春奏

@_naranuhoka_

春奏

 春奏


 夜の桜のはなびらは、白や薄紅というより、ほの蒼い。肩に乗った花弁をゆびでつまんではらうと、こころなしかしっとりと濡れてつめたかった。

 いつもの木の下に場所を見繕い、楽器ケースを置いてフルートを取りだす。みんな、ちらちらとこちらを見ているけれど足を止める人は一人もいない。マスクで表情が隠れているけれど、意地悪な、ためすような視線を感じる。銀色につやめく楽器に視線がそそがれている。どうだっていい。膝小僧の上でプリーツスカートがかすかに揺れた。

 マスクをはずす。吹き口にくちびるを押し当てる。細く息を吹きこむと、フルートと自分の身体がつながって一本の管になる感覚がした。鋭い三日月のような、銀色めいた音が流れ出す。

 楽譜もおかず、立ったまま演奏をするわたしへのまなざしがかすかに種類を変えるのが肌でわかる。ぽつぽつと人が足を止め、近づいてくる人がいる。遠くで身体を揺らしながら曲に聴き入っている人がいる。親の手を引きながらこちらを指差す子供がいる。その誰に向けてでもなく、音楽は流れ、渦をつくり、やがて場を支配する。

 フルートの音は甲高く、細い。紬の演奏は鋭すぎる、と先生や親は顔をしかめるけれど、わたしはわたしの生み出す音楽が好きだ。

蜘蛛が細く透明な糸を吐きだしながら完璧な図形をつくるみたいに、音が一つひとつ光を放ちながらつながっていく。「川の流れのような音楽、って表現はよくあるけど、あなたの音はあながち火花ね」とフルートの先生は言う。

 気がつけば、距離をたもちながらもわたしを中心にして聴衆が油膜のようなゆるい半円をつくっていた。そんなつもりはなかったけれどひらっきぱなしの楽器ケースにお金を入れる人も表れた。礼儀としその人に向けて楽器をすこし傾けて見せる。

 視線を斜め右に動かした途端、音が揺れた。慌てて意識して戻すけれど、心臓がばくんと大きく前にはねた。

 同じ制服を着た人が、いる。

 一刻も早く立ち去りたかったけれど、曲はまだ終わらない。しょうがないのですこしピッチを上げて、彼女に背を向けるようにして演奏する。結局、彼女は途中で去る気配もなく、ずっとそこに立っているようだった。音が火花ではなく、ただのつまらないあぶくに変わる。集中しきれないまま曲を終えた。

拍手はそれなりに盛況だったものの、演奏のできは散々だった。本当ならあと二曲ほど奏でる予定だったけれど、さっさとしゃがみこんで楽器ケースにフルートを戻す。人々が散らばっていった。何人かがお金を渡しに来たけれど、それすらわずらわしかった。

「三島さんだよね」

 若い女の子の声。よほど無視しようと思ったけれど、素性を知られているのに無視しても意味がないと気づき、のろのろと顔を上げた。黒いウレタンマスクをしてはいるけれど濃いアイメイクをしたけばけばしい女子高生がじっと見下ろしている。

