飲まない女

わたしはお酒を飲めない。

厳密には飲みたくないから飲んでいない、が正しい。

2020年に立てた3つの抱負のうち、一つが「断酒」だった。ちなみに2019年の抱負にもあったのだけれど、かなり早い段階で破っていた。雑なブームみたいなものだったし、それくらいゆるやかなルールでちょうどいいと思っていた。

でも今年の抱負は本気で断酒だった。期間は一年。飲まなかったらどう変わるのか、その経過を知る機会でもある。

初めてお酒を飲んだときのことは本当によく覚えている。サークルの新歓だ。18歳、まだかろうじて憧れや敬意があった入学したての志望大学は、新歓というイベントにより、”所詮未成年飲酒をやすやすと進めるような人たちがいるんだな”とうっすら落胆したことで幻想がやすやすと崩れた。あからさまに床に酒瓶が転がっている部室もいくつかあった。

新歓のイベントで、部室で歓迎会をするからおいで、と言われたから19時くらいに乗り込んだ。お花見のごとく部屋の中にブルーシートが引かれていて、貧乏くさ、と思った。名前書いて貼ってね、とガムテープと油性ペンを渡され、お遊戯のようにぺたりと胸に貼った。

まだお酒飲んだことないの?と紙コップを渡された。いまでも覚えてるんだけど草野マサムネに似てる2年の先輩だった。梅酒ソーダを入れてもらい飲んでみた。ジュースと変わらないのに頬の高い位置に熱い雫が溜まっていくような感覚があり、周りの人たちも「あ、赤くなってる」「強くはないかもね」と言っていた。みんなが、体の弱い仔猫でも見るような目で自分をにこにこ眺めているのが、恥ずかしくてちょっと嬉しかった。

アルコールをやたら勧めてくる男の人は結局、自分より弱い相手じゃないと安心して口説けないってことなんだ、と気づいたのは大学を卒業してからだった。それまでは、断ると角が立つから飲みたくないけどゆずみつサワーとか頼んでごまかしていた。強制されている感じがして、飲みたくなさに拍車がかかった。

飲み会は学生の時からそこまで得意じゃなかった。ちゃんぽんして吐いたのは2回、貧血を起こして起き上がれなくなったことは5回。失敗数がそう多いわけではないのは、あまりにもお酒で醜態を晒している人を先に見て、「こうなったら嫌だな」とブレーキがかかったためでもある。お酒を飲んでいないと人と仲良く話せない、とへらへらとのたまう同期や何度人に迷惑をかけてもお酒を断とうとしないだらしない先輩、繁華街で這いつくばって吐いている会社員。そのすべてを軽蔑しながら、その一方でお酒を心から楽しんでいる人のことを、涙が滲むほど羨ましく思っている。

宅飲みがほとんどだったけれど、それでも無理して飲むことはほとんどしなかった。ごはん食べてる方が楽しかった。

大学時代の飲みでしか見かけなかった鏡月、誰かが帰省で買ってきた地酒、お約束のように勧められるカルーア、葡萄ジュースと間違って飲んだワイン、いつ開封したのかわからないいつまでも冷蔵庫に残った梅酒、ぶどうが一番おいしかったほろ酔い、香水のような匂いのする日本酒、何がいいのかさっぱりわからないままの苦いビール、まわし飲みしたおいしくない魔鏡、女子会で提供すると喜ばれたサングリア、月光のように美しい琥珀色のウイスキー、ガールズバーで一気飲みを無理やり回避したテキーラ、ローマで飲んだ舌が痺れるほど甘いレモンチェロ。

ひと通り試したけれど、悔しいほど酔うことはてんでなかった。ふわふわするとか楽しくなるとか、感覚がよくわからない。酔ってテンションが上がっていく周囲と自分との差異がうすら寒くて、人いきれで酔っているだけのような気がした。楽しくないこともないけど、別にジュースでも変わらないのにな、と思った。

それでも飲んでいたのは、お酒を飲んだほうがお酒を飲んでいる人たちはよろこんだし、なんとなく、自分だけがアルコールを摂取していないことが後ろめたかった。お酒を飲んでいる人たちは、一枚服をぺろっとはいだみたいに、いつもより素が濃く透けて見える。なんだか水着を着て温泉に入っているような疎外感がないわけでもない。

唯一酒が強かった恋人に、酔った拍子にお酒が飲めないところがちょっとね、と言われて傷ついたことがあった。酔った拍子のていを取っているだけだとわかりながら、「そうですか」と焼き鳥を盗賊のような仕草で串から抜き取って、じっと睨みつけた。

お酒を断とうと思ったのは11月、調子が悪いときにシャンパンを食前に煽ったら脳貧血を起こしたからだ。アルコールによる脳貧血は1年に2回ほど起こす。ああ知ってるこの感覚、と朦朧と思いながらも、一生このままの状態が続くのではないか、という緩慢な地獄で1時間ほど過ごした。よくよく見知った連れと2人だったから抱えられるようにして難なくタクシーで帰ったものの、もうこりごりだなと思った。

わたしが口にしていたのは愉しみのためのお酒じゃなくて媚びや諛いのたぐいのものだった。あなたと同じところまで降りていますよ、と戯けるための。莫迦みたい、そんなの。

あーあと思った。もちろん全部が全部じゃない、自分が飲みたくて飲んで楽しかったお酒もたくさんある。でも、仲良くなるためとか近しくなるために飲むのはもう自分には必要ないな、と思った。嫌な顔をするような人とはもとから仲良くなどなれない。すぐ赤くなることを「可愛い」と言ってくる人は、捕食がらくになったことをぼかしているだけなのではないか。

飲まない。アルコールをチークがわりにするようなデートもアルコールでやっと後押しするような言い訳めいた口説き文句もごめんだ。色気も隙もない、HBの鉛筆みたいに硬く薄い自分。しかしわたしはそういう己を愛しいと少なからず思っている。

わたしは素であなたと対峙します。飲みたくなったら飲むし、飲みたくないからジュースを頼んでいるだけ。「とりあえずビールでいい?」のへらへらした声を押しのけて「ジンジャーエールください」と水を差してでも注文する。祝いの場だけで、血の味のするとっておきのワインを開けて華奢なワイングラスにそそぐのだ。

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