1-2

 昼休み。教室で真莉と食事をする。

 周りを見渡せば、すでに食事をする相手は固定されつつある。

 入学式から今日に至るまでおれの食事相手は変わらない。もう、真莉以外と食事をすることはないだろう。

「これはきっと、良くない夢を見ているんだよ」

「唐突に意味不明なこと言われると怖いんだけど……」真莉は顔を引きつらせた。

「入学してから一ヶ月がたった。しかし、一向に友達が増える気配がない」

「……今だから言うけどさ、透って時々言動が危ないんだよね。私は昔から話してきたから耐性があるけど、クラスのみんなは結構、警戒してると思う」

「……警戒……されてるの?」

「もっと直接的に言えば、避けられてる」

「そんな……!」

「ま、まぁ、気づけたのなら良いんじゃない? まだ、今ならみんなからの印象を良くすることができるかもしれないし」

 気づかなかった。統志郎とのいざこざで学校のことが疎かになっていた。

 諦めるのはまだ早い。真莉の言う通り、現状を打開できる方法があるはず。手っ取り早い方法が。

「…………そうだ、部活動だ」

「え?」

「おれが帰宅部だから、交流が広がらないんだよ。何か部活動に所属していれば友達なんていやでもできるはずだ!」

 真莉は頭を抱える。

 子供を諭すように――やれやれといった具合で話した。

「そんな中途半端な動機でやっても、部内で孤立するんじゃない?」

「そうかもしれないけど……そういえば、真莉は部活やってるのか?」

「料理部に入ってる」

 もしかしたら、料理部に未来のお友達がいるかもしれない。そんな想像を膨らませていると、自然と頬が緩んだ。

 おれの表情からを察した真莉は、

「言っとくけど、男子部員は一人もいないよ?」

「……孤立しそうだな」

 女子部員のなかで、男子が一人だけというのは憧れるシチュエーションではあるが、それは部員が男子に少なからず好意を抱いている場合に限る。

 そうでない場合は悲惨な結末を迎えるのは想像するに容易い。

 それに、と真莉は付け加えた。

「部活動をするって言っても……特にやりたいこともないんでしょ?」

「ありません」

 真莉は愚痴をこぼすように、

「…………透ってさ、いっつも空回りするか遠回りしてるよね」

「そうかな?」

「自覚なかったんだ……」

 真莉は心底呆れた様子だった。

 けれど、

「ま、それだけ遠回りすればどんな結果になっても後悔はしないでしょ」

「……それって、暗に失敗するって言ってるのかな?」

「神崎透……だよね? ちょっといいか?」

 真莉との会話に割って入ってきたのは同じクラスの新島礼奈。

 長い黒髪と鋭い目つきが特徴的な女性だ。痩躯だが、げっそりしている感じはない。

 中学時代は不良だったという噂もあり、だれも声をかけようとしなかった。彼女は誰かとつるむよりも、好んで一人でいるような印象があった。

「やあ、なんだい?」おれは気さくに応じた。

「話があるんだ……ここじゃなんだし、ついてきてよ」

 真莉から心配そうに見守られながら、新島のあとをついていった。

 着いたのは屋上。

 他に人はいなかった。

「で、話ってのは?」

「あんた、昨日の日中どこにいた?」

「えーと、たしか近所の公園にいたけど」

「一人?」

「二人……いや、三人だったかな」

 新島は目を細めた。

「……もしかして、寺領未夏と一緒だった?」

 新島は寺領のことを知っていた。

「ああ、そうだけど。……見てたのか?」思わぬ指摘に動揺したが、平静を装った。

「あの公園は駅までの通り道にあるから。よく使うんだ」

 新島は少しまごついてから、

「なぁ、寺領未夏とどういう関係なんだ?」

 一番聞かれたくない話題だ。

 祖父が連れてきた婚約者だ、と説明しても信じてもらえるわけはない。余計なことを口走れば、頭のおかしいやつだと思われる。

 ここはできる限り、当たり障りのない嘘をつくことにした。

「未夏は……遠い親戚の子供なんだ。彼女の両親は海外赴任の真っ最中でその間、ウチで預かっている」

「ホントか!」

 新島は目を輝かせながら、手を力強く握りしめてきた。

「……それじゃあ神崎の家に行けばミカ様に会えるんだな?」

「ああ、そりゃあ……ミカ様?」

「ミカ様がモデルをやってることは知ってるよな?」

 おれは頷くと、興奮した様子で新島は、

「実は私、ミカ様の大ファンなんだ」

「そうなんだ」

「というわけで、放課後、神崎の家に行っていいか?」

「ダメだ」

「どうして!」

「そういうのは本人の確認をとってからのほうがいいだろう。常識的に考えて」

「私とお前の仲じゃないか」

「初対面なんだけど……」

「……お願いだ! 一目だけでもいい! 会わせてくれ! 何でもするから!」

 新島は勢いよく地面に手をついて土下座をした。

(そこまでして会いたいのか)

