兎小屋

初めてのラブホテルは目に入るものすべてがくすんでいた。

わたしが大学一年の時から使っているiPhone4で撮った写真みたいに、壁とか床とか布団だとかがひとつずつトーンが暗い。それとも自分のなかの潜在的な後ろ暗さがそう見せるのか。

同伴者は彼氏ではなかった。一人暮らしどうしの学生カップルにラブホは贅沢すぎた。一回も行ったことない、というと男は嬉々として調べ始めたのだった。

「どうよ初のラブホ」

にやにやと笑いながら荷物を慣れたふうにベッドに放り投げて笑いかけてくる。男の笑顔は粗野な感じがして、いまから起こることを生々しく連想させた。目をそらしながら「まあ、想像通りです」とこたえた。気張ったふうに聞こえたのか、彼は満足そうに笑った。

ラインの表示が「S」の一文字だったので、この男の名前が「佐藤」だか「鈴木」だったか思いだせない。下の名前も、うろ覚えだけどものすごく変わっていた。「なんでイニシアル?」とライン交換した時に首をひねると「俺ラインのこといまいち信用できないから本名で登録してない」とよくわからないことを言われた。めんどくさそうな人だな、とうっすら思った。

大学四年の夏。就活が終わり、内定を手にしたわたしがその足で向かったのは国分町のバニーガールズバーだった。就活によってごりごりとかき氷マシンの如くプライドと自己肯定感を削り取られ、「顔さえ可愛ければ内定くらいすぐ取れたのに」と毎日考えた。疲弊した頭で夜行バスに乗り込み、【夜職をやる】と就活が終わったらすることリストに書き込んだ。女ってわたあめとかうさぎとかリボンがすきなんだろ? みたいな考えの人が作ったであろうふんわりとした名前と色の求人サイトをブックマークし、新宿バスタや東京駅八重洲口の待合室でひたすらスクロールして条件を眺めた。

当然キャバクラの方が時給は高かったがわたしははなからガールズバーしか見ていなかった。コンセプトがはっきりしているバニーのガルバが一年前にオープンしたばかりだと知り、即店を決めた。

「なんで?」

「顔の可愛さが圧倒的に足りないなら、露出で稼いで総合展優勝するしか戦法が残ってないと思ったから」

おまえ頭いいんだか悪いんだかわからないね、と男はのけぞる勢いで笑った。同じ大学の工学部の院生で、研究室の同期四人でひやかしで来ているうちの一人だった。え、学生? 学校どこよ、え、マジかよ同じやんウケる~。胸ないのになんでここで働いてんの? とずけずけ聞いてくるのでありていにこたえた。あんのじょう豪快に笑われ、むっとはしなかったけれど、こういう国道歩いてきたような奴にわかるはずない、と醒めた思いで眺めた。

がり勉としか言いようのない、工学部のイメージをそのまま具現化したような三人と違い、男はこういう店に慣れているようだったし、もっと言えば異性にも慣れていそうだった。こういう人苦手なんだけどなー、と思いながらTシャツがぱんと張って乳首が浮いているあたりをちらちら見た。

ライン教えて、とあたりまえのようにスマホを出され、学生じゃあ同伴ねだったり営業かけたりできないから無駄なんだよなー、と思いつつ断る方が面倒くさくてQRコードを出した。本名の方が可愛いじゃん、「はる」より。と言うので「春をひさぐから取ってる」と言うと、彼は表情を消し、真顔で言った。

「そういうことさ、あんまほかの客に言わない方がいいよ」

何の作用かわからないけれど顔が赤くなるのを感じた。「八幡に住んでるなら今度あそぼう」と言うので「八幡近辺以外なら」とこたえた。

 男は本当にその日のうちにラインを寄越してきた。「っていうか今日いつ上がり? アフターしよう」とお約束過ぎるメッセージ。無視して狭いロッカールームでばりばりとヌーブラを剥がして着替えていたら、さらにコメントがついた。

「俺車だから拾って送ってってやるよ」――飲酒運転じゃん、とぎょっとした。けれどすぐに、男はひたすらジンジャーエールしか飲んでいなかったことを思いだす。煙草はばかすか吸っていたけれど。