 顔は確認していなかったけどなんとなくそうだとは薄々気づいていた。ももを大きくだしたミニスカートの丈に見覚えがありすぎた。

先週のクラス替えで同じになった椎名春だ。一年の時も同じクラスだったからフルネームで言える。

「びっくりした。うちの学校の子が演奏してるからちょこっと見に来たら、知ってる人だったんだもん。上手いね、プロみたいじゃん」

「……家この辺じゃないよね。なんでいるの」

 わたしの返事に、椎名春はぎょっと目を見開いてあとずさった。ヘーゼルナッツのような色のカラコンが、ぽとりと落ちてきそうだ。

「え、なに。三島さんってしゃべれるの?」

「学校以外ではね」

 幽霊でも見たような顔に、傷つかないわけでもなかったけれど、あまりにも椎名春の反応が予想通りでいっそ笑いたくなった。けれど、椎名春はこうつづけた。

「えー、声超きれい。なんか、さっきのフルートみたいな声だね。初めて三島さんの声聴いた、へえ、こんな感じなんだ」

 思ってもみない感想にぎょっとなって今度がこっちがかたまる番だった。椎名春はしゃがみこんでわたしと目の高さを合わせてぺらぺらと言う。

「ねえ、外なら声出るんでしょ? 夕飯食べようよ、あたし予備校が御茶ノ水なんだけどさ、今日授業じゃなくて自習の日だから、全然行ける。ね、ロイホいこ。あ、お金なかったらジョイフルでもいいけど」

サラリーマン二人組が、椎名春のむきだしのももに投げかけている。全然行けるとか意味わからない、と思ったけれど、楽器ケースにロックをかけながら「べつにいいけど」とこたえてしまっていた。


 子供だけでファミレスに入るのは初めてだった。腕時計を見ると、まだ六時半だった。あと一時間は警察に注意されることなく演奏できていたのに、と思うと舌打ちしたくなった。椎名春はすいすいとなれた様子で奥の席に席を見繕う。

「ハンバーグ定食とドリンクバーにしよっと。あーでもオムライスもおいしんだよな~うーんやっぱエビグラタンにしよ。そんなにお金ないし」メニュー表を見下ろし椎名春がぺちゃくちゃ言う。「何にするよ」と言われ、よくわからないままパンケーキセットを選んだ。「え、もしかして食べてからきた?」

「違う。帰ったら夕飯あるから」

「あーね」大きくうなずいて、「三島さんってなんか教科書みたいな話し方すんだね。なんかウケる」などと言う。なんでこんな子についてきちゃったんだろう、とうんざりした。

「ってかさてかさあ。さっきの演奏すごかったね。いつもやってるの? 路上ライブ」フルートじゃライブじゃないかあ、と椎名春は自分で笑っている。

「……別に。フルートのレッスンがここらへんだから、ちょっとやってみただけ」うそだ。本当は毎週水曜日は必ず駅前で演奏をしてから帰っている。

椎名春は目をぱちりと見ひらいた。アイラインが実はあまりまっすぐ引かれていないことがわかる。

「えっじゃああたしが見かけたのはマジでたまたまってこと? 超ラッキー。えっあれうちの制服じゃんつって身に来たら、知ってる人なんだもん。超ビビった~」

 おどかされたのはこっちなのだけれど、くやしいので「そうなんだ」とだけ返す。椎名春が勝手に汲んできた山ぶどうスカッシュは、微炭酸がくちびるにあたるとこそばゆい。

「しかもまさか三島さんだとはね」

 見つかったのが椎名春だったのは最悪だった。せめてもっと静かで賢そうな人だったらよかったのに、と思う。

 一年の頃から、派手な見た目でぎゃあぎゃあうるさい椎名春のことは苦手だった。というより、はっきり言って嫌いだった。

椎名春は同じような見た目のやかましいギャルと連れ立って教室の真ん中で騒いでいるタイプだ。「でー、あるからしてー」などと数学教師のものまねをしては教室で地鳴りのような笑い声を響かせていた。成績は芳しくないらしく、「あーまた赤点だあ」などと大きな声で騒いで笑っていた。

 二年間の間で椎名春に話しかけられたのはいちどだけだ。一年の冬に隣の席になった。「あー、三島さんね。うるさくしちゃうと思うけどよろしくねー」まあ三島さん静かだからとんとんかな、と調子よく続けた彼女を、後ろの席の女子が「ちょっシーナ」と意味ありげなめくばせとともにとがめていた。椎名春はあ、と気まずげに声をもらして「ごめん」ととってつけるように言った。どうでもよくて、教科書を取りだす振りをして無視した。