 確かに、寺領が読者モデルをやっている以上、ファンも少なからずいるだろう。身近にいるとは思わなかったが。

 このまま追い返すのも気が引ける。話を聞いておこう。

「……いつから、未夏のファンだったんだ?」

「一年前、街中でミカ様の撮影があったんだけどさ。たまたま目があって、微笑んでもらったときに、私の心が浄化された気がしたんだ。そのときから一目ぼれなんだ」

「小学生に一目ぼれ……」

「迷惑をかけることはしないし、神崎の言うことに従う。……だから、頼む!」

 頭をいっそう地面にこすりつける。

 正直、会わせたくない。だがここで断ったとしても、しつこく付きまとう可能性もある。寺領に事情を説明して、軽くあしらってもらうのが得策か。

「……わかった、家まで案内するよ」

「ありがとう……!」

 新島は滝のような涙をこぼした。

 周りに誰もいなくてよかった。

 クラスメイトが泣いて土下座しているところを見られたら、どんな誤解されるか分かったものではない。



 放課後。新島を連れて自宅に到着した。

 マンションを見上げた新島は、

「さすがミカ様。いいところに住んでいらっしゃる」

「おれの家でもあるんだぞ」

 家にはだれもいなかった。

 新島にしばらく待つよう伝えた。が、物珍しそうにリビングを勝手に散策し始めた。

「あまり荒らすなよ。置いてあるのはおれのものだけじゃないから」

「重々承知している」

 と言いつつ、新島は寺領の寝室に入ろうしていた。

「おいっ! そこは未夏の部屋だぞ!」

「すまない。つい、うっかり」

「確信犯だろ……」

 おりから、寺領の「ただいま」と言う声が聞こえ、リビングにやってきた。

「透、その人だれ?」寺領はいった。

「同じクラスの新島だ。未夏のファンで会いたいと言っていたから連れてきた」

 ふーん、と寺領は鼻の先であしらうのみで全く興味を示さない。ランドセルをその辺に置くと、冷蔵庫にある紙パックのジュースを飲む。

「なにか言ってやらないのか?」

「別に今は仕事中じゃないし。相手にしたくない」

 寺領はリビングのソファーに寝っころがって、スマートフォンをいじっている。

「ミカ様……! ああ、ミカ様……!」新島は跪いて寺領を崇め始めた。

「……この人大丈夫なの?」

「普段はまともなんだけどな」

 新島はぶつぶつと呟きながら拝んでいた。

 新島を満足させて早く帰ってもらおう。

「握手だとか、サインはもらわなくていいのか?」おれは新島に尋ねた。

「とんでもない! もし、握手なんかで触れてしまったら私のリビドーが解放されてしまう……!」

「それなら、思う存分崇めてくれ……」

「えー、早く追い出してよ。どう考えても、不審人物じゃん」

 と、家の鍵が外れる音が聞こえた。

「ただいま帰りました」

 一礼をしてから、美薗はリビングに入った。

