一羽の舟
@_naranuhoka_
一羽の舟
2016年
一羽の舟
1
ぼふん、と間抜けな音がした。
音は間抜けだったけれど衝撃と威力は思いのほかするどく、小型の動物に思い切り体当たりされたみたいに身体ががくんとくの字につんのめった。足元にぶつかったものが落ち、背中になにかが投げつけられたのだとわかる。それが、黒板消しであることも、すぐ。
振り返る。何人かの女子がさっとうつむいて、くすくすと床にこすりつけるようなしのび笑いをもらす。無言で肩を払うと、「そこじゃないよお」と甲高い作り声で誰かが言い、ひたひたと床を這うような笑いが教室で起こる。腕をひねって白く粉まみれになった背中を払うと、「迷惑なんですけど。廊下でやってよ」と近くにいた女の子が迷惑そうに吐き捨てた。仕方なく、トイレに向かった。きったねー。菌じゃん、ごみだよごみ。だせー、ばかじゃないの。誰かが言う声が背中まで追ってくる。
洗面所で鏡に映してみると、特大のスタンプを押したような長方形の濃い白い跡がくっきりとつき、その周りも思ったよりも広い範囲にチョークの粉がついていた。手で払うと、余計広がってしまう。ハンカチを濡らしてぬぐうと、水に濡れて目立たなくなった。乾いたら余計きたなくなってしまうかもしれない。でも、真四角のチョーク粉の跡をそのまま放っておくよりはましだ。
始業を知らせるチャイムが鳴り、急いで教室に向かう。担任の瀬野先生が二階から上がってくるところだった。
「平野、背中汚れてるぞ」とのんびりと声をかけられる。はぁ、と曖昧にうなずくと、「朝からだらしがないなぁ」と顔をしかめられる。ぺこりと頭を下げて先生を追い抜いて教室に入った。そっと席に着く。つづけて先生が入ってくると、まさかちくってないよねえ? と後ろから押し殺した低い声が耳になすりつけるように聞こえた。うなずくと、姿勢を正したのかこちらに近づけていた頭の気配が消えた。
「はい、じゃあ朝の会始めます。おい、なんだよ、床、チョークで汚れてるぞ」
「平野さんがさっき黒板消し落として汚しましたー」
間延びした声が響く。先生は舌打ちして、「自分で汚したならちゃんと掃除しろよ」と低い声でつぶやく。自分をにらんでいるので、すみません、と謝った。何人かが振り向いてくすくす笑う。ばーか、と後ろからせせら笑う声も、聞こえた。
「いますぐ舐めてきれいにしろよ。ここはみんなの教室なんだよ、おまえが汚したならおまえが掃除しろ」
瀬野先生がいつのまにか目の前に立っていて、無表情で見下ろしている。たじろいで声を発せずにいると、ぐっと首が締まった。無理やり上に体が持ち上げられ、椅子が派手な音を立てて倒れる。首元を引っぱられているのだと、わかった。息ができない。みんながこちらを見ている。好奇心で目玉をぎらぎらとひからせて、わたしをつめたく見つめている。
「そんなんだから学年でひとりだけ学区外の中学に入学する羽目になるんだろうが」
かっと顔から発火するかと思うほどなぜ、そのことをいま口にするのか――。信じられない思いで先生を見つめ返した。身体のすべての臓器が一瞬で毛羽立つ。内側から細胞がひとつひとつ凍りつき、鱗のようにめくれあがっていくかのようだ。首が締まって呼吸ができない。顔が風船みたいにぱんぱんにふくれあがっていく。苦しい、くるしい、目が痛い、このままでは眼球ごと飛びで落ちる、ごめんなさいお願いだから早く離して。ゆるしてください。
先生の濁った眼が命乞いをしてもがく翅を見下ろしている。その白目は信じられないほど淀んで、まるで底の見えない深い井戸を覗いているみたいだ。
「どこに行ってもおまえは一生同じままだよ」
朝陽がレモン色のカーテンの隙間から漏れ、はちみつをたっぷりとたらしたみたいに白いシーツを照らしている。絵本のなかの目覚めのように、小鳥が鈴のような声で鳴いているのが聴こえる。
翅はまばたきもせず、その光景をしばらくの間見つめていた。
苦しい、と思って目が覚めたけれど、身につけているテディベア柄のパジャマは襟首がしまっているわけでもなく、充分に呼吸ができる。水中に無理やり頭を押し込められているかと思うほど息苦しかったのは、昨晩肌寒いからと言って毛布を一枚母が足したからだろうか。
もう、卒業から一年半も経った。わたしはもう、あの教室にはいない。そのことをあらためて確認して、心の底から安堵した。
シャツを着て、紺色のブレザーを羽織り、布団の下で寝押ししていたプリーツスカートを履く。階段を降りると、ふんわりとまるい卵焼きの匂いがした。
「おはよう」
声をかけると、台所にいた母がこちらを振り向いておはよう、と返す。そうだ、わたしがいる世界はここだ――椅子を引いてダイニングテーブルにつく。ほかほかと湯気を立てているごはん、翅好みのあまい味つけの卵焼き、ほうれん草のおひたし、根菜のみそ汁、ヨーグルト。たっぷりとおなかが満ちると頬までゆるんでしまう。小学生のころは、平日の朝ごはんはあまり喉を通らなかった。もう、あのころとは違うところにいるんだ、という実感を卵焼きと一緒に噛み締める。
行ってきまーす、とマンションを出れば木々が青々と葉を茂らせていた。もう初夏が近い。六月になれば夏服が解禁になる。肩がいかつく見える冬服より、さらりと軽やかな夏服の方が気に入っている。早く月が替わればいいのに。
「おはよう」
中学校のすぐ目の前の交差点でクラスメイトの春山南さんがイヤフォンを耳に挿して立っていたので、思いきって声をかける。音楽を聴いていたせいか、春山さんは間をおいてからこちらを見下ろし、一瞬怪訝そうな顔を向けた。びくりとひるみそうになったけれど、すぐに笑顔になったので、内心胸を撫で下ろす。人の不機嫌の気配は、病的に苦手だ。
「平野さん、おはよ」
笑みに合わせて涙袋が目の下で小さな丘のようにふくらむ。おとなっぽい子だな、と見ていてどきどきする。春山さんはクラスでも二、三番目に背が高く、制服越しでもわかるくらい胸も大きい。一年のときからかわいいと有名で、先輩が教室まで見にきたという噂もうなずけるくらい、間近で見上げる春山さんはきれいだ。ぱっちりとした目を長いまつげが隙間なくふちどってかすかに揺れている。
話をつづけたくて、翅は手を耳にかけるしぐさをしてみせた。ね、と笑いかける。
「イヤフォン、やばくない?」
「なんで?」
間をほとんどおかずに訊き返され言葉に詰まる。なんでって、ここ学校だよ――そうつづけようとしてやめる。そんなあたりまえのことを直球で指摘すれば、いいこぶっている、と鼻白まれてしまうかもしれない。なんといえば、春山さんを不快にさせずに、さらりと笑いをまじえながら指摘できるだろう。
「……だって、ここ校門だし、はずした方、いいよ」
やっとのことでたどたどしく返す。笑いながら軽くいなすつもりだったのに、実際には声は小さくすぼまり、ネコのような強すぎる目の力に気後れして視線をそらしてしまった。
「あー。わかってるよ。わたしいつもここ渡るときはずしてるから」
翅の意見をふっと息でわたげでも吹き飛ばすようにさばさばと言い返され、そっかぁ、と力なく微笑んだ。春山さんはもうこちらを向いておらず、音楽に耳を集中させていた。
どう話を切り替えればいいかわからずに視線を泳がせていると、信号が青に変わった。春山さんはイヤフォンを手慣れたしぐさで素早くポケットにしまう。大股で歩いていく背中を見送りながら、ふぅ、と内心安堵していた。ひとりの方がやっぱり落ち着く。挨拶もなしにあっさりと離れていったのは悲しいけれど、むしろ、せっかくだし教室まで一緒に行こうか、などと言われなくてよかった。普段そんなに親しくしているわけでもない、教室の上位グループに属する春山さんとどう間を持たせていいかわからずに気まずい思いをしていたにちがいない。
新しいクラスになって一ヶ月半が経つ。翅は、まだクラスのどこのグループにも属していなかった。女子のなかで入っているグループが確定していないのは翅ひとりかもしれない。
でも、浮いてるわけじゃない、と自分に言い聞かせる。真希ちゃんや原ちゃんとはたまに話すし、多くはないけれどそれなりに、友だちはいる。正確には、友だちになれそうな子、かもしれないけど、それはまだ新学期のよそよそしさが教室から抜けきらないせいだ。ふたり組を作ってください、と言われればおののくものの、大概奇数グループに属する女の子と組むので、はぐれたことはいちどもない。だいじょうぶ、おかしいところは少しもない。悪口を叩かれるほどでしゃばっていないし、影はほんの少し薄くても、いつもにこにこ話を聞いている無害でまじめな子、とみんなに思われているはずだ。
だから、今度はだいじょうぶ。
ふぅ、と小さく息を吐く。下駄箱では朝練から帰ってきた運動部の子たちがたむろしていた。同じクラスの金山さんとみさきちゃんがそのなかにいることに気づいたけれど、同じ部活の子たちとしゃべっているので声をかけるのはやめることにする。きっとふたりとも翅が登校してきたことに気づいているけど、挨拶はされなかった。
二階に上がり、教室に向かう。ふっと違和感を覚え、いま見ている風景は今朝の夢ととても似ていることに気づき、ゆるい吐き気が喉のあたりまでこみあげるのをやりすごす。あの小学校は実際には床は木目プリントではなく、廊下と同じリノリウムの床だった。覚えている。床にころがされたときに蛍光灯を反射して床がまばゆかったことも、積もっていた埃がきらきらと雪の結晶みたいにひかってほんの少し床から浮いていたことも、ぜんぶ。
「おはよー」
隣の席の和香子ちゃんに声をかけ、リュックを下ろしてフックにかける。数学の課題を解いているらしい和香子ちゃんは顔をほとんど上げずに「おはよ」と返した。いま解いているプリントは、今日の一限の最初の時間に提出のはずだ。机にへばりつくように解いているのは、時間が足りずに焦っているからだろう。席に座り、横目でちらちら様子をうかがい、いち、にぃ、さん、と心のなかでタイミングを計って、息を吸って話しかけた。
「和香子ちゃん、よかったらわたしの写す?」
ぱっと顔を上げ、「いいの? 助かる!」とどんぐりまなこをかがやかせる。どっと胸に安堵の波が押し寄せ、緊張がほぐれた。ファイルから自分のプリントを取り出し、渡す。
「ごめーん、助かる〜」
和香子ちゃんは素早く翅の解答を写し始める。字は丁寧に書いたっけ。そもそも解答は合っているんだろうか。声をかけるときとは違うどきどきがまた胸をせまくさせたけれど、チャイムが鳴るころに「サンキュー」とあっさりプリントを返された。どういたしまして、とファイルに戻す。
一昨日、クラス替えしてから初めての席替えがあった。和香子ちゃんは今年初めて同じクラスになった。バスケ部で、体育で率先して動いている和香子ちゃんは、女子で隣同士になったのに、はしゃいだようすはほとんどなかった。翅をちらりと見てあ、どーも、とでも言いたげにおざなりなしぐさで頭を下げただけで、休み時間や給食の時間に話しかけてくることはほとんどなく、昼休みはいつも仲間と一緒に体育館に行ってしまう。運動部のグループでつるんでいて、そのどの子ともまだちゃんと口をきいたことはない。
仲よくなりたかった。和香子ちゃん個人と、というよりも、和香子ちゃんみたいな、趣味も性格も仲間もてんで自分とは違うところにいる子とも、仲よくできるんだと自分に証明したかった。
担任の島田先生が入ってくる。夢に見た、瀬野先生とは正反対の、背が女子中学生とあまり変わらないぽっちゃりとした体型のかわいらしいおばさん先生だ。ほかの先生と違って忘れものをしてさして怒ったりしないし、翅がどういう経緯でこの中学に来たかもきちんと知っている。そのうえで、ひいきするわけでもなく、ただ目が合えばやわらかく、微笑んでくれる。そのたび、自分はここにいていいのだと、翅は確信できる。
「起立」
学級委員の声で、また一日が始まる。
この中学ではめずらしく、翅は部活に入っていない。ほんとうは吹奏楽部に入りたかった。流行していたマンガに憧れたというのもあって、まるくてつるんとした、かたつむりみたいなかたちのホルンを吹いてみたかった。
吹部に入りたいんだけど、と母になにげなく切り出すと、こころよくハンコを押してもらえるとばかり思っていたら「吹奏楽?」とすっとんきょうな声をあげ、目の色を変えた。
翅は、自分が何か間違ったことでも口走ったかと思って凍りついた。吹奏楽部に入りたい。口にしたのはそれだけなのに、正気か、と罪人を咎めるようなけわしい目つきで母は翅を見据えていた。
「部活動なんて狭い集団に身を置いたらどんな目に遭うかわからないわよ。ましてや吹奏楽部なんて……いちばん上下関係が厳しい部活じゃない。ストレスが溜まった人間がいる場に飛び込むなんてもってのほかです。それに女の子ばっかりじゃない、ゆるしません、だめよ、絶対だめ」
言い返したいことなら、山ほどあった。その山をすべて飲み込み、翅は頬の筋肉を意識して動かし、「そうだね、やめておく」と母を刺激しないようにつとめて穏やかな口調で言って、差し出した入部届けの紙を手にしてあっさりと部屋に引き返した。ドアを閉め、明かりもつけずにベッドまで行き、膝を抱き寄せて声を出さずに小さく泣いた。小学生のころから声を出さずに思う存分泣くこつは知っている。
翌朝、母の目にふれないように入部届けの紙を鞄に入れて登校し、学校の中庭のごみ箱に丸めて捨てた。四階の音楽室から、織ったばかりの絹を広げるみたいに、朝練している吹奏楽部の音がのびのびと誇らしげに響いていて、ふかふかと積もった桜の花びらの山を思いきり踏みつけて足早に立ち去った。
