2.嫌な予感は当たる


 嫌な予感というのは、当たるものだ。


 スマホを取り出し、それが仁斗からの着信だと確認した瞬間、アズマは今朝の嫌な予感が当たったことを悟った。


 今朝、カミシロが【炎剣】を持ち出して行ったとさくらから聞いて、アズマは怪しいと感じていた。

 ただ、それは何の根拠もない勘に過ぎず、それらしい根拠一つ無しに長年【不知火】に貢献し、副マスターをも務めるカミシロをどうこうできる訳がなかった。


 【炎剣】についても、結局所有者が決まらず、紅が使いたい者がいれば勝手に使っていいと宝物室に半ば放置されていたもので、カミシロが持ち出すことに何も問題はない。


 しかしながら、下手すれば身を滅ぼす《エニグマ》に遊び半分で手を出す者はいない。

 だからこそ、既に別の《エニグマ》の所有者であるカミシロが、【炎剣】に手を出す状況には違和感を覚えた。


 そういった懸念から、万が一の保険として、馬鹿だが信頼はできる仁斗に、カミシロの捜索と監視を頼んでいたのだ。

 実際の所、頼んだというよりは、いくつか貸している貸しを盾に無理やりやらせたのだが。


 索敵や人捜しという点において、仁斗は極めて優秀である。適任だと思った。


『副マスのやつ、やりやがった』


 仁斗の珍しく焦燥に満ちた声が、通話口から聞こえてくる。


「ジン、何があった?」


『おれにも分かんねえよ、ただ、あのヤロ、《夢邪鬼ナイトメア》を――、っ!?』


 その瞬間、轟き渡るような地鳴りが、どこか遠くで響き渡った。


 大地ごと砕き割られたとさえ思えるような轟音。

 同様の音が、通話口からノイズ混じりに音割れして飛び出してくる。


 その大音量に、アズマは思わず顔からスマホを遠ざける。


「おいっ、ジン!? どうした! 何があった!? おいジン!」


 通話口の向こうで響くのは、建物が倒壊する轟音、人々の悲鳴、混乱の渦の気配。


『――アズマ! お前今どこにいる!?』


 ノイズが酷いが、仁斗の声が聞こえて安堵するアズマ。

 しかし、その逸った声から、事態の深刻さが伝わる。


「俺は今例の孤児院だ。ほたるとさくらもこっちにいる」


『あそこか。じゃあ西だ。そこまで遠くない。西の方にっ、あ、やべ、すまん切る――』


 ツ――ッ、とそこで通話が途切れる。

 何が起こっているのかさっぱり分からないが、仁斗は西と言った。


 なら――。

 アズマは大きく深呼吸して冷静を取り戻し、余計な思考を排除すると走り出す。


「アズマさん、今の音は――」


 振り返ると、さくらが怯える真空を抱きしめて、不安そうな表情を浮かべていた。


「いいからさくらはそこでジッとしてろ」


「あ、ちょっと、アズマさんっ!」


 アズマは廊下を駆け、屋敷の最上階である四階に到達する。そして西方面にあるバルコニーに飛び出して、目を見張った。


「なんだ……、あれは……?」


 一言で表すなら、山の先端とでも言うべきもの。綺麗な稜線を描いて、突出した部分が天に向かって突き上がっている。その見事なまでに流麗な形に、アズマは見覚えがあった。


「富士山……?」


 富士山の先端が、東京の街中に連なる高層マンションに張り合うようにして鎮座している。

 目を疑う光景だ。暮れなずむ夕日をバックに、堂々と聳え立つその山の有様は、酷く幻想的で不気味だった。


「ケイくん! 一体何がっ、――っ!?」


 背後から駆け寄って、アズマの隣に並んだほたるも、正面のずっと先に聳えているアレを目にして唖然と息を呑んだ。


「なん、ですか……? あれ――」


「分からん。でもジンが言うにはカミシロが――」


「カミシロ――?」


 ほたるの表情が仄暗く一変したのを見て、アズマは己の失言を悟った。


 五年前、街中になだれ込んだ《夢邪鬼》によって母親を殺されたほたるは、《夢邪鬼》を手なずけ、たまに街中に連れ込んでいるカミシロを酷く嫌っている。

 先の通話で、仁斗はカミシロが《夢邪鬼》を街中に連れ込んだと察せられるような事を言っていた。

 そして雰囲気からして、あの場所で何かただならぬことが起こっているのは間違いない。


「とにかく、俺は向こうで何が起こってるのか確認してくる。お前はさくらと一緒に――」


「イヤです、ほたるも行きます」


 ほたるがアズマに向ける表情は、いつものように朗らかで人懐っこいものから、かけ離れていた。

 アズマがほたると出会ったばかりの頃の表情を彷彿とさせる。

 きっと、どんなに言葉を重ねても、ほたるは付いて来ようとするだろう。


 だが、ほたるには実力がある。

 十九歳にして冒険者Cランクの評価を得ている力量は、伊達じゃない。


 問題は、たった今ここにやって来た薄桃色髪の見習い冒険者の方だ。


「あ、アズマさん! ほたるさん! 何事ですか!?」


「ったく、お前はジッとしてろって言ったろ」


 アズマは嘆息混じりにさくらを見下ろす。

 するとさくらは、ばつが悪そうにしながら、「でも」と西に聳える山の影を指差した。


「あ、あれって、何なんです? なんか、山みたいな……」


「さぁな、でも物騒なもんであることに間違いはなさそうだぜ」


「い、行くんですか?」


 さくらはアズマとほたるを交互に見ながら言う。


「だったらどうする?」


「わ、私も――」


「ダメだ、ほたるはともかく、お前はここにいろ」


 アズマが鋭い語調で言い放つと、さくらはビクリと身を小さくした。


「向こうで何が起こってるか分からん。足手まといを連れて行く余裕はない」


「で、でも……っ、私……っ」


 さくらは潤んだ瞳で、街中に場違いに聳えている山の先端を見ながら、震え声を零す。


 さくらの言いたいことは分かる。

 異常が起こっている場所は、さくらの家がある方向でもある。

 例の山が聳えている場所と、さくらの家がある場所は比較的離れているが、それでも、さくらの胸中で不安と焦燥、後悔が渦巻き、居ても立っても居られなくなっていることは想像できた。


