3.夢を叶えるためには
街中に突如として聳え、突き上がった富士山の先端。
元々そこにあった街並みは、不自然に先端部だけ切り取られた富士山によって押し退けられていた。
富士山が出現する直前、当然のようにその場を歩いていた人々や立ち並んでいた建物の行く末は、想像に難くない。
そんな富士山に程近い場所に建つ高層ビルの屋上に、カミシロは立っていた。
カミシロは、眼下に広がる阿鼻叫喚を見下ろす。
《夢幻特区》という脅威から逃れ、細々、悠々と居住区域内で暮らしていた人々を蹂躙し尽くす悪夢。
彼らは今、自分たちが生きる世界がどういう世界なのか理解している事だろう。
人々の命乞いが聞こえる。生きたいという意志の叫びが、無残に上がる血飛沫と共に聞こえてくる。
《夢邪鬼》に尊い命を引き裂かれる直前、彼らは生存を願うだろう。
それは、《夢邪鬼》も同じことだ。
突発的な異常事態に駆けつけた冒険者や自衛隊に命を刈り取られていく《夢邪鬼》たち。
彼らは死にたくないと訴えながら、そして何よりも人類が憎いと本能を滾らせながら、その身を散らす。
死ねばその肉体を現世に残す人類と違い、《夢邪鬼》の死に際は鮮やかだ。
願いの欠片――《夢源元素》で構成された彼らの肉体は、その今際、命の核である《夢晶》のみを残して宙へ溶け消える。
また、《夢邪鬼》は核となる《夢晶》を直接破壊されると、《ソムニウムスキャッター》という現象を起こし、膨大な量の《夢源元素》を鮮やかに散らし弾けるのだ。
本来、人類にとって《夢晶》は回収すべきものであるが、予断を許さない時、彼らは《夢邪鬼》の急所となる《夢晶》の破壊を優先する。
丁度今がそうだ。
カミシロの眼下では、人々の命乞いの悲鳴に紛れ、《夢晶》を破壊された《夢邪鬼》が大量の《夢源元素》を宙に散布させている。
《夢源元素》はこの世に満ちる願いの欠片。夢を叶える源。
《夢源元素》は、〝誰か〟の想いに依存し、ありとあらゆる願いを現実へ持ち出す。
それは、それを願う想いが、強ければ強いほど、形を成しやすい。
特にそう、死に際の生き物の想いは、その強さが異常だ。
「もうすぐ会える」
カミシロは首飾りにあしらわれた《夢晶》を左手でそっと撫でながら、愛を込めて呟く。その薬指には、薄紫色の宝石が装飾されたシルバーリングが光っていた。
ドクドクと、まるで脈動するように、指輪が震えている。
カミシロは、傍らに血を流して倒れ伏す仁斗を見下ろして、言う。
「ごめんね仁斗くん。悪いとは、思ってるんだ。ボクは人間も嫌いじゃないからね。ただ、やっぱり、どうしても、もう一度彼女に会いたいんだ。愛のためなんだよ」
富士山の先端を取り巻くように、人々や《夢邪鬼》の断末魔、そして《夢源元素》が満ち、溢れていく。彼らの生き延びたいという〝生〟への願いが、《夢源元素》に溶け込んで、形を変える。
生きたい、死にたくない、と。
不死の願いが集まって、不死の山の頂へと昇る。
生と炎の化身――不死鳥という〝
大丈夫、大丈夫だ。きっと上手く行く。この時のために、五年を費やした。
五年前、彼女に一目惚れして、彼女を失ったあの時からずっと、願ってきた。
カミシロの《
次元という空間を意のままに操り、物体を瞬間的に転位させる能力。
五年の歳月を懸け、その力を利用し、〝生と炎〟を司る不死鳥が眠る富士山の頂上を、人が溢れるこの地に移動させた。
同様の手段で、《夢幻特区》を跋扈する《夢邪鬼》も転移させた。
これも全て、不死鳥の封印を解き、〝彼女〟を生き返らせるため。
〝生〟の意志が刻み付けられた《夢源元素》が、生を求めて不死鳥の元へ収束する。
死にたくないという意志を燃やす炎が渦巻いている。山が燃えている。命の炎で燃えている。
不死鳥は生と炎の化身。不死鳥の封印を解き、かの神話をこの現世に甦らせるのに必要なのは、生と炎へ向けられる狂おしい程の願いと、それを叶えるに足る《