吹奏楽部にはクラスの女の子たちもたくさん見学に来ていて、ここに入れば一気に友だちが増えるかも、とわくわくしていたのに。練習で休日が一日つぶれることも、一年のうちは運動部並みに走り込みをしなければならないことも、挨拶をしないと先輩から呼び出しを食らってこっぴどく怒られるらしい、といううわさもほとんど気にならないくらい、翅は自分の居場所がほしかった。三つの小学校から来た生徒たちのなかで、引っ越してきたばかりでひとりの知り合いもいない翅は、四月の終わりになっても誰ともつるめずにいた。同じ部活という共通項さえ手に入れば、あっというまに仲間ができると胸をはずませていたのに。仲間になったばかりの同じ吹奏楽部の子に吹奏楽をモチーフにしたマンガを貸す想像までしていたのに。
去年のクラスには、あまりいい思い出はない。「平野さん、吹部に何回も見学に来てたよね? なんで入部届け出す日は来てなかったの?」と最初のうちは吹奏楽部に入った子たちに話しかけられたけれど、彼女たちの輪に入ることはやはり、できなかった。つらい練習を一緒に乗り越え、土日も毎週顔を合わせ、おそろいの楽器をかたどったキーホルダーをリュックにぶら下げている女の子たちは翅には見えない強いなにかで結ばれているみたいで、ことあるごとに話しかけて仲良くなろうとしても、なかなか心をひらいてくれなかった。あきらめて美術部の子たちが集まったグループや卓球部の女の子のコンビに声をかけたりおしゃべりの輪にくわえてもらおうとしたけれど、なかなかうまくいかなかった。あまりにうまくいかないので、もしかしてみんなにばれているんじゃないか、とすら思った。わたしがこの街に引っ越してきた理由をみんな知っていて、輪に入れてくれないんじゃないか。けれど、クラスのみんなは翅がここから離れた街の小学校出身であることに無頓着で、翅の過去を探ってくるような子なんて誰もいなかった。
一年間、結局親しくなったといえる子は数えるほどしかいなかった。年が明けても、女子の半数は翅のことを「平野さん」と苗字で呼んでいた。翅に用事があるときは「ねえ」ですまされ、一年間名前を呼ばれたことがない子だってたくさんいた。
学期末の面談の前に配られるアンケートに必ずある『親しい友人(ほかのクラスの人も可)』の欄は毎回苦労したし、とりあえず埋めてはみても、わたしが名前をあげた子は誰もわたしの名前をここに書いていないんだろうな、とわかっているから、悪いことをしているわけではないのに、提出したあとは自信がない解答用紙をだしたテストみたいに、いつも心細かった。
このクラスじゃだめだ――なんども思った。祈るような思いで、クラス替えを待った。
いまのクラスは、女子のほうが多く、決定権を握っているのも女子みたいだ。春山さんが率いるおとなっぽい女子の四人組が、教室のなかでいちばん権力が強い。先生に席替えを提案したのも、春山さんたちだ。見た目が派手でスカートの丈も短いけれど、四人とも成績はいいらしい。四月の上旬に早々とカーストの上位におさまったのもわかる気がする。
部活動はみんなてんでばらばらだ。春山さんに関しては、翅と同じ帰宅部だった。四人が四人とも去年から同じクラスというわけでもないみたいだし、いったいなぜ四人は仲よくなったんだろう。容姿がすぐれている女の子同士で自分たちの共通項をかぎ分けて自然と集まったんだろうか。いままでいちども、ほんとうにいちどもはっきりしたグループというものに所属したことがない翅には、わからないことだらけだった。たとえば、吹奏楽部の子たちがつどった大所帯のグループには、ふたりだけ美術部の子もまじってつるんでいる。それから、去年から同じクラス同士らしいみのりちゃんと三田さんのコンビは小学校も部活も違うし、出席番号も遠いのになぜふたりは親友同士になれたのだろう。そのきっかけはいったいなんだったんだろう。
翅にはわかりやすいお手本が必要なのだ。同じ部活同士、同じ小学校出身という、友だちになるときに便利なパスポートがなくても、どうしたら仲よくしてもらえるのか。なにをきっかけに一歩踏み込んだ仲になれるのか。翅にはなにひとつわからない。みんなが仲よしの友だちを得たルートを事細かに順を追って知りたかった。きっと普通の女の子は高学年のころには人間関係のコツを学び、掴んでいるんだろう。翅をこんな場所まで追い込んだあいつらは、みんなそうだった。
思いだしたとたん、寒気を感じ、ぶるり、と身体をふるわせた。あの小学校はみんなそっくり同じ街の中学校に上がる。それを思うだけで、背筋に氷をひとかけ入れたみたいに怖気がかけめぐる。
忘れよう。たとえあいつらは変わらなくても、わたしは生まれ変わったのだ。
2
「ちょっといい?」
鈴をやさしく手のひらでころがしたような、芯のないほわんとした声。はじめ、自分が声をかけられたのだと気づかなかった。
昼休み、図書館に行くか教室で本を読むか迷っていると、春山さんから話しかけられた。うしろにはいつもの仲間が三人ともついてきている。
思わず背をぴんと伸ばした。春山さんから声をかけられたのは初めてだ。
「なに?」
「ちょっとお願いがあってさぁ」
春山さんの話し方は温めたミルクの底で溶けかけたキャラメルのようにあまったるく、まるで仲のいい友だちに話しかけるみたいに親しげだ。こちらに心を傾けられているみたいで、翅の心はマシュマロのようにやわく弾む。
「体育祭の副リーダー、わたしと代わってくれない?」
思いもかけない言葉に、あっけにとられて声を失った。口を半開きにしてあからさまに驚いている翅を見て、春山さんと仲間はなぜかおかしそうに笑う。
この中学では毎年六月に体育祭があり、クラス単位で団となり、同学年のクラス同士で競い合う。各教室から体育祭のリーダーと副リーダーがひとりずつ選ばれ、クラスを先導する。たいがい男子と女子のいちばん目立つ生徒が選ばれる、いわばクラスの花形だ。このクラスからはバスケ部のキャプテンである神田くんと、春山さんがそれぞれ推薦で選ばれていた。
「ちょっと事情があって副リーダー降りたいんだよね。しまちゃんに相談したら、代わってくれる子を自分で見つけたらやめてもいいって言ってたから」
「……わたし、絶対向いてないよ。ほかの子に頼んだほうがいいよ」
慎重に断った。とつぜんの思ってもみない頼みに頭のなかは混乱していた。なぜ春山さんはわざわざ目立たない、仲が取りたてていいわけでもない翅に代役を頼もうと思ったのだろうか。春山さんの代わりなら、いま連れ立っている仲間の誰かのほうがよっぽどふさわしいのに。
「そんなことないよ! だって代わりを探せ、って言われたとき、いちばん最初にひらちゃんを思いついたんだもん」
ひらちゃん、と呼ばれたこともないあだ名をなにげなく口にされ、耳がぽうっと熱を持つ。いつだったかの朝、挨拶したときは「平野さん」と呼んでいたのに、きっと代役をおしつけるために翅にこびているのだ。頭では冷静にわかっていても、甘酒でも飲んだみたいにふわふわと心地いい。
おそるおそる、でも期待をこめて「なんでわたしが?」とたずねた。
だって、とこともなげに春山さんはさくらんぼみたいにつやつやしたくちびるをとがらせる。
「うちのクラスの学級委員だし、そりゃそうっしょ」
あはは、と乾いた笑いを上げるしかなかった。
しっかりしてるし、みんなをまとめる力がありそうだから。普段おとなしいけれどじつは明るくてはきはきしているから。想像していたあまい褒め言葉は無残に吹き飛ばされる。自分でも、うっすらわかっていたことだ。
どうしても今年は失敗したくなかった。この教室に、居場所が欲しかった。だから、新学期のいちばん初めにあった学活でクラスの係決めで、飛び降りるような思いでえいやと学級委員に立候補したのだ。もちろん、学級委員を務めるのは小学校を含めて初めてのことだった。
もちろん、たいていは推薦で決めるものなので先生もクラスメイトも驚いていたけれど、すぐに決まった。おー、とたたえるような感嘆とともに拍手され、初めて感じる誇らしさと気恥ずかしさに胸がくすぐったかった。「誰あの子?」「おとなしいし陰キャかと思ってた」などとささやく誰ともつかない女子の声がするのは、気にしないようにした。
朝ばったり出くわしたクラスメイトに挨拶したり、隣の席の子に声をかけたりするのも、学級委員だから、という言い訳がなければとても自分を奮い立たせられなかった。クラスメイトも、急に自分が声をかけて親しくしてきても、学級委員であればさして怪訝に思わないだろう、という計算があった。
「ね? お願い。ひらちゃんに断られたらマジで頼む人いないからさぁ」
女優さんみたいに整ったちいさな顔で困ったように微笑まれ、シャンプーのいい匂いが鼻をかすめる。どぎまぎしてしまい、翅はうつむいた。
学級委員の翅よりもずっと明確にクラスを仕切っている春山さんに頼みごとをされるのは、やっぱり気分がいい。自分まで、はなやかできれいな女の子の世界に仲間入りしたような誇らしさが胸をくすぐる。できればその頼みを引き受けてあげたい。でも――やはり、自分には荷が重すぎる。学級委員になるのと体育祭の副リーダーになるのは、役割もキャラクターも似ているようで微妙に違う。目立って、華があって、人気のある人じゃないと、きっとみんな納得しないはずだ。
「そんな重く考えなくていいよぉ。副リーダーだし、健介のアシスタントすればいいだけだし、むしろ学級委員よりもよっぽどやることなくて楽だよ。かんたんかんたん。もちろん応援合戦の振りつけ考えるのとかはわたしも手伝うからさ」
甘いルックスで学年の女子から人気のある神田くんのことを軽々と下の名前で呼び捨てにする。そんなところにいる人と、自分なんかが交代していいんだろうか。
「ね? ホント、ひらちゃんに引き受けてもらわないと困るの。ほかにやってくれそうな女子いないしさ、ひらちゃんだけが頼みの綱なの、だからお願いっ」
両手を合わせて頭を下げる。栗色がかった髪がさらさらと肩をこぼれた。人に頭を下げられてなにかをここまで熱心に頼まれたのは初めてで、翅はおろおろしながらそうっと華奢な肩にふれた。
「わ、わかった……わたし、やるよ。南ちゃんの代わりに」
とたん、春山さんはぱっと顔を上げた。その拍子に跳ねた髪が翅の鼻っ面をやわらかく叩く。とびっきりの笑顔になり、左側の頬にえくぼが浮かんだ。
「マジで! やった、助かるぅ。ありがとね、じゃあしまちゃんに言ってくる!」
仲間を引き連れてあっさりと去っていく。あれ、あっけない――もっと盛大にありがたがってくれるとばかり思っていたので、少し拍子抜けしてしまう。そして入れ違いに、しょってしまった重荷が胸の底をずんと重くさせた。
最後に思いきって口にしてみた「南ちゃん」という軽やかな響きの呼び方が、誰にも受け止められることもなく宙ぶらりんになってくちびるから離れ、ちぎった花びらのようにひらひらとどこか遠くへ漂って消えていく。
いい顔をして頼みごとをやすやすと引き受けたものの、いざ体育祭への準備が始まると副リーダーの仕事は想像していたよりも大変だった。
応援合戦のテーマの提案、振りつけの指導、毎週進捗を報告するリーダー同士の話し合いへの参加、そして一か月ほど、体育祭が終わるまで体育でもリーダーとしてクラスをまとめなければならない。
「もともと学級委員なんだから一緒のことじゃん」――笑顔で春山さんに言われ、自分でもそう言い聞かせて仕事をしていたけれど、なんとなくもやもやとした思いが胸の隅を巣食い、釈然としなかった。返事はせず、黙って使い終わったカラフルなリレーのバトンを回収した。
副リーダーを交代したことを神田くんに告げに行くと、露骨な顔でがっかりされた。「えーっ南じゃないの? やめちゃったの? まじかー」とシャーペンをくるくると器用に回す。
クラスのアイドルにどきどきして、内心わくわくもしながら話しかけたのに、一気に土足で踏んづけられたような気持ちになる。そりゃあ、モデルみたいにかわいい春山さんとコンビを組むほうがずっとうれしいだろうけど、なにも本人の前でこんなにはっきり言わなくてもいいのに。傷ついたことに気づかないふりをして、事務的に微笑んだ。
「ってかなんでおまえなの?」
「……学級委員だからじゃないかな」
苦い思いで告げる。ほんとうは、南ちゃんがわたししかいないと思って頼んできたから、と胸を張って言いたいけれど、そんな気力はとうにしぼんで地べたにちらばって風に飛びそうになっている。言ったところで神田くんは信じないか、鼻で笑われるだけのような気がする。ああ、とようやく神田くんは合点がいった顔になった。
「運動神経いいほうだっけ? だいじょうぶ?」
「あんまり得意じゃないけど、足ひっぱんないようにするから」
けなげに、感じよくこたえたつもりなのに、神田くんは整った眉をしかめて「そういう問題じゃない」と斬り捨てた。「副リーダーになるってのはみんなの手本になるってことなんだからな? 適当な気持ちでやられても困るんだよ」
〈適当な気持ち〉――まるで自分の心を読まれたようでぎくりとした。急に身体の奥が重くなった。
「……わかった」
「まあ女子のほうが多いけど、今年、このクラスわりと運動できるやつ集まってるからみんなマジで優勝狙ってるからさ。ちゃんとやれよ」