 行儀のよさに感心していると、新島の視線は美薗に向いていた。

「神崎……この子はいったい……!」

 そういえば、新島には寺領のことは話していたが、美薗については一言も伝えていない。

 またしても、当たり障りのない嘘をつくことになった。

「えーと、その子もおれの遠い親戚の子供なんだ」

「羨ましい。羨ましいぞ! こんなにも可愛い子と暮らすなんて……」

「その通りよ。透はもっと私たちを大切に扱うべきだよ」寺領はいった。

「都合のいいときだけ会話に参加するな」

 美園はおれたちのやりとりに笑みを浮かべながら、身支度を整えていた。

「ゆかりはお出かけか?」

「はい、今日は茶道教室がありますから」

「……そんな習い事してたのか」

「すいません。お話しする機会がなかったものですから」

 お茶を点てる美園の姿を想像してみる。イメージはぴったりだ。

 と、考えていると、新島はおもむろに立ち上がり、

「神崎、私も行きたい」

「は?」

「幼女の――ゆかりちゃんが淹れてくれるお茶を飲んでみたい」

「迷惑になるからダメだ」

「構いませんよ」美薗はいった。

「いいのか?」

「茶道の先生も日頃から、友人でも誰でもいいから連れてこいと仰っていますから」

「それなら、新島も連れてやってくれ」

 新島を押しつけることになったが、美園なら上手いことやってくれるだろう。

「……透さんもいかがですか?」

「え? おれも?」

 はい、と微笑む美園。

 美園の点てるお茶に興味がないわけではなかった。新島の監視を含めて、ついていくのも悪くない。

「それなら、お言葉に甘えて」

「私も……! 私も行くから」寺領は手を挙げて大きな声を出した。

 結局、この場にいる全員で美薗の茶道教室に向かうことになった。



 最寄り駅から歩いて数分。閑静な住宅街のなかに茶道教室はある。

 年季が入り黒ずんだ石垣と土塀をぐるっとまわる。タケやモミジといった庭木が塀よりも高く立派に育っていた。

 正門につくと、美薗はインターホンを押した。どうやら、茶道を教えている先生の自宅が茶道教室になっているようだ。

 しばらくして、門の横にある勝手口から着物を着た女が現れた。齢は三十代ほど。

「いらっしゃい。あら、その方たちは――」

「香月先生、こんにちは。今日は客人を連れてきました」

 どうぞ、と香月はなかへ招き入れた。

 敷石を辿るように歩いていくと、離れ屋の十畳以上ある広間に案内された。

 香月と美薗は準備があると言い残して去っていった。

 おれたちは広間で待つことになった。

「畳の部屋なんて久しぶりだよ」

 掛け軸には滝を駆けのぼる鯉の絵が飾られていた。鯉の躍動感や生命力がひしひしと伝わってくる。もちろん、専門家ではないのでこの絵にどれほどの価値があるかは分からない。