 その時、ほたるが静かに言う。


「ケイくん、さくらも連れて行きましょう」


「ほたるお前、自分が何言ってるのか――」


「分かってます。でも、何があったとしても、さくらには後悔して欲しくないんです。それに、さくらにはちゃんと戦う力があります。それはケイくんも知ってますよね?」


 さくらの冒険者としての実力が見習いの域を出ないのは事実だ。

 だが、さくらという少女のことをこれまで見て来て、気付いたことがある。


 それは、彼女に冒険者としての才能があるということ。


 土蜘蛛と一戦交えた時、さくらは焦燥の中でも冷静に状況を判断して自分の役割を果たした。

 この一週間も、決して生易しくない修練に根を上げず真っ向からぶつかる根性を見せていたし、体を動かすセンスも悪くない。

 《念力》の扱いに関しては、当初のアズマの想定を上回る伸びを見せている。


 いつかのように、真摯に真っ直ぐとアズマを見つめるさくら。

 アズマは大きく嘆息する。


「……勝手にしろ。ただ、俺の指示には絶対従え、分かってるな?」


「は、はい! 分かってます!」


 さくらの威勢の良すぎる返事に、本当に分かっているのか不安になるアズマだったが、それ以上は何も言わず、ほたるとさくらを連れて屋敷内に戻る。

 そして文子の元へ行くと、彼女に事情を話し、車を一台借りることにした。

 「無茶はしちゃダメよ」という言葉と共に文子からキーを受け取り、屋敷の外にある駐車場に向かう。


 車に乗り込んでエンジンをかけると共にサイドブレーキを下ろし、ほたるとさくらが乗り込んだのを確認すると、アクセルを踏んだ。

 あの富士山の先端のようなものが出現した場所は、そう遠くない。

 車で急げば、二十分もかからないだろう。


「一体何が起こってるんでしょうね」


 助手席のほたるが向かい側から次々とやって来て、反対車線を走り抜けていく車体を眺めながら言う。

 西方面から逃げるようにこちらに向かって来る車は、どんどん増えているように思える。


 逆に、西に向かう道は空いていた。

 もう既に住民の間に例の異常は広がっていると見ていいだろう。


 そう考えながら、アズマがさらにアクセルを踏み込むと、後部座席でスマホを操作していたさくらが叫んだ。


「た、た、大変なことになってますよ! これ! 街中に、《夢邪鬼ナイトメア》が!」


「――っ!」


 ほたるが血相を変えてさくらを見る。


「さくら見せてください!」


 さくらの手からスマホを奪い取るようにして、画面に視線を落としたほたるが絶句する。


 アズマも横目でその画面を確認して、舌打ちした。

 とあるSNSに投稿された動画が再生されているようで、そこには、街中で暴れ回る《夢邪鬼》が、無差別に人を襲う様子が映し出されている。

 まさに阿鼻叫喚、そこら中で血と悲鳴が飛び交う。


 その時、アズマたち三人の脳裏に過ぎったのは同じ光景だった。

 五年前、《夢幻特区》に大量発生した《夢邪鬼》が居住区域にまでなだれ込み、人を襲った事件。


 さくらが紅に命を救われ、ほたるが目の前で母親を失うことになった出来事。


 しかしあの時と違うのは、《夢邪鬼》が《夢幻特区》と居住区域にある防壁を突破したわけではないということ。

 そうなれば、もっと早く騒ぎになっていたはずだ。


 その時、アズマのスマホに着信が入る。

 アズマはそれが仁斗からのものであることを確認すると、応答し、スピーカーモードに切り替えるとダッシュボードの上に置いた。


「ジン、無事か?」


『あぁ、何とかな。だが状況がヤバイ。街中で《夢邪鬼》が暴れ回ってやがる。副マスの野郎が呼びやがったんだ』


