分からない以上、どんな事態が引き起こされても、おかしくない。


 《夢邪鬼》を街中で暴れさせ、山の頂上を街中に召喚するという、どんな事象も起こり得るこの世界に置いても、常軌を逸した異常事態を引き起こしてみせたカミシロ。


 ――一体何を考えている? 愛の為?


 全く以って意味不明だ。 

 あの飄々とした読めない男が、何を考えているのか分からない。


 カミシロとの出会いは、二年前。

 アズマが【不知火】に入った時、既に彼は副マスターとしての地位にいた。


 副マスターという割に、あまり偉ぶらず、飄々として、気さくで、行動が読めず、《夢邪鬼》に異様な執着を見せる変な奴だった。

 それでも冒険者としての責務は全うし、《夢幻特区》では《夢邪鬼》の駆除を躊躇わなかった。


 不思議な男だったが、ただ一つ言えることは、決して悪い奴ではなかったということだ。 

 だからこそ理解に苦しむ。


 街の中に不自然に出現した山の頂上部にアズマは足を踏み入れる。異様な光景だ。

 本当にただ山の頂上付近をそのまま切り取って持ってきたという様相。

 アズマは自然の匂いのする木々をかき分け、土を踏みしめ、襲い掛かって来る《夢邪鬼》を斬り倒し、カミシロを捜して、彷徨うように、当てなく進む。


 茂みの先に、明らかに他とは違う威風堂々たる居住まいの大樹の影が見えた。

 その方向から、何やら強い気配を感じる。


 決して気持ちの良い感じではない。

 ジットリと湿って絡み付くような嫌な気配、凶悪な《夢邪鬼》がその場にいるという証。


 やがて、アズマはその空間に足を踏み入れる。

 どこか神々しい場所だ。荘厳で気高い大樹が天を衝き、その前にシンプルな形の石碑が神妙に佇んでいる。


 アズマより先にカミシロを追って走って行ったほたるもまた、そこに居た。

 ほたるは茫然と、唖然と、放心した様子で、立ち竦んでいた。どこにも怪我はない。


 アズマはほたるの無事にまず安堵し、次にこの場に満ちる凶悪な気配を警戒し直し、ほたるに声をかけようとして、彼女の視線の先にあるものに気付き、動きを止めた。


 石碑の前に身を伏せていたのは、九本の尾を持つ狐だった。


 〝九尾の狐〟、過去に日本で妖怪として畏れられた、強く残虐な力を有する《ネームド》の《夢邪鬼》。

 今街で暴れている低レベルの《夢邪鬼》たちとは格が違う。

 あの土蜘蛛よりもずっと上位の存在だ。


 体長二メートル程のその妖狐は、肉を喰らっていた。

 鋭敏な牙を赤黒い血に染め上げ、貪るように、アズマたちの存在に気付かないほど夢中に、苛烈に酷薄に、人間を喰らっている。

 クチャグチャ、クチュリと、ネバついた血肉が擦れ、引き裂かれる音が静かに響いている。


 かつては人だったのであろうその肉塊に、既に頭部はない。


 だがズタズタに引き裂かれ襤褸切れのようになった服と、傍らに転がった左手の薬指を飾る指輪に、見覚えがあった。


「カミシロ……?」


 信じられなかった。

 ただでさえ危うい《エニグマ》の中でも特にリスクが高いと言われていた【異輪】を使いこなして《夢邪鬼》を手懐け、自在に空間を飛び越え、《夢幻特区》に身を置けば敵無しと名高かった【不知火】の副マスターたるカミシロが、いくら九尾の狐が相手だったとしても、こんなにあっさりやられるなど。