「やっぱり、抜け道はないか」寺領は掛け軸をひっくり返していた。

 新島は門の前に着いたあたりから様子がおかしい。表情は強ばり、緊張している様子だった。

「どうかしたのか?」

「いや、まさかこんなに大きなお屋敷に招かれるとはな。それに、茶道の先生がめちゃくちゃ美人だったから」

「ああ、確かに……」

「透はああいうのが好みなの?」寺領はいった。

「好みというか……大人な女性に対しての憧れはあるな」

「よくわかんない」

「安心して! 私はミカ様のことが大好きだから」

 寺領は何の反応も示さなかった。新島は危険な人物という認識があるらしく、ことごとく絡もうとしない。

「とことん避けられてるな」おれはいった。

「別に私は好かれるためにミカ様に尽くしているわけじゃない。だから、何の心配もいらない」

 そう語る新島の瞳は涙で溢れかえっていた。

 ハンカチを渡すと、「ありがとう」といって涙をふいた。

「お待たせしました」

 美園は着物に着替えていた。

 蝶を扱った紫色の着物。

 鮮やかな色で彩られており、おれも新島も目を離せないほど華やかだった。

「派手な着物はこういう機会じゃないと着られませんから」香月はいった。

「普段から着物を着てるのか?」

「いえ、今日は透さんがいらしてくれましたから。……特別です」

「さっそくなんですけど、ゆかりちゃんが点てたお茶は飲ませてもらえるのでしょうか?」新島は興奮していた。

「もちろんです」

 ゆかり、と香月が呼びかけると美園は黙って頷き、釜の前に座った。

 一つ一つの所作には決まり事があるらしいが、素人なのでよくわからない。

 香月は美園のことを真剣な眼差しで見つめていた。間違いがないか見極めているのだろう。

 だが、美園は特に問題なくお茶を点てた。

 どうぞ、と差し出されたお椀を前にして、

「あの……恥ずかしながら、茶道の作法は習ってないんです」おれはいった。

「気にしなくていいわよ。今日の茶道教室はお休み。代わりに、お話に付き合っていただきますから」

「それでいいのなら、ぜひ」

 それでは、とお茶を一口いただいた。

 仄かな苦味。味の良し悪しはわからない。だが、美園が点てたお茶というだけで特別な気がした。

「お菓子おいしー」寺領はお茶に手をつけずに、お茶菓子ばかり食べていた。

「未夏、お茶も飲んでみたらどうだ?」

「私にこんな緑色の液体を飲ませるつもり?」

「今日はお茶を飲みに来たんじゃないのかよ……」

 寺領は痛いところを突かれたようで、言い返そうにも何も言えなかった。意を決してお茶を一気に呷った。

「うええ、苦いよう……」

「まだ、早かったか」

「これがゆかりちゃんが点てたお茶……!」新島はお茶を一気に飲み干した。嬉々として、顔の筋肉が緩みきっている。

「あっ、透ってばお菓子残してる。いただきっ」寺領はおれの分のお茶菓子を一つつまむと、そのまま口に放り込んだ。

「こらっ、意地汚いぞ!」おれも寺領の分のお菓子を一つとる。

「あーっ! 人のものを盗ったら泥棒だよ!」

「因果応報だ」

「お菓子はたくさんありますから。食い意地を張らなくても大丈夫ですよ」

 茶道教室では礼儀作法を叩き込まれると踏んでいた。だが、想像とは異なり、賑やかなお茶会となった。

 一時間ほど話すと、寺領がこの屋敷を探検したいと言い出した。

「また、そんなことを言う……。香月さんが迷惑するだろ」おれはいった。

「えー、別にいいじゃん。ここにいたって暇なだけだし。……いいよね?」

「どうぞ、お好きになさってください」香月は快諾した。

「香月さん……本当にいいんですか?」

「透も来る?」

「おれはやめておくよ。新島、悪いけど未夏を見張っててくれないか?」

「私でいいのか?」

「ほかに適任者がいないだろ」

