1-3

 学校から帰宅。

 すでに、真莉がソファーに寝そべってくつろいでいる。短パンの隙間から下着が見えてもおかしくない姿勢。なんとも無防備だ。

「お帰りー。遅かったね」

 寺領と風呂に入れるのは知り合いのなかで真莉しかいない。故に、彼女には自宅の鍵を渡してあるので、いつでも家に入れる。

 おれが用事で遅れて帰ってきたときにはリビングにいることが多い。

「遅刻したから反省文を書かされてたよ」

「学校に来たのが午後からだったからねー」

 香月の家から自宅を経由してから学校へ向かった。着いたのは昼休みが終わったとき。遅刻の理由は単なる朝寝坊と説明した。当然、担任の教師にこってり搾られた。

「ゆかりちゃんの通ってる茶道教室に行ってたんでしょ? 私も誘ってくれたらよかったのに」

「ごめん。急について行くことになったから、連絡するの忘れてたよ」

「真莉ー。お風呂ー」寺領はいった。

 真莉は浴室へ向かった。その間におれは夕食の準備にとりかかった。

 といっても、帰り道のスーパーで総菜を買ってきたので、おかずの用意は完了している。あとは味噌汁を作るだけだ。

「私もお手伝いいたします」エプロンを着た美園はいった。

 おれの担当は味噌汁の具材、美園は出汁を担当することになった。

 冷蔵庫から豆腐とネギをとりだし、食べやすい大きさに切っていく。美園は小皿に出汁をよそい、味噌汁の味付けをとても気にしていた。

「これでよろしいですか?」美園は小皿を差し出した。

 あいにく、手は空いていなかった。そのまま小皿に口をつけて飲む。

 薄すぎず、濃すぎない味。いい按配だ。

「うん。これでいいよ」

 あとは切った食材を入れて完成。

 風呂に入っている二人を待つ間、一息入れる。ダイニングテーブルで美薗と向かい合って座った。

「昨日は来ていただいてありがとうございました」美薗はいった。

「どうしてゆかりがお礼を言うんだ。貴重な経験をさせてもらったのはおれたちのほうだよ」

「いつも茶道を習うときは香月先生と二人きりでしたから。皆さんに来てもらえて本当に楽しかったんです」

「それなら行った甲斐はあったな」

「……あの、よろしければ、今後も茶道教室に通ってみませんか?」

「おれが?」

「はい。香月先生もきっと喜びます」

 茶道教室は二週間に一度。

 通うことは無理じゃない。だが、

「気が向いたらいくよ。……って、図々しいかな」礼儀作法を学ぶのは性に合わない。

「いつでもお待ちしております」

 しばらくして、寺領と真莉が風呂からあがった。

 おれと美園で食事をテーブルに並べて、四人で食卓を囲った。

「それにしても、透は幸せ者だねぇ」真莉はいった。

「なんだよ、急に」

「かわいい女の子に囲まれて食事ができるなんて」

「おれとしては料理してもらったほうが嬉しいんだけど……」

「まだこの子たちに料理は無理でしょ……あっ、この味噌汁おいしいね」

「おれとゆかりの合作だからな。初めのうちは、味付けの濃さにバラつきがあったけど、今じゃ絶妙の味加減だから」

「そんなことありませんよ」美園は恥ずかしそうに謙遜した。

 寺領は箸をおいて席をたった。荒々しく立ち上がったので、椅子の摩擦音がリビングに響く。寺領の突然の行動に誰もが箸をとめた。

 食べ残している食事を前に、

「……もういらない」

「まだ残ってるぞ」

 寺領は聞く耳を持たず、寝室に向かった。

「私、余計なこと言っちゃったかな?」真莉はいった。

「多分、ゆかりが作ったものは食べたくないのかもしれない。味噌汁、残してるし」

 すいません、と美園は謝った。

「ゆかりは気にしなくていいよ。……最近になって未夏の態度が露骨になってきてるんだよな」

 特におれと美園が話したあとの機嫌は最悪だ。

「透としては仲が悪い原因ってのは分かってるんじゃないの?」

「そりゃ、未夏は親から〝美薗とは仲良くするな〟って言われてるから」

「……ほかにもっと大きな原因があるでしょ」

 まるで原因を知っているような口ぶりだった。

 真莉は美薗を気にかけながら、

「ゆかりちゃんをえこひいきしてるんじゃない?」

「そんなことは――」

 ない、と言いきれなかった。

 日常生活において協力的なのは美園のほうだ。当然、美園を褒める機会が多くなり、寺領を引き合いに出す場合も増える。意識はしていなかったが、どこかで寺領と美園を比べていたのかもしれない。