―――今この時、その条件は成された。
機は熟している。
あとはただ、その時が来るのを待つだけ。
だが、往々にして、大いなる夢には、障壁が立ち塞がるものである。
「――よくここが分かったね。ほたるちゃん」
「お前に名前を呼ばれると虫唾が走るので一生口を閉じて喋るなと。息もするなと、そう言ったはずですが?」
阿鼻叫喚の図を成している眼下、およそ四百メートル下の大地から、一人の少女が跳び昇って来た。
うさぎのような垂れ耳を生やした《亜人》の少女は、跳び上がった勢いそのままに、屋上を越え天高く舞った後、カミシロの背後に足先を強く叩きつけ、降り立った。
少女は、その可憐な容貌を憎悪に歪める。
「これは全部、お前の仕業ですか?」
「少し意外だね、君が来るのは予想してたけど、アズマくんも一緒だと思ってたのに」
ほたるは喰いしばった歯を軋らせながら、怒号を上げた。
「ほたるの質問に答えろッ! これをやったのは、《夢邪鬼》を放ったのはお前かッ!?」
眼を血走らせるほたるに、カミシロは物哀しげに笑って言う。
「あぁ、そうだよ。あの山と《夢邪鬼》を持ってきたのはボクだし、彼もボクが大人しくさせた」
カミシロが傍ら――血溜まりの中に倒れて動かない仁斗を見やる。
「ジンさん……っ」
仁斗の存在に気付いたほたるは眼を見開いて、さらに鋭くカミシロを睨みつけた。
「街で暴れてる《夢邪鬼》たちを止めろ! お前ならできるだろ!」
「申し訳ないが、それは断る」
「っ……ッ。殺す――ッ」
ほたるが銃口を模った指先をカミシロに向ける。
《発水》により生み出された少量の水は、【過速】による加速を得て音速を越えて射出される。
真っ直ぐと躊躇なくカミシロの脳天に向かって撃ち放たれた水塊は、しかし空を切った。
気付けばカミシロの姿はそこに無く、ほたるの背後を取っている。
「そう焦らないでよ、ほたるちゃん。君とは少し話がしたいんだ。君とボクは、よく似ているからね。ボクはそう思うんだ」
「その口を開くなッ! 消えろッ! 消え、ろ!」
ほたるの小柄な体躯がフッと宙に浮き、背後のカミシロへと回し蹴りを放つ。鎌のような爪先でこめかみを狙った蹴撃。
しかしカミシロは、一切体を動かすことなく、数歩分後方へ自分の位置を切り替え、蹴りを躱す。
ほたるはそんなカミシロを射殺すように睨み、喉を震わせ叫んだ。
「ずっと、ずっとお前が気に入らなかった! 《夢邪鬼》と、お母さんを殺した《夢邪鬼》と慣れ合って、のうのうと笑ってるお前がッ! みんなが、マスターがお前みたいなヤツの存在を許してるのが、理解できなかった! 何が副マスターだ! ふざけるな! 何が、何がほたるとお前は似てるだ! 気に入らないんだよ! ふざけるな! ふざけるな! ふざけるなッ!」
「マスターは、こんなボクを理解してくれていた。みんなも、ボクと一緒にいる《夢邪鬼》は決して、人を襲わないと分かって、理解してくれていた」
「だったら、だったら何でこんなことになってる!?」
ほたるは片腕を広げ、至る所から悲鳴と破壊音が響いている街並みを指し示した。
「それは、ボクが愛を抑えられなかったからだよ。悪いとは思ってるんだ。この街にはお世話になったし、でも、ここは彼女が死んだ場所で、ボクはもう一度でいいから彼女に会いたかった。悩んだんだよ、本当にやるのかどうか。でも、やっぱり抑えきれなかった」
「何を……、何、を、言ってるんですか……ッ?」
ほたるの瞳に渦巻いていた激情の中に困惑が覗く。分からない。訳が、分からない。
「だって、ほたるちゃんだって、《夢邪鬼》を殺す代わりに、もう一度お母さんに会えるって言われたら、殺すでしょ?」
「――ッ!?」
ほたるに激しい動揺が走る。
相変わらず、カミシロの言っている事は訳が分からない。
