湯気をわかちあう

カナタが誰とでもする人間だということは以前から知っていた。

「食堂で女を泣かせていたらカナタ」とまで言われていたし、実際、わたしもなんどか見かけた。そのうち二度は普通に仲睦まじく食事をしていただけだったけれど、もう二度は明らかに痴話喧嘩をしていた。目が合ったカナタは「助けてくれ」と目で訴えてきた。「ざ・ま・あ」と大きく口を動かして返し、笑いながら立ち去った。

同じゼミに所属している以上は友だちを一応やってはいたものの、わたしはカナタが苦手だった。くりくりとよく動く二重まぶたは懐っこいイヌを思わせ、にんと唇を横に引いて笑うとずらりと並んだ歯が覗き、えくぼがさりげなく凹んだ。「ぐっとくる顔の造作」の男の子であることは、認めていた。

わたしは女にもてるカナタをやっかんでいた、と思う。彼に言い寄られている女の子に対しては、なんとも思わなかったくせに。

学部の新歓か何かで初めて会ったとき、「顔だけで生きて行けそうだね」と失礼なことを口走ってしまい、カナタはカナタで「うん、でもこの感じでこの大学にいたら、俺、最強だと思って受験した」とのうのうと言ってのけた。うわての台詞に、わたしは押し黙った。嫌いだ、と思った。顔だけで生きてこられなかったからほうほうのていで自分の大学に来た地味な女学生だったわたしにしたら、完全にカナタは敵陣にどっかりと居座っていた。

カナタの家にはいちどだけ行ったことがある。

当時、わたしは絶賛失恋のさなかにいた。うろんな目つきをしながらもまじめに授業に出て単位をこそこそ取りつづけるほかなかった。酒も飲めない、男も知らない、不良の友人もいないわたしには、そもそもやさぐれかたなどわからないのだった。わからないなりに、家でひとりでいられなかった。夕食を摂ったあとも、どうにも落ち着かず、自転車にまたがってどこでも走った。誰かが声をかけてきたらついていってやろう、くらいの気概と好奇心はあったけれど、幸か不幸かわたしをナンパする人はおらず、というか自転車に乗ってるので話しかけてくる人なんかいるわけないのだ。爆走サイクリングをしてはとぼとぼと自宅に引き返す。その繰り返しだった。

「何してんの。バイト?」

カナタが話しかけてきたのはアーケードで信号待ちをしているときだった。ぼけっとしているところを知り合いに見つけられ、ばつが悪い気持ちになった。

「ううん、今帰り」

「何してた?」

「いや、何もしてないね」

なんだそれ、と少しも要領を得ない顔をして、それでもカナタは「うちで鍋するから、来たら」と言った。うん、と頷いて一番町に向かった。

カナタの家は、一等地にあるだけあって9階建の7階オートロックマンションだった。2階だての2階に住んでいるわたしは、「なんか立派な家だね」と言った。

「実家、病院だから金だけはあるんだよ」と淡々とかえってきた。ナチュラル金持ち!とでも茶かそうとしてやめた。カナタの口調はあくまで静かだった。

「上がって」

カナタの家は片付いていて、意外なくらいシンプルで物が少なかった。

「鍋、って誰か呼ぶ予定だったの?」

「いんや。何も考えてなかった」

ニラ、白菜、キムチの素、豚ばら肉、豆腐、ねぎ、油揚げ。SEIYUで買ったとかいう野菜をどんどん並べ、「切って」と指示されるままに切った。カナタはカナタでテーブルで白菜をちぎったり一口コンロを準備していた。

鍋であるからして特に失敗することもなく、特別おいしいというわけでもなく、ただぐつぐつと鍋が煮え、わたしたちはこたつで向かい合ってごはんを食べた。「材料費いくら」と聞いたら「700円」とカナタが言った。若干高いな、とこっそり思ったけれど、冷蔵庫の中からカナタは酒を取りだし、「好きに飲んで良いよ」と言った。自分はストロング缶を開けていた。