乱暴な口のきき方にむっとする余裕もなく、プレッシャーに押しつぶされそうだった。しおれて「はい」とうなずく翅に、神田くんは初めて憐れむような目になった。
そういえば神田くんはいちども翅の名前を呼んでいない気がする。もしかして知らないんだろうか、と思いおずおずと口をひらきかけたけれど、廊下から男子に呼ばれ「いま行くー」と席を立って翅の横をあっけなくすり抜けて行ってしまった。
家に帰ると、キッチンからコンソメの香ばしい匂いが漂ってきた。部活に入っていないので、西陽が窓のあるぶんだけいっぱいにリビングに差し込んでいるうちにいつも帰宅することになる。日焼けを気にして陰のソファーにいるときの母は実年齢より老けて見えるから、なんとなくいつも目をそらしてしまう。
荷物を二階に持って行ってからリビングに降りた。料理雑誌を読んでいた母に「そういえばクラスの副リーダーになったよ」と告げると、「なに、それ」と老眼鏡を指で押し上げながらこちらを見た。
「体育祭の、クラスの女子のリーダー」
「なに、また自分で立候補したの?」
違うちがう、と手を顔の前で振った。
「選ばれたんだよ。だから推薦」――ほんとうはさきにみんなに選ばれた子がいたのだとは言わなかった。でも、みんなに選ばれた子に選ばれたのだってだいたい同じこと、にしてもいいだろう。怪訝そうだった母の顔がふわっとゆるむ。
「へえ、よかったじゃない。いまのクラス、友だちたくさんいるの?」
「うん」にこにこと笑う。これ以上詮索されませんようにと内心祈る。「去年よりたくさん友だちできたよ」
そう、と母の目じりの皺がやさしく伸びる。母が翅の言葉でこんなふうに笑みを見せたのはひさしぶりかもしれない。
「副リーダー、頑張りなさいよ」
「あ、でも、体育祭別に見に来なくていいからね、もう中二なんだし、みんな親よばないって言ってたし」
「え、そうなの?」母が不服そうにくちびるをとがらせる。「まあ、去年行ったしねえ」
「そうだよ、副リーダーだからって本番もみんなの前でやるわけじゃないし、去年と同じだよ。暑いし疲れるだけじゃない?」
なにげないふうを装いながら必死で保険をかけておく。絶対にこないで。絶対に。
中学生になってから、母は体の不調を訴えることが増えた。老眼鏡を買ったのも最近だ。更年期かなあ、とため息をつきながら目頭を揉んでいる仕草は急に老けて見え、四十代半ばには見えなくて内心ぎょっとしたのを覚えている。
自分のせいだと、翅は自覚していた。気を遣っているのか翅の前では具体的な愚痴をもらすことはあまりないけれど、引っ越してきたばかりだからみんながよそよそしくて近所づきあいが大変だとか、この街のごみ出しのこまかい規則を覚えられないとか、レジ打ちのパートの人間関係が複雑でなかなかなじめない、などとときどき父にこぼしているのを聞いたこともある。社交的で外に出かけるのが好きだったのに、最近は手足の冷えやめまいを訴えて休日も家にいることが多い。小学校低学年のころはどちらかといえばぽっちゃりしていたのに、いまではそんなことを微塵も感じさせないほどやせている。やせた、というよりも、やつれてしまっていた。
これ以上母に迷惑をかけてはいけない。心配させてはいけない。だいじょうぶ、なんとかクラスをまとめてみせる。あの教室ではまだ誰からも嫌われていない。だいじょうぶ、みんなとうまくやっていける。わたしもみんなみたいな人になれる。だいじょうぶ。
ぎゅっと歯を食いしばる。いやなことがあったり、くやしくてみじめになると奥歯に力を込めて食いしばるくせは、小学生のとき歯医者で注意されたのになかなか抜けないでいる。
終わっていない。いまも、あいつらは翅のなかに確かに存在している。そのことを否が応でも確かめさせられたみたいで、よけい噛みしめる力は強くなる。ぎりぎりと。
夜、予習を一通り終わらせて布団をかぶって目をつむった。今日起こったことが場面ごとによみがえる。
「翅ちゃん、代わりをやるなんてえらいね」「おとなしい人かと思ってたけどしっかりしてる、頼りになるんだね」「去年から仲よくしてればよかった」「ねえ、翅って呼んでもいい?」――そんなふうな言葉をかけられることを期待したり、いやあんまり期待してもあとでがっかりするからただたんたんと仕事をこなそう、とあんまりいいことを考えないように抑えたり、シーソーのようにかわりばんこに気持ちがひるがえる。
でも、これをきっかけにみんなと仲良くなれたらいいな、ついでに神田くんもちゃんと「平野」と名前で呼んでくれるようになったらいいな。
けれど寝返りで、思いをはせた期待をぜんぶかき消す。期待をするとそのぶんあとから手ひどく傷つけられる。先回りしてあんまり考えすぎても、ろくなことにならない。それは、この自分がいちばんわかっている。油断するとヘリウムガスを入れた風船みたいにふわふわと持ち上がりそうになる心を、そうっと押さえた。
窓の外に浮かんでいた大きな雲は、授業が終わるころにはすっかり移動してかたちを変えていた。
総合の時間に話し合い、翅のクラスの応援合戦に使うテーマ曲はCMに使われているアイドルソングに決まった。そのあとはみんな、出る競技の割り振り、係決めに躍起になる。
春山さんはグループの三人と一緒に衣装係になっていた。きっとみんなでそろって係につきたかったんだろうな、と思う。それ以上の感情が湧いてきそうになって、無心に記録ノートに板書を写しながらやり過ごした。
テーマがおぼろげながら決まりほっとしたのもつかのま、黒板を消していると神田くんに「放課後、ダンスの練習するから」と言われた。えっ早くない? と口にはしなかったものの困惑が表情に出たんだろう、神田くんはむすっとした顔で「ほかのクラスにおくれたら嫌だから、今年は早めに動くんだよ」と言った。
掃除のあと教室に戻ると、翅と神田くんのほかに、春山さんの四人グループと、神田くんと似た匂いのする、クラスで目立つサッカー部の男の子が残っていた。よく神田くんとつるんでさわいでいる佐野くんという人だ。男子の学級委員でもある。翅と違って、推薦で選ばれていた。学級委員のコンビの割に、佐野くんはめったなことでは翅に話しかけてこないし、こっちから話しかけてもいつもそっけない。翅は佐野くんが内心苦手だった。
「そろったな。やるか」
神田くんはポケットから学校に持ってくるのが禁止のはずのアイフォンを取り出し、動画を再生し始めた。アイドルの男の子が五人出てきてダンスを始める。思ったよりテンポが速く、首すじがじんわりあせばむ。春山さんがほうと感嘆するように息を吐いた。
「うわ、やっぱ最高。これみんなでびしっと踊れたらめっちゃかっこいいよねえ」
そういえば、と声に引っ張られるようにして思いだす。春山さんとその仲間の園部さんはこのアイドルグループのファンだったはずだ。よくふたりで雑誌を広げながらきゃいきゃいと盛り上がっている。学級会のとき、春山さんの提案に、司会をしていた神田くんがやたらいいじゃん、と熱っぽく推していたのもそのせいか。ふっとこのクラスにはりめぐらされた糸の一本に気づいてしまったみたいで、少し具合が悪くなった。
けれど話題はこのアイドルグループのひとりが最近熱愛報道されたことに移り、園部さんが本気で「絶対ありえない」と憤慨し、「菜月、むきになってる」「あの女優めっちゃかわいいよね、てかまえ月9で共演してたからガチじゃない?」などとからかってみんながげらげら笑う。一緒に笑っていいのかわからずあいまいに微笑む。いま自分がちゃんと輪にくわわっているのかどうかもわからない。
話はあっというまにすすみ、最近売り出し中の若手お笑い芸人や昨日のドラマの話に移り、かと思えば声をひそめ、「ってか今日のしまちゃん柄のシャツに柄のスカート履いてたよね? なにあの組み合わせ、あたしいまいちばん前の席だから目ぇちかちかしたんだけど」「あれはやばいよね、出勤前に家族になんか言われなかったのかな」などと笑いあう。翅はいちども口を挟んでいない。わかる、それ思った。あの子かわいいよね、昨日宿題やってて見逃しちゃった。島田先生あのヤシの木柄のスカートよく履いてるよね、気に入ってるのかな? いろんなことを思ったけれど会話に滑り込ませるタイミングがわからず、ひたすらうんうんとうなずいた。なんどか会話に加わろうと口をひらいたけれど、それよりも早く誰かが反応して、笑みを保ったまま翅は言おうとしていた言葉を飲み込む。なんどか佐野くんや園部さんがそれに気づいてちらちらとこちらを盗み見るのが、むしょうに恥ずかしかった。会話に混ざりたいのに輪に入っていけないかわいそうな人、と思われているのかもしれない。そもそもなんで翅がこのなかに交じっているのかわすれているのかもしれない。翅だって、どうして自分がここにいるのかわからない。いまそうっと抜けて帰ってしまっても誰も気づかないし、気づいたとしても気に留めないんだろう。
それでも、翅は微笑みながらうなずきつづける。自分の役割はきっとあると、この場にいる誰よりもしっかりと顎を沈ませながら信じつづける。
週末自分の家で練習してきて、と言われ、パソコンで動画を探し出し繰り返し観た。両親の前でダンスの練習をするのは気恥ずかしくて、部屋に戻って思いだし思いだし振りつけをなぞった。土曜日の午後、母が買い物に出かけているあいだ、リビングで動画を流しながらひとりで踊ってみたりした。黒光りしているテレビ画面にぎこちない自分の動きが歪みながら映っていて、滑稽さに少し思わず目をそらした。
翌週から本格的に練習が始まった。体育館裏のスペースで昼休みと放課後に毎日ダンスの練習をした。
神田くんは翅が思っていたよりずっと運動神経もよく、勘もいい。月曜日に一緒にダンスをしたら、自分が週末にしていたことなんてなにもしていないのとそう変わらなかったのだと愕然とした。翅なりに時間をたくさん割いて練習したつもりなのに。
「おまえ、ちゃんと踊ってきたの? 最初の部分だけできててもしかたないんだよ。応援合戦のメインで使うのはサビの部分なんだからさあ」
神田くんはあきれ顔で言い、自分は踊らずに教師のように翅の前に立って踊るのを見て指導するようになった。ときどき春山さんたちも練習に参加したけれど、神田くんが「こいつぜんぜんダンスできてないから見てやってよ」とあっけらかんと言い放ったので、四人は「じゃあうちらもアドバイスしてあげる」と言って、みんなに見られながら踊るはめになった。知らない生徒が通りすぎるたび、顔が真っ赤になった。わたしは監視されながら踊ってるんだな、と思うとふっと目の前が暗くなるような気がした。
昼休みが終わるとくたくたになって五時間目によくいねむりしてしまいそうになった。数学の先生に「学級委員なのにだらしないぞ」と注意され、みんながなんとも言えない顔で笑うのが顔が真っ赤になるくらい恥ずかしくて、くやしくてみじめでうなだれた。奥歯がきゅうと鳴るのがわかった。
「そこワンテンポおそい」「ストップ、そこの振りつけまた飛んでる、やり直し」「そんな小さい動きじゃクラスの手本にならないだろ、もっとはっきり動けよ」――日を重ねてもなかなか上達しない翅に神田くんはいらだちを隠さないようになり、だんだん口調に険が混じる。春山さんたちも飽きたのか、練習は自分たちでやるといって付き合わなくなった。神田くんは「俺だけでこいつの面倒見るのかよ」と不服そうだったけれど、翅はその悪態も気にならないくらい、ふたりだけに戻ることにほっとしていた。でも、ふたりきりになると神田くんは口調がますます強く、荒っぽくなる。なんども同じところで怒られ、直ったと思ったら別のところで間違ってしまい、「あーもうっ!」といらだった声がばんと炸裂して、体がびくんと大きく揺れる。
踊りながら、翅はほとんど泣きそうだった。神田くんが動画を再生しなおすために背を向けた隙に腕で涙をぬぐった。
「おまえさ、なんで学級委員になったの?」
「……え?」
とつぜんの問いに戸惑っていると、神田くんは無表情で翅を振り返った。
「だって、おまえべつに目立つわけでもめっちゃ頭いいってわけでもないし。去年学級委員やってたってわけでもないんだろ? なんで立候補したの?」
「……それは、」
とっさになんとつづければいいかわからず、口ごもった。
みんなと手っ取り早く打ち解けて仲よくなれると思ったからだ。学級委員になれば、距離を縮めるための近道のパスポートが手に入ると思ったからだ。
「みんなが、内申点上げるためなんじゃないかって言ってたけど、そうなの?」
身体じゅうの血がすとんと足元に落ちるような気がした。
目の前の風景が、視界に黒いフィルムを一枚挟んだみたいに色褪せる。足が少しふらつく。自分の前では一ミリもそんなそぶりを見せないで、それなりに仲よくして、輪に入れてもらえているのだと思っていた。だから安心していた。でも、実際は自分がいないところではそんなふうに言われている。いったいなにを信じればいいのだろう。
「……そんなんじゃないよ」
やっとのことで声を振りしぼって言い返す。神田くんは翅のあおざめた顔色に気づかず、ふうん、と軽く流した。
「ねえ、みんなって、誰? 誰がそんなこと言ってたの?」
声を強めて問いただしても、神田くんは端正な顔をうっすらと歪めて笑っているだけだ。佐野くんや男子だろうか、春山さんたちだろうか。それともそれなりに仲よくしていると思っていたおとなしい女の子たちだろうか。それともほんとうにみんながみんな、言っていたんだろうか?
