119km/h

そうま

 


 2207の数列。

 一秒未満の速さでそれを確認し、赤くなった左手と一緒に、携帯をダウンのポケットへしまい込んだ。


 大型ショッピングセンターの裏口から外に出た私は、駐車場への通路を歩いていた。道の傍らには、溶けかけの雪がいくつかへばりついていた。日中の気温は+に転じていたが、完全な雪どけまでは、まだ遠そうだった。

 夜の大気は、尚もじゅうぶん冷たい。バイト明けに仰ぐ郊外の空は、いつもひたすらに真っ黒で、今日はそれが一段と濃かった。


 ぼやけた色の街灯。

 店名をでかでかと書きつけたネオンの看板。

 まわりに人の影もない。走り去る車のヘッドライトも見えない。

 厚底ブーツの足音。それと、凍えた空気を吸って吐く音がよく聞こえた。


 何もいない駐車場は、不用意に広かった。街灯の光が、蛍光ペンで塗りつぶすように一面を照らしていた。私の車は、出入口に一番近い街灯のすぐ下に停めてあった。黒くて小さなスポーツタイプの車体が、そこで静かに私を待っていた。


 不意に出た大きな吐息で、一瞬眼鏡が曇った。もやがかかった視界の向こうで、何かが動いた気がした。


 真っ暗な車内の運転席。

 中に、誰かいる。






 車までの距離は二十メートルほどあった。見間違いか、または目の錯覚かもしれない。私はそう自分に言い聞かせた。


 再び歩き出す。

 車との距離は、徐々に縮まっていく。


 車の三メートル手前まで来た。

 

 距離を保ったまま、車内の様子に目を凝らす。窓の向こうから、計器の白い光が漏れている。エンジンをかけた覚えは、もちろんない。


 影はそこにいた。

 

「やあ、久しぶり」


 影は言った。お父さんの声だった。

 私は車に乗りこみ、シートベルトを締めた。車内は暖かかった。私がシートベルトを締めたことを確認して、お父さんはギアをDに入れた。


「じゃあ行こうか」


 車は走りだした。駐車場の出入り口から身を乗り出し、ゆっくりと公道へ合流した。郊外の夜道は、私たちの貸し切りだった。

 

 お父さんは私にいろいろと質問をしてきた。仕事のこと、最近流行ってる音楽のこと、お母さんのこと……。私は、家とバイト先の往復をしているここ半年間くらいのことを話した。話している最中、お父さんの声は急に雑音が混じったり、変にこもったりしていて聴き取りにくかった。


「車の運転はちゃんとできるようになったか?」


 そう言ってお父さんは笑った。免許を取って初めて市内を走った時、エンストを起こしたり、車体に傷をつけたりと散々だった。助手席でその一部始終を見ていたお父さんは、未だにそれを茶化そうとする。


 信号が赤に変わる。窓ガラスが赤く照らされて、不機嫌そうな私の顔が映った。


 二年前、お父さんは交通事故で亡くなった。

 車の整備不良が原因だった。


 ガラスの外の標識が目に入り、車がいつからか国道を走っていたことに気づいた。バイトの疲れと、車内に満たされた心地よい温もりのせいで、意識がはっきりしなくなっていた。






 信号が青に変わった。


 お父さんはアクセルを思いきり踏み込んだ。急加速する車は、今まで聞いたことのない唸り声をあげた。


「たまにはこうやってスピードも出さないとなぁ」


 ハンドル越しに見えるスピードメーターが、どんどん右に振れていく。

 90km/h、100km/h、110km/h——

 窓の外の景色が、ぎゅんぎゅん通り過ぎていく。


 胸の奥がざわざわとうごめきだした。


 不鮮明な視界の端に黄色い看板が映り——直後、車体は急激に減速しながら大きく左に傾いた。なすがままの上半身が鞭のようにしなった。それでも、目は醒めなかった。朦朧とする脳内で、高速回転するエンジンのモーター音がよく響いていた。スピードメーターの数字は、ぼやけてよく見えなかった。


「おとうさん、やめて」


 私の渾身の抵抗は、やたらと舌足らずな言葉になった。


 運転席の彼は、ただ笑うだけだった。






 見慣れたネオンの看板が外に見えた。車は、ショッピングセンターの駐車場に戻ってきていた。エンジンはすっかりおとなしくなり、車内の温度はだんだん外気に近づいていた。


 私は運転席に移動して、エンジンを再点火した。カーナビが起動し、現在の時刻を教えてくれた。ちょうど二十三時を回ったところだった。ダウンに入れておいた携帯をダッシュボードに置こうとして、差出人不明のメールが届いていることに気づいた。


 バナーを横にスワイプし、ロックを解除する。画面に表示された文章は簡潔だった。


「定期的な遠出で、エンジンオイルは長持ちする」


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119km/h そうま @soma21

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