第17話


 

 絶頂の春を迎えたゴールデンウィークの初日、昭和の日の昼下がり。俺は、どこか落ち着かない様子で壁に掛けられた時計を確認しては、手にしたスマホの黒画面で、髪の毛を何度も整えたり、……まあ、早い話、陽菜さんがくるから緊張してるってことなんだけど。

 ……前はこのスマホを届けてもらったんだっけ。

 俺は電源の落ちた端末に視線を落として、ここ数週間の出来事を思い返した。

 ……色々あったけど、取り合えずは、なんとか丸く収まったってことで大丈夫だよな?

 そんな楽観的な感想を呟いている内に、そろそろ約束の時間になっていた。


 も、もうすぐ陽菜さんが来るんだよな。へ、部屋汚くないよな?一応掃除はしたけど……そういや紅茶の入れ方とか知らないぞ。い、いや、変に考えすぎるな、俺。陽菜さんだって「いつも通りで大丈夫だよ」って言ってくれていたし。

 ……そわそわ。陽菜さんが俺の家に……

 お、落ち着け俺!それに、今日は俺の勉強を見てもらうために来てくれるんだぞ!失礼がないようにしなと。

 まるで、これからお見合いでもやるかのような面持ちで、三度、時計を見ようと視線を彷徨わせて。

 鳴り響くインターホンが、俺の鼓膜を揺らした。

 十中八九陽菜さん……のはず。

 へ、変な事考えるな!勉強を教えてもらう、それだけ、それだけなんだからな。

 俺はインターホンのカメラの前まで行き、覗き込む。フレームの枠の中に、自分の片腕を抱いた陽菜さんが静かに佇んでいた。

 て、てんぱるなよ、俺。

 俺は唾を飲み込んで、喉を濡らしてから、音声を繋げた。


「こんにちは陽菜さん。今開けますね」


「あ、須郷くん。こんにちは。う、うん」


 俺は陽菜さんの声を聞き終えてから、玄関に向かおうとして。

 そういや、陽菜さん。どっかで見たことあるような恰好してたような?画面越しだったから気のせいかもしれないけど。……まあいっか。

 そんな疑問を持ちつつ、俺はマンションの扉を開けた。


「陽菜さん。ど、どうぞ上がって下さい!」


「う、うん。お、お邪魔します」


 若干、というか、かなり声が上ずっている俺に続いて、陽菜さんが玄関の中に入った。

 俺氏、人生17年目に、彼女が家に来ました。


「すみません、一応掃除はしたんですけど」


「?全然綺麗だよ?」


「そ、それならよかったです」


 確かに、両親が必要なものは持って行ったため、物自体は少なくなっているが、基本的には自分以外のものは触らないようにしているため、一部はそのまま置きっぱなしになっていた。

 目立たないように端に寄せただけっていうね。

 目配せしつつ、俺はリビングに陽菜さんを案内した。特に今日使うこの部屋は特に綺麗に掃除をした。……まあ、美桜に片づけるようによく言われてたからな。そのおかげで散らかさなくなったんだけど。


「一応このテーブルを使おうと思ってるんですけど、あ、荷物は自由に置いて下さい」


 俺と陽菜さんがリビングに入ると、俺はキッチンの前にある4人掛けのテーブルを指示した。普段は食事用のテーブルだが、自室のデスクだと椅子が一つしかない(あと、自室を見られるのがちょっと恥ずかしかった)ため、こっちにすることにした。


「あ、ありがと。うん、ここなら私からも見やすいし大丈夫だよ」


「決まりですね。あ、お茶いれますね」


 俺はそう言って、冷蔵庫から、文字通りお茶を取り出した。念のために昨日買っておいたペットボトルに入った市販の紅茶である。背後から『あ、手伝うよ』と、陽菜さん声が聞こえて来たので、「だ、大丈夫です」と後ろ向きに答えて、冷蔵庫を開いた。

 ……冷たいのでも大丈夫だよな?家に誰か来るなんて美桜以外ほとんどなかったからなあ、もてなし方が全然分かんねえ。

 当然の如くお茶の入れ方などからっきしなので、取り合えず、コップに注いで、テーブルに運んだ。


「あ、須郷くん。参考書とか、テーブルに置いても大丈夫かな?」


「自由に置いてもらって大丈夫ですよ。それに今日は俺が教えてもらう立場ですし」


「そ、そこはそんなに気にしないで、言ったでしょ?君の力になりたいって」


「は、はい」


 こんな陰キャの俺の力になりたいといってくれる陽菜さんの優しさに、心を奪われつつ、というかもう奪われてるけど。……相変わらず陽菜さんの人としての完成度が桁違いすぎる。陽菜さん、前世じゃ女神様とかやってたんじゃね?今も女神様なんだけど。


「それじゃ、早速始めよっか」


「よろしくお願いします」


 俺は普段座っている椅子に腰かけた。それに続くように陽菜さんも椅子を引いて。

 ——え?