「呼んだ……?」


『たぶん、だけどな。副マスの《夢能アーキタイプ》は、自分以外の物体も瞬間移動させられるタイプだったんだ。おれはアズマに言われた通り、副マスを監視してたんだけどよ、マジで突然やりがった。すまん……。でも、まさかこんな事するなんて』


「はぁ? それでカミシロは《夢邪鬼》を街中で暴れさせてるってのか?」


『あぁ、そうだ。今は見失っちまって、また捜してるんだが、チッ、思うように動けねえ』


 訳が分からない。

 確かにカミシロは普段から何を考えてるのか分からない人物だったが、それをして一体彼に何のメリットがあるのか。

 今までも、彼が手なずけた《夢邪鬼》が人を襲うという事はただの一度も無かった。


『とにかく人手が足りない。めぼしい冒険者や自衛隊の奴らはまだ《夢幻特区》から帰って来てないんだよな? このままじゃマジでヤバいことになるぞ』


 ギリ……と、助手席に座るほたるが激しく歯軋りした。鬱血するほど拳を握りしめ、憎悪じみた表情で、左手に流れる川の向こうに見えている怪しい山の先端を睨みつける。


『んな訳で早い内にアズマたちが来てくれると助かる。じゃ、また何かあったら連絡する』


 仁斗はそう言い残して通話を切った。


「アズマさん……っ」


 さくらが不安に震えた声で言った。

 アズマは「分かってるよ」と、彼女を落ち着かせるように言って、しかし内心では焦っていた。


 ハンドルを握る手が汗ばむ。


 騒ぎが起こっている場所が、例の突如として現れた山の付近であると言うのなら、ちょうど今走っているこの車道の左手を流れる大河をどこかで渡らなければならない。

 山の影が聳えているのは、その向こう側だ。


 しかし、この大混乱の中、対岸から慌てて逃げてくる大量の車両が、数少ない架け橋に一気になだれ込めば――。


 ――まぁ、事故るよな。


 アズマは、視線の先に見えるこれから渡ろうとしていた架け橋の途中で、微かな煙が上がっているのを捉える。

 目を凝らすと、どうやら大量の車両が詰まっているらしいことが判断できた。

 あの様子じゃ、橋を経由して向こう岸に渡るのは困難だろう。


「――ケイくん」


 アズマと同じく架け橋に視線を向けていたほたるが、静かに言った。


「飛びましょう」


 ほたるが指差す先は、河川の対岸に見える山の影。


「は? 飛ぶ?」


「はい、ほたるたちは早く向かうべきです。そうすれば、助けられる人の数も増えます」


 ほたるの声は淡々としていたが、有無を言わさぬ迫力があった。


「いや……、飛ぶっつってもこの川の幅、五百メートルはあるぞ。いくら何でも――」


「できます。ほたるの【過速オーバーラピッド】と、さくらの《念力》があれば」


「え、え!? 私ですか!?」


「はい、まずほたるの【過速】でこの車を加速させて、あれを使って飛びます」


 そう言ったほたるの視線の先には、上手い具合に斜面を成している堤防があった。

ほたるが言いたいのは、車を限界まで加速させ、堤防をジャンプ台代わりに向こう岸まで飛ぼう、ということだ。


「そして、着地はさくらの《念力》でどうにかしてもらいます」


「えぇぇぇえぇぇぇえ……っ!?」


 驚愕の声をあげるさくら。


「ほたる、ちょっと落ち着け。無茶苦茶だ」


「でも、このままじゃ、いつ向こう岸に辿り着けるか分かりません。こうしてる間にも、きっと《夢邪鬼》に殺される人は増え続けてるんです。さくらのお母さんだって向こう側に居ますし、ほたるみたいに、家族を殺されてる子も、きっと……っ」