自転車で来てるから結構です、と送ったら「飲酒運転じゃん。ぱくられんなよ」とすぐに返ってきた。業務中にアルコールなんか入れてないさっき飲んでたのはお茶と水を割ったものです、と返すと「おい夢壊すなって」ときた。

「じゃあ家着いたらラインして。八幡行くから」

 めんどくさいので無視しようと思ったものの、自転車で定禅寺通りを走りながらふと魔が差した。「コープで待っててください いまメディテらへん」と返す。もう家帰ってっかな、と思ったけれど、りょうかい、とすぐに返ってきた。

 照明の落ちたコープまで向かう。白のセレナ、といわれていたのですぐわかった。

「つーかさ、バニーが網タイツで帰ってくんなって」

 げんなりしたように言われた。見下ろす。黒のショートパンツに網タイツだった。退勤のあとは面倒くさくて網タイツを脱がないまま帰ることが多い。シートベルトをしめながら「え、サービスのつもりなんですけど」と返すと、短く笑った。

「金払って非日常を味わいに行ってるわけだからさー。金払ってない場所で見る網タイツは正直萎えるね」そうですか、と返す。

「どこ行く?」

「家とか、ホテル以外」

「俺んち実家だから。だから車持ってんだって」

「ふーん」

「青葉城址でも行く?」

 大学から近すぎて仙台に住んでいる人間は誰もいかない観光地を挙げるので冗談だと思って流していたら、本当に青葉城址にたどりついた。まじで! と笑いころげていたら「一周回って斬新だろ」と素で傷ついたような顔で言う。

「うちの大学そこそこ硬いから水商売バイトしてる女子ってめずらしいよな」

「あーですね。わたしもやるまでは軽蔑してましたよ」

「あ? なんで軽蔑してた職につくんだよ」

「ブスができない仕事だから軽蔑することで自分を正当化してただけです」

「ブスではないよ。総合優勝してたじゃん」

うぜ~と返しながらも、自分よりいろんなものがめぐまれていそうな異性にそう言われたことで内心うれしかった。というか、かわいいって自分で思い直したくてあのバイト始めたんだったな、と思いだす。

結局のところ、22歳と言う炊き立ての新米みたいにつやつやした年齢や女子大生というわかりやすいプロフィールに対してちやほやされるだけでしかなかったけれど、だとしても大学では4年いてもついぞ得られなかった快感だった。客の目がわたしの顔ではなくものすごい鋭角のハイレグの衣装や7割露出した尻にむいていようがどうでもよかった。ほんのちょっと土俵変えるだけでかわいいとか美人だねとか言われるなら全然いいじゃん! と思った。

あさましい女だと自分のことを思った。いままで散々貶して嗤ってきた存在、それが自分自身だったなんて馬鹿げている。けれど、水たまりに落ちたガソリンのような虹は、真面目につつましくキャンパスとアパートだけを往復しているだけでは絶対に得られなかったものだった。ふれられる、まばゆく乱射するくだらない虹。

「彼氏いる?」

「いますよ、研究室の同期です」

「俺も。ま、ラボじゃなくてサークルの同期だけど」

ふーん、と呟きながら青葉城址の駐車場で降りた。展望広場みたいなところから仙台の街が覗けた。夜景と言うにはあまりにしずかな景色だった。

「このまま家行っていい?」

「送るだけなら」

「けち。入れろって」

やーだよ、と笑うと「なんかもうやったような気すらするもんなおまえと話してると」と言う。わからないでもなかった。店であけすけで下世話な話ばかりしていたせいだろうか。

「でもどっかで寝たいわ。疲れた、さすがに」

「車中泊?」

「やってもいいけどあれ背中ばきばきになるぜ」あー夜行バス思いだすからそれはいやだな、と何気なく返すと「あ、するとしたら付き合ってくれるわけね」とにやにやされる。なんとも返しづらく黙っていた。

