第5話 酒場

 アオが身支度を終えるのを待って一緒に部屋を出ると、ちょうど隣の部屋の住人が部屋の扉をバタンと勢いよく閉めたところだった。

 そのはずみで壁掛け灯の炎が揺らめいてフッと消えると、廊下は驚くほどに暗くなった。

 廊下のつきあたりに光取りの窓はあるものの、窓から僅かに入る街の仄かな灯りと、ドアの隙間から四角く洩れている部屋の光以外に明かりらしい明かりは見当たらないのだから、足元さえおぼつかない。

 アオはギュッと目をつぶり少しでも早く暗闇に目を慣らそうと瞬きを繰り返すが、目が慣れるよりも先にボッという小さな音とともにケージーの手元に明るく火が灯った。

 ジッポーをしまわなかったのはこのためか。手の中に収まるほどの小さな炎だが、近場のものを照らすには十分だった。見れば、壁には燭台が等間隔に並んでいたが肝心のロウソクはない。溶けて固まったロウソクの跡が台座にはあったが、積もった埃を見るにもうあまり使われてないのだろう。


「足もと気を付けてね」


 そう言って、ケージーが足元を照らした。

 薄暗い廊下を注視すれば床板が湿気でわずかに反り返っているのが見えた。アオは廊下のでっぱりを避けるようにケージーのすこし後ろをついて歩く。

 廊下の突き当たりには、部屋の扉とは違う両開きの扉が一階と二階を隔て、その先には軋んだ音を立てる古階段が続いていた。薄暗い二階とは打って変わって、にぎやかな人声と物音が洩れ聞こえ、照明の光が階段と足元を照らす。

 男二人の体重に耐えかねたように悲鳴をあげる階段を降りると、両開きのスイングドアを軽く押し退けて部屋にはいった。

 中は飲食店のようだ。

 部屋の中には肉の焼けるにおいと、ラジオのザーザー音の間から定時の報知を告げる声が聞こえた。しかし、すぐに男達の大きな笑い声にかき消され、雑音に成り果ててしまった。

 それほど広くない店内は既に満席に近い賑わいを見せている。テーブル席が壁に沿う形で三つあるが、どの席も数人が円卓を囲み、運ばれてきた大盛りの料理と酒で話も弾んでいるようだった。

 一方で配膳にまわる店員は中年の女性の姿しか見当たらない。重たそうな体で忙しそうに店内を走り回りながらも、手が空けば近くの客となにやら言葉を交わし楽しそうに肩を揺らしあっている。

 不意に顔を上げた店員と目があった。


「おや、出掛けんのかい?」

「ちょっとそこまでな。煙草買いに行くついでに、こいつ送ってくるわ」


 居心地が悪そうに視線を彷徨わせているその人間が、先日の怪我人だと言うことに気づいたらしい店員はアオへ近づくと心配そうに声を掛け、顔を覗き込む。


「もう体は大丈夫なのかい?」

「あ、はい。……お世話になりました」


 反射的にフードの縁を引き、顔を隠すように小さく頭を下げた。


「だいぶボコボコにやられてたからね、心配したよ。この辺も治安が悪くなってきてるんだ、気を付けないといけないよ。こないだなんか、ウチの常連の息子さんもね──」


 堰を切ったように話し始めた店員を横目にケージーは肩を竦め、わざとらしく言葉を遮った。


「あー、そうそう、俺の帽子知らない?」

「え? ケージーの帽子かい? ちょっとあんた! ケージーの帽子だとよ!」


 そう言って声をかけられたカウンターの男はジロリと鋭い視線をこちらにむける。

 カウンターには脚の高い年季の入った椅子が横一列並べられ、厨房側には食器を黙々と洗う大男がいた。禿げ上がった頭に反比例するように黒々と生えそろった口髭、むき出しの二の腕は子供の胴体ほどあるだろうか。手についた水をエプロンで無造作に拭うと、壁棚に無造作に置かれた中折れ帽を掴みカウンターの付け台の上にぽんと置いた。


「……忘れもんだ」

「悪いね、店長」

「……盗まれても文句言えねぇぞ」


 ぶっきらぼうな物言いの大男はフンッと鼻を鳴らすと、洗い終わったグラスの水滴を丁寧に拭き上げ、頭上のグラスハンガーに吊るしていく。

 ケージーもケージーで何事も無かったかのように帽子を被ると、ポケットから銅貨を取り出し付け台の上に置いた。


「さてと、行こうかアオ君」


 気前よくチップを払ったケージーはくるりと振り返り、アオの肩を叩いた。


「そうだ、次はお友達と飲みにくればいいよ。おじさんの名前だせば少しおまけしてくれるからさ。ねっ、店長」


 調子の良いケージーの台詞に大男は眉を顰めたが、アオと視線が合うと口の端を片方だけ吊り上げヘタクソな笑みを浮かべる。けれどそれは一瞬のことですぐに視線は運ばれてきた食器に移り黙々と仕事を再開した。


「あれは、オーケーってことだよ、アオ君」


 ケージーが店長の代わりに隣でそっと囁いた。


「坊主やめといた方がいいぞー!」


 だが、ケージー達のやりとりを見ていたであろう酔っぱらい達はこれ幸いと、次々に野次を飛ばしはじめる。


「そうそうケージーの名前なんか出したら、逆にふっかけられちまうよ」

「その時はケージーのツケで飲んでけばいいのさ」

「オレ達にも奢ってくれー! ケーちゃん」


 赤ら顔の男達がゲラゲラと品のない笑い声を上げるが、不思議と不快ではない。誰も彼もが楽しそうだからだろう。よくみれば関係の無い席の人間も、先ほどの店員も口元を押さえながら笑っている。


「ああ、もう、うっせぇ! いつもいつもテメェらは飲んだくれやがって!」

「そりゃあ、お互い様ってもんだろ、ケージー」

「残念! 今日はまだ一滴も飲んでませーん」


 子供のような悪態を吐きつつケージーが歯を見せてふてぶてしく笑った。それを封切りに、他のテーブルからも一斉に軽口が返ってくる。どうにも旗色が悪い。多勢に無勢、酔っ払いに何を言っても効果はないのはお察しだろう。

 分の悪くなったケージーの反論は精彩を欠き、地団駄でも踏みそうな勢いだ。時折「ぐぬぬ」という声と共に奥歯を噛みしめている音がした。

 その様子がおかしくて、アオはたまらず顔を背け小さく吹き出した。


「ヘヘヘッ、連れの子に笑われちまったなぁ、ケージー」

「誰のせいだよっ!」


 満更でもない酔っ払いの後頭部をはたいたケージーは「埒があかねぇ…」と苦々しく言葉をもらすと、グイグイとアオの背中を押しながら店を後にしたのだった。

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