ビール、ストロング、鏡月、梅酒。酒が弱いうえに飲める種類はごくわずかなわたしはラインナップを見てがっかりしたものの、「梅酒にする」と言って手を伸ばした。当然割るものはなかったので、水道水で薄めた。

飲みたいわけではなかったけれど、こういう場面では飲んだほうがいいんだろう、と自分なりに計算が働いた。カナタも酒が強いわけではないらしく、すぐ赤くなっていた。よく考えたら飲み会では一緒になったことはあっても、さし向かいで飲むのは初めてだった。

「**さんって処女でしょ」

普通に世間話をしていて、間遠になったころだったと思う。ストレートに聞かれ、一瞬黙った。どうせ間でばれたな、と思い「うん」と素直に頷いた。

「だよね。格好たまに変だもん」

「マジで?わたし洋服好きだよ?」

「わかるけど、なんかちぐはぐだもん」

婉曲に「ダサい」と言われて顔が酒の作用ではなく赤くなるのがわかったけれど、確かにカナタはいつもシンプルな格好をしていた。特別おしゃれだと思ったことはなかったけれど、顔が綺麗なカナタには似合っていた。

「今日処女もらってあげようか」

一瞬、何を言われたのかわからなかった。

わたしは返事ができなかった。部屋が急に狭く感じられ、心臓が駆け足になった。

そして、自分がいま誰とふたりきりなのかを意識する。誰とでもするカナタの家には避妊具が10箱くらいはストックされているんだろうな、と思った。

動揺して、緊張しているふうには見せまい、とわたしは普通の声を作った。

「いつもそうやって、女の子とっかえひっかえしてんだ」

「処女にはそんなに手出さねーよ。そこまで鬼畜じゃないし俺」

シャシャシャとねこのように笑う。嫌な気持ちになった。

「とっかえひっかえは否定しないんだね」

「この通り俺、顔が一番の武器だから。やってるときもみんな俺の顔しか見てねーよ。生で入れても気づかないんじゃねーのって思う」

明け透けな言い方に思わず言葉を失う。当時、まだわたしは人前で「セックス」と言ったこともなかった。「あ、ごめん」とカナタが素で謝る。

「うちの大学、まじめだから、俺みたいのってめずらしいのかもな」

「わたしも」ヤリチンの知り合いはあんたしかいない、と言おうとしたけれど、あまりな単語だと思い、「貞操のない知り合いはほかにいない」と言い換えた。カナタは大きく口を開けて笑った。

「まあいいよ。映画でも観ようぜ」

「眠くなるからやだよ。話すか、アメトーークyoutubeで観るかがいい」

「なんだよそれ」

結局らーめんずのコント動画を見て終わった。「寒いし早めに帰るね」と言いながらも結局1時を回っていた。カナタはなにか言いたそうだったけれど、その気配を感じたわたしは700円だけ置いてそそくさと帰った。つららそのものような鋭い北風に苛まれながらも、自分のアパートに戻った。

後から思い返すと、定石通りに映画を見ていたら「暗くしていい?」とかなんとか言って「そう言う雰囲気」になっていたかもわからないなと思う。わからない。カナタとは学年が上がったあとはあまり関わらなくなっていたし、わたしも研究室の同期と付き合い始めていた。いつだったかミスコンに出ていたけれど、「出てるんだな」と思っただけにとどめた。

カナタを久しぶりに見かけたのは就活の説明会の帰りのことだった。

ふたりとも連れと一緒だったから、わたしたちはお互い視線だけを絡めて、何も言葉を交わさなかった。

豆腐を手のひらを包丁にして切るたびに、「それ、手ぇ切りそうになるから怖くね?」とカナタが心細そうに居間から声をかけてきたことを思いだす。手のひらに、冷たい刃の手応えをしずしずと、受け止める。

手を傷つけることはなく、透明な直線の手相がじんわりと浮かび上がるだけだ。

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