だがその台詞は、ハンマーで直接殴りつけるように、ただ純粋にほたるの心根を揺らした。
その時、屋上の鉄扉が騒音を立て、勢いよく開け放たれた。
中からアズマとさくらが飛び出してくる。
「ほたるお前! 勝手に――ッ。――ジン!? おい、ジン!」
屋上に現れたアズマは、カミシロと対面しているほたるの無事を確認し、そして咎めようとしたが、その途中で血溜まりの中に倒れている仁斗に気付く。
アズマは仁斗に駆け寄って、脈を取りながら《治癒》を発動させた。淡い光が仁斗を包む。
「安心してくれアズマくん、仁斗くんは殺してない。流石に長年ギルドで共に過ごした仲間を殺すのは、ボクも忍びなかった。ホントはこんなこともしたくなかったんだけどね」
「カミシロてめぇ……っ、どういうつもりだ」
仁斗に《治癒》をかけ続けながら、アズマがカミシロを睨む。
「なんで、なんでお前がこんなことをする? 何が目的だ? 本当にこの惨状はお前が」
「そうだよアズマくん。全部ボクがやったことだ」
「……っ」
アズマは歯噛みし、仁斗の傷口が塞がったことを確認すると、隣で狼狽えているさくらに「さくら、ジンを頼む」と声をかけ、前に進んだ。
ほたるとアズマの間に挟み込まれるような位置に立つカミシロ。
カミシロは、二人から激情の籠った鋭い視線を向けられ、どこか悲しそうに微笑んだ。
アズマもまた怒りの中に、困惑と悲嘆を滲ませ、言う。
「カミシロ、お前は会った時から妙なヤツだと思ってたよ。でもお前は確かに【不知火】の副マスターだったし、こんな風に誰かを傷つける奴じゃなかった。まして、こんな――」
アズマは視線を、堂々と街中で異彩を放っている山の影へ向け、同時にその周辺から響いてくる阿鼻叫喚に顔をしかめた。
「別に、無理にアズマくんにボクの目的を理解してもらおうとは思ってないよ。突飛な力を得てしまった奇人が、ついに狂ったんだと思ってくれて構わない。だが、あえてもう一度言うなら、愛の為だ」
アズマが、理解に苦しむというように眉をひそめる。
明らかに、説明が足りていない。
だが、今のこの惨憺たる現状を引き起こした者が、目の前にいるカミシロという人物であるということは、ほぼ間違いないだろう。
――なら、カミシロを取り押さえるのが最優先だ。
彼の動機を聞くにしても、それを聞いて納得理解するにしても、後回しでいい。
アズマは腰にある二振りの刀の内――赤刀である【血刀】を引き抜いた。
その動作に合わせ、大気がドクンと激しく脈打つ。
「待ってくれアズマくん。ボクは君たちと戦うつもりはない。なるべく、戦いたくない」
「随分と都合の良い話だな、こんなこと引き起こしておいて、戦いたくないだと?」
「……確かにその通りだ。だけどやっぱりボクは、アズマくんとも、ほたるちゃんとも、さくらちゃんとも、戦いたくはない」
カミシロは、アズマ、ほたる、そしてさくらを順ぐりに見やる。
さくらと視線が合うと、カミシロは「また会えたね」と、緩やかに微笑んだ。
その飄々とした態度に、しびれを切らしたほたるが「調子に乗るなァッ!」と叫び地を蹴る。
【過速】を利用した超高速の肉迫。しかし、ほたるが距離を詰め切る前に、カミシロの姿が消える。
次にカミシロが現れたのは、アズマからもほたるからも五メートルほど離れた位置。
カミシロの瞬間移動を想定して視野を広く保っていたアズマは、カミシロがその場に出現するとほぼ同時に、赤刀の切っ先を突き付けた。
切っ先が見つめる先は、カミシロの心臓。
「――〝生き血喰らい〟」
アズマが【血刀〝生き血喰らい〟】に呼びかけると、刀の柄を握る手首に赤い線が走った。
ドクンと赤刀が拍動し、パックリと開いた皮膚から、血が吹き出す。
吹き出した血液は脈打ちうねり、鋭く尖った刃の形を成すと、カミシロに向かって飛んだ。
血の刃の射出に合わせ、ほたるもまた指先の狙いをカミシロに向け、水塊を撃ち放つ。