「わかった、任せてくれ! ミカ様の面倒は私がみるから」

 だが、寺領の姿は見当たらず、すでにどこかへ行ってしまっていた。

 置き去りにされた新島は「ミカ様」と叫びながら、離れ屋から出て行った。

 特に行く場所もないので、縁側に座って庭を眺めた。

 多種多様な木や下草が人の手が加わったにも関わらず、あたかも森のなかにいるような錯覚に陥る。池や滝を用いた豪奢な庭でなくとも、居心地がよい。

 と、香月は飲み物を持ってきて隣に座った。

「いい庭ですね」おれはいった。

「庭師のかたに大切に扱っていただいてますから。統志郎様も同じことを仰っていましたよ」

「ジジイのこと知ってるんですか?」

「ええ。亡くなった夫と仕事でお付き合いがありましたから。あなたが今座っている場所がお気にいりで、ここに来るといつもそこから庭を眺めてましたよ」

「そうですか……ところで、ゆかりは?」

「お皿を片づけてもらってます。あの子は本当に手のかからない子です」

「未夏も見習って欲しいですよ」

「今日来ていた女の子ががもう一人の許嫁ですか?」

 香月は知っていた。寺領と美園が許嫁であることを。

「……ご存じなんですね」

「はい、ゆかりから。……もう、どちらと結婚するのか決まっていらっしゃるの?」

「結婚なんて考えてもいませんよ」

「あら、もしかしてほかに相手がいたりするのかしら?」

「そういう訳でもないんですが……ジジイのやり方に納得してないんですよ」

「婚約者を用意しておくことはよくある話じゃありませんか? きっと、統志郎様はあなたのことを心配してのことですよ」

「……余計なお世話ですよ」

 ごねるようにして、香月につかかってしまった。

 だが、子供をあやすことに慣れているのだろう。香月は気にもとめず、

「ゆかりはあなたのことを話すときは嬉しそうな顔をします」

「それはどういう――」

「意味はありません。……せっかく、婚約者同士という縁で結ばれたのなら、その縁を大切になさってください」

「そうですね――」

 急な眠気。視界が霞んでいく。意識も朦朧として、目を開けていられない。手に持っていた湯呑みをこぼしてしまった。香月に謝ろうとしたが、脱力感が全身を包み込んだ。



「あれ、ここは?」

 目が覚めると六畳間の部屋で寝ていた。

 縁側で香月と話していた記憶はあった。だが、その先が思い出せない。

「起きましたか、旦那さま」

 美園が声をかけてきた。蝶を扱った着物を着ている。

「…………旦那さま?」

「何を仰ってるのですか。私たちは新婚ほやほやの夫婦ではありませんか」

「……そうだっけ?」

 おれと美園はまだ結婚していないはず。そもそも、美園は結婚できる年齢に達していない。

 瞬間、頭に激痛が走る。考え事をしている余裕はない。早く横になりたくなった。

「ごめん。もう一度、寝させてくれ」

「でしたら――」

 美園は太腿をポンポンと叩く。頭を乗せるようにと誘っている。

 硬い畳の上で寝るより、幾分か寝心地はいいだろう。美園の好意に甘えることにした。

 小さな太腿に頭を乗せる。

「よろしければ、耳掃除しましょうか?」美園はいった。

「それじゃ、お願いするよ」

 唐突な申し出に断る元気もなかった。目を瞑り、美園に身を委ねる。丁寧な手つきで耳のなかを綺麗にしていく。痛みはない。

「いかがでしょうか?」美園は恐る恐る尋ねた。

「上手だよ」

「練習してきた甲斐がありました」

 美園に促されて、顔の向きを変える。

 柔らかい膝枕で横になっていると、安らぎを覚える。

 頭痛の痛みも治まり、気分も落ち着いてきた。冷静になって現在の状況を考える。推測するに、これは美園、若しくは香月が企画した新婚生活ごっこなのだろう。美園は乗り気なのに、邪魔をして水を差すのは気が引ける。満足するまで夫役を演じよう。