 椎名春とは別の意味で、わたしも高校では有名な存在だ。

学校ではわたしは一切口を利かない。利くことができない。場面緘黙症という病名をつけられたのは中一の冬で、以来、学校と言う場所において声を出したり歌ったりはできなくなった。中学の頃は生徒全員うっすらとあたしの事情を把握していたけれど、高校に上がるとおせっかいな教員はいなくなり、同じ中学出身の子がこそこそ説明する以外は誰もあたしの事情を知る由がないのだった。

「成績はいいのに、なぜか口を利けない人」というあやふやな立場の同級生に積極的に話しかけてくる子がいるはずもなく、去年は基本的に一人行動を貫いていた。

 だからこそフルートの弾き語り――別に歌ったりはしないのだけれど――は知り合いの誰にも絶対に見つかりたくなどなかった。親には「練習室で演奏してくる」と嘘をついて出てきている。御茶ノ水は高校から乗り換えが必要だし、近いわけでも全然ない。ここなら絶対に自分の場所を守れると思ったのに。

「っていうかあたし感動したよ。上手いってのはあたりまえにそうなんだけどさ、まあでもあたしは音楽はよくわからないんだけど、でも最初プロの人かと思ったもん」

「はあ、どうも」

 冷たく流したのに、なぜか三島桜はさっと頬を朱く染めた。チークではなく、内側からランプが灯るみたいに。

「なんか、雪女みたいだった。あ、これ、全然褒め言葉ね」

 ゆきおんな、と言う言葉に脳に小さい時見た絵本の挿絵がぽつと浮かんだ。背景に雪がさんざめく、白い顔の和服の女。確かに桜がさんざめいているみたいにも見え、子供ながらに簡単に「かわいい」とか「きれい」とか言えない迫力があった。「そんないいもんじゃないよ」と思わず返すと、ぱん、と椎名春がいきなり手を合わせた。続けてわたしに向かって頭を下げた。面食らっていると、椎名春はさけぶように言った。

「お願い。モデルになって」

「……は」

 ひらがながそのままくちびるからこぼれる。椎名春は、頭を下げたまま早口で続ける。

「あたし、美大行きたくて絵の予備校行ってるの。次の課題、三島さんで描かせて。お願い」

 とっさのことに、あっけにとられるしかなかった。美大。絵の予備校。三島さんで描かせて。

異様な雰囲気のテーブルに、「お待たせいたしました、エビグラタンのセットとパンケーキです」とやたらカラフルな制服の店員が割り込んできて、目の前の風景は現実だとわたしに思い知らせた。ほかほかと、おままごと道具めいたにせものくさいパンケーキが、ほのほのとのんきに湯気を立てている。


 フルート吹いてるところを描かせて、と言うので「写真撮れば」と言うと、「いや、ポーズをとってそこを描かせてほしい、できれば二十分おきくらい」ととんでもないことを言うので即断った。

「え~だめ? だって普段一時間くらいフルート吹いてるんじゃないの?」

「そんなに連続して吹いてるわけじゃない。あと、演奏のために姿勢を保つのと吹いてもないのに姿勢をキープするんじゃ全然意味違う」

 淡々と言い返すと、しぶしぶ椎名春はフルートを構えている写真を五、六枚iphoneで撮影し、わたしはその時の角度で横を向いてフルートを持たず椅子に座っていることとなった。

「椎名さんって美術部なの?」

「シーナでいいよお。いや、高校は部活入ってない。中学の時は女バスだった」

 確かにうちの中学のバスケ部にも椎名春みたいに気が強くて派手な女子がいっぱいいたな、と思う。思うだけだ、口には出さない。

 思いがけず真剣な面持ちで瞼をふせて鉛筆をスケッチブックに走らせている。わたしが持ち得ることのない技術でカールさせたであろうまつげが武器みたいに尖っていた。

「やっぱさ、こういうキャラだと絵描くの好きとか言えないんだよね。恥ずくて」

「そう」

「三島さんみたいに謎キャラだったらフルート吹いてることとか全然隠す必要ないっていうか、違和感ないしえーそうなんだすごいねってなるじゃん。でもあたしはそういうんじゃないしさ」

