第二話

「陸上って何が面白いの? 走るだけだろ?」

 高校に入学したばかりの頃、既に陸上を始めていた正吾に僕は訊いた。

 当時、部活を決めかねていた僕はあくまで参考にしたいだけだったのだが、今にして思えばかなり失礼な質問だ。

 しかし彼は怒りもせず、いつものように気の抜けた返事をした。

「それなー」

「それな、って」

 更衣室で体操服に着替えながら僕は眉を寄せる。正吾は引き締まった身体に

「俺にもよく分かんねえんだよな」

「面白くないのか?」

「あーちがうちがう。陸上の面白さって、言葉にしにくいんだよ」

「そんなもんか」

 これはバレーボール部で決まりかな、と僕の心は固まりかけていた。当時読んでいたバレー漫画にドはまりしていたからだ。

 そんな僕の心中をよそに、のんびりと長袖ジャージに腕を通す正吾は「そうだ」と言った。

「次の体育始まる前にさ、一本走らねえ?」

 走れば分かるからさ、と彼が言うので。

 僕は迂闊にも「いいよ」と頷いてしまった。


***


 彼はとんでもないスピードで駆け抜けていった。

 羽のような軽やかさで、しかし弾丸のような凶暴さで、真っ直ぐに。

 僕がいくら腕と脚を動かしても、差はどんどん開いていく。まったく話にならない。くっきりと残る足跡を必死で追いかけても、彼はもうすでにゴールに到達していた。

 なんで?

 僕には意味が分からなかった。

 同じ十七歳。

 同じ高校に入学して、同じクラスで授業を受ける彼は、僕とはまったく違う生き物だった。

「どうだった?」

「……すごかった。速すぎ」

「へっへーん」

 膝に手をついて息を切らす僕に、正吾はわかりやすく得意げに胸を張る。

「本気だったろ」

 彼は口の端で小さく笑った。

 春風が頬を撫で、身体の熱を心地よく掬い取って流れていく。

「俺も本気で、お前も本気だった。ただ走るだけなのにさ」

 正吾は涼しげな顔をして、やわらかな風に前髪を揺らす。

「だから陸上は面白いんだ」

 確かに僕は本気だった。けど彼の本気には到底及ばなくて。

 彼は別格の存在で、僕は彼になれる気がしない。

 でも、もしも。


 ――あの背中に手が届くとしたら、そのとき僕は何になっているんだろう。


「……僕、もっと速くなれたりする?」 

「陸上部は自分の本気を底上げするトレーニングをしてるぜ」

 正吾は僕の顔を見て、ニヤリと笑う。そしてはっきりと言い切った。

「お前は絶対もっと速くなる」

 コースを振り返る。そこには二人分の足跡が残っていた。

 どちらが自分のものかなんて、明白だ。

「……そっか」

 気付けば、僕は拳を握っていた。

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