 その時、アズマが隣にいることに気付いたほたるが、何かを呟く。


「――……、――っ、……ケイ、くん」


 様子がおかしかった。眼が虚ろで、ここではないどこかを見ているようだ。


 ほたるが膝から地面に崩れ落ちる。力なく座り込んで、九尾の狐を見やる。


「――……んな、でも、――や、きっと、別の――、……だ。――り得ない……」


「ほたる……っ、おい、ほたる、しっかりしろッ」


 アズマはしゃがみ込んで、ほたるの肩を揺する。


 ほたるは妖狐から目を離さない。

 明らかに様子がおかしかった。

 体に力が入っておらず、視線の焦点が合っていない。

 もしや、九尾の狐に何か幻術でも見せれているのか。


 しかし、ほたるの呂律の回り切らない呟きを聞いている内に、別にほたるは誰かに何かをされた訳ではないと、アズマは悟った。


「ケイ、くん。大変です、お母さんが、また、ほたるのお母さんが、あの、狐に――」


 ほたるは、過去の光景を見ているのだ。

 昔、《夢邪鬼》に襲われ、命を賭してほたるを逃がし、死んでしまったという母親の事を。

 だが、ただ《夢邪鬼》に喰い殺された人間を見て、我を忘れてしまうほど動揺するのは、ほたるらしくない。


 そんな光景、今まで《夢幻特区》で何度も見てきている筈だ。


「ケイくん、ケイくん、あ、あの、あの狐が、お母さんを殺したん、です。お母さんを、殺すんです。助けないと、今度は逃げなくても、ほたるは戦えるから、た、助けないと、」


 〝あの狐〟――。

 つまりほたるはこう言っている。

 あの九尾の妖狐こそが、ほたるの母を殺した《夢邪鬼》そのものであると。


 だが、そんな筈はない。

 当時、街に入り込んだ《夢邪鬼》は全て駆除された。


 だから、あの妖狐が、ほたるの母を手にかけたということはあり得ない。

 きっと九尾の狐の別個体だろう。


 ――否、本当にそうだろうか?


 何が起こってもおかしくないこの世界で、《夢邪鬼》に執着するカミシロが、何かを狙ってこんな惨憺たる事態を引き起こした。 


 彼は言っていた、愛の為、だと。


 その時、不意に、アズマの頭に荒唐無稽な考えが像を結ぶ。カミシロの目的。だが、そんな訳が、そんな訳が、〝そんなこと〟のために――? 


 いやしかし、でも、彼は――。


『ボクは、この世の誰よりも《夢邪鬼》を愛しているからね』


 確かに、出会った時からカミシロは《夢邪鬼》に執着を見せていた。

 愛しているとも言っていた。

 だが、それはあくまで関心や研究の対象として《夢邪鬼》を見ている事に対する誇張表現であり、冗談のようなもの、だと。


 まさか、本気で愛していたなどと言う事は――。


 だって、《夢邪鬼》だ。

 人類にとっての悪夢そのものだ。

 そんな憎悪と悲劇しか生まない奴らを好いて、心の底から愛した《夢邪鬼》を甚大な犠牲を以って蘇らせようなど、そんなこと、あり得る訳が――――。


 その瞬間、アズマは明らかに動揺した。

 動揺し、ほたるから注意を逸らしてしまった。


「……助けなきゃ、お母さん、お母さん、あ、あぁ、あ、た、助けなきゃ――ッ」


 針に糸を通すような一瞬の隙を突いて、ほたるはアズマの腕を撥ね退け、地を蹴った。


 引き絞り放たれた弓矢の如く、直線的に九尾の狐に迫ったほたるは、拳を固め、その妖狐の鼻っ面を殴り飛ばそうとした。

 しかしその刹那、食事に夢中になっていた妖狐の血走った眼球が、ほたるを捉える。

 妖狐の九本の尾がユラリと陽炎のように揺れた。


 確実にヒットする軌道を描いていたほたるの拳が、空を切った。ほたるが眼を剥く。


 九尾の狐は、特殊な力を有する厄介な《夢邪鬼》だ。

 その妖狐が有する九本の尾が健在である限り、妖狐が視界に捉えた攻撃は絶対に当たらない。

 冒険者として把握してしかるべき知識。しかし今のほたるに、まともな思考は無かった。


 攻撃を外した後は、得てして大きな隙が生まれるものである。

 拳を空ぶったほたるのがら空きになった胴に、食事を邪魔され怒りを募らせた妖狐の凶刃の如き爪が伸びる。


 妖狐の爪はほたるの腹を深々と切り裂き、鮮血が吹き出し、舞い散った。


 アズマはその光景を、どこか遠い世界の夢の出来事のように、眺めていた。

 