「もしかして、図星だった?」

「心当たりはある……」

「なんにせよ食事のときくらい、いい雰囲気を作りなさいよ」

「それっておれの役目?」

「当たり前じゃない。この家の主人でしょ!」

 ピリピリした雰囲気での食事は御免だ。二人のためにも――なによりおれたち三人のために、一肌脱ぐしかない。



 翌日の放課後。

 寺領はあれから拗ねたままで、機嫌が悪い。

 事態が長引くのは避けたい。対策を考えるべく新島に相談することにした。

 婚約者の話を教室でするわけにもいかない。新島には屋上にきてもらった。昨日の出来事を話している間、新島は静かに耳を傾けていた。

「そうか、ミカ様がそんなことを……」

「これって注意したほうがいいのかな?」

「頭ごなしに注意しても効果が薄いと思う。ミカ様が苛立つ原因を解消したほうがいい」

「ゆかりをどうにかしろってことか?」

「それだけじゃないだろう。例えば、親元を離れて暮らし始めたからストレスが溜まっているとか」

 確かに、我が家に引っ越してからもあまり眠れていない様子だった。暮らす環境の変化に心も体も順応出来ていないのかもしれない。

「ストレスを発散させるいい方法なら知っているが――」

「本当か!」

「古来より幼い子供をあやす必殺技だ」

 新島は両腕を開き、人を包みこむ――抱きしめるジェスチャーをした。

「それはやりすぎじゃないか?」

「親戚の子供なら大丈夫な気もするけど……それなら私が代わりにやってやろうか?」にやつく新島。

 結構だ、と断る。

 どうにも、打開策が見つからない。寺領と美園を引き離すことが一番なのかもしれないが、それだと統志郎の約束が反故になってしまう。そもそも、人間関係をどうこうしようってのが間違いなのかもしれない。