翅だけが「みんな」の輪のなかに入っていけない。どうしていつも自分だけがはじき出されるんだろう。また、自分だけが知らない間に突き放されている。水のなかで漂う油膜みたいに。
ふ、と神田くんは鼻で笑った。
「そんなのどうでもいいからさ、ちゃんと役割は果たせよな、学級委員」
3
借りっぱなしだった本を返しに図書室に行った。
今日の昼休みの練習は休みになった。男子が隣のクラスとフリスビー対決をするらしい。神田くんもひさしぶりの昼休みがうれしいのか、給食のあとダッシュで体育館まで向かっていった。
「平野さん、この本二冊とも延滞してるよ。三日間貸出できないからね」
ピ、とバーコードを読み取りながら司書の遠山先生に言われ、やっぱりな、と思いつつ肩をすぼめ、すみません、と謝った。「ずいぶん来てなかったわね、そういえば」と先生は目をしばたかせた。
「体育祭の副リーダーになったんで、昼休みも放課後もダンスの練習してて」
「そうなの、忙しいわね」
去年は、昼休みはいつも図書室に入り浸っていて、常連だった。でも、五月になってからはほとんど来ていなかった。
「ま、体育祭終わったら好きなだけ借りなさい」
ふふ、と微笑まれ、翅も笑い返す。きれいだけれど少しきつい印象があるせいか、怖そう、と生徒は敬遠し、陰で「図書室の魔女」とあだ名しているけれど、翅はこの司書さんがとても好きだった。ここにはたしかに自分の居場所が守られているような気がする。
「またおすすめの本教えてください」
始業五分前のチャイムが鳴り、生徒たちが一斉に図書室を出ていく。遠山先生にぺこりと頭を下げ、翅もその背を追った。
小学生のときから本を読むのは好きだった。中学校よりも長かった休み時間は、もし本がこの世になかったら、時間のつぶし方に困って途方に暮れていたに違いない。おにごっこや花いちもんめ、ドッチボールをするのには短すぎても、ひとりで過ごす休み時間ははてしなく長く感じた。いま思えば、苦手な図工や体育の時間よりも、いちばん嫌いな時間だった。
本さえ開けば視線の置き場所に困らない。周りの視線だって、少しはシャットダウンできる。もし耳栓やイヤフォンさえあれば、「見て、またぼっちで本読んでる」「しねばいいのに、あいつ」などと聞こえよがしになじるクラスメイトの声も聞こえずにすんだだろう。
小学校の図書室は苦手だった。昼間でも薄暗く、古くていつも埃っぽい匂いがしたし、あちこちに蜘蛛の巣が張っていた。司書の先生は厳しいので有名なおっかないおじいさんで、低学年のころいちど誤って絵本を破ってしまったのをおそるおそる告げると、こっぴどく叱られて、翅はその剣幕の恐ろしさに真っ青になってぶるぶると身体を痙攣させておもらししてしまった。
それが苦いトラウマになって、授業の調べもので利用するときもいつもびくびくしていた。本はもっぱら街の図書館で借りて、学校で読んでいた。
好んで読んだのは、「にんじん」というタイトルの外国の小説だった。赤毛でそばかすだらけの少年「にんじん」が、母親であるルピック夫人に忌み嫌われ、虐待されている、という話だった。挿絵がついているから子供向けだと思って読んでみたら、小学生の翅には難しい表現も多く、淡々としたストーリーであまりおもしろいとは思わなかった。けれど、これは自分の話だ、と思った。理由もなくいじめられ、虐げられているにんじんは、わたしのことだと、ときどき読み飛ばしながらしか読めなかったものの、針ですっと心を貫かれたみたいにするどく確信した。
いじめをテーマにした物語はほかにもあったけれど、どれも読んでいて気分が悪くなって読むのをやめることが多かった。わざわざ本のなかでもいやな気持ちをなぞるなんてばかだ、と思ったせいもある。不思議と、「にんじん」を読んでもそうは思わなかった。にんじんみたいに自分もずるくかしこく生きたい、そう思った。
「にんじん」のラストは、ルピック夫人とにんじんがほんのわずかに和解したような、これからできそうな、そんな少し半端なところで終わる。あとがきを書いていた日本の作家は「にんじん」をハッピーエンドの物語だと評していたけれど、翅はそうは思わなかった。ただ、戦いは終わることはないのだと、それだけははっきりと思った。あやまってドライアイスに手をふれてしまったみたいに、世界の隠された部分を垣間見てしまったような気がした。悟りめいた事実に少しさみしく、恐ろしく思った。
翅の戦いは、街から引っ越すことで終わった。母から引っ越しが決まったことを聞いたときの気持ちを、どう表していいかわからない。安堵とくやしさと悲しさとむなしさと拍子抜けと情けなさとうれしさと申し訳なさがないまぜになり、それらすべてが高い津波のように胸に押し寄せてすべて飲み込んだ。黙って涙をこらえる翅に、母がわっと泣きだして顔を覆った。
あいつらはこの街にはいない。休日に図書館でクラスメイトと出くわして気まずい思いで逃げることもないし、母に買い物に誘われたらためらわずに応じるようになった。それでも、似たような子を見かけると心臓を素手で乱暴に鷲掴みにされたみたいに息が止まるし、たとえまったく知らない人でも、中学生くらいの背格好の集団を見かけるとびくびくしながら道を替えて通る。
この戦いは終わらない。翅を嫌う生徒は誰もいない教室のなかでも、いまだに「ふたり組のペアを組みなさい」「来週の社会見学のバスの席順を決めましょう」と言われて翅にしたしみを込めて目くばせしてくれる子は誰もいない。警告の鐘のように鳴りつづける心音をにこにこしながら隠し、誰かが余るのをひっそりと、せわしく、視界のなかで探すだけだ。
早く居場所をつくらなければ。翅を笑顔で迎えてくれるようなそんな輪を、ずっとずっと熱望している。みんながあたりまえのように「うちら」と口にする仲間が、ほしくてたまらない。
いよいよクラスぜんたいで応援合戦の練習が始まった。放課後、体操服に着替えてみんなでぞろぞろとグラウンドの割り当てられた場所に向かう。覚悟はしていたものの、神田くんに「平野は俺と手本になれ」と呼ばれて心臓が激しく音を立てた。列からはずれて前に立つ。
事情を知らない何人かの男子が「あれ? なんで春山じゃないの?」「あいつは副リーダーじゃなくて学級委員だろ」と怪訝そうにささやいている。自分のクラスでの立ち位置を残酷なまでに思い知らされている。まるで公開処刑の場だ。南ちゃんに頼まれたからうちのクラスの副リーダーはわたしになりました――そう堂々と言ってやれば少しは気が晴れるだろうけれど、そんな度胸もなく、誰とも目を合わせないまま、えへへ、とあいまいに笑った。春山さんもなにかフォローを入れてくれればいいのに、友だちとしゃべるのに夢中で、助け舟を求める翅の視線には気づかない。
「俺らで手本やるんで、まず一回目は見てて」
教室から持ってきたCDプレーヤーからなんども聴いた曲が軽快に流れ出す。心臓が一回り大きくふくれたみたいにばくばくと打ちつける。翅は必死に手足を動かし、踊る。
サビに移るときの振りつけで、あ、間違った、と思ったのと同時に「ふたりで動きちがくね?」「どっちが合ってるんだよ」と誰かが言うのが聞こえ、顔に熱がわっとあつまり、手足が冷たく温度を失くす。健介が合ってるに決まってんじゃん、見たらわかるだろ。佐野くんがおとなの男の人のような低い声でぼそりと言うのが、ターンをしながら聞こえた。ずるりとスニーカーがすべり、脚が吊りそうになった。
「だいたいこんな感じ。とりあえず今日はサビの前までやってみるからよろしく」
健介かっけー、すげー、とみんなが拍手する。やっと終わった、とよろよろと翅は顔を上げる。いちばん前にいた和香子ちゃんと目が合った。真顔ののち、ふへ、と半笑いのような、ふすまに穴をあけているのを見つけられた子どもみたいな表情ですっと視線を横に逃がされ、あ、困ってるんだ、と冷静に思った。和香子ちゃんだけじゃない。みんな、あまり翅のほうを見ようとしていなかった。春山さんも、こちらの視線は感じているはずなのに、なんとも言えない顔で翅のおなかあたりを見ていた。
これでもだいぶ特訓したんだけどな、と頭のなかで言い訳をする。春山さんだって知ってるじゃん、なんでそんな顔するの。
心のなかで弁解を並べる。誰かに聞いてもらえればそれだけで胸がすくのに、自分にはそれを零す相手すらいないのだ。
音楽を流さず、神田くんはみんなに口頭で説明しながらスローペースで振りつけをなぞる。隣でどうしていいかわからず、ぼんやりとそれを見つめた。みんなもそれをなぞるので、慌てて翅も動く。ほんとうは、もう任務は終えたのだからみんなのいちばん後ろの列につきたかった。それでも、なかなか言い出せない。神田くんも「もう戻っていいよ」とは言わない。翅にはほとんど目をむけることはない。クラスの誰も、翅の動きを手本に見ていない。自分はなんのためにここに立っているんだろう。
陽と向かい合っているので、夕焼けが目にしみる。日焼け止めを買わなきゃと、そんなことをぼんやり思った。早く終われ――脳みそに文字が焼きつきそうなくらい、強くつよく願った。
振りつけを覚えさせられるだけではなかった。副リーダーは応援合戦の掛け声も担当しなければならないらしい。
「……絶対、わたしがやらなきゃだめ?」
泣きべそに近い声でとりすがっても神田くんは「あたりまえだろ」とにべもない。「おまえが副リーダーなんだからさ」――もはや、翅が春山さんから頼まれて就いたことなんか、わすれているみたいだ。
「去年もリーダーがやってただろ? 二年一組いざ出陣! みたいなやつだよ」
自分が大声を張り上げているところなんて想像もつかない。そんなこと、できるだろうか。できる、できない、というよりも、そんな目立つことはやりたくなかった。
うそつき、と春山さんに怒りたくなる。リーダーのアシスタントだからかんたん、なんてぜんぜん違うじゃないか。こんな責任重大な任務も控えていたなんて、聞いてない。
「わたし、そんなキャラじゃないし、それだけ春山さんに代わってもらってもいいかな」
おそるおそる言うと、神田くんは「はぁ?」と大きな声で威嚇するように語尾を持ち上げて発音し、けいべつしたようなまなざしで翅を見た。思わず肩が跳ねる。
「おまえってほんといいかげんだな。学級委員は自分からやるくせにどんだけやる気ないんだよ。クラスのためにそれくらいがんばろうとか思わないわけ?」
はーぁっと露骨にため息をつかれ、目の下がぐずぐずとたぎるように熱くなる。わたしだって、なりたくてなったんじゃない――。でも、そう言い返したところで「自分で引き受けたんだから責任持てよ」とますます怒られるだけだろう。実際、そのとおりなのだ。クラスで人気のある春山さんにいい顔をしたくて、親しげに「ひらちゃん」と呼ばれて頼りにされたことに舞い上がって、よく考えずに引き受けた翅が悪い。
そう、思い込もうとする。けれど、さかなの小骨が喉にひかかったみたいに、うまくその事実を飲み込むことができない。
「明日ちょっと台詞考えてきて。俺もちょっとつくってみるから」
「……どんなのでもいいの? 言いやすいのにしてもいい?」
あきらめて、自分なりに歩み寄ってそう訊いた。神田くんは少し考えてから、「まぁ、とりあえずアイデア出すだけやってみて。それ使うかわかんないし」と言った。
「ねえ、平野さんってなんで副リーダーになったの?」
翌日、和香子ちゃんになにげなくたずねられた。あまりに率直な訊き方に面食らいながら、「南ちゃんに、代わってって頼まれたから」とこたえる。へえ、と和香子ちゃんがどんぐりまなこをくるんと動かす。
「あ、南から頼んだんだ。平野さんが代わりたいって言ったのかと思ってた」
「違うよ!」
びっくりして、思わず大きな声が出た。ぱちぱちと和香子ちゃんが目をしばたかせる。問い詰めたら怖がられて距離を取られる、と思いつつ、「南ちゃん、自分で説明してなかったの?」とできるだけ驚きを抑えてたずねる。
「あれ、誰かに訊かれて、なんか平野さんがやりたそうだったから~みたいなこと言ってたけど」
話が違う――。ぼう然と足元に目を落とした。なんで、春山さんはそんなふうに話をねじ曲げたんだろう。それじゃあまるで翅が目立ちたがり屋のでしゃばりみたいじゃないか。いますぐに誤解を解きたくて、ぶんぶんと手を顔の前で大きく振った。
「違うちがう、わたしなんにも言ってないよ。べつに、やりたかったってわけでもないし」
「ふうん、そうなんだ」
訳知り顔でうなずいてはいるけれど、和香子ちゃんがどこまで翅の言いぶんを信じているかはわからない。翅だって、なぜ春山さんが副リーダーをやめたがっていたのかは本人から聞いていない以上、わからないとしか言えないのでもどかしい。
ちらりと教室の後ろをうかがった。窓際にかたまって、いつもの四人で雑誌を見ながらおしゃべりしている。春山さんに「和香子ちゃんから聞いたんだけど」と問いただしてみたいけれど、あの四人に近寄って話しかける勇気がない。それに学級委員である以上、話を切り出す前に禁止されている雑誌を持ち込んでいることも注意しなければならないだろう。はぁ、とため息をついた。
でも――学級委員になったのは、みんなに話しかけやすくなる、そう思ったからだ。それを活用しないでどうする。そう考えると、ひるんでいた心が水を与えられた植物のようにぴんと張りを持ちなおす。勇気を出して、訊いてみよう。春山さんの勘違いだったらきちんと謝ってもらって、みんなに説明しなおすよう、頼んでみよう。
「あの……」
近づき、話しかけるとさっと四人が顔を上げた。みんな翅よりも背が高いので、見下ろされる格好になる。雑誌のことはひとまずおいておこう、と思った。どきどきしながら、それでも笑みを保とうと、意識して口角をきゅっと上げた。
「南ちゃん、ちょっといい?」
「わたし? なに?」
長い髪をうっとうしそうにかきあげる。虫でも追い払うようなしぐさにも見え、心臓をほそい指でぎゅっと握りしめられたみたいに縮んだ。ほかの三人も興味しんしんの顔で翅と南を見やる。
「……わ、和香子ちゃんから聞いたんだけど、副リーダー、わたしがやりたそうに見えたから代わったんだってみんなに言ったって、ほんと?」
最後のほうは消え入るような声になった。怪訝そうに聞いていた春山さんの表情が、一瞬だけ気まずそうに目が泳いだ。けれど、すぐに自信を取り戻した顔になり、この場面に似合わないほどからりとした笑みを浮かべて言った。
「あーそれね。ごめんごめん。説明するのかったるくて、そう言ったらみんな納得するかなーって思ってさ」
あまりにあっけらかんと笑顔で言われ、そんなことに目くじらをたてて怒るほうが間違っているような気がしてきた。それでも、「わたし、副リーダーになりたくてなったってわけじゃないからね?」と念を押す。
すると、春山さんの笑みがわずかにひきつった。笑いながら見守っていた三人も、みるみる鼻白んだような顔つきになり、なにげなく口にした翅はたじろぐ。
「なにそれ。わたしが無理やり押しつけたみたいに思ってない? ぜんぜんそんなことなかったじゃん、ひどくない?」
「そんなこと、」
「実際、わたしより学級委員のほうがやりたかったんじゃないの? 立候補式だったらまた手ぇ挙げてたんじゃない? ってか、なんでリーダー交代したかとかいちいちどうでもいいじゃん。なーんかショック。あとから文句言ってくるのはずるくない?」
肩をすくめ、仲間と目くばせしあう。謝ってもらう立場のはずだったのに、突き放されたショックで足がふるえる。学級委員、という呼び方の乾いたつめたさが、耳にざらついた。
どう取り繕えばいいかわからずおろおろとその場を離れられずにいると、春山さんはわずかに笑みをつくった。いかにも、口元だけ意識してつくったような笑顔だった。
「まあなんでもいいけどさ、おたがいがんばろうね。うちらも衣装めっちゃかわいいやつ考えてるからさ」