赤い線と水の線がクロスするようにカミシロを狙う。
だが、その時にはもう、カミシロはアズマの背後にいた。
「カミシロォッ!」
カミシロの気配を背後に感じ、アズマは体を捻ってその場でターンすると、回転の勢いを叩きつけるように赤刀をカミシロに向け振るった。
しかし、その刀は空を切る。
カミシロの姿は、再び別の離れた位置に移動していた。
「無駄だよ、君たちじゃ、ボクに攻撃を当てられない」
悠々と、飄々と、物哀しげな微笑を浮かべるカミシロ。
そんな彼の背後に飛来する小さな影。
先ほどアズマが放った血刃が、一度逃した敵を今度こそ射止めんと、宙で切り返してカミシロの背中に迫り刺さる――寸前、背後の風切り音を察知したカミシロがその姿を消し、移動した。
だが、移動したその先で、カミシロは眼を見開いた。
アズマの姿が、消えていたのだ。
カミシロの瞬間移動とは異なる完全な消失。
否、存在そのものが消えた訳じゃない。アズマは自らの《夢能》で気配を零にしたのだ。
カミシロがしまったと思った瞬間、彼の背に斬撃が走った。
腰から斬り上げるように逆袈裟に刻まれた太刀筋。
血飛沫が上がり、カミシロの動きが一瞬完全に停止する。
次に、それを視認したほたるの姿がブレる。
音速に迫る速度でカミシロの懐に潜り込んだほたるは、真っ直ぐとカミシロの顎先を掌底で撃ち上げようとする。
間一髪で反応したカミシロは、《夢能》を使う間もなく反射的にその掌底を体を逸らせ、紙一重で躱す。
その時には既に、ほたるは次撃の初動を起こしていた。
体を浮かせたほたるの回し蹴りが、カミシロの脇腹に捻じ込まれる。
バキバキと骨が軋む音が響いてカミシロは吹き飛ぶ。
屋上の硬い地面で一度跳ね、地面を削るように滑りながら、フェンスに叩きつけられる。
ガシャンとフェンスが大きく揺れ、音を響かせ、形を歪ませた。
カミシロは血の混じった唾を吐き捨てると、地面に腰を落としたまま緩やかに微笑んで、正面先にいるアズマとほたるを見た。
「ふふ、ふふふ、そうだった、アズマくんの《夢能》を忘れてたよ。なんでかな、忘れてた。過信は、油断は、良くなかった、ね」
余裕を持って呟くカミシロに、アズマとほたるは油断なく追撃加えようと走り出す。
「自分を過信し過ぎたかな。でもしょうがないよね」
パチリとカミシロが指を鳴らす。瞬間、まるで初めからそこにいたかのように、アズマとほたるからカミシロを護るように、二匹の《夢邪鬼》が出現した。
さらにもう一度、カミシロが指を鳴らす。もう一度、もう一度、パチリ、パチリ、と。
彼が指を弾く度に、屋上一帯に《夢邪鬼》が増えていく。
様々な形を成した異形が、凶悪な《夢邪鬼》が、次々に現れて屋上を埋め尽くす。
ドクンと、カミシロの左手の薬指で光る指輪が胎動する。
【異輪〝ゼノダクティル〟】――、《
「ほ……ほんとは、もう少し、せっかく、だから、ほたるちゃんと、さくらちゃんとも、話せたら良かったけど。もう、無理だよね。アズマくんもありがとう、これくらいの《夢邪鬼》は君たちの敵でもないだろから、大丈夫だよね。それじゃあ、ね」
カミシロは最後にさくらが居る方を見やった。さくらは、いきなり出現した《夢邪鬼》から。倒れ伏す仁斗を護るように身構えている。
――あぁ、あの時とは違うんだな。あの時は、ごめんね。
カミシロは自嘲する。こんな自分が何を今更。
でも仕方ない。愛の為に人を殺すのも、それを申し訳なく思うのも、どっちも本心だ。でも愛の為だ、仕方ない。
「おい待てカミシロッ――ッ!」
立ち塞がった《夢邪鬼》を斬り捨てながら、アズマがカミシロに手を伸ばす。だが、その時には既に、カミシロの姿は消失していた。
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