冬硝子
わたしたちのつながりがセックスしかないのだとしたら随分な仕打ちね。精一杯の皮肉をぶつけても、鹿島は背中で煙草を吸うだけだった。
恋人だった期間よりもそうではないのに寝ている期間の方がもはや長いのだと思うと眩暈がしそうだった。まさしく、万年床のような、ぐずつききっただらしのない関係。煎餅蒲団をめくれば糸を引いて床が腐敗していることだろう。
実際のところ、鹿島の部屋はいつ言っても清潔に整っていた。それがまたわたしにはいらだたしかった。汚れた皿がシンクに積み重なっているとか、洗濯物を取り込んだままソファの上で小山をなしているとか、バスタブに水垢がこびりついていたりシャンプーの詰替パックが転がっているとか、そういうわかりやすい生活の粗があればまだ取り入る隙もあるのに、と思った。
ひとつ変化があるとしたら、煙草を吸うようになったことだろうか。付き合う前は「匂いがこびりつくから」と毛嫌いしていたのに、気がついたら空いた缶を灰皿にして煙を吐き、空箱がごみ箱に落ちていた。
女のわたしが……あるいは振られた側のわたしがそうするのであればまだわかるのに、と言ったら、彼は煙を吐きながら笑った。
「俺は女々しいんだよ」
随分勝手なことを言う、と思った。そんなこと、骨の髄まで知っている。すでに自分のものではない女を呼んでは気まぐれにすきにするのだから。わたしはちいさい舟にでもなったような気持ちで乱暴に揺さぶられているだけだ。
煙の匂いが妙に鼻につく。
煙草の銘柄は知らない。聞いたらきっと自分も吸ってしまう、と思った。喫煙者は身勝手な感じがしてもともと嫌いだ。けれど、顔が綺麗な人が吸う仕草は一枚絵のようだった。
恋人ではないので、その時々で別な男とも付き合ったり遊んだり飽きれば手放したりを散々していたのだけれど、鹿島がそれを把握していたかどうかはわからない。行っていい? と言えば彼は拒まなかった。女の気配を感じたらしないで帰ろう、と思って訪れていたのに、一向にそんな翳りは滲まなかった。
鹿島の左目が義眼であることは、付き合う前から知っていた。俺の目、贋物なんだよ。どっちかわかる? そう言いだしたのは武蔵小山のアーケードを外れたもつの居酒屋だっただろうか。目の悪いわたしは、身を乗り出してまじまじと鹿島の目をそれぞれ見つめた。
「左?」
「近えよ」
「ふれられる?」
「触れるなら、触ってみ」
指でそっとふれたときの感触を、なんとたとえたらいいかわからない。ガラスのように硬質な手ごたえを想像していたけれど、ほんの一瞬ふれたものは、爪を立てれば破れそうな繊細さがあった。蝶が止まるくらいの弱い力ではあったけれど。
「躊躇しないんだね。みんな、恐る恐る触ってくるのに。触れない人の方がずっと多いけどな」鹿島は肩をすくめた。
「こういうふうに顔を近づけていたら違和感があるけど、普通に話してたら一生気づかない」
「そう?」
15歳のときに体育での事故で義眼を嵌めたのだという。
「俺、それまでは楽器やってたんだけど、ほっとしたんだよね」
「何が」
「もう、楽譜読まなくていいんだ、って。俺、大っ嫌いだったんだよ、レッスン」
鹿島の実家は両親ともに音楽家で、姉は声楽をやっているのだという。鹿島がやっていたのはバイオリン。
「似合わないですね」
「うっせ、それまでは神童とさえ呼ばれてたんだよ、俺」
たとえ視力が右だけになったとしても楽器自体は弾ける。そう思ったけれど、言わなかった。音楽で生計を立てるような家で、彼がどんなレッスンを受けて、何を目指させられていたのか、想像がつかないわけではない。
現在鹿島の職業が音楽雑誌の編集だということが、彼が逃れられなかったことを示していた。何か大きな、力のようなものに。あるいは、定めのようなものに。
「俺さ、ジンクスがあるんだよね」
「何」
「義眼に触れた女の子とは、付き合うことになる」
虚を突かれて戸惑っていると、「ばーか、何びっくりしてんの」とケラケラ笑っていたけれど、鹿島がわたしの反応を推し量り、静かに緊張しているのがわかった。歳上なのに、可愛いなと思った。
自分でもばかみたいだと思ったけれど、その日のうちに鹿島の家に行ってしまった。
「義眼のこと、いつもどのタイミングで言ってるんですか」
「適当。俺普段まったく人と会わないしね」
すきだから言ったんだよ、と鹿島は作りものの目と自分の目でわたしを見つめた。なんとも答えようがなく、じっと、義眼を見据えた。
「舐めたら怒る?」
「ばかじゃねえの」
けれど鹿島は拒まなかった。鹿島であって鹿島でないものに舌がそっとふれて、ゆっくりと自分の体温が移っていくのを感じた。鹿島は両眼を見開いたままじっとしていた。聞き分けのいい少年のように。
「かたつむりが這ったらこんな感じだろうな」
「ぬくい?」
「感触はないよ」
思わず、黙りこんだ。ここにあるはずのものを、15歳の鹿島は失ったのだ。 「失った目はどこに行ったの」
「たぶん、病院」目黒の地名を出して、彼はゆっくりとベッドに倒れた。
「バイオリンはどこにあるの」
「実家。ばあちゃんがどっかにしまってたな。俺の先生だったんだ」
「そう」
付き合っていることになっていたかも、今となってはさだかじゃない。他に女がいるとかそう言うわかりやすいことではなかったけれど、ときどき、鹿島が見たいものをわたしは差し出すことができないのだと悟る瞬間があった。わめいたりすがったりしてはみたけれど、鹿島は困ったように髪をかき撫ぜるだけだった。幼子をあやすように。その根気の良さがまた癪に障った。
鹿島の海外出向が決まったとき、これが幕切れなのかと思った。かっこよすぎて嘘だと思った。何かに復讐されているとさえ、思った。
「げんきでな」
神泉で落ち合ったときに鹿島が浮かべた笑みはもはや晴れやかと言える快活さで、元恋人を置いてく憐れみと同情に充ちていた。去る側はいつだって勝者だ、と思った。
「勝手にしたら」
鹿島は謝るわけでもなく、ただ手のひらでわたしの頭を撫でた。「煙草の匂い移るからやめて」と言うと黙って手を離し、じゃあと別れた。
その日煙草を初めて自販機で買って、ふるえる手で火を点け、咥えた。肺まで入れて、自販機のそばにしゃがみこんで今度こそわたしは泣いた。いまでも神泉駅に行くと、彼に嵌った硝子を思う。何も映さない、けれど、わたしが触れた確かな伽藍堂。
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