「香月先生とはどのようなお話をされていたのですか?」

「婚約者同士もっと仲良くしなさい、みたいなことを言われたよ。でも、急には無理な話だよ。相手はまだ小学生だし――」

「……透さんから見て、私はそんなに幼く見えますか?」

「そりゃあ、見た目は小学生だからな。恋愛対象としてはちょっと……」

つい本音が出てしまう。美園は黙り込んでしまった。

「私、早く大人になりたいです。そうしたら、きっと、透さんも認めてくれますよね?」

「認める?」

「その、大人の女性として……」

「焦る必要はないよ。もう一人の危なっかしいやつに比べれば全然」

「本当ですか?」

「もちろん――」

 途端、耳かきの動きが激しくなる。耳のなかを走り回り、鼓膜に届きそうなくらい奥へ入り込んだ。

「痛い痛い痛い痛い!」

 すいません、と慌てて耳かきを引っこ抜く。

 出血はない。大事には至らなかったようだ。

 時計を確認すると、午後七時。眠っていて気づかなかったが、ここに来てから随分と時間が経っている。

「そろそろ、夕食に致しましょう」

「そうだな……いや、待ってくれ。未夏はどこにいるんだ?」

「寺領さんなら帰りましたよ」

「それなら、おれたちも帰ろう。ご飯作ってやらないと」

 食事だけじゃない。八歳の少女を家に置いておくのは余りにも危険だ。

 おれの焦りとは対照的に美園は冷静だった。

「ご安心ください。真莉さんに面倒をみるようにお願いしておきました」

「……そうか」

 それならば一安心だ。

 席を立つ美園。夕食の準備にとりかかるのだろう。

「手伝うよ」おれも席を立つ。

「いえ、透さんは待っていてください。今日は客人ですので」

 美園の指示に従って、座り直した。

 料理はすぐに運ばれてきた。

 お吸い物に煮物、海老のてんぷら、鯛や鰹の刺身、日本料理の数々。一目見て豪勢な食事だとわかる。とても一般人が作れる代物ではない。

「この家には板前さんがいるのか?」

「香月先生が作りました。……私もお手伝いしましたから」

 香月の料理は文句のつけ所がなかった。見た目、味ともに一級品。高級料亭並みの出来だ。

 箸は進み、あっという間に完食した。

「よし。それじゃ、そろそろ帰るか」

「もう夜も遅いですから、今日は泊まっていきませんか? お風呂も沸いております」

「何言ってるんだ。明日も学校があるじゃないか。早く帰ろう――」

 言いかけてやめた。

 今は美園の旦那。

 旦那である以上、妻を悲しませることはしたくない。学校にしたって、明日早朝に起きて通学すればいいだけのこと。

 今日はとことん美園に付き合うことにした。

「風呂まで案内してくれ」

「……はいっ!」

 風呂を済ませて部屋に戻ると、一枚の布団が敷かれていた。

「私もお風呂に入ってきます」

 おれは布団に潜りこんだ。しかし、眠気は全くなかった。先ほど、中途半端に眠ってしまったからだろう。

 一時間は経っただろうか。まだ眠りにつけていない。

 と、襖が開く。

「お待たせしました」

「どうした? 忘れ物か?」

「明日の朝までご一緒してよろしいでしょうか?」

「それは――」

 おれたちは夫婦だ。夫婦同士なら一緒に寝てもおかしくはない。

 おれは布団をめくり、美園を招く。

 美園は「失礼します」と一声かけて布団に入った。

 美園の熱を感じる。風呂上りで、おれよりも体温が高い。

「これが初夜なんですね」

「そうだな」

 初夜といっても、特別なことをするわけじゃない。美園も言葉を知っているだけで、行為自体は知らないはず。

 いや、ここで教えるべきなのか?

 初夜を! 性教育を!

 美園は寝返りをうった。向かい合う。

「旦那さまぁ……」美園は寝言を呟く。どうやら、眠ってしまったようだ。

 幸せそうに寝息を立てる美園。おれが香月の屋敷に来てからずっと働いていたんだ。疲れが溜まっていたのだろう。変に意識していた自分が恥ずかしい。

 おれも眠りにつくことにした。

 翌朝。目覚めたときには美園の姿はなかった。

「やっと、起きましたか」香月はコップを盆にのせ持ってきた。

「香月さん」

 おれが倒れたあと、香月は一度も姿を見せなかった。香月からもらった水を飲んだ直後に異状な眠気に襲われた。

「その水には睡眠薬が入ってないでしょうね?」つい、疑ってしまう。

「入ってませんよ」

「……昨日の飲み物には?」香月から水を受けとり、一口つけた。

「さて、どうでしょう?」白々しく言い放つ。隠すつもりはないらしい。

「この夫婦ごっこも香月さんのアイデアですか?」

「はい。満足して頂けましたか?」

「そりゃ、もちろん! じゃなくて、間違いがおきたらどうするつもりだったんですか!」

「その辺は信用していますから」

「こういうことはもっと大人になってからだと思います」

「私はゆかりの味方ですから。彼女が幸せになるならなんだってしますよ。……それよりも、学校はよろしいのですか?」

「学校! 忘れてた!」

 今から行っても、二時限目に間に合うかどうかだ。諦めて、午後からの授業を受けることにした。

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