この話はおしまい、と打ち切るように春山さんが机に置いた雑誌に手を伸ばす。やっとの思いで「学校に雑誌は持ってきちゃ、だめだよ」と言ったけれど、四人とも視線を交し合って肩をすくめて笑うだけでなにも言わなかった。
4
春山さんは、もう翅を「ひらちゃん」とは呼ばなくなった。なにか声をかけてくるときは「ねえ」ですまされるか、「学級委員」と呼んだ。自分だけが一方的に「南ちゃん」といかにも親しげな呼び方を使っているのは、媚びているのに相手にされていないような気がして、みじめになった。
ガッキューイーン――ひらべったく伸ばした発音のどこかだらし
ない呼び方は、少しずつ女子のあいだに広がった。和香子ちゃんも「学級委員、社会のプリント見せて」などと頼みごとをしてくる。すっかりくせがついた笑みをキュッと浮かべて「いいよ」とこころよく応じながら、いやだなぁ、と内心ため息をついた。学級委員の任期は前期で終わる。そのあとはなんと呼ばれるのだろう。翅ちゃん、と呼んでくれる子は何人いるんだろうか。
応援合戦の練習は朝と放課後で毎日ある。昼休みは、みんなは練習しないけれど、副リーダーなんだから自分で練習するようにと神田くんに言われていた。体育館裏は人の目が気になるので、あまり生徒が訪れない、非常階段でこっそりと踊った。神田くんは、借り物競争でバスケのドリブルをするから練習すると言って翅の練習に付き合わなくなった。たぶん、翅の下手さに手を焼いていやになったんだろう、と思う。悲しさと申し訳なさはあったけれど、正直なところ怒られながらやるよりはずっとよかった。少しずつ上手くなっているとは自分で思うけれど、相変わらず翅を手本に踊る子は誰もいない。
体育祭の日が近づくにつれ、副リーダーの仕事も忙しくなった。体育祭の話し合いに代表として出席したり、応援合戦の流れや体形を考えたり、クラスメイト全員分の並び順を考えたり、放課後の練習場所の振り当てを職員室前の掲示板まで確認しに行ったり。毎日朝から放課後までばたばたと慌ただしくすぎる。いつもより何倍も一日が長く感じ、家に帰ってごはんを食べてお風呂をすませてうつうつらうつらしながら宿題をして、翌朝の朝練に間に合うように早めに目覚ましをセットして布団にもぐりこんで、朝は慌てて起きて、朝ごはんをかきこんで……その繰り返しだ。もともとの学級委員の仕事に加え、副リーダーのたくさんの仕事をこなしているぶん、みんなをひっぱっていくことどころか、みんなについていくのに必死だった。
結局掛け声は神田くんと翅が担当することになり、クラスメイトの前で長台詞をなんどもなんども叫んだ。最初のうちは、顔から火が出るような恥ずかしさと照れくささで身が発火しながらよじ切れそうだったけれど、なんどもやるうちにそんなことはどうでもよくなった。ただただ体力的な意味でしんどかった。大声を出す、それだけのことにこんなにエネルギーを使うなんて知らなかった。
「もっと腹から出さないと声通らないよ、本番もマイクないんだし」
神田くんに指名されて翅の掛け声を指導することになった合唱部の女の子がぴしゃりと言う。じゃあ代わりにやってよ、とは言い返せない。台詞を噛んだり、忘れてへんな間が空くと、みんなため息を飲み込んだような顔でうつむいたり、足元の砂を払ったり、髪をさわったりする。
誰も翅を応援していないのだと、皮膚がひりひりするほどはっきり伝わってくる。日焼けした肌に、直接みんなが感じているいたたまれなさや気まずさ、含み笑いが伝わってくるかのようだ。応援合戦なのに、副リーダーすら応援しないクラスが勝てるわけないじゃん、と口を歪めて苦笑いを漏らすと「おい、にやにやしてないで本気でやれよ。時間ないんだからさぁ」と神田くんがうんざりした顔でげきを飛ばす。声変わりした男子の怒鳴り声は、落雷のように身をすくませ、喉がきゅっと委縮して締まる。
合唱部の女の子が「ほら、もう一回言ってみて。お腹を意識して」とかんたんに翅の腹を手のひらでひたりと押さえた。親しみや手助けの意味ではなく、遠慮のなさを感じて、近しさに息が詰まった。
いっそ喉がつぶれて声が出なくなればいい、そしたら、あんなになるまで頑張ってたんだ、じゃあ仕方ないね、とみんなに思ってもらえる。けれど、声はどんなに嗄れても次の日にはけろりと元通りになっている。まるで自分の努力が一からやり直しを突きつけられたみたいで、むなしくなった。
毎日毎日、応援合戦の練習で翅は叫びつづけた。なんども口にしていると、単語と単語がばらばらにほどけて、自分がいったいどういう意味の言葉を叫んでいるのか、ふっとわからなくなることがあった。春山さんたちは、最近は「日焼けしたくなーい」と言って、衣装をつくらなけらばならないから、と放課後は練習に参加しなくなった。それについては、神田くんはなにも言わない。「男子の衣装つくるときの参考にするから、サイズ計らせてよ」と教室のすみに呼ばれると、ポーカーフェイスに一滴色水を落としたみたいにほんのわずかにうれしさをにじませて寄っていく。それを視界のすみにとらえて、見たくないものを見てしまったような苦々しさがじんわりとおなかの底を重くさせた。
だんだんとクラスが体育祭に向かってまとまっていく。その結束が強くなればなるほど、翅の心はすうっと静かに凪いでいく。副リーダーなのに、クラスの輪のいちばん外に自分がいるような気がする。
翅は体育祭がこわかった。
五日前になり、春山さんに「副リーダーの衣装はこれ。みんなとちょっと違うからね」と手渡された。ほかの女子はピンクや水色など、可愛らしいパステルカラーのふわふわしたスカートだったけれど、翅の衣装だけ、ぎょっとするほど濃い色合いの紫だった。素材もふわふわと軽い透けた素材ではなく、ごわごわと分厚く重々しい。
驚いたあまり、なんで? と言えずに黙って春山さんを見つめ返すと、「目立つ色にしたんだよ、ほかの布よりちょっと高いやつ使ってるからね」と恩を着せるようなことを言われた。安くていいからわたしもみんなみたいなのでよかった――「そうなんだ、すごいね」と機械的にくちびるが動いた。
初めて衣装を着て応援合戦の練習を通すことになった。翅を見て、神田くんが一瞬目を見ひらいてなんとも言えない表情になり、目が合いそうになると笑いをこらえたような顔で勢いよくそっぽを向く。遠くで和香子ちゃんが「うわ、学級委員の色すご……」と言っているのが聞こえた。和香子ちゃんだけではなく、みんな思ってるんだろうな、と思った。学校に置いておくことにして、母には見せないことにしよう、と決める。
実際、ものすごく目を引く色の衣装だった。異質、という言葉が浮かんだ。ひとりだけ文化が違う者が混じってしまったみたいに、まわりとまったく調和していない。まるでモンシロチョウの群れのなかに野生のオオムラサキが一匹だけ入り込んでしまったかのようだった。男子は水色や淡い緑の布でつくられた太いズボンで統一され、神田くんのものはひとりだけ真っ黒なズボンに金色のラインが縫いつけられ、団長然としてかっこよかった。神田くんが動くたび、陽を反射してきらきらと光った。
布が売り切れていたなら翅も黒に揃えるとか、せめてもう少し丈を短くしてくれればよかったのに。背の高い子を型のモデルに使ったのか翅が履くともったりと膝頭を隠し、ちらちらと下に履いたスパッツが見え隠れした。
ほかのクラスの集団とすれ違うとき、「一組の衣装かわいいー」「あれでしょ、南たちが考えたやつでしょ?」と女子が甲高い声で声をかけてきた。ふっとその声の主が翅に止まった。前を向きつづけていたけれど、彼女たちが不自然な角度でこちらを振り向いて凝視しているのがわかった。「ね、見た? あの子だけなんで……」「ばか、聞こえるっての」驚きと笑いを炭酸みたいにたっぷりと含んだ声が聞こえる。たぶん、クラスメイトのみんな、そのやりとりが耳に入ったはずだ。春山さんたちも含めて。
うつむくともさもさとかさばって揺れる紫が目に入るので、無理をして視線を高く持ち上げた。
なんでなんだろう。なんで自分だけがこんな目に遭っているんだろう。仲のいい子がいれば「ねえ、わたしだけこんな色なのひどくない? おかしいと思わない?」とこっそりぐちをこぼして慰めてもらえて少しは気が晴れただろう。翅にはそんな相手はいない。誰にも言えない。だからこそ、それがどうかした? という顔をして視線を撥ねつけるように背すじを伸ばしてしゃんと歩く。
すまし顔を意識しながら、あ、と思った。こういう顔をつくることに、かつての自分は躍起になっていたことが、胸の底に穿たれた深い穴のなかに押し込めた記憶の蓋からぽろりとこぼれてきた。ちっとも気にしていない、べつにどうでもいいんだけど、というそぶり。わたしはあなたたちのことなんか眼中にありません、お好きなように、という態度。そして、そんななけなしのバリケードをやすやすと踏み壊して翅の世界を泥のついた靴で踏みにじりつづけたあいつら。
友だちや仲間がいる子ならこんなとき、毅然とした態度を貫こうとするよりも、素直に恥ずかしがって落ち込んだりいらだちをあわらにしてむすっとするのかもしれない。でも、自分にはそれを慰めたり、まあまあととりなしてくれる子が誰もいないことはわかっている。だからこそ、翅は誰よりもぴんと背中を伸ばしつづけた。
ほんとうは、知っている。
春山さんたちは副リーダーを目立たせるためにどぎつい紫を選んだわけじゃない。計算ミスで女子のぶんのスカートが一着たりなくなり、慌てて手芸屋さんで追加の布を買おうとした。けれどほとんどのクラスの衣装係がその店を利用しているため、もう布が品切れ状態で仕方なく余っていた色の布を買い、副リーダーならひとりだけ色が違ってもかまわないだろう、と勝手に決めて一着だけ紫の布で縫ったスカートは翅にあてられたのだ。
「副リーダー引き受けるくらいだしそれくらい学級委員なら文句つけてこないでしょ、あの人わたしのこと若干こわがってるし」
衣装をもらう二日前。放課後の練習が終わり、CDプレーヤーを戻すために教室に戻ると、低い声で春山さんがしゃべっているのが聞こえた。「南こえー、ほら、平野さんが和香子の話してきたときびびらせすぎたんじゃね?」「まぁでも実際そうだよね、自分の意見とか言えないタイプ」などと、やはりいつもよりワントーン低い声で仲間が応じるのがつづいた。
教室の戸の透明な枠の部分から、夕陽がとろ火のように薄く漏れて廊下にも射し込んでいた。ごくりとつばを大胆に飲み下しながら、重たいCDプレーヤーを、持ちなおした。汗で手のひらのなかがすべり、落としてしまうかと思ったけれど、きちんと指に取っ手がひっかかって落とさなかった。たとえいま、思いっきりCDプレ―ヤーを廊下に叩きつけたとしても、がらがらと大きな音を立てて戸を開け放ち、足音を巨人みたいに乱暴に鳴らして教室に踏み込んだとしても、ひとりだけ色が違うスカートは翅が履く役になるのだと、それだけはわかりきっていた。
なぜ自分は春山さんやほかの仲よくもない子に見くびられ、下に見られているのか。理由はうすぼんやりわかるような気もするけれど、でも受け入れたくはなかった。子どもっぽく、さして特徴もない容姿のせいなのか、おかっぱを伸ばして一つにくくっている垢抜けない髪型のせいなのか、学年を半分に分けたら下に入ることの方が多くなってきた成績のせいなのか、腕の内側に大きなほくろがふたつもならんでいるせいなのか、ほかの子のようにさっと気の利いた返しや思わず吹き出してしまうようなおもしろいことを言えないせいなのか、運動神経が平均より悪いせいなのか、英語の音読をつっかえつっかえ発音するせいなのか、自分だけが引っ越してきたよその人間だからなのか、切りすぎた前髪のせいなのか、同級生に言えない理由でこの街に逃れてきたせいなのか、小学校のときにあんな目に遭ったせいなのか、なにもわからない。そのすべてが原因なような気もしてくるし、どれも違うような気もする。
翅を遠い街に追いやったあいつらは、いったいなぜ翅を選んだのだろう。学年が上がり、クラスがかわって教室の支配者の顔ぶれが変わっても、彼らの目はぴたりと翅の前で正確に止まった。びくびくとなに食わぬ顔で隠れようとしても、あっけなく引きずりだされ、笑われ、いたぶられ、こわされた。
いつになったらわたしはみんなのなかにまぎれることができるのだろう。普通にしているつもりなのに、どうしてみんな翅をつまみだそうとしたり、避けて徒党を組むのだろう。
夕陽がまぶしくて、うつむいた。額から汗がつうと垂れて廊下に落ちた。
誰でもいいから、わたしを見つけて。そして、かくまって。安全な世界にみちびいて。
体育祭の前日は午後の時間すべてを使って予行演習が行われた。ほとんどの競技はかたちだけ生徒が競技場所に集合させられるだけで実際には行わなかったけれど、応援合戦はすべてのクラスが通して行うことになっていた。
「予行だけど、もう練習できる時間あんまりないからこれが本番のつもりでやるぞ。予行だからって手ぇ抜くんじゃねえぞ、みんなしっかり声出せよ!」
神田くんが両手をメガホンにして呼びかける。クラスメイトたちは大声で「はい!」とやる気に満ちた声で応じたけれど、みんなを先導して観覧席前まで走らなければならない翅は、返事をする余裕もない。あらゆる学年の生徒が見学をしたくて待ちかまえている。あの前で、いちばん目立つ場所で踊って、声を張り上げなければならないのかと思うと、しっかりと踏んばっていても足がふるえた。いっそ貧血になってこの場で倒れてしまいたかった。
五分だ。五分しかパフォーマンス時間はないのだから、あっというまに終わるはずだ。だいじょうぶ。自分になんとか、言い聞かせる。
「それでは、二年生に移ります。トップバッターの二年一組のみなさん、よろしくお願いします!」
放送部のアナウンスがひびわれながら銃声のように響いた。「一組、行くぞー!」と神田くんが天を向いて咆哮し、砂煙をまき散らして走り出す。みんながやみくもにさけびながら前まで走る。後ろから人に押され、つんのめりそうになったけれどなんとか持ちこたえて全速力で走り、神田くんにつづいて隣に立つ。思っていたよりもずっと近い場所に見物人の顔がならんでいる。ひとりひとりはっきりと識別できるくらいに。
深呼吸して落ち着く間もなく、神田くんが最初の台詞をさけぶ。
みんな、見ている。びっしりとならんだいくつもの顔が、翅を見ている。誰がどう見ても緊張が伝わる硬い表情を、周りから浮いた濃い紫のスカートを、ふるえて落ち着かない足を。
神田くんがこっちを見ていた。掛け声が終わったのだった。慌てて自分の台詞を叫ぶ。急いだせいで声が裏返った。みんなが笑う。後ろにならんでいるクラスメイトが息を飲むのが気配で伝わる。音楽が流れ、ダンスが始まる。見学しているみんなが翅の動きを見ている。とっさに次の動きが頭から飛んだ。ちらりと横を盗み見ると神田くんは金色をひるがえしてくるりとターンしている。あわてて翅も回る。ワンテンポ遅れたせいで、体形を変えるクラスメイトの動きに遅れた。流れに入りきれず、茫然と立ち尽くしたままクラスメイトがかけあしで水槽のなかのいわしの群れのように均一な動きで体形を変えるのを見つめていた。みんながそれぞれの場所についたのを見計らって、翅も自分の場所に慌てて移った。なにやってるんだよ、と神田くんがけわしい顔でこっちをにらみつけていたけれど、みんなについていくのに必死でほとんど目に入らなかった。神田くんが最後の掛け声を終え、みんながまた声を上げて後ろの団席まで走って戻る。「二年一組のみなさん、ありがとうございました」とアナウンスが入り、涙がにじみそうになるほど安堵した。
「なにやってんだよ! 学級委員! おまえ、もう本番明日なんだよ! なに真ん前でミスってるんだよ!」
タオルで顔を拭きながらおしゃべりに興じ始めたクラスメイトをかきわけて神田くんが翅の前に立ちはだかって怒鳴る。みんながいっせいにこちらを見た。
「……ごめん」
目を合わせたら泣いてしまいそうで、さっと目を伏せてうつむいた。神田くんは掴みかかってきそうな勢いのまま、まくしたてる。