「まあいいや。六丁の目でも行くか」

「どこですか」

「あ? あー行ったことないか。ラブホ街があるんだよ」

まあ結局そうなるわなと心の中でだけ思う。疲れているので全然やりたくなかったけれど、黙って車に乗り込んだ。仙台駅東口より先はほとんど行ったことがなかったので、あ、こういう街なんだ、と思いながら外を眺めた。男は黙っていた。

なんだか客船みたいな見た目のホテルにたどり着いた。「え、港かなんか?」と言うと「あー無駄に凝ってるねここらへんは」と静かに返ってくる。無理してちゃかそうとしている自分だけが余裕をなくしているようで恥ずかしかった。

男が適当に取った部屋は妙にトーンが暗くて、所詮は学生のチョイスだからゴージャスでもなんでもなくて、目に入るディテールすべてがみょうに生々しかった。

風呂入る? と言われて、むしろほっとした。入ってきます、と逃げるようにシャワーを浴びた。

 ダサいので絶対にホテルの寝間着やバスローブなど着たくなかった。かといって一日身に着けていた下着にまた脚を通す気にもなれず、仕方ないので裸の上から来ていたTシャツだけをひっかぶった。

「浴びました」

「ん」

男はキングベッドの真ん中で大の字になっていた。大きな人だな、と思いながら巨大すぎるベッドによじ登る。コンタクトを入れっぱなしであることに気づき、レンズをぽいぽい床に放った。

「替えのレンズあるの。カラコンとか?」

「いや、替えのレンズないです。でも送ってくれるんでしょ」

「まあいいけど」

 微妙な距離感だった。こちらからにじりよれば役割分担がはっきりしてらくになる、と思いはしたけれど、それはそれで癪だった。じっとしていると、やがて男はぽつりと言った。

「つれてきて悪いけど俺EDなんだわ」

「え? インポなの?」

「直球で言うな。本人がぼかしてるんだから気つかえって」

だから手ぇ出さないから普通に寝ろ、と脚をさっと撫でられる。いやしいおじさんのようなしぐさだったけれど、手は冷たかった。

「初のラブホでセックスしないのかあ」

「したかった?」

「別に」

してもいいかなと思ったから車に乗ったので、この回答は半分嘘だ。正確には、するのしないのであれこれ探ったり問答することが面倒くさかっただけだ。

「やるとさ、もう、やった人っていう枠から出られないんだよな」

その表現は正しくない、と思った。あなたがわたしを「セックスした人」という枠をはめるんじゃないか、と思った。けれど、どっちだっておなじだ。

「っていうかたたないんじゃん」

「もっとオブラートに包めって。文学部だろ?」

 裸眼になって視野が水に溶いたみたいにぼやけていた。ねむ、と呟く。寝ろ、と短く返ってきた。

「ガルバってさ、めちゃくちゃアフター誘われるだろ」

「うん」

「いつもこうやってついてきてんの?」

「自転車だからつって断ってますよ」

「なんだそれ」

まああんま悪ぶんなよ、ほどほどにしとけって、と呟いていびきをかきはじめた。うるさ、と眉をしかめながらも、重力のごとく眠気がぶら下がってきてあっというまに寝た。

結局いちどのアフター以来、彼からラインが来ることはなかったしもちろん店に来ることもなかった。結局わたしは言いつけをまもらなかった。誰へのあてつけなのかもわからないまま寝たくもない男についていったし、肌が乾いていく、と思いながら零時をまわっても作り笑いをはりつけつづけた。いったいあの日々になんの意味があったのか、時々考える。罪悪感や後ろめたさはみじんも湧かないままだけれど、自分の身体を担保にするような日々をもし、後輩の女の子がくりかえしていたらおんなじように、「ほどほどにしなよ」と訳知り顔で言うんだろう。

すっぴんで自転車にまたがってのろのろと八幡のちいこいアパートにちんたら漕いで帰って朝陽に目をすがめていた日々のこと。まぼろしのようなミラーボール。

もう必要ないと思う。けどいつだって戻れる。いちど自分がそれをできる側の人間だと気づいてしまったら、あとは役割を果たすだけなのだ。

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あなたまで350キロ @_naranuhoka_

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