黒姫

晴飛と書いてハルヒと読むのだと彼女が自己紹介したとき、生きづらそうな名前だなと思った。

「まず正しく読んでもらえない。あのヒロインとは似ていないんですねって余計な一言を付け加える人とは仲良くできる気がしない。キラキラネームですね、はもう100回は言われたし、DQNネームだって言った人とはその場で縁を切りたくなる」

晴飛は肩をすくめた。斬、と一陣の風でも吹きそうな仕草だった。晴というよりは夜のイメージが似合う。

出会った女の中でも屈指の、凄みのある女だ。ZARAを着て、アイラインはしっかりと引き、口紅はMAC。当然キャンパスの中でもごついヒール、謎の裸体の絵画をプリントしたモードすぎるトートを肩に引っ掛けて闊歩する馬のように移動する。すっぴんで登校する女生徒がほとんどである地味な大学の中でかなり目立っていた。眉すらいじらず度の強いメガネをかけているわたしとは全然、「感じ」が違ったので、「晴飛と仲いいんだね、なんか意外」とつるんでいるわたしに対して失礼なことを言ってくる人もいた。

鋏で一気に切ったような晴飛のまっすぐな髪は黒い鍵盤を思わせた。額の中央で潔く分けた髪より黒々と輝く大きな目。

知り合って間もない頃、「目でも眼でも瞳でもなく、眸という漢字がふさわしいよね」と声をかけたら、「**ちゃんっていつも人にそういう物言いをしてるの」と怪訝そうな顔をしたあと、笑った。その時の話は幾度ともなく晴飛の口に登ることになる。

「中二病と紙一重の台詞をさらっと真顔で言うからびっくりした。口頭で言われてもわかるわけないし」

「ハルはなんだか褒めたくなる面構えだから」

「よく面構えって言ってる時点で、褒める気ないでしょ」

「美人は何よりも敵だもん」

晴飛はわたしをしげしげと不躾に眺め、「それくらい隙だらけの方が、男の子にはもてると思うよ」と正直すぎる感想を寄越した。唖然としたものの、確かに晴飛は、誰とも付き合ったことがなく、いわゆる校内の高嶺の花なのだった。時々他組している晴飛と一緒に授業を取っていたけれど、いろんなところから視線が飛んできた。

「ハル」

先に来ている晴飛に声をかけると、「おはよ」と顔を上げる。冗談じゃなく彼女の周りだけぶわっと空気が揺れる感じがした。あの子めっちゃ綺麗、と男子が無防備に感想を漏らしているのがこっちまで聞こえた時、知ってるし、と晴飛が口の動きだけで言い返すので、肩を叩いて笑った。

晴飛とは2年の時が一番仲が良かった。学部がもともと違うので、次に会ったとき、私たちはすでに卒業の年度で、就活生だった。

つまらないスーツを着て、薄いメイクに落ち着いた晴飛を図書館のホールで開いていた就活説明会で見つけたとき、すぐさま隣に座った。

「ひっさしぶりじゃん」

晴飛が顔をあげた。相変わらずデパートコスメのBAのように美しい。

「うわ、**ちゃんか。わかんなかった」

就活生になり、長かった髪を男の子のように短くし、メガネをやめて週4くらいの頻度でコンタクトにしていた。眼瞼下垂と逆さまつげがひどかったので奥二重にしていた。「わたし、そんなに垢抜けた?ねえどう?」と矢継ぎ早に聞くと、「いや、全然よくいる就活生」とバッサリ斬った。見た目だけではなく、中身も相変わらず晴飛だった。

「あとで時間ある?」

「うん、上のテラスいこ」

内定を勝ち取っているらしき4年生があーだこーだのたまい、うんざりしているうちにグループワークをさせられ、アンケートを提出し、へとへとになってわたしたちはカフェスペースに移動した。

「最近どう? 就活三昧?」

「うん、3年からやってる。外資行きたくて」

「外資……」わからないなりに、晴飛がやはりわたしとは違う人間なのだと思った。

「でも、全然ダメだ。わたし、留学してるから英語できる方だと思ってたけど、そもそも同じところ目指してる人に比べて能力が全然ない。ロジカルシンキングすらままならないよ」

だから今は少し軌道修正してて、と晴飛がコーヒーを啜りながら呟いた。うつむくと瞼が薄いラメできらきらと照っていた。きっちりと黒髪をオールバックにしてポニーテールに結び、ジェルで固めているせいでなんだか真夜中の鏡のようだと思った。

にきびのあとをコンシーラーで丁寧に塗りつぶしていることに額の凹凸の陰影で気づき、見てはいけないものを見たような後ろめたさにわたしは視線を落とした。

「**ちゃんは?」

「わたしは、かなり適当だよ、本当に。恥ずかしいくらい。インターンも全然通らなかったし」

「意外。実は3年生のときの説明会でも見たことあるよ、声かけなかったけど。割と早くから動いてるから大丈夫じゃない?」

慰めるように晴飛が言葉を重ねる。わたしは曖昧に笑うほかなかった。民間企業に勤めたいなんて少しも思えないまま、諦めるようにしてみんなと同じように参加しているだけだった。

「頑張ろうね、お互い」

晴飛が微笑むと、なんだか合成写真のように神々しい美しさがあった。「うん」とうなずくと、「やりたいことがある人は、強いよ」とわたしの目を見て言った。

「流されないでね。わたし、わがままにやってる**ちゃん、かっこよくてすきだから。わたしら他の人より特別だって思われてるから、その通り振る舞ってるだけだよね」

びっくりしているうちに「じゃあ、次いかなきゃだ」と晴飛が去って行った。

晴飛は空港に内定をもらったのだと、後になって人づてに聞いた。それを聞いて、なんてぴったりなんだろう、とうっとりと夜の空港で日本刀のように背すじを正して闊歩する彼女の姿に思いを馳せた。

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