 正面の席ではなく、俺の隣の椅子に陽菜さんが座った。


「ひ、陽菜さん?そこ、隣ですけど……?」


「うん?こっちの方が教えやすいと思うけど?」


「そ、そうですね。はい」


「じゃ、まずは……須郷くんの苦手な科目ってどれ?」


「えーと、数学と英語ですかね?」


 まあ、正直全部といえば全部だけど、特にこの二つがやばいんだよな。


「——じゃまずは英語からやってみよっか」


「お、お願いします」


 折角陽菜さんに見てもらえるんだ、頑張るぞ。俺はシャーペンを片手に、ワークのテスト範囲のページを開く。飛び込んでくる並べられた英単語を正面に据えながら。思考回路にスイッチを入れる。

 こうして、俺と陽菜さんとの勉強会が始まった。



「須郷くんは、長文が苦手って感じだね」


「は、はい。どうしても途中でこんがらがってしまって」


「でも、文法の基礎は出来ているから、単語、覚えていこ?それだけ一気に点数あがるよ」


 陽菜さんの瞳に曇りはなかった。俺の説いた問題を見てそう言ってくれた。

 ……これでも一応受験勉強はやれるだけやったからな。まさか、あの地獄の一年に感謝する日が来るとは思はなかったけど。ありがとう、あの日の俺。そしていずれ出来る理想のお姉さん系美少女に褒められたまえよ。


「はい、頑張ります」


「うん、それじゃ次は数学だね。……そ、それでなんだけ……こんなの作ってみたんだ」


「これは……」


 陽菜さんが取り出したのは一冊のノートだった。誰でも一度は見たことがある普通のノート。


「作ってみたって、言ってもまだ今日やる部分だけなんだけど。須郷くんが苦手って言っていた範囲を中心に基礎から復習できるようにと思って……どう、かな?」


 そう言って、ノートで口元を隠して、心配そうに俺を見る陽菜さん。

 正直言ってびっくりしている。だってまさか、俺なんかのためにここまでしてもらえるなんて思ってもいなかったから。


「あ、ありがとうございます。めちゃくちゃ嬉しいです」


 俺がそう言うと、陽菜さんはニコッと笑顔を浮かべた。


「喜んで貰えて私も嬉しいな。その、こういういの作ったのって初めてだから、うまくできてるかわからないけど」


 すみません、俺なんかのために……陽菜さんの勉強時間だって必要なのに」


「いいの、私がやりたくてやったことだから。それに、私自身の勉強のもなるんだよ。誰かに教えるって。だから須郷くんも、分からないところがあったら遠慮せずに聞いてね」


「はい、ありがとうございます!」


 ここまでしてもらってばっかりだな、俺。そして、またこうして陽菜さんの優しさに頼ってしまっているし。まあ、教えてもらうんだから、頼るのはおかしなことじゃないんだけど。……いつかは、返せるようにしないと。

 ここまでしてもらった全てを、ちゃんと返せるように。そのためにもまずは、目の前の目標に向かって努力する。陽菜さんの隣に立つためにも。


 出来ないことはしない。出来ることだけを選んで生きていく。……自分で言うのもあれだけど。俺、ちょっとは成長したんじゃね?ほらだって、今まで避けて来た勉強に、なんだかんだ向き合おうとしてるわけだし。出来なかったら意味ないのかも知れないけど。

 そんな自分に苦笑しつつ、俺は目の前にある数学の問題集をめくった。


 ——そして、撃沈した。



「……すみません陽菜さん。折角ここまでしてもらったのに……」


「気にしないで、それにまだ最初、焦ることはないよ。ね?」


「はい……」


 勢い任せでどうにかなるわけもなく、俺は書き記された、未踏域の難問(ただの基礎門題)にあっけなく跳ね返された。

 くそ、陽菜さんに専用のノートまで作ってもらったのに、全然だめじゃねーか。……さぼっていたから当然といえば当然なんだけどさ。


「ここの問題はね、この公式を使ってみて」


「公式……こ、こうですか?」


「そう、そしてここをこうすると」


「……あ、もしかして、こうか!」


「正解!その調子だよ」


「ありがとうございます!陽菜さんのおかげです」


「解いたのは君の力だよ」


 陽菜さん上品に微笑んでそう言った。

 陽菜さんが隣にいるだけでこんなにも心強いこと。ただ問題を解いているだけのはずなのに、避けて来た、諦めていた勉強と、向き合おうと思える。

 ……次、行くか。

 俺は一枚ページをめくる。さっきよりも複雑な式が、嘲笑うように書き記されていた。

 ……数学くんさあ、心折に来すぎだろ。これさっき陽菜さんに教えてもらった公式使えるのか?……やるだけやってみるか。

 俺は、普段使わない頭をひねりながら、俺は心のなかでそう愚痴った。(だって理不尽ななんだもん)


 ★★★


 須郷くんはきっと努力できる人だと思う。私は、問題集とにらめっこしながらも向き合おうとしている彼を見て、そう思った。何を分かったようなことをって、思われるかも知れないけど。

(あ、その問題は——)


「ん~、あ、もしかしてこうか?……いや全然ちがう」


 私は出かかった言葉を必死に引き留めた。

 今、須郷くんは自分の力で問題を解こうとしている。——まだ、私の出番じゃないよね。

 もちろん、私のことを頼ってくれるのは嬉しいし、彼の助けになるならいつだって手を伸ばしたい。でも、私から手を伸ばし続けたら、きっと須郷くんは止まってしまう。それに私も、頼られることに依存しちゃうから。


「分かんねー。……あの、すみません陽菜さん。ここ、ちょっと分からなくて、この公式は使ってみたんですけどうまくいかなくて……」


「——この問題はちょっとだけ応用が入ってるの。そういう時はこれを使うって見て」


 ぱあっと、彼の顔が明るくなった。理解しよう一生懸命に考えて、でも、最初から私を頼らずに頑張る須郷くん。その姿を見て私は確信する。


 君は私の理想なんだって。


 この幸せな関係が永遠じゃないことぐらい分かってる。でも、今はこうしていたい。理想の私であり続けようとする私を、受け入れてくれる須郷くんと、今はただ、一緒にいたいから。

 私は、頷きながら手を動かしている彼の姿を見つめながら、この時間を噛みしめた。

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