 高い位置にある窓から四角く床に陽が落ちている。温かな紅茶のような陽溜まりに、そっと足を伸ばす。足湯みたいに。

 確かに椎名春みたいに人気者でもキャラやイメージがばっちり固まってしまっているのは不便なのかもしれないな、と思う。クラスメイト達が知ったところで「きもー」「ださ」とからかうとも思わないけれど、単純にいろめがねで見られるのがいやなんだろう、と思う。

 わたしはあたりを見回した。ほかの生徒は、皆教室の中でイーゼルを立てている。

「っていうかなんで階段の踊場で描くの?」

「ごめん。外の人を予備校に呼ぶの、コロナ的によくないかなって。っていうかまあそれは建前だけど、気まずいじゃん。よその人連れて教室入るの」

 受付の事務員らしき人は、椎名春が生徒ではない人間を連れているのを見ても何も注意してこなかった。モデルとして外部の人間が出入りすること自体大してめずらしくもないからなんじゃないの、と思ったけれど黙っていた。

 毎週火曜日と金曜日の十七時から二時間モデルをすることになった。御茶ノ水駅まで一緒に行くとき、「遠くてごめん」と椎名春は申し訳なさそうに交通費として千円札を差し出してきたけれど、同級生からお金を受け取ることがあまりに不道徳的に思えて断った。代わりに椎名春はアクエリアスとグミを買ってきて寄越した。モデル料らしい。

「三島さんってうちの高校に友達いるの?」

 普通本人にそんなこと訊くだろうか、とあきれながら「いない」とこたえた。

「おなじ中学の人とかいないの?」っていうかどこ中だっけ、と椎名春は足でごみ箱を挟んで鉛筆をけずりながら言う。男の子のように粗野なふるまいなのは教室のなかと変わらない。

「いるけど、仲良くないから」

「へー。あたし、友達で進路選んだからなあ。内申だけで受かったからめちゃくちゃ落ちこぼれちゃったけどね」

「でも絵のことは言えないんだね」

 椎名春はすこし黙った。床の上のほこりが、残陽を吸って金銀にきらめいている。

「そうだね」

 いやみをぶつけたのはこちらなのに、反発しない椎名春の態度に肩透かしを食らって、それからは黙っていた。

 十八時になり、授業が始まるからと椎名春と別れた。陽が落ちて夕方と夜に挟まれた外堀通りを歩く。桜は強風で散り、地面にへばりついている。

 春は短い。わたしは毎年、そのことに安堵している。桜が満開の季節は、息を止めて深く潜水しながらじりじりと深海を這うような気持ちになる。足早に立ち去ろうとする足の速度を、すこしだけ落とした。一週間前はずいぶんいたカメラを向ける人々の姿も、いまはぽつぽつとしかいない。

 いつも不思議に思う。桜はいつかは必ず散る。わたしたちを喜ばせる姿を保ち続けることはない。次こればあとかたもなく消え去っているかもしれない。そう思うと、桜を笑顔で見上げることができない。いつか必ずがっかりさせられるなら、つかのまのよろこびなどいらない。いっそ自分の目の前で無残に終わってしまえばいい。朱色の炎で東京じゅうの桜が燃えて灰になる光景を思う。けして思い浮かべてはいけない景色を思うとき、しっとりと心臓が桃色に濡れる心地がする。素足を波に浸す時のように。

【さっきはばたばたしててごめん】

【次は明後日によろしく】

【てかいまから授業とかだる】

 椎名春からぽんぽんと短いメッセージが来ていた。【お疲れ 明後日了解です】とだけ送る。ふいにはなびらがくちびるをかすめたので、首をぶんぶんと振る。


 去年の四月はのっけからコロナで休校だったというのに、今年は特に休校になるでもオンラインになるでもなく、普段通り授業が実施されることになった。マスクをつけて体育をしていると、未来の子供たちって感じするな、と他人事のように思った。

