第一話

「汗かいた後のポカリって何でこんなに美味いんだろうな」

「僕もポカリは好きだけどさ。でも」

「冷たいポカリが火照った身体に染み渡って、ほんと極楽浄土って感じするよな。甘くて美味いし」

正吾しょうごは甘党だもんな。でも」

「ポカリに合う最強のつまみってなんだろ。柿ピー? 幸一こういちは何だと思う?」

「でも部活中だよ?」

 校舎から伸びる影で息をついてポカリを煽る彼に僕は言う。

「おい成田なりた! 早くスタートにつけ!」とグラウンドから強面を引き攣らせた監督の怒鳴り声が聞こえた。右手に持つピストルがその迫力を助長させている。 

「ほら、怒ってんじゃん。早く行かないと」

「おーこわ」 

 へらっと笑って、正吾はもう一口ポカリを飲む。 

「あんまり怒らせないでよ。機嫌悪いと大変なんだから」

「へーきへーき。いい記録にはいい休息が必要なんだぜ」

 それに、と彼はニヤリと笑った。

 砂を纏った温い風が吹いて、彼の前髪を揺らす。空になったコップをマネージャーに手渡して、彼は乾いた日向へ踏み出した。

「どうせ記録伸ばせば、すぐ機嫌直るんだからさ」


***


オンユアマークス位置について

 その声で、両足をスターティングブロックに乗せ、後脚の膝を地面につける。

 両手は肩幅より少し広げて指先を地面に置く。

セット用意

 後脚の膝を持ち上げて、前脚の膝は90度に曲げる。

 呼吸を整え、意識を聴覚に寄せる。


 ――ピストル音が響いて、前脚を強く蹴る。


 重心を前に傾けながら、腕を振り上げ。

 次の脚で地面を蹴り上げる。

 自分の身体を0.01秒でも速く、100m先へと運ぶ。 

 100メートル競走とは、そういう競技だ。

橋川はしかわ、タイム落ちてるぞ。どこが悪いかはわかってるな」

 フィニッシュラインを越えた僕は息を乱しながら監督からタイムを聞く。自己ベストより0.28秒も遅い。スタートが出遅れたせいだ。

 僕がフォームの確認をしつつもう一度スタートに向かっていると、ピストルの音が鳴った。

 風が、吹き抜ける。

 そんな錯覚を覚えてしまうほどのスピードで、彼は空を切るように僕の横を走り去っていく。

「おお、いいぞ成田! 新記録だ!」

 ストップウォッチを見る監督は喜びを隠さずに言った。それを聞いた正吾はこちらを見てニヤリとする。

 完全に彼の思惑通りだが、監督が喜ぶのも無理はない。彼の新記録とは、日本高校記録の更新に等しいのだから。

 昨年の全国高校総体男子100m優勝者にして日本高校記録保持者。

 現在日本で一番速く走る高校生が、この成田正吾という男だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る