 雲行きが怪しくなってきたところで新島は、

「他の人の意見も聞いてみたらどうだ? マネージャーの黒崎さんとか」

「黒崎さんのこと知ってるのか?」

「よく、インタビューでミカ様が話してるからな!」新島は胸を張った。

 確かに、黒崎から話を聞くのも悪くない。マネージャーとして常日頃から寺領を見ている人の意見は貴重だ。

「ありがとう新島。相談にのってもらって」

「私と神崎の仲だ。声をかけてくれたら、いつでも相談にのるぞ」

 新島はサムアップした。とても頼りがいがあり、寺領に対する異様な執着心さえなければまともな人なのだろう。

「ここにいた」

 と、屋上のドアから真莉が顔を覗かせた。

「何してたの?」

「神崎の相談に乗ってたところだ」喜々として新島は答えた。

 あー、と興味なさそうに真莉は、

「昨日、話してたやつね。……まさか、新島さんに相談してるとは」

「それよりどうしたんだ。こんなところに」おれは真莉に尋ねる。

「昼休みにね、部活の集会があったんだけどさ……そのときに、透のことを話したらぜひ入部してほしいって言われて」

「えっ!」

 料理に関しては全くの無知で簡単な自炊ができるレベル。それにも拘らずにオファーがくるとは。真莉はいったい何を話したのだろうか。

「みんな作るのは好きだけど、食べる人が少なくて……要するに、透には食事係としてきてほしいの」

「そっちですか……」

 とにかく来て、と真莉。新島に別れを告げて、料理部の活動場所である家庭科室に向かった。

 家庭科室に入ると、奇異の目でじろじろと見られた。

 前に聞いていたとおり、料理部には女性しかいなかった。

「部長、この人がさっき話した人です」真莉に紹介してもらう。

「いい体してる……」

 部長と呼ばれた女は視線を上下に這わせて、おれの体を吟味した。口角を上げて、うんうんと頷く。

 料理部の部長の髪は腰まで長さがあった。髪はぼさぼさしていて、手入れはあまりされていないようだ。目の下には薄く隈ができていて、肌も青白く虚弱な印象を受けた。

「よく食べてくれそう」

「ああ、そういう意味ですか……」

 改まって自己紹介をする。

「神崎透です」

「妹がお世話になってます」料理部の部長は頭をかなり下げて、挨拶をした。

「妹?」

「はい。礼奈がよくあなたのことを話してますよ」

「礼奈って、……新島礼奈のことですか?」

「うん。姉の新島紗代です」紗代は弱々しくピースサインをした。

 いったい新島がおれのことをどう話しているのか気になったが、話が逸れそうなので聞かなかった。

「真莉さんから話は聞いてる?」

「料理部の食事係のことですよね?」

「そう。とっても簡単……食べるのは好き?」

「大好きです」

 紗代から改めて説明を受けた。

 料理部の活動は週に二、三回程度。

 できた料理を食べるだけなので、拘束時間も短い。食事係として招待しているが、作る側にも回ってもいいらしい。

 男子はいないが、同じクラスの女子ならちらほらと見かける。これは友達を作るチャンスだ。

これ以上にない、いい条件。

「入部します!」迷いはなかった。



 帰宅。夕食を済ませて、リビングで一休み。料理部へ入部することが決まったことを彼女たちにも話しておこう。料理部に所属するので、その分帰宅時間は遅くなる。家事の役割分担を見直すことも考えておく必要がある。

「部活……? そんなのダメに決まってるじゃん」寺領はいった。

「どうしてだ」

「そんなことしたら誰がご飯作ってくれるの」

「……薄々勘づいていたけど、おれのことお手伝いさんだと思ってるだろ?」

「実質そうでしょ」

「くっ……! ゆかりは賛成してくれるよな?」

 話を振られた美園は少し考え込んでから、

「透さんが部に所属してしまったら、その分一緒にいる時間が減ってしまいますから。……反対です」

 反対票が二つ。反応は芳しくない。

「……って、二人とも習い事してるくせに、おれだけ何もするなとはどういうことだ」

「何言ってんの? 私は透に反対されたってモデルは辞めたりしないから。あくまで私は私が思ったことを言っただけ」

「ぐっ……!」言い返せなかった。

「でも、もし入部したら料理は持ち帰ってきてね」

「おれが食べるから持ち帰りはない!」

 反対はしているが特に無理強いはしないようだ。これなら、料理部に入部しても問題ないはず。

 部活動の件は解決した。抱えている問題はあと一つ。

 未夏、と呼びかけて、

「黒崎さんの連絡先を教えてくれないか?」

「……まさか、手を出すつもり?」

「緊急連絡用だ。……第一、黒崎さんがおれのことを相手にする訳ないだろ?」

「それもそっか」

 ちょっと待ってて、と寺領は黒崎に連絡先を教えてよいか確認する。

 どうやら、許可が下りたらしい。黒崎の連絡先を手に入れ、さっそく連絡をとった。

 黒崎からすぐに返信があり、相談に応じてくれるとのこと。

 翌日、ファミレスにて。

 忙しいなか、時間をくれた黒崎には感謝しかない。黒崎曰く、寺領の精神面もサポートすることも仕事のうちなので、これからも寺領のことに関して積極的に話して欲しいそうだ。