女子高というのはみなそういうものなのだろうか。四月の一週目にはわたし以外のすべての女子生徒がグループに分かれて徒党を組んでいる。椎名春は一番派手で大きなうるさいグループにいて、ばんと爆発するような笑いが起きる時はいつも輪の真ん中にいた。

 見ているつもりはないのだけれど引力で視線を引っ張られると、たまに目がかち合うことがあった。マスクをしているので文字通り目だけが合った。いつも視線をはずすのはわたしだった。

 玄関や廊下ですれ違うと「あ三島さん」「おはよう」と声をかけられる。無言で会釈だけして通り過ぎる。わたしがこの場所では口を利くことができないことを知っているくせに、毎度律儀に傷ついた顔をする椎名春にちいさないらだちが湧いた。

 ――これだからあなたみたいな人は。

 そう居丈高に言い放つ想像をする。実際に声になることはない。たとえ、二人きりで御茶ノ水駅で待ち合わせてイーゼルを挟んで向かい合っている時であっても。

「三島さんごめん。数学の予習ってしてきてる? あたし板書当たってるんだけど解いてなくて」

 昼休み、席で文庫本をひらいていると、椎名春が決まり悪げに肩を叩いてきた。黙ってノートを差し出すと、「うわー神だわ。マジ助かる」と目じりを下げて黒板へ向かった。些細すぎるやりとりに気を留める生徒など誰もいなかった。椎名春じゃなくても、仲がいいわけではない人にノートを貸してとか解き方教えてと頼まれることはわりとよくあることだった。

〝三島さんって謎だよね。しゃべれないくせに頭いいんだもんね″

〝友達いなくて遊ぶ人いなかったらそりゃ勉強しかすることなくなるっしょ″

〝じゃあうちらも絶交したら成績上がんのかな? なわけね~〟

 実際に陰口の現場にいたわけではなく、自分の想像でしかない、顔のない会話が脳内で勝手に再生される。くだらない被害妄想を頭の中で昏く楽しむくらいしか、わたしの生活には彩がない。

 昨晩、木の下でフルートを吹いていたら警察に声をかけられて名前を聞かれた。念のため私服でいてよかった、と内心汗をかいた。咄嗟に偽名を使い、大学生だと嘘をついた。こんなご時世なんだから外で演奏したらだめだよ人が集まっちゃうでしょう、と小さい子を叱りつけるように年配の警察官が言った。ブルドッグのような顔を眺めながら、はーいすみません、と小さな声で謝った。

 家にも教室にも居場所はない。フルートを吹いている時だけは、のびのびと呼吸したり、歌ったりできる。それすら取り上げられたら、息継ぎができなくなってぶざまに口からごぼごぼとあぶくを吐いてどこまでも沈んでいってしまうだろう。

 

「その絵、いつ仕上がるの」

「んー? 締め切りは今月末。あ、嘘ついた、連休あるからそれより早いんだわ」

 椎名春はしかつめらしく眉根を寄せながら鉛筆を動かす。輪郭だけだったわたしの顔が、かすかなでこぽこやつや、ちいさなほくろまで再現されていた。

「三島さん全然絵見せてとか言わないんだね」

「だって描かれてるの自分だし」

「あ、興味ないとかじゃなくて照れてんだ。なーんだ」

 あっさりと指摘してけらけら無遠慮に笑うのでむっとしたものの、見せられたスケッチブックを見て黙り込んだ。羞恥心を抱く隙もなかった。圧倒的に、うまかった。たぶん、実際に出会った人のなかで群を抜いて上手い。遠目から見たらモノクロ写真に見えるに違いない。

「すごいね。プロみたい」

「ん。この予備校そこそこ東京で有名だからね」

「なんで才能を隠すのかよくわからない」

「この見た目じゃ、『シーナ、他人の絵自分が描いたことにしちゃだめっしょ』とかいじられて終わりだよ。っていうかなんか、こういうキャラだとそういう空気にならないんだよね」