「体育祭、明日なんだからな。明日本番なんだぞ。今日は設営があるからあんま練習できないし朝だって準備あって時間取れないだろうし、おまえこんなんでだいじょうぶなのかよ、おい」
わからない、そんなこと。本番はもっとたくさんの人たちに見られながら踊らなければならない。同じ失敗をしないとは自分でも言い切れなかった。
翅の表情で自信のなさが伝わったんだろう、神田くんはあからさまにいらだちまぎれのため息を長くながくついた。
「うちのクラス損だな」
ぼそりとつぶやいた声は、ぞっとするほど低く、心臓を針でまっすぐに押し貫かれたような気がして息が止まった。みんな、ふたりのやりとりが聞こえているはずなのに、素知らぬ顔をしてはちまきを結びなおしたり日焼け止めを塗っている。
翅の練習不足が原因で失敗したわけじゃない。このクラスでいちばん練習に時間を割いてきたのは間違いなく翅だ。いちばん前でさえなければ、みんなと同じ場所でさえ踊っていれば前の人をお手本に踊ったり、体形移動できてなんの失敗もなかったはずだ。慣れないリーダー役を押しつけられたから、こんなことになったのだ。神田くんがいちばんそれをわかっているはずなのに、どうしてこんなに責められなければならないのだろう。神田くんも、クラスの誰も、副リーダーを降りた春山さんに「なんで決まったのにやめたの?」と言及してこなかった。副リーダーを押しつけられた翅に「なんでそんなにへたくそなんだよ」とぼやいたり、そっぽを向いて翅から目をそらし、こっそりため息をつくばかりだった。ほかのクラスの子たちのせせら笑いに便乗して悪口で盛り上がっていたことがあったのも、知っていた。その場の誰も自分をかばってくれなかったであろうことも。
こらえきれずに肩をふるわせて泣きだした翅を見て、神田くんは舌打ちし、くるりと背を向けて翅から離れていく。
「いいからほかのクラス見てこようぜ。三年のとか、来年の参考になるかもしんないし」とほかの男子を引き連れて観覧席の方まで走っていった。
だいじょうぶ? さっきなに言われたの? と和香子ちゃんが背中に手を置いてくれたけれど、「うちらも行こうよ」と女子の誰かが声を上げ、女子もわらわらと移動を始めた。すうっと、なにごともなかったみたいに手が離れた。春山さんが先頭になって走っているのが、にじんだ視界のなかでもはっきりとわかった。
団席には誰も残らなかった。椅子に置いておいたタオルでそっと顔を拭く。二年二組の歌う声が、ぼんやりと聴こえた。
家に帰ると母が大きな桶をテーブルに出してせっせとごはんを混ぜていた。巻きずしを作っているのだと、ピラミッドのように重なったたくさんののりまきといなりずしを見て気づく。
いつもなら気分が盛り上がってわくわくするのに、自分の顔のすべての筋肉がみるみるこわばるのがわかった。おせちを食べるときしか見ないお重セットが用意されている。
「……これ、明日の?」
違うわよ今日のぶんよ、と返ってくるのを期待したのもむなしく「そうよ。パートの休みが取れたし、お父さんも有休取れたみたいだから」と母がほがらかに言う。死刑宣告をこんなところで受けるとは思わず、翅はお腹をぐっとこぶしで押されたみたいになにも声を発せなくなった。
「まあ、中学生だし親には来てほしくないのかもしれないけど、せっかく翅が副リーダーに選ばれたんだし、やっぱり見たいもの。いいのよ、親と一緒に食べるのはさすがに恥ずかしいでしょ。もう友だちと食べる約束があるなら翅のぶんだけべつのタッパーに詰めるけど」
うん、そうして、とこたえて、夕食のぶんに切られていた巻きずしを頬張った。酢飯はまだ温かく、懐かしい味だった。だからこそ、一口目で胸がいっぱいになり、ひとつ食べただけで席を立った。「あら、どこ行くの」と言われ「汗かいて気持ち悪いからお風呂入るね」と言ってリビングを出た。シャワーを浴び、髪を乾かしたあと歯をみがいて部屋に上がった。
しばらくしてから「翅、お風呂あがったんならごはんのつづき食べちゃいなさい」と母が階下で言うのが聞こえた。寝てるんじゃないか? と帰ってきたらしい父が言うのがつづき、スリッパを鳴らして足音が去った。
眠れなかった。寝返りをなんども打った。眠れなかった。明日は快晴になると、予行の開会式で教頭先生が言っていた。
明日が体育祭であることが、信じられなかった。明日ですべて終わり、と思ってみても、なにもうれしくなかった。明日が来なければ終わらないことの方がよっぽどおそろしいことに感じた。
いなりずしよりもきらきらとひかる月が窓から翅をじっと見下ろしている。明日、寝ぼけたふりをして二階から落ちてけがをしてしまったほうがいいんじゃないかと、そんなことばかり思い浮かんだ。眠れば明日が来てしまうのだと思うと、くたくたに疲れているはずなのに、目が冴えて寝つけなかった。
空は雲ひとつなく晴れわたり、青い絵の具を水でよく溶かさずに刷毛で塗ったみたいに均一に濃い。逃げ場はないのだと、天にそう言われているような気がして、ずんと心が薄暗く曇っていく。
母が昨日のうちに洗って乾燥機にまわしてくれた体操服を着て登校し、学校まで向かった。同じようにたくさんの中学生が体操服姿でお弁当を持って歩いている。行きたくない、そればかり思った。行きたくないのだと、通りすぎる誰に対してもひっしりと腕にすがりついて訴えたかった。
休みたい、と思った。熱はないけれど、頭が痛いような気もするし、学校に行くころにはおなかが痛くなる気がする。でも、お重を風呂敷に包みデジタルカメラの準備をしている両親には言えなかった。黙っていつもより軽いリュックを背負い、スニーカーに足を通していた。
のろのろと歩いているうちに、中学校前の交差点まで来た。赤信号だったので停まった。少しでも遅らせたかったから、そんなことにすらほっとして、どこか救われていた。興奮して大きな声でしゃべっている男の子たちの怒号にも似た声やいつもより凝った髪型の女の子たちの笑い声が前からも後ろからも聞こえてきて、翅の存在をたやすく薄くする。神田くんみたいな男子も春山さんみたいな女子もたくさんいた。翅のようにいまにもため息をつきそうなほど暗い顔をしている子は誰もいなかった。
やがて信号が青になり、みんなが歩きだす。翅の足はボンドで固定したみたいにぴったりと地面とくっついて一歩も動かない。後ろから歩いてきた生徒が迷惑そうな顔で翅を押しのけて進む。よろよろと、人にぶつかったり蹴られたりしながら一歩ずつ人ごみから抜けた。わきにそれたところでみんなが横断歩道を渡って登校していくのを眺めた。
青信号が点滅し、赤になる。なぜかわからないけど、ほっとした。永遠にこれを繰り返していたら自分は体育祭に行かなくてもすむんじゃないかとすら思った。けれど、学校前にいる以上いずれ誰かに見つけられる。
もういいよ、おまえなんかもう来なくていいよ。
もしここがあの小学校だったら、絶対にそう言われていた。神田くんやほかのクラスメイトは、予行演習でミスを繰り返した翅をうんざりした思いで眺め、なんでこいつがうちのクラスの副リーダーなんだろう、と思っていたには違いないだろうけれど、明日は来るなとかおまえなんかしんでもいいよとは誰も口にしなかった。
おかしなことに、翅はそれがくるしいのだった。もし昨日そんなことを言われていれば、堂々と休む口実にできたんじゃないかとすら思った。嫌いだとかうざいとか、悪口を面と向かって言われたわけでもないのに、神田くん以外はまっこうから翅をにらみつけて責める子もいなかったのに、なにがどういうわけでこんなにくるしくてつらいのだろう。副リーダーになってから翅は学校に行くのがいやでいやでしかたがなくなっていた。朝早くから行かなければならないから、とか仕事が多いから、とかそういう理由のせいではなかった。
翅はあの教室が、クラスメイトが、二年一組が、だいっきらいだった。
胸のなかでうずまいていた泥のような感情が、無駄な水分を飛ばして徐々にかたちが浮かび上がるみたいに言葉になったとたん、かみなりに打たれたみたいに動揺した。
あんなに、このクラスでうまくやっていけますようにと祈る思いで毎日媚びるように見回していたのに。みんなと仲よくなりたいと、ことあるごとに勇気を出して誰かに話しかけてみたり、気を配って親切にしていたのに。あの執着心は、いまも消えたわけじゃないのに、わたしはいつのまにか、あのクラスもクラスのみんなもだいきらいになっていたんだ。仕事を押しつけた春山さんも、翅に文句ばかり言う神田くんも、誰ひとり翅をかばったり努力を認めようとしないクラスメイトも、春山さんの「副リーダーを代わりたい」というわがままをあっさり承諾した島田先生も。
わたしはあのクラスがだいきらいだ、と口のなかで反芻したら、胸のつかえがとれたみたいにほっとした。だいきらいだ、と今度は小さな声で口に出してみたら、涙が二粒はたりと零れ落ちた。ぐいと体操服でぬぐおうとしたけれど、半袖は短すぎてほとんど拭けなかった。五月の熱く湿った風がゆるく頬に吹きつけた。
走った。水筒に入っている氷がワンテンポ遅れて下駄みたいにからんころんと間の抜けたすずやかな音を立てた。一歩踏み出すたび、ばかじゃないの、と思った。涙が頬を伝った跡が、陽射しできらきらと虹色にひかっているような気がした。自分で自分の努力をわざわざ台無しにするなんて、ほんとうに、どうかしている。水筒が音を立てるたび、ばかにされているような気がした。ばか。ばか。ばか。ほんとうに、ばか。でも、いったい誰が?
手足を力一杯動かし、一所懸命振って、来た道を戻り、向かいから生徒が歩いてきたり信号に引っかかれば道をかえ、どんどんわき道に入っていった。次々といろんな顔や電柱が飛び去り、風が耳のそばで金属的な音を立てた。走るのをやめたらさまざまなことが頭にぼこぼこと泡のように湧き上がって、いろいろな気づきたくないことに気づいてしまいそうだった。考えないためには、走りつづけるしかなかった。それはつまり学校から遠ざかることなのだということを、汗を振り飛ばして考えないようにした。
どれほど走ったんだろうか、吹きつける風が涼しくなったことに気づき、よろよろと足をゆるめると川の高架下にいた。いまになってがくがくと膝がふるえた。
やってしまった。
肩で息をつきながらずるずると草むらを降り、橋の下の濃い影に腰を下ろした。電車が竜巻のようにするどい音を立てて頭上を走っていった。
リュックを下ろし、体育座りの脚のあいだにはさみ、ぎゅっとかかえこんだ。
これで終わりだ、と思った。心のすみで墨汁が倒れて、体の内側がじわじわと真っ黒に染まっていくような気がした。せいせいした、と言ってみても、ほとんど上滑りしているのがかえって浮き彫りになり、ぐにゃりとくちびるがゆがんだ。胸がすかっとした、とはとうてい言えなかった。ただただ、いま漠然と胸に広がる薄暗い感情が後悔にすり替わっていくであろうことがこわかった。
ぱん、と特大のパラソルをひらいたみたいな音で空砲が鳴るのが聞こえた。
ごうごうと川は絶えず流れていた。
小学生のときも、翅は運動会がきらいだった。学校生活で好きな行事なんてほとんどなかったかもしれない。遠足も、宿泊学習も、学習発表会も、合唱大会も、大きらいだった。みんなが浮足立ってはしゃいでいても、翅はちっとも楽しくなかった。ひっそりと楽しんでいるのを見つけられると、めざとく目をつけられ、奪われ、踏みにじられた。
なんど振り返っても、自分のなにがあんなにあいつらをいらだたせ、被虐心に火をつけたのか、まるでわからない。普通にしているつもりだった。翅よりも勉強ができない子も、運動ができずどんくさい子も、太っている子も身なりがきたない子もいたし、しつこくおもしろくもないギャグを繰り返してうんざりさせる子も悪口ばかり言う子も自慢話ばかりする子も無口で暗い子もいた。自分よりよほど周囲の和をみだしているとしか思えない同級生たちをさしおいて、なぜ長いあいだ翅だけが選ばれつづけたのか、まるでわからなかった。
なんでわたしなの? と仕切っていた少女に直接問いただしたこともある。あいつはけらけらと笑い、おまえがきらいだからだと言った。なぜきらうの、とつづけると、おまえが生きているからだと言った。おまえが生きているあいだずっときらい。しんでもいいよ。でもしんだあともきらいだから。めざわりだからさっさとしねば?
筆箱を捨てられ、色鉛筆を折られ、上履きに泥を詰められ、体操服を隠され、ランドセルを蹴られ、髪を引っぱられ、太ももをつねられ、腕にコンパスの針を刺され、プールに突き落とされ、テストの点数を大声で言われ、黒板消しで頭をはたかれた。一日にいっぺんにそれが起こることもたびたびあった。泣けば笑われ、歯を食いしばって無表情で耐えれば怒鳴られた。にらみつければあざけられていやというほど頭を小突かれた。
高学年に上がってまもなく、両親の知ることとなり、なんども母は学校に通いつめた。時には翅をまじえ、時にはおとなだけで話し合いを行った。学級会もあった。
もう、そのときのことは思いだしたくもない。なぜ平野さんをいじめるのか、なかまはずれにするのか、と先生が声高に問いただすたび、飛んでいってその口をふさいで縫ってしまいたかった。あの、服の間から侵入して肌にぬめぬめとふれてくるような、しらじらとした間の抜けた空気を思いだすだけで、背中から湿ったなにかが這い上がってくるような気配に襲われ、肌が粟立ちぞわぞわと鳥肌を立て、身震いした。
小学六年に上がり、話し合いの末翅の家は引っ越すことになった。母は趣味だった生け花教室をやめてスーパーのパートを始め、父は以前よりずっと早い時間に出勤し、遅くに帰宅するようになった。平日はほとんど父とは顔を合わせることはない。
一からやりなおしのはずだった。去年一年間はあまりクラスになじめず、さして友だちもできなかった。今年は学級委員になってたくさんの友だちができるはずだったのに、副リーダーをおしつけられたあげく体育祭をさぼるはめになっている。
どうして翅だけがいつも「みんな」からはずれてしまうのか、なぜ弱者だと嗅ぎ分けられ弱者に振り分けられるのか。誰も教えてくれない。でも、誰もその振り分けを間違うことはない。翅が春山さんや神田くんに「権力」を感じ、自分より「上」だと認識したみたいに。
どの世界に行っても、おとなになって教室という空間がなくなっても、そこに人がいて社会がある以上、絶対に「みんな」はいる。けっして翅が入っていけない輪が、いつのまにかできている。どうしたらあそこに行けるのか、なかまだと認識してもらえるのか、もう十四歳にもなるのに、自分だけがわからないままこんなところにいる。
体育祭はもう中盤だろうか。十二時のサイレンが汽笛のように鳴るのが聴こえ、まだ半分は残っているんだな、と思うと心臓が誰かに握りつぶされているみたいに呼吸が苦しくなった。身に着けている体操服すら自分をうらぎっているみたいでおそろしく思えてくる。
応援合戦は午後の部のいちばん最初を飾る。みんな、教室で集まって円陣でも組むんだろう。昨日、帰りの会のあと春山さんが提案して輪をつくったみたいに。
洟を啜り、いつもより大きなお弁当の包みを広げた。べつにおなかはすいていなかったけれど、きれいにならべられたのりまきをひとつ取って頬ばる。冷えた酢飯があまじょっぱくて、こっくりと煮含められたかんぴょうも、やわらかく甘い味つけの卵焼きも、塩気がきいたきゅうりも、シイタケが苦手な翅のために代わりに入っているなめたけもおいしかった。しっとりした海苔が指によくなじんで、くずれそうになるのを押さえながらぱくぱくと大きく口を開けて食べた。手を止めたら余計なことまで考えてしまいそうで、とうにおなかがいっぱいになっていることには気づかないふりをして、のりまきもいなりずしも鶏のからあげもなくなるまでもくもくと頬ばりつづけた。
空になり、ごちそうさま、とつぶやいてわりばしを袋に戻して気づいた。