「未夏の性格?」黒崎は頭を悩ませる。

「見た感じのままというか……素直な子だからさ。嫌いなものは嫌いって言っちゃうんだと思う。まだ、小学生だから感情のコントロールも上手くいってないはずだから」

 なるほど、とおれは頷いた。

 黒崎は話を続ける。

「これから歳を重ねるにつれて、社会性も身についてくる予定なんだけど。……もしかしたら、あのまま大人になるかもしれないね」

「ありえそうで怖いです……」

「それなら、透君が未夏を大人にしてあげればいいんだよ」

「そういうことは黒崎さんのほうが向いているんじゃないですか?」

「大人が教えるよりも子供同士で育んでいった方が上手くいくものなの」

「……なんだか、面倒事を押しつけられているような気もしますが……」

 おれが寺領を大人にする。

 つまり社会性を高めるレッスンをすればいいのだが、問題はどのようにするかだ。

 どうすべきか考えていると、「そうそう」と黒崎は思い返したように、

「この間の撮ってもらった写真よかったわよ」

「ありがとうございます」

 予定通り撮影した寺領の写真は雑誌に載ることになった。もちろん、公園でずぶ濡れになっているという絵面は雑誌のなかでも寺領だけで奇抜な印象を与えていた。

 記念に買った雑誌は今もおれの部屋に置いてある。

「それでさ、うちの事務所でも評判になって……。今度、カメラマンとして未夏以外の人も撮って欲しいんだけど」

「お断りします!」

 えぇー、と黒崎は子供のように拗ねる。

「少しくらいいいんじゃない?」

「おれは将来、カメラマンになる予定はありませんから」

「……うちのタレント、美人が多いよ?」

「興味ありませんから!」

 とにかく、収穫は得た。あとは実践あるのみ。

 ファミレスから帰宅。

 寺領はいつものようにソファに寝っ転がっている。

 美園は香月宅へ出払っている。今がチャンスだ。

「今、時間は大丈夫か?」

「いいけど……何?」

「大人になる特訓をしないか?」

 しばらく、見つめ合った。否、おれを軽蔑するように睨んでいた。寺領は大きなため息を吐いてスマートフォンを弄り始める。

「無視するな!」

「だっていきなり変なこと言うんだもん」

「……おれは真剣に話しているんだ」

「用件はなんなの?」

「これから嘘をつく練習をするぞ」

 おれが考えた最強の教育論。子供に嘘をつく練習をさせること。

 嘘つきは泥棒の始まりという諺がある。その影響で嘘イコール悪と捉える人も多いが、嘘も方便という諺があることもまた事実。厳しい人間社会を生き抜く上で嘘を使い分けられる人間に育てることは大切なことだ。

「やだ。どうして、そんなことしなくちゃならないのよ」

 早々に断られる。だが、予想通りだ。

「未夏……世の中には気の合う人だけがいるわけじゃない。これから、いろいろな人と付き合っていかないといけないんだ。もし、嫌いな人が目上の人だったらどうする? 悪い態度をとるわけにはいかないだろ?」