 まるで現実味がない。


 一度宙に浮き、その後地面に叩きつけられたほたる。

 腹部には大穴が空いて、一目で致死量と分かる血液が吹き出し、大地を赤に染め上げている。


 九尾の妖狐は一度吠え猛ると、煩わしそうに九本の尾を揺らし、血色の唾液を口の端から垂らしながら倒れ伏すほたるに牙を向ける。

 喰うつもりだ。


「――〝生き血喰らい〟」


 自分でも驚くほど冷静な声が出た。

 体の芯が酷く冷えている。アズマは【血刀】を抜き放つ。ドクンと、その場一帯を轟かせるように、大気が脈打った。


 【血刀〝生き血喰らい〟】は様々なリスクと引き換えに、所有者に多大なる力と血を操る能力を与える《エニグマ》だ。

 さくらから聞いた話だが、カミシロは《エニグマ》には個々の愛が宿っていると言っていたのだったか。


 案外その通りかもしれないと、アズマは思った。


 【血刀】の力で操る血液は対象を問わないが、自分以外の血を操るのは困難だ。


 しかし、いくつか例外はある。

 所有者が好ましく思っている者、情愛の念を抱いている者の血液ほど、コントロールしやすく、強い力が宿る。


 ドクンと、ほたるの腹から零れ出た赤い液体が胎動し、蠢く。

 ドクドクと律動を刻む血液は形を変え、凶悪な牙を覗かせていた妖狐に飛び掛かった。


 九本の尾がユラリと揺れる。

 宙に浮き、妖狐に襲い掛かった血塊は、しかし妖狐へ攻撃することは叶わず天へと舞った。


 空中に留まり、陽を受けぬらぬらと光る鮮血。

 今なおほたるの身から零れ落ちている命の赤い液は宙へと集まり巨大な刃を成した。


 刃はその鋭く尖った切っ先を、妖狐に向け、真っ直ぐと突き落とされる。

 その速度は、弾丸を思わせる迫力を呈していた。


 視覚外からの一撃が、妖狐の巨躯を貫く。

 その血刃は妖狐の肉を裂き進み貫通し、その身を地面と縫い付けた。


 九尾の狐の絶叫が響き渡る。

 眼を限界まで見開き、血走らせ、有らん限りの咆哮で怒りを表す。

 強靭な生命力が溢れ、妖狐は前脚を地面に叩きつけ、凶刃から逃れようともがく。


 ――存在感を消し、妖狐の懐に潜り込んでいたアズマが、一閃を放ったのは、その瞬間だった。


 赤い斬撃が迸り、鮮血を纏った【血刀】が易々と妖狐の首を切断する。


 我が身に何が起こったのか知覚する前に、怒りの表情のまま凍り付いた妖狐の首が、宙を舞い、地に落ち転がる。

 【血刀】に付着した鮮血が、呑み込まれるように刀身に染みて行き、消える。


 刃こぼれも汚れも一切ない赤刀を鞘にしまい、アズマはぐったりと倒れたまま動かないほたるを抱き起した。

 まだ息はあるが、酷くか細い。


「ほたる……ッ、おいッ、ほたる! ほたる! ほたるッ!」


 アズマはほたるの傷口に手を当て、《治癒》を施しながら呼びかける。

 だが、如何せん傷口が深すぎる。

 体内の《夢源元素ソムニウム》量も心許なく、そこまで高度な治癒が扱える訳でもないアズマに、この傷を癒し切ることは極めて困難だ。

 そして何より、明らかに血が足りていない。


 【血刀】の能力を使って、溢れたほたるの血を体内に戻すことはできるだろうか。しかし一度空気に触れた血を戻すなんて、そんなことしていいのか? 

 アズマとほたるの血液型は違う。

 アズマの血をほたるに入れることもできない。

 傷口もまだ塞がっていない。 

 塞げない。アズマの治癒じゃ無理だ。

 ほたるの腹を中程まで割っているこの傷は。そこから血は溢れ続けている。治らない。治せない、これは。《治癒》をかけ続ける。

 体内の《夢源元素》が尽きたのに、なお《夢法術》を行使しようとして、不成立反応による吐き気がアズマを襲う。

 脳髄を抉るような頭痛が弾ける。



 無理だ。治せない。



 治せないとどうなる? どうなる? どうなる――?



 あのほたるが死ぬのか? まるで現実味がない。体の奥底が凍えるように冷えた。


 ――死ぬのか? ほたるが? 死ぬ――――?


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