 クールに呟いて消しゴムのかすをふっと息で飛ばす。予備校での椎名春は、教室で見るよりずっと老けて見える。悪い意味じゃなくて、どこか遠くに感じる。

 初めは気恥ずかしくきまり悪かった絵のモデルにもすっかり慣れた。椎名春が買ってくれたリプトンのミルクティーをストローで飲みながら、じっと壁を眺める。

「授業でももちろん、外からモデル雇ってデッサンするんだけどさ」

 ぽつりと椎名春が言う。

「あたしたち生徒は全員マスクしたままだけど、モデルはさすがにマスクはずして椅子とかにすわって描かれてるわけ」

「まあ、しゃべるわけじゃないし問題ないんじゃないの」

「じゃなくて。なんか、自分は顔見せないのにマスクしてない人をじーっと見つめてガンガン紙にデッサンするの、すっごい、悪いことしてる気ぃするんだよね。たまに」

 ふうん、と喉で返事をする。いまはふたりともマスクをしていない。

「嘘ついてる感じがする?」

「ん~。そこまで罪悪感ないけど、近いかも。不公平な感じするじゃん」

 まあ別に仕方ないんだけど、あたし以外の生徒もみんなそうしてるし、と早口でつづける。うまく自分の中でまとめきらないまま、親しいわけでもないわたしに吐露してしまったことを恥じている気配があった。

「あたし、三つ上にねーちゃんいてさ。全く似てなくて、超きれいだし頭いいし親の自慢の娘って感じでさ、当然大学もめっちゃいいとこ行ったし」

「うん」

「だから絵しかないんだよね。ねーちゃんがいない土俵ってここしかないからさ」

 でもほんとに絵がすきですきでしかたないって思ってるかはたまにわからなくなる、と椎名春は小さな声で呟いた。花から朝露がぽとりと零れるみたいに。

 わたしは頭ごと固定されたみたいに、視線一つ動かせずにいた。美術の予備校だというのに、壁には一つの落書きもなく、まっさらだった。

 ――そんなにうまかったら、うそではないんじゃない。

 そう、口にすることを思いついた。ここは教室ではないから、声になる。わかっていて黙っていた。椎名春は「ごめん、関係なかった!」と言って、鉛筆を滑らす。


 誰も信じてくれないだろうけど、中学一年まで、自分のことを「友だちが多い」と思っていた。

明るいし、面白いこともわりと言えるし、小学生の頃からフルートをやっていたので吹奏楽部では一年ながら先輩たちにも一目置かれていた。順風満帆、と口にする時の、ぱん、というパラソルをひらくような音通りの、思い通りの中学生活だった。

 事態が変わったのは、冬のことだった。一人の女の子がわたしのことを「言い方がキツい」と言いだした。「自分がなんでもできるからって人のことを見下している」とも。

 思えばその子も成績はいい方で、たしかクラスで三、四番目とかだった。でも確実にわたしよりは下だった。わたしはクラスどころか学年で一番だったから。

 一人が口火を切ると、ティッシュぺーパーが色水を吸うみたいにあっというまに陰口が女子の間に広がった。「わかる、頭いいから周りのことバカにしてるんだよね」「わたしもそう思ってた」「ちょっといい気になりすぎ? みたいな」――そして、あっけなくわたしははずされた。「みんな」という輪から。

 学校で声が出なくなった時、両親はいじめが原因だと思い込んだ。そうじゃない、とわたしは言った。こんなくだらない子たち相手にするのばかばかしい、くだらない、そうあまりに強く念じていたら本当に声が出なくなったの、と。

 どんなふうに両親や学校が話し合って結論が下されたのか、よく覚えていないし、知りたくもない。

 ただ確かなのは、いまでも学校と言う場所ではわたしの声は出ないということだ。おそらく大学では環境が変わるから緘黙症の症状は出ないだろうと病院の先生は言うけれど、あまり信じていない。高校に上がるときも同じことを言っていたのだから。