「目上とかよくわかんない」

「要するに、どんな相手にもいい印象を与える必要があるんだ」

「そのために嘘をつけと?」

「そうだ」

「めんどくさい」

 一向に乗ってこない寺領。

 仕方がない。寺領が乗り気になるような条件を提示しよう。

「練習に付き合ってくれたら何でも言うことを聞いてやろう」

「なんでも?」寺領は起き上がる。興味津々といった様子だ。

「嘘じゃないよね?」

「本当だ。……それで、練習に付き合ってくれるのか?」

「いいけど……嘘をつけってどうするの?」

 特にこれといった嘘をつく事柄が思いつかなかった。ならば、おれ自身も楽しめそうなことにしよう。

「おれのことを好きになってもらう」

「できるわけないでしょ!」

「大丈夫。嘘でいいんだ。フリをするだけでいい」

 寺領の顔が苦悩で歪む。己の尊厳を優先するか、利己を優先するかで迷っている。

 意を決した寺領は、

「……いいよ。やってみる」

 途端、手を引かれて寺領の隣に座った。

「付き合い始めてもう一年になるね」寺領は腕を組んで目を輝かせる。

「え! ……そうだな」会話を合わせる。

 さすが子役。役作りが早い。

 寺領の発言から察するに彼氏彼女の関係のようだ。

 腕にしがみついている寺領はなんとも愛らしい。演技だと分かっていなければ、騙されるところだ。

「くっつきすぎじゃないか?」

「付き合ってるんだからこれくらい当然だよ。……それとも私のこと嫌い?」

「好きに決まってるだろ」おれも役になりきる。

「ゆかりより、好き?」

「未夏以外、好きになるわけじゃないか。君にぞっこんラブさ」

 花瓶の割れる音。

 美園が呆然と佇んでいた。割れた花瓶は気にも留めない。花瓶に活けてあったであろう花は落ちた衝撃で潰れていた。

 美園は花瓶を拾うこともせず、無言でその場をあとにした。

「今のは嘘だっ!」

 美園に呼びかけた。が、反応はない。

 寺領は不機嫌そうに、

「それってどういう意味?」

「未夏の演技に付き合っただけだ」

「……それじゃ、ゆかりのほうが好きってこと?」

「だから、演技だ。深く考えるんじゃない」

 寺領の拳が腹部に直撃する。こみ上げる嘔吐感。

「……知らないっ!」

 咳き込んでいるうちに、寺領は自室へ戻っていった。リビングにただ一人取り残される。寺領と美園との関係がだんだんと悪化しているのを感じた。主におれのせいで。

 同棲生活の先行きが不安になってきた。



 授業に集中できないまま昼休みを迎えた。

 昨日、寺領に嘘をつく練習を施したが成果は得られなかった。むしろ、火に油を注いでしまった。加えて美園との関係にも亀裂が生じた。

 今朝、美園に弁明の機会を伺ったが、相手にしてもらえなかった。

 おれたちの関係が悪化して同棲生活を続けることが困難になれば、実家に帰還命令が下されることも充分あり得る。それはなんとしても防ぎたい。

 と、考え込んでいるうちに五時限目のチャイムが鳴った。

「神崎透はいるか」担任の教師が教室に顔を覗かせた。

「どうかしましたか?」返事をして廊下へ出る。

「先ほど、学校にお前の妹さんから連絡があってな――」

「妹?」

 話によると、妹が熱を出して小学校を早退したそうだ。両親とは連絡が取れなかったので、兄であるおれに連絡したらしい。

「熱を出した子供を一人にするわけにもいかずに困っているらしい。今日の授業はもういいから、帰ってやってくれないか?」

「……わかりました」

 すぐさま、教室に戻って帰り支度をした。

 帰宅。玄関には美園の靴と女性用のパンプスがあった。

 美園は自室で寝込んでいた。苦しそうな息遣い。ときおり、咳き込んでいた。眉間に皺を寄せて苦しむ様は、見ているほうも辛い。

 傍らには見知らぬ女が付き添っていた。四十代前半で黒縁眼鏡をかけた女は自己紹介を始めた。

 どうやら、美園の通っている学園の保険医らしい。

 保険医は事情を説明した。美園は授業中に倒れ、保健室に運ばれた。体温が四十度を越えていたので病院に寄ってきたそうだ。

 検診の結果ではただの熱で、安静にしていれば治る見込み。結果を聞いて安心した保険医が美薗を家まで送ってくれた。

 ほっと胸をなでおろす。大事には至らなくて一安心だ。

「あなたが美園さんのお兄さん? 親御さんは今日、家に帰ってくるのかしら?」

「いえ、両親は仕事で海外にいるので……おれだけです」

「こういうときこそ、親御さんがついてあげて欲しいんだけどね……って、あなたに愚痴ってもしょうがないか」

 それじゃ、美園さんのことよろしく、と保険医は家をでた。

 保険医の代わりに付き添っていると、美園は目を覚ました。

 じっとこちらを見つめながら、

「透さん……? どうしてここに? 学校はどうしたんですか?」

「休んだ」

「いけません……! 私は平気ですから早く――」

 美園は激しく咳き込んだ。

 起きようとする体を再び寝かせつけた。

「無理するな」

「すいません。迷惑をかけて……」