『副リーダーさんファイト!』と母の走り書きが裏に書いてあった。
それを読んで、こらえきれずに翅は腕につっぷしてわんわんと泣いた。
5
熱気を含んだ風がカーテンを重く揺らす。その動きは眠気そのものみたいだ。何人かは首を下に傾けたまま、動かないでいる。
体育祭が終わると、学校は中間テストに向けて少しだけ授業が少しだけ重くなった。テスト期間まで範囲を終わらせるために先生たちはいつもより真剣に授業を進め、ふだん冗談ばかり口にしている先生も淡々と真面目な顔つきをして授業をするようになった。テスト期間まであと二週間はあるけれど、みんなどこかぴりぴりとして、授業中笑い声が上がることも減ってしまった。
体育祭が明けて初めての登校が、あんなにつらいとは思わなかった。びくびくしながら、始業時間ぎりぎりに教室に入った。みんな、翅が登校してきたことに気づいても、様子をうかがっているだけで誰も声をかけてこなかった。神田くんはこっちを向いてなにか言いたそうに口が動きかけたけれど、ふいと顔をそむけて、その日一日話しかけてくることはなかった。
とりあえず、隣の席で英語の予習していた和香子ちゃんにどきどきしながら「おはよう」と声をかけると、「あ、おはよう」と返ってはきたけれど、どこかよそよそしさがあった。
ミーハーでおしゃべりな和香子ちゃんのことだ、なんで休んだの? と間髪入れずに訊かれるだろうと思って身がまえていたのに、和香子ちゃんは顔を上げもしないので少し肩透かしを食らった。春山さんも、きっと翅が登校してきたことに誰よりもめざとく気がついているはずなのに、席に来て話しかけてくることはなかった。
あの日――お弁当を食べ終えたあと、しばらく高架下でぼんやり膝をかかえていたけれど、ずっとこうして感傷にひたっていてもどうしようもないんだな、と思い、気力を振り絞ってのろのろと立ち上がった。ずいぶんひさしぶりに呼吸をしたような気さえした。
合鍵を持っていたので、家に先に帰った。部屋でじっとしているのもくるしく、いっそのこと眠ってしまいたかったけれど、眠れないまま三十分ほどして、両親が帰ってきた。まだ体育祭は終わっていないはずだ。迷ったけれど、自室にいるままじっとしていた。しばらくして、階段を上がってくる足音がして、翅は身体を起こした。
「やっぱり。帰ってたの」
母が顔を覗かせた。疲れた顔だったけれど、感情の波を感じさせない穏やかな声色だった。うん、さっき、とこたえた。
「島田先生に、今日翅は来ていないって言われた」
心臓がぎゅっと内側に隠れ込もうとするみたいに縮こまる。母はほんの少しだけ日焼けした顔で、つづけた。
「翅のクラスの応援合戦、凝っててよかったわよ。練習大変だったでしょう」
涙がにじみそうになったのを、慌ててまばたきしておしとどめる。ごめん、と謝ると、「長いあいだ日に当たってたら疲れちゃった。悪いけど、今日はそうめんにするわ」とつぶやいて階段を降りていった。ごめんなさい、ともういちど呟いたけれど、届かなかったのか、聞こえないふりをしているのか、母はなにも言わなかった。三人で夕食を取りながら、誰も体育祭のことを口にしなかった。
いじめられてるわけじゃないから、と皿洗いを手伝いながら言ってみたけれど、母の反応を見るのが怖くて「お風呂はるね」と言ってキッチンを出た。お風呂に入ったあと、両親と顔を合わせずに部屋にこもった。日曜日も、振り替え休日の月曜日もぼんやりと自分の部屋で過ごした。
朝の会で、なにか自分のことを言及されたらどうしよう、とどきどきしながらうつむいていたけれど、島田先生は伝達事項を伝えただけで体育祭のことはなにも言わなかった。終わり際、翅と目が合うと、少しだけ目にかなしみが浮かんだような気がしたけれど、こっちの思い込みかもしれない。
昼休み、島田先生に静かに呼びとめられ、教材準備室に連れられた。椅子に座るよう促し、「体育祭のことなんだけど」と口火を切った。「お母さんもお父さんも、とても心配してたわ」
「……すみません」
「体育祭は教室集合じゃなくて来た順からグラウンドに行くでしょ? ちゃんとは出席取らないから、あなたがいないことに昼休みやっと神田くんに言われて気づいて、びっくりしたわよ。まあ、あとからお母さんから連絡あったけど、事故に遭ってたわけじゃないのよね?」
それはだいじょうぶです、とこたえると、島田先生はやっとほっとした笑みを浮かべた。
「あの……」
「なに?」
「応援合戦とか、だいじょうぶでしたか? 掛け声とか、わたしのぶん抜けちゃったわけだし」
島田先生は、少し顔をかしげて「それは直接みんなに聞いてみたほうがいいかもしれないわね。でも、先生方のあいだでは一組の評判よかったわよ。ぜんたいでは準優勝だったしね」と言った。要領を得ないこたえだったけれど、一組準優勝したんだ、と少しびっくりして、うれしくなって、さびしくなって、ほんの少しだけ腹が立った。
もう行っていいよ、と言われ廊下に出る。「なにか悩んでいるなら、ちゃんと言ってね」とやさしく肩にふれられたけれど、うなずいただけでなにも言えなかった。
教室に戻る。きっとみんなも気になっているはずなのに、誰も何も訊いてこないのがいたたまれなくてもどかしい。訊かれたら、登校中急におなかが痛くなって立ち上がれなくなり、ずっと道端で休んでて、そのあと知らないおばさんに助けてもらって病院に行っていた、副リーダーなのに休んでごめん、そう言うつもりだった。きっと朝まっさきに訊かれるだろうと身がまえていたのに、誰も何も話しかけてこないので言い訳することもできない。
みんなどう思っているんだろう。翅がいないあいだどんなことを話したんだろう。予行で失敗したことを怒られて、腹いせにさぼったのだと思われているんだろうか。
せめて神田くんがなにかつっかかってこれば少しはすっきりするのに。もちろん怒られるのは怖いしいやだ。でも、なにも言われないのもそれはそれで自分が知らないところでなにかが始まっていたり終わっていたりしていそうでおそろしい。自分がいない体育祭で、なにが起こっていたのか誰か教えてほしい。
たんたんと、なにごともなかったかのように一日が終わる。掃除を終え、教室に戻ってリュックを背負った。今日から少しずつ中間テストの課題を終わらせなければならない。
図書室で勉強しよう。
教室を出ようとして、誰かとぶつかりそうになった。
きゃ、と頭一つぶん高いところで声を上げたのは春山さんだった。真正面から目が合い、偶然がっちりとつながったパズルのピースみたいにたがいにじっと見合った。向こうも、心のなかであ、と思っている声が聞こえた。
「体育祭のことなんだけど」
いましかない、と思いきって口にした。春山さんの目がわずかに揺れる。
「あの、応援合戦って、どうなった?」
「どうって、べつに……」春山さんはふいと翅から目をそらした。「あ、掛け声ならわたしが代わりにやったから」
「あ……そうなんだ」
居丈高な態度に気おされ、さぼったことを肯定するみたいであまり言うつもりはなかったけれど、ごめん、ありがと、とつづける。謝るのはへんなような気がした。もともとは春山さんがするはずの役割だったのだから。
「ねえ」にこりともせず口がひらかれた。「しまちゃんが言ってたんだけど、べつに風邪とか熱で休んだわけじゃないんでしょ? 親から連絡来てないって言ってたよ」
するどく尖った目で射抜かれ、びくりと肩が跳ねた。それは、と今朝考えていた言い訳を口にしようとしたら、それを押しとどめて「なんか、どたんばでさぼるのってどー考えてもうちらへのあてつけだよね」と低い声で吐き捨てられた。「副リーダーいないってわかってからほんと大変だったんだから」
「……ごめん」
「こんなに迷惑かけるくらいなら、いやならいやって最初から言えばいいのに」
春山さんはぴしゃりと言い捨て、こちらがなにかいう間もなく教室に入っていった。追いかけて弁明しほうがいいんだろうか、とも思って目で後ろ姿を追っていたけれど、もういいや、とため息をついてのろのろと廊下をあとにした。心がひえびえと冷めていく。身体の一部がひきちぎれてしまったみたいに、心細くてしかたがなかった。誰かを敵に回すことのおそろしさに、ひさしぶりに息が詰まった。
露骨にいやな顔をされ、「迷惑」と言い切られ、怒られたことがショックで悲しくて落ち込んでいたけれど、頭が冷えていくうちにだんだんとくやしさのほうが勝っていった。どうしてあんなにえらそうに、翅にだけ非があるように責められなければならないのだろう。もともとはそっちが副リーダーを押しつけてきたのが悪いんじゃないの? せめてそれくらい、言い返すことができたらどんなにすかっとしただろう。ぐんぐんと目の下に熱があつまるのを感じながら、図書室に入った。
「こんにちは」
司書の遠山先生が翅に気づいて微笑む。翅も、おずおずと笑い返した。赤い目に気づいてほしくないような、気づいてほしいような、気持ちはぎざぎざになって、深くうつむいてゆっくり通り過ぎた。
「平野さん、少し灼けたね」先生がふと言った。「まあ、体育祭だったしね。お疲れさま」
あいまいに笑った。ずっと高架下にいたのだから、少なくとも体育祭の日は日焼けしているはずがない。そう先生に言ったら、驚くだろうか。あきれるだろうか。学校行事をさぼっちゃだめじゃないの、と叱られるだろうか。
まだ誰にも言っていない秘密を誰かと分かち合ってみたい気もして、うずうずとくちびるが動いた。先生なのに、おとななのに、言ったらきっと立場上絶対に注意されるとわかっているのに、こらえきれずに、「実は」と声を落として打ち明けていた。「わたし体育祭出てないんです」
あら、と先生の目がまるく見開かれた。
「風邪かなんか? よりによってねえ」
「違うんです。わたし、」
ほんとうに言うか言うまいかいまになって迷ったけれど、えいやと飛び込むような思いで口にした。「登校はしたんですけど、さぼちゃったんです。体育祭の日はずっと高架下にいました」
先生はあっけにとられた顔をした。さぼちゃった、というところで、ひこうき雲が一本空に走るみたいに目にかなしみが映ったような気がした。
秘密を口にした優越感はみるみる不穏な後悔に色を変えていく。水が氷になる瞬間をスローモーションで見ているような気分だった。体温が少しずつ下がっていくような気さえする。ああ――どうしてわざわざ自分から居心地のいい場所をこわすような真似をしてしまったのだろう。
「……さぼったの? 体育祭を?」
「……すみません」
べつにまだ責められたわけでもないのに、自分から打ち明けたくせに、ほとんど泣きたい思いで肩をすぼめて謝った。先生は困惑した顔で、「わたしに謝るようなことでもないと思うけど」とつぶやいた。
「まあ、そういうこともあるかもしれないわね。事情はわからないけど、でも、休むときは親でも先生でも友だちでもいいから、ちゃんと誰かに言わないと心配かけるからだめよ。事故かもしれないと思われたら警察が動くことだってありえるかもしれないし……」
けいさつ、という言葉の響きに、氷を急に飲み込まされたみたいに喉がひやっとして引きしまった。
「ま、次は中間テストなんでしょ? 気を取り直して勉強頑張って。読書は気分転換程度にしなさいね」
先生はぎこちなく微笑みを取り戻して、そう話をしめくくった。どうして休んだの? とは訊かれなかったので、また言い訳をさせてもらえなかった。まるで万引きしたものを見せびらかす子どもになったみたいだ、と思い、恥ずかしさで身体が燃え尽きそうだった。
何食わぬ顔を装いながら、少ししょんぼりした気持ちでテーブルにつき、課題を始めた。先生が書庫に入っていった隙をついて荷物をまとめてこっそりと帰った。
中間テストまで一週間を切り、すべての部活は活動停止になった。みんな、放課後になるとすぐに塾に行ったり教室に残って勉強するようになった。図書室は一年生が集団で使っていてうるさくて集中できなくなり、あまり行かなくなった。というより、それをたてまえにしてあまり遠山先生と顔を合わせたくなかった。
あんなこと打ち明けなければよかった、といやになるほど後悔した。気まずくてしばらくは行けそうにない。かといって家だとテレビやマンガがあるので気が散ってしまい、ちっとも勉強できないので教室に居残るようになった。
体育祭の一件以来、クラスメイトのみんな、なんだか翅によそよそしい。神田くんは翅と目が合いそうになると直前で視線をそらしたり、うつむいた。春山さんはあからさまに翅を避けて通ったり、聞こえよがしにため息をついたり、「むかつく」とつぶやかれたりもした。
クラスメイトはそんなふたりの態度が伝わったのか、よほどのことがないかぎり翅に話しかけてこない。以前はもっと、もう少し頑張れば輪のなかに入っていけそうな、そんな期待と親しみを感じさせたのに、みんなうすうす翅に背を向けているような気がした。
だんだんと、自分が存在している場所が、溶けていく北極の氷みたいに少しずつ小さくなっていくような気がする。自分だけ見えない膜にすっぽりと覆われているみたいに、すんなり呼吸できる場所がだんだんと狭くなっている。和香子ちゃんが「あー早く席替えしないかな」と無意識なのかわざとなのか、隣の翅に聞こえる程度の大きさでぼそりとつぶやいていた。聞こえなかったことにはできなかった。
学校で過ごすのが、だんだん苦痛になってきた。試験勉強に集中して忘れようとできるのが、まだ救いだった。はやくみんなが忘れてくれればいいのに、と願う一方で、そんな虫のいいことは無理だということにも気づいていた。
試験の結果は、やみくもに勉強したせいか、みんなが体育祭明けで気が抜けていたのか、いつもより順位がよかった。両親は大げさなくらい翅を褒め「頑張ったご褒美」と言って、普段は喧騒をきらって行かない、はやりのステーキレストランに連れて行ってくれた。
ステーキはおいしかったけれど、すぐにおなかいっぱいになってしまい、最後の方は無心で残ったものを口に運ぶだけになった。帰るころには気持ち悪くなってしまった。
「安いわりにおいしいわね」「期末もがんばれよ」と両親はにこにこと話しかけてくるけれど、学校生活のことはほとんど訊いてこない。怖いのかもしれない。でも、体育祭のときに島田先生にクラスにいじめはないかまっさきに確認したはずだ。きっと島田先生は、きっぱりと首を横に振っただろう。実際、多少の仲がいい悪いという相性はあっても、いじめは二年一組にはない。
ただ、翅はあの教室のなかでひとり孤立している。もう、わかってしまった。認めるしかない。自分は二年一組のなかで浮いた存在なのだ。体育祭をさぼったことで、それは決定的なものにしてしまった。翅が、自分で。
でも、どうしてもあのときはそうするしかなかったとしか思えないのだ。なんど頭のなかで思い起こしても、翅は体育祭に出るという選択肢は選べなかった。
だとすれば、翅は二年一組に最初からなじむことができないことが決まっていたのだろうか。それは、二年一組だったから? もし振り分けられたのが二組だったらすんなり友だちができていたのだろうか。それとも、翅が翅である以上、クラスがかわろうが学校がかわろうがどこへ行っても結果は同じだったのだろうか。翅だけが気づいていないだけで、自分は人を遠ざける何かを放っているのだろうか。
自分は普通だ。なにか変わったことをしているわけでも、誰かにいやな気持ちを起こさせるようなことをしたり言ったりしているわけでもない。二年一組のなかで「平野さんちょっとおかしいんじゃないの」とつっかかってくる子は誰もいない。ただ、みんな翅を視界に入れながら、翅を自分のなかまに入れたいと欲してくれない。笑顔で慎重に近づいていっても、愛想笑いで迎えてはくれるけれど、どうしてなのだろう、心の壁をなかなか取り払ってもらえない。
ステーキを食べ終え、ずっしりと重くなったおなかを手で押さえながらソファー椅子によりかかった。ファミリーレストラン特有の広い面積の窓から見える夜空には、ちらちらと銀星がまたたいている。北斗七星も、見つかった。
