氷が溶ける前に

琴音が「処女を捨てたい」と言いだしたので、一旦は止めた。

「適当に捨ててあとから勿体ないって騒いでも戻らないんだよ」

「わかってるよ。でももうわたし23だもん、もう勿体ないとかないよ」

いままで「処女でさえなければ確実に拾えた」チャンスは数えだしたらキリがないという。処女であるがゆえにたくさんのチャンスボールの見逃す羽目になった、というのが彼女の言い分だった。

「だからさ、とびっきりのヤリチンを紹介してよ」

「え〜……責任重大すぎるよ」

「お願い。わたし、本当に男の人の知り合いいないもん。**ちゃんだって知ってるでしょ」

琴音の職場は女性しかいないのだという。大学はわたしと同じなので共学だけれど、冴えない男の子ばかりだったので琴音が言うところの「使い渋った」のもわからなくはないのだった。実際、琴音は十分可愛らしい見た目をして、4年間の間に交際を申し込まれたことも2回あるらしい。「あんときやっときゃよかった」などとファミレスで言い出すのでたしなめた。

「わたしやだよ、琴音が変な男相手にセックスして自己嫌悪に落ち込んだりメンヘラ化したりその挙句ビッチに転生したら」

「ねー、今この時点ですでに超メンヘラだよ。彼氏もいないのにだよ? 自分でも訳がわからないの、でも誰もわたしをすきじゃないんだって思うと死にたくなる」 だからと言って「セックスしたら解決する」はおかしいんじゃないかーーそう思ったけれど、琴音がしつこく食い下がったので、わたしは本当にあてがってやった。 とびっきりの、遊び人を。

「こんな女衒みたいな真似、嫌だよ」

引き合わせる当日、カフェで落ち合った琴音に言ったものの、琴音は浮かれきっていた。ビー玉のような硝子玉の大ぶりのイヤリングをして、随分めかしこんでいた。

「マジ楽しみ!写真見たけど超イケメンじゃん!」

「でもやりまくってるから。あとそこまではイケメンじゃないから期待しないで」

「いいよ、それくらいで。慣れてない人だったら絶対痛いもん」

あけすけな言い分に、思わず笑ってしまう。

先輩はわたしのサークルのOBでもあった。大して仲がいいわけでもなかった。なんか気まずいなあ、と思いながら彼が来るのを待った。

「おっす」

黒いTシャツに金色のネックレス、ピアス、洗いざらしのブラックデニム。相変わらずちゃらけた格好してんな、と思ったけれど、横で琴音が固まるのがわかった。 「紹介したい子、ってこの子。琴ちゃん」

「よろしく。**の先輩です」 ニッと露骨なほど白い歯を見せびらかして先輩が笑い、握手を交わす。琴音は見るまでもなく耳まで顔を朱に染めていた。 「じゃあもう、はい。わたしいても仕方ないんで」 別な人と約束あるし、と言って立ち上がろうとしたら、琴音が勢いよく顔をあげた。 「行かないで。いて」 有無を言わさぬ強さに、先輩がちょっと引いているのがわかる。ここでわたしまでひいたら琴音の立つ瀬がないだろう、と思い、「おっけー」とあくまで軽いノリでソファに座り直した。

(ーーなんだこれ) 先輩とて、顔見知りの後輩がいる前であからさまに女の

子を口説いたりはしたくないだろう。困ったように(おい。どうなってんのこれ)と目で訴えてくる。かわいそうだけれど、わたしだってどうしようもない。

知らねーよ、と思い、「黒蜜抹茶オレください」と注文した。先輩はアイスコーヒーを、琴音はホットミルクを注文した。「赤ちゃんか」とちいさく突っ込んだわたしの声は誰にも拾われないまま床に落ちる。

この状況を打破する方法なんて、わたしだってわからない。琴音はもっとわからないだろう。

「あの」

琴音は満を辞したように顔をぱっと上げた。先輩がつられて「えっ、あ、はい」と姿勢を正す。

「付き合ってなくてもそういうことできるんですよね」

直裁的な単語こそ避けているけれど、琴音があからさまなことを言いだしたのでぎょっとしてしまう。けれど先輩は落ち着いた顔で、「ははあ」と言った。「そら、できるねえ」

「どうしてですか」

「どうして? う〜ん」

困ったように先輩が笑う。目は全く笑っておらず、琴音を値踏みしているような冷酷さが滲んでいた。正直、はたから見ていていたたまれなくなるほどそれは露骨だった。

「楽しいからね。男はリスクがないし。そりゃ数打ちたいっていうのがこっちの本音よ」

「そうなんだ」

琴音の顔はもはや紙のように白い。

「わたしもそうだったら、違ったのかな」

「女の子は、そうだね。そういうのしないほうが、危なくはないよ」

先輩の目が柔らかくなり、残忍さが消えていた。ああ、すでにこの人は琴音を抱く気がなくなったのだと、思った。

結局一時間ほどお茶をして、破爪の話はもう誰も蒸し返さなかった。「じゃあ」と先輩がお金だけ置いて去って行く。

なんと声をかけていいかわからず黙っていると「ごめんね」と琴音がポツリともらした。

「帰ろうか」

正直、これ以上一緒に琴音といても気詰まりなだけだった。そもそもわたしたちは、大学時代そこまで仲がよかったわけでもないのだった。同じタイミングで東京に出てきた、それだけだ。

「ううん、もうちょっとお茶してよう」

琴音が小さな声で言う。そうだね、と言ってもう一つロイヤルミルクティーを頼んだ。

「セックスしてるやつってなんであんなに楽しそうで、勝ち誇ってくるんだろう」

「なんでだろうねえ」

わたしもヤリチンやビッチは大嫌いだ。「いまある時間を若さを武器に目一杯使い切ってみせます」とでも言いたげで、アウトレットで要りもしないセール商品をばかすか買い物かごに入れてるみたいで心の底から浅ましいと思う。

けれどわかっている。そう思うのは、正真正銘若いうちしかできないことをしている人たちに対して、「羨ましい」という気持ちを少なからず拭えないせいだ。彼らが遊び倒しているからとしても、こっちが損を食っているわけじゃないのに。

「わたし、こんなに可愛いのにね」

「いつか、たった一人に見つけてもらえればそれで十分なんだよ。本当は」

そうなのかな、と独りごちながら琴音はちゅうっとストローを噛んだ。夏が来るね、と呟いて、影がまた一段と濃くなった。

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