 声はかすれて力がなく、目を開けることすら苦しそうだった。

 季節的には珍しい熱だ。引っ越してから一カ月も経っていない。環境の変化に体がついていけず、体調を崩したのか。

「薬は飲んだのか?」

「食後に飲む薬がありますが、食欲がなくて……」

「わかった。簡単なものを作るよ」

 キッチンに向かい、スマートフォンで検索したレシピをもとに料理をする。

 できた料理を美園に持っていった。

「おかゆ……ですか?」

「そうだ。……一口でもいいから食べれるか?」

「すべていただきます」

 おかゆを食べようと起き上がろうとした美園を静止した。

「無理するな。おれが食べさせてやるから」

「でも――」

「はい、あーん」

 一口分のおかゆを冷ましてから、美園の口元へ近づける。

 美園は観念したように、小さな口を開けた。おかゆを味わうように咀嚼する。

「おいしいです」

 声には力がなかったが、笑顔をみせた。

 おかゆを食べきった美園を寝かせて、お椀を片づける。

 キッチンへ向かう途中、寺領と遭遇した。

「学校はどうした!」

「そっちこそ!」

 何も言い返せなかった。

 どうやら、寺領も美園のことが心配で早退したそうだ。美園を気遣う気持ちが寺領にもあったとは。

「…………ゆかりなら、部屋で寝てるよ」

 寺領は寝室へ入っていった。

 キッチンで洗い物を済ませる。と、寺領がリビングにやってきた。

「ごはん食べさせてあげてたんだ」むくれっ面で文句をいってきた。おれと美園のやりとりを聞いてきたらしい。

「え? そりゃ、病人に無理はさせられないからな」

「……私もおかゆが食べたい」

「あれは病人が食べるものであって、元気な奴が食べるものじゃないぞ」

 それでも、と駄々をこねる寺領。

 仕方なく、もう一人分のおかゆを作る。寺領は手伝いもせず、おれの後ろに張りついている。作っている様子を眺めて、まだかまだかと急かしてくる。

「できたぞ」

 寺領はおかゆを前にして、手をつけようとしない。やがて、見せつけるかのように口を開けた。

「……何してんの?」

「ゆかりと同じことしてよ」

「……あのな、ゆかりは食べる元気がなかったからやったんだ」

「私も元気ないからー」

 寺領は一歩も引かない。要求を拒み続けてもいたちごっこになることは分かりきっていた。無益なやりとりは避けたい。寺領のおねだりを聞くことにした。

 あーん、と呼びかけてスプーンを寺領の口元に近づける。餌に食いつく動物のようにぱくっと食いつき、ゆっくりと咀嚼してから飲みこんだ。

「……あまり、おいしくないね」

「おかゆだからな」

「透も食べさせてあげようか?」

「いらん!」

 おりから、リビングに真莉がやってきた。額に汗を滲ませながら息を切らしている。学校が終わってすぐ家にやってきたのだろう。

「ゆかりちゃんは?」

「ゆかりが倒れたってどうして知ってるんだ?」

「透が下校したあとで先生に事情を聞いたからだよ! それで、ゆかりちゃんは何ともないの?」

 真莉は美園の部屋に向かった。数分後、リビングに戻ってくる。

「そこまで深刻じゃなくてよかったよ」

「あとは治るのを待つだけだな。……彼女たちの保護者はやっぱりおれになるよな」

「何かあったとき傍にいてあげたいよね」

「…………そうだな」

 真莉は寺領との風呂を終え、夕食を済ませた。帰ろうとする真莉を呼び止める。

「何?」

「料理部のことなんだけどさ……入部するのやめるよ」

「どうして?」

「彼女たちに何かあったとき、なるべくおれが傍にいたほうがいいかなと」

「そっか。それもそうだね」真莉はいった。一瞬、寂しそうな顔をみせた。

「それじゃ、このことは私から部長に伝えておくから」

「すまない」おれは真莉を見送った。

 美園は安静にしていれば治るということで付き添うことはしなかった。

 静かな夜だったが、どうにも寝付けない。水を飲もうとリビングに向かう。美園の姿があった。

「歩いて大丈夫なのか?」

「はい。熱も治まってきましたから」美園はコップに水を注ぎ、椅子に座った。

 頬の赤らみはひいていない。足元もおぼついていなかった。大丈夫そうには見えなかった。

「少し……お話ししますか?」

「でも、ゆかりは寝てなくちゃ――」

「だから、少しだけ……です」

 そう話す美薗の目は虚ろで、儚くて、大人びていた。その瞳に気圧されてしまったのだろう。おれは椅子に腰掛けた。

「それでは説明してもらいましょうか」

「え?」

「昨日のことをです」

 美園の誤解を解くいい機会だ。

「昨日のアレは寺領を大人にするための練習なんだよ」

「いちゃいちゃすることがですか?」

「寺領にはおれを好きになったフリをしてもらってたんだ」

「それが大人になることとどう関係するのですか?」

「常日頃から嘘をつくことによって、厳しい現代社会を生き抜く力を身につけることができる――」

 説明すればするほど墓穴を掘っている感覚に陥る。美園の表情も険しくなっていく。

 これ以上、この話を引き延ばすのは得策ではない。