学校でもらった星座早見表には、星座に入らない星もたくさん書かれていた。それをゆびでなぞりながら、二年一組のなかで、誰ともつながらずにいるのは自分だけだと思ったことを思いだして、ぎゅっと歯をくいしばった。
6
六月に入り、一斉に夏服に変わった。真っ黒だった教室は、シャツの白さでぱっとかろやかに明るく感じられる。衣替えは初めてじゃないのに、なんだか違う学校に迷い込んだみたいに印象が違う。
席替えをして、和香子ちゃんとは席が離れた。さして仲よくなったとは言えないまま疎遠になり、せっかく毎日声をかけていたのに、少しずつ距離も元通りになるのだろうな、と思うとさびしく、くやしくもあったけれど、ほっとする気持ちの方が正直強かった。
翅は窓際に移り、男子と隣の席になった。周りをおとなしい男子に埋められたので、あまり女子に話しかけることができない席ではあるけれど、友だちにならなくちゃ、というプレッシャーがないぶんのびのびした席だった。前の席では朝登校してきた和香子ちゃんにタイミングを見計らって「おはよう」と声をかけるだけで緊張してどきどきしていたけれど、そういうわずらわしさからも解放された。
結局、一か月間かかさず挨拶をするというだけでは打ち解けることはできなかった。できることから距離をちぢめていこう、という試みだったのに、どうしてうまくいかなかったのだろう。きっと、和香子ちゃんには翅と仲よくなろうという気持ちがほとんどなかったからなんだろうな、といちばん前の席になったことをバスケ部の仲間にぐちってさわいでいる和香子ちゃんを見ながら、ぼんやり思った。
島田先生は教材準備室に翅を呼び出して以来、とりわけ翅を気にかけている気がする。だいじょうぶ? なにか困っていない? 目がやさしくそう問いかけていると感じることも少なくなかった。そのたびに、だいじょうぶです、と力強く微笑み返しているけれど、だからこそ班分けやペアをつくるときに自分が余っているところを見られるのが苦痛でしかたなかった。気にしていないふりをして、「あれ、余っちゃった」などと鈍感に首をかしげてみたりした。
ほんとうは誰よりも敏感にクラスメイトの動きを見きわめようと必死だった。それでも、どうしてか、いつも翅が余った。みんな、最後に翅が余ってももうそれがあたりまえだと思っているのか、そうだろうな、という顔をして「余った人はいる?」と島田先生の呼びかけにふにゃりと手を上げる翅をわざわざ振り返ったりしなくなった。なんとなく気を遣われているような、いたたまれなさを感じてよけいにみじめで恥ずかしくてしかたなかった。消えてしまいたかった。
いじめられているわけでもない。無視されているわけでもない。きらわれているというわけでも、たぶん、ない。それなのに、あの小学校で過ごした六年間と、もしかすると同じくらいつらくてしんどくてしょうがない場面がなんどもあった。いじめられているわけじゃないのにあのころと同じくらい教室にいたくないと思うだなんて、想像もしていなかった。いっそ、みんなから見えない存在になってしまいたいとすら思った。みんなからあの子はうちのクラスで浮いている、と認識されているんだと思っただけで、全身の毛穴が音を立てて締まり、心臓が腫れ上がりそうなくらい激しく打ちつけて背中にいやな汗をかいた。
いじめられている方がましだった――なんて、死んでも思いたくないし、思いつきそうになると慌てて頭からかき消すけれど、いじめられていないのに誰も友だちがいない、というのは、翅ひとりに責任があって、翅の人間性に問題があるからだ、と突きつけられているようで、たまらなくつらかった。それを考え始めると目が意思を持ったいきものみたいに冴えて眠れなくなった。
最初は、春山さんさえ副リーダーをやめずにいたら、と役割を押しつけてきた春山さんのことをうらんでいたけれど、その思いはだんだんと学級委員になったことへの後悔にすりかわった。もしあのとき手を挙げていなければ、春山さんに「学級委員に立候補してたから」という理由で体育祭の副リーダーを押しつけられることも、みんなに白い目で見られたり、憐れまれたり、体育祭を休んだりせずにすんだはずだ。
任期は半年間、九月いっぱいまで。夏休みが明けても、翅は学級委員としてクラスで振るまわなければならない。気が遠くなる。いまではもう、学級会でみんなの前に立つことすら苦痛なのに。
どうしていままで平気でやっていたんだろう。自分みたいな子がクラスの代表である学級委員だなんて、おかしいに決まっているのに。ほかのクラスの学級委員は、みんな推薦で決まった子たちで、目立つ容姿をしていたり優等生だったり、クラスの「上」にいる子ばかりだ。
きっと任期が終わって後期に代われば、みんな翅が学級委員だったことなんて忘れ去ってしまうんだろう。展開が透けて見えるドラマの次回予告みたいに、ありありとそんなことを思い浮かべられた。
もう、朝に自分からクラスメイトに挨拶したり、誰かに積極的に話しかけたりしなくなった。翅からなにもしなければ、翅の日常にほかの誰かが加わってくることはほとんどなかった。みんな、もともとある自分の輪だけで暮らしているんだ、と思った。それだけで充分で、翅が入る隙間なんてない。
早くクラス替えしないかな、とそんなことがまた頭をちらつくようになった。ああ、いやになる。これでは一年前となにひとつ変わらない。
中学三年間、ずっと同じことの繰り返しになるのだろうか。そう思うとぞっとして、足元がずぶずぶとどこまでも沈んでいきそうな気がした。
早く寝ついても眠れない時間が増え、朝、起きるのがつらくなった。朝練があったころに比べたら一時間も遅く起きているのに、それでも起きるのがしんどくてつらくてしょうがなくなってしまった。逆に、休日は朝早くにすっきりと目が覚めた。平日は、てんでだめだった。とくに、月曜日が起きられなくなってしまった。
両親が翅の変化に困惑しているのがわかって、それが悲しくて、申し訳なくて、壊れた冷蔵庫みたいに重たい身体を起こしてひきずるような思いで登校している。
せっかく引っ越してきたのに、また学校でなじむことができなかった。新学期のころに「いまのクラスにはたくさん友だちがいる」と言ってしまったこともあって、よけいみじめではずかしかった。
学校が始まる。授業を受けているうちは、無駄なことを考えずにすむので苦痛ではなかった。でも、十分間の休みが、とても長く感じる。給食を食べ終わったあとの昼休みをどう過ごせばいいのかわからず、時間内に給食を完食できなくなった。七年以上、授業以外のたくさんの隙間をいったいどうやり過ごしていたのか、ちっとも思いだせない。体育で更衣室に向かうときや、理科や家庭科室に移動するときも、みんなより早く行くか、逆に少し遅れて行くか、タイミングをずらすようになった。
そんな小さなことにいちいち心をはらはらと擦り減らすことに、だんだん疲れてしまった。もうだめだ、と思った。一回でいい、いちど休もう、そう決めた。
「ごめん、次の体育休む」
二時間目が終わり、緊張しながら体育委員の北野さんに声をかけた。「え? 見学?」と訊き返され、「ううん、保健室行く」と言った。いま、体育では毎回ペアを自由に組んでストレッチや組体操をしている。二時間目の数学の時間のあいだじゅう、そのことが気がかりでおなかが痛くてしかたなかった。こんな状態ではとても体育に参加できない。だから、これはずるやすみなんかじゃなかった。
「マジ? おだいじにね」
心配そうな顔をされ、ほっとして保健室に向かおうとした。でも、保健室は体育館につながる廊下のすぐわきにある。みんなが体操服の入った袋をぶら下げてだらだらと歩いている後ろを歩くのがいやで、来た道を戻ってぎりぎりまで教室に残った。
授業開始のチャイムが鳴り、誰もいない教室を出た。みんなとっくに更衣室に移動していて、廊下はしんと静まり返り、この世界のなかで自分だけが生きているみたいに思えた。
数学の授業のあいだじゅうずっとしくしくと痛んでいたおなかは、もうなんともなかった。喉を酸っぱいものがこみあげてくるような気持ち悪さも、たちの悪い手品かなにかみたいにけろりと消えている。保健室に行くために一階に降りながら、いいんだろうか、と思った。これではほとんど仮病だ。もしほんとうに具合が悪い子が来て、もう具合が悪いわけでもない翅がベッドを埋めてしまっていたら申し訳ない。
翅は降りかけていた階段で、足をぴたりと止めた。
保健室に行くのはよした方がいい。でも、体育に出たくない。だからといって誰もいない教室で本を読んだり課題をしているのもおかしい。みんなが帰ってきたときに変に思われて目立ってしまう。それだけは絶対にいやだ。
どうしよう。降りかけた階段をもういちど上がる。
ふいにぱちん、闇夜に街灯がひとつともるみたいに、あ、とひとつの考えが思い浮かんだ。すぐにそれを打ち消すように、うそ、無理だって、そんなことできるんだろうか、と不安がよぎったけれど、いちど思いついてしまうとそれ以外の選択肢は残っていないような気がして、翅はのろのろと階段を上がった。
昼休みや放課後は、暖房がついている冬以外はいつも開けっ放しになっているドアは、授業中のいまは閉まっていた。もちろん、明かりはついている。
廊下の柱に隠れるように立ち尽くしながら、土壇場になって、どうしようか、ともじもじためらっていたけれど、ずっとここでうろうろしていてもしょうがない。勇気を出してドアをそっと開けた。
遅れて遠山先生が顔を上げた。一歩踏みだすと視線がかち合い、先生の目がまるく見ひらかれる。
「どうしたの? 授業は? 二年一組の利用は今日聞いていないけど……」
違うんです、と言ったきり、どうつづければいいかわからずに戸口でかたまった。授業中は来てはいけない、と言われたら言い訳をせずにすぐに出て行って保健室に行くつもりだった。
けれど、遠山先生は「いいから、入っちゃいなさい」と顎をしゃくった。「どうしたの。本読みにきたわけじゃないんでしょう。そっちまわって、カウンターのなか、入っちゃいなさい」
おろおろしながら、言われた通りカウンターに入り、ためらいながら先生の隣の椅子に腰かけた。先生はパソコン作業をやめないまま、「具合は悪くない? だいじょうぶ? 一応お茶とかタオルケットとかもあるけど」とたずねた。
「……だいじょうぶ、です」
あまり否定してもさぼりだと言っているみたいでよくないかもしれない、とこたえてから思った。体育祭を休んだことを打ち明けたときのことを思いだして、ますます消え入りたくなった。体調が悪く見えるように、うつむいた。
「いま、なんの授業?」
「……体育です」
先生は翅と目を合わせず、パソコン画面に目が向いていた。そのほうが話しやすいな、と気づく。さわがしかった心臓は少し落ち着いてきた。
しばらくなにも訊かれなかった。沈黙に耐え切れず、「わたし、ここにいていいんですか」とおそるおそるたずねた。緊張が語尾ににじんでふるえ、ほとんど命乞いじみていた。
「いいよ」
先生はそっけなく、短くこたえた。表情を変えないまま、つづける。
「教室にいたくないんなら無理していなくていい。ほんとは学校も休んでもどうってことないの。でも学校に来なきゃ、って思ってるなら登校だけして保健室でもここでもいいから、みんながいないところで休みなさい」
なんと返事をすればいいかわからず、うつむいた。先生は、翅のことをいじめられている生徒だと思っているのだろうか。だから、叱らずにかばってくれているのかもしれない。
そうじゃない。わたしはべつに、いじめられているわけでは、けっしてない。先生にそう思われているのがいたたまれなくて、恥ずかしかった。でも、訂正すれば先生は翅をかばってくれなくなるかもしれない。そう思ったらこわくてほんとうのことを言う気になれなかった。
「しゃべりたくなかったら黙ってていい。しゃべりたかったらしゃべればいい。基本的に、学校にいるおとなはあなたの味方だから」
もちろん私もね、とつづいたから、鼻の奥がうるむように熱くなった。先生がパソコンの方を向いているから、安心して腕で目元をそっとぬぐった。
「本読んでてもいいよ」
先生が静かにつぶやいた。
一時間、翅はほとんど話さなかった。先生も、なにも話しかけてこなかった。カウンターに積まれていたにあった本を適当に読んでいたけれど、ほんとうはほとんどなかみが頭に入ってこなかった。
これは、まぎれもないずるやすみだった。体育祭のときと違って、先生にもそれを知られている。だいじょうぶなんだろうか。自分も、遠山先生も。
「あの……」
そろそろ授業が終わる。「なに?」と先生がこたえた。
「担任の先生にも、言いますか」
なにを、の部分は口にできなかった。先生はしばらく考えるように黙ったあと、「平野さんは、言ってほしくないの?」と逆にたずねた。
「言ってほしくない、っていうか……さぼったってことが、ばれるし……」
「これ、さぼりなの?」
先生が翅をじっと見た。「体育がいやだから休んだの?」
叱られるのかと思って慌てて「違います」と否定すると、わかってる、というふうに小さくうなずいて「こんなふうに、授業を休むのは今日だけだと思う?」と重ねて訊いた。責める口調ではなく、静かな声だった。
ああ、と思った。先生は、翅がどうしてここに来たのか、わかっているんだ、と思った。迷いながら「今日だけじゃ、ないかもしれません」と正直にこたえた。
先生は、小刻みにちいさくうなずき、「だったら」とつづけた。「島田先生にも話を通しておく方が、これから都合がいいと思う。もし、あなたがいやなら言わない。でも、またこうやって図書室に来てもいい。でも、二回目からはわたしから先生に話をするから。それでもいい?」
うなずいた。もしかして、と思い「わたしみたいな子、ほかにもいるんですか?」とたずねた。
「いない。平野さんみたいな子はたいてい、保健室登校してると思うよ」
「……なんだ」
先生が怪訝そうな顔をする。「遠山先生、なんだか対応に慣れている気がしたから」と言うと、うすく微笑んだ。
「べつに、授業休むときは保健室に行きなさいとか言わないから。来やすいなら図書室でもぜんぜんかまわない。授業の途中に抜け出してきてもいい。四時間目は出るの?」
次の時間は社会だった。「……出ます」と言うと、「いってらっしゃい」とだけ、言われた。
帰りの会が終わり、みんなが掃除に向かう。島田先生になにか訊かれるかと思ったけれど、なにも言われなかった。遠山先生はやくそく通り黙っていてくれたのだろう。誰も翅が三時間目を図書館のカウンターのなかで過ごしていたことを知らないのだと思うと、ふわふわと足が浮かび上がるような不思議な気持ちになった。
「ただいま」
なにげない顔で帰宅して、母とふたりで夕食を食べる。今日あったできごとを話したり、母のパートの話を聞いたり、ニュースにときどき突っ込みをいれながら、それなりににぎやかに過ぎる。
今日体育を休んだことは、言わなかった。ましてやその時間を図書室で過ごしていたことを打ち明けたら、母は必要以上に動揺して、心配するだろう。
部屋に入り、学習机について宿題をすませる。机のシートにはさんだ一学期の時間割が目に入った。体育は週に二回ある。次にあるのは木曜日、明後日だ。自然と、漏れてくるため息は鉛でも流し込んだみたいに重苦しいものになってしまう。
梅雨が明ければグラウンドでハードル走になるか、サッカーに替わる可能性が高い。でも、それまでの体育をすべて休んだり見学するわけにもいかないし、七月になってもペアで組体操をするのは変わらないかもしれないのだ。それを想像しただけで、胸に石がぎっしりと詰まったみたいに身体がくるしくなって、息を吐くと肺が錆びついた機械のようにきしむようにしなった。
たかが一時間だ。たかが五十分間、それもペアを組む時間さえ乗り越えれば、あとは