 ほたるは氷のように冷えた目付きの奥に、激情の熱を覗かせアズマを見つめる。


「ほたるたちが少しでも早く行けば、そういう子を、少しでも減らせるはずなんです」


「だから……っ」と、ほたるは呟いて、窓の外を見た。


 さくらが意を決したように言う。


「あ、あ、アズマさん! やりましょう! 私、どうにかしてみせます!」


 すると、アズマは無言でブレーキを踏み、車道の脇に車体を寄せて停める。

 それから、ほたるとさくらを呆れたように見やった。


「無謀にも程があるな。お前ら、気合いだけで何でもできると思ってないか?」


「…………っ」


 アズマの窘めるような口調に、ほたるとさくらは首をすくめて視線を下げる。


「いくらなんでもさくらの《念力》で向こうに飛ばしたこの車体を制御するのは無理がある。――だが、まぁ、橋は通れそうにないし、なるべく早く向こう岸に渡りたいってのはその通りだ。だから、こうしよう」


 ほたるとさくらがはっと顔を上げ、どこか意外そうにアズマの言葉の続きを待つ。


「俺たちが直接飛ぶ」




「あ、あの、アズマさん、これ、恥ずかしいんですけど……」


 川辺に立つアズマに背負われているさくらが、恥ずかしげに言う。


「今更何言ってんだ、いいからしっかりつかまってろ、ほたるみたいに」


 アズマは自分の腹に張り付いているほたるを見下ろす。まるで木にしがみつくコアラのようだ。

 ほたるは絶対に離れないという意志で手足を強く巻き付けている。

 いつもならアズマに密着して鼻息でも荒くしていそうな状況だが、この時のほたるは静かだった。

 ほたるが横目に見据える視線の先には、山の影がある。


 アズマたちがやろうとしていることは単純だ。

 ほたるの【過速】とさくらの《念力》を用いて、およそ五百メートルはありそうなこの川幅を飛び越える。それに尽きる。


「よし、じゃあ時間も無駄にできねえし行くぞ。ほたるもさくらも分かってるな」


「任せてください」「あ、あの、アズマさんホントにやるんですか」


「よしいく、三秒前だ。三、二――」


「あ、ちょ、アズマさん待っ―――っ!」


 瞬間、アズマが強く地を蹴りつけ、ほたるの【過速】が発動した。


 ほたるの【過速】は、自己及び自己に触れている物体の速度を、一瞬にして引き延ばす能力だ。

 故に、加速させる方向を操って、ベクトルの向きを変えるということはできない。


 ほたるの【過速】によって何十倍にも引き延ばされた速度を得て、アズマたちの体は高速に宙を舞った。

 空気を切り裂きゴウゴウと響く音と、その激しい抵抗感にバランスを持っていかれないようにしながら、アズマは背中で悲鳴を上げているさくらに呼びかける。


「おいさくらしっかりしろ! 着地はお前頼みなんだ!」


「は、はいぃぃぃぃ」


 放物線を描くように高々と空中を舞い飛ぶアズマたち。放物線の頂点付近を過ぎた辺りで、さくらの《念力》が発動し、アズマたちの体にかかった速度は、徐々に減速し始めた。


 軽々と川幅の向こうまで到達したアズマたちは、重力の働きにさからうようにゆるやかに落下し、河川敷の堤防付近に滑るようにして着地する。


 ほたるとさくらを抱えたまま、膝を曲げ衝撃を殺して地面に足を着けたアズマは、雑草だらけの河川敷の地面を削るようにしながらブレーキをかけ、土砂埃の中に停止する。

 激しく息を切らして何やら喚いているさくらを降ろし、労いの声をかける。



「よくやったさくら、上出来だ」


 倒れ込んださくらは、ひぃひぃ言いながら汗を垂らしている。


「し、死ぬかと思いましたっ、昔乗ったジェットコースターの百倍怖かったです……」


「ケイくん、先を急ぎましょう」


 アズマの腹から降りて地面に立ち、行く先をジッと見据えるほたる。


「そうだな。ほらさくらも早く立て。行くぞ」


 数多の高層ビル群の中に聳え、異彩を放っている山の先端。

 その付近らしき場所からは、火災時のような煙が上がっており、地鳴りのような騒音が聞こえてくる。


 ――何が起こってるんだ……? カミシロの奴は一体何を……。


 その時、アズマのスマホが震えた。仁斗からのメッセージだ。

 マップのとある位置を指し示す情報だけが添付された、説明もないシンプルなメッセージ。


 ぞわりと、嫌な予感がした。


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