 もとを正せば、寺領と美園の仲をとり持てばいい話だ。誤解を解くのではなく、これからのことを考えよう。

「……昨日のことは度が超えていたと思ってます」おれは頭を下げた。

「もうやっちゃダメですからね」

 では、どう取り持つ? 注意することではなく、レッスンを施すことでもない。互いの思いを知る時間が欲しい――話し合うべきなんだ。

「未夏を呼んでくる」

「え?」

「人付き合いに回り道などなかったのだ!」



「第一回、神崎家会議~」

 イエーイ、と合いの手を入れる。二人はテンションの高さについてこれず、乗ってこない。

 話があるからリビングに集まってくれ、とだけ伝えて、寺領を呼び出した。

「……こんな夜遅くにどういうつもりよ」寺領は大きなあくびをした。

「議長は私、神崎透が務めます」

「だから、どういうつもり!」

「落ち着くんだ未夏。おれたち三人はここで暮らし始めてしばらくたった。お互いの良いとこ悪いとこも分かってきたと思う。だが最近、君たちの仲の悪さは目に余る」

「……どこがよ」

「未夏っ!」

「なによ」

「ゆかりの作るご飯がそんなに気にいらないか?」

「食べたくないものは食べないだけ」

「おれたちは共同生活をしている身だ。助け合って暮らしていかないとな」

 寺領は黙ったまま、返事をしない。

「ゆかりっ!」

 呼ばれると思っていなかった美園は「はひっ」と声をあげた。

「未夏から何かされても、黙ったままじゃ何も解決にならないのは分かってるだろう。言い返せないなら、おれに言うんだ」

「……また、ゆかりの肩を持って……!」

 目に涙を溢れんばかりに溜めた寺領。怒りで肩を震わせ、そのまま家を出た。

「寺領さん!」

 追いかけようとする美園を止めた。

「ゆかりは家にいてくれ。おれが行く」

 エントランスを出たときにはもう寺領の姿はなかった。この暗闇のなかだ。寺領が当てもなく家から離れるとは思えない。

 行き先に目星をつけて、夜の道を走った。

「やっぱり、ここか」

 走って五分ほどで着く近所の公園――寺領を撮った公園だ。

 周りに人気はなく、聞こえるのは虫のなき声だけ。足音がやけに響いた。外灯の明かりに照らされ、寺領はベンチに座っていた。

「夜の一人歩きは危険だぞ」

「……なんでここにいるって分かったの?」

「未夏の行き先なんて、学校か撮影現場かここぐらいだろ」

 寺領は癪に障ったのか、フンと鼻を鳴らした。

「私、あの子が嫌い」

「ゆかりは優しい子だよ」おれは寺領の隣に座った。

「誰にでもね。ああいう八方美人は信用できないし、気に入らない」

「そんな言い方……」

「美園家の者と仲良くするな、って言われてるけどそんなの関係ないんだよ」

「嫌いになった原因はあるのか?」

「人を嫌いになるのは理屈じゃないじゃん。……けど――」ベンチの上で蹲るように膝を抱えて、ぼそりと呟いた。

「……透をとられるのは嫌」

「とられるって……物じゃあるまいし」

「茶道教室に出かけようとしたとき、置いて行かれると思った」

「そんなことは――」

「一人にしないでよ……!」

 感情の矛先を失った寺領は自分のなかで抱え込むしかなかった。彼女を一人にしてしまったのは寺領の両親であり、神崎家であり、おれだ。

 成長しようとする心が生活環境に追いつけないこともある。そういったことへの配慮に欠けていた。

 そんな彼女を抱きしめた。

 華奢な体だ。

「ちょっ、離れてっ……!」

 寺領の言葉とは裏腹に突き飛ばそうとはしなかった。やがて、体を預けるように寄りかかってきた。

 顔を胸にうずめて、瞼をシャツで拭った。

「……泣いてるのか?」

「違う! 私がいいって言うまでそのままにしてて……」

 寺領の許しを待つ。

 と、顔をうずめていた寺領は力を無くしたように動かなくなった。確かめると、気持ちよさそうに寝息を立てている。寝てしまったらしい。

「言うだけ言って、満足したら寝るのか……まぁ、年相応かな」

 おれは寺領をおんぶして自宅へ戻った。



 翌朝。

 朝の食卓を三人で囲んだ。

 三人とも無言で黙々と食べる。食事が終わると、寺領は学校へ行く準備を始めた。

 ランドセルを背負い準備万端の寺領は、

「いつまで待たせてんの、ゆかり。置いてくよ」

 これまで登校する時間を避けていた寺領が美園を誘った。

 美園は驚いて、きょとんとしていた。が、すぐさま学校へ行く支度に取りかかった。

 おれの視線に気づいた寺領は、

「仲良くしようとかそういうのじゃないから。同じ家に住む者としての最低限の礼儀だから」

 言い訳がましく理由を並べる寺領を眺めていると、自然と頬が緩んだ。

「ニヤニヤするな! いくよ、ゆかり!」

 寺領の後を追うように、美園も急いで家をでる。

 いってきます、と笑顔で美園はお辞儀をした。

 憑きものがとれたようにすっきりとした、晴れやかな笑顔だった。

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