 フルートを外で演奏するようになったのは、高校に上がってからだ。奪われることなどない、と思っていたものが奪われて、戻ってくると思っていたものは失われたままだった。コロナ渦になって初めて大切なものがわかった、日常は尊い、なんて、世間では急に仰々しいことを言いだすおとながたくさんいたけれど、前からわたしはわかっていた。巣箱をひっくり返された蜂みたいにぎゃんぎゃん大騒ぎする世のなかを横目に、そう思った。

信じられるものがあった方がいいな、と思った。ここじゃない場所でも生きてはいかれるし、と吐き捨てるために、勉強以外に学校とは全く関係のない武器を掴み続けよう、と思った。プロになりたいとか演奏家になりたいとか、そういう意味ではなくて。

 五月の連休前の水曜日、補導が怖くて駅前ではなく本当にスタジオを先生に借りて演奏した。椎名春も呼んでここで描いてもらおうかとも一瞬考えたけれど、やめた。

狭い室内の防音壁に音が吸い込まれていく。夜、御茶ノ水駅で吹いている時は空中に金や朱や瑠璃や翠の糸でこまかな刺繍をするような心地になるのに、ここではやけに音が金属めいて耳に刺さる。

 金曜日で椎名春のモデルをつとめるのは最後だ。昨日、「三島さんに頼んでよかったよ」と呟いた椎名春の頬に、鉛筆の粉がすれていた。


「持ってきた」

 楽器ケースを見せると、椎名春は御茶ノ水駅で「まじでー!」と叫んだ。周りのおとなが迷惑そうにちらりと視線をぶつけてくる。

「え、え、ってことは吹いてくれるの?」

「予備校で吹けるわけないじゃん。持つだけ。最後だし写真だけじゃ無理あるでしょ」

 椎名春は「げ」と漏らし、外にイーゼル持ち出すわけにもいかないしなあ、と呟いた。

「まあいいや。行こう」

「木の下で吹いて、とか言わないんだね」

 言われても断ったけど、と言うと「んーん。別の方法を思いついた」と椎名春は玩具の使い道をひらめいた赤子のように笑った。

 寄り道するでもなく予備校につく。いつもなら三階に上がる途中の踊り場でイーゼルを立てるのに、椎名春はさらに上がった。

「もしかして屋上?」

「そう。なんでいままで思いつかなかったんだろ? 鍵開けばたぶん上がれるはず」

 内鍵を開け、ノブをまわすとするりとドアが開いた。吹きつけてきたぬるい夜風が前髪を散らす。

「うわ。思ったより広い」

 椎名春がはしゃいだ声を上げる。高くフェンスが設けられてはいるものの、ドラマに出てくるような、ごく普通の屋上だった。真ん中で楽器ケースを置き、フルートを取りだす。

 陽は沈みかけ、玉葱を炒めたような飴色に空が染まっていた。フルートを構える。あ、待ってよと椎名春が慌てるのを無視して、息を吹きこむ。

 するりと、宝石がひとつづきにつらなったネックレスを延々ひっぱりだすみたいに、なめらかに音が天へと伸びる。椎名春が立ちすくんだままわたしを見ているのがわかったけれど、様子をうかがう余裕もなく、演奏を続けた。風で音が流れていく。刻々と、空の底が紺に浸される。

 演奏を終えると、椎名春が「もー、そんな演奏されたら初めから描き直したくなるじゃん」と赤い顔でわめいた。けれど、子供がかぶりついたシュークリームのクリームみたいに嬉しさがわっとはみ出ている。

「あたしもっと三島さんと仲良くなりたい」

 椎名春が顔を火照らせて言う。いいよ、と言う代わりに、もういちどフルートを構えた。椎名春が顔を引き締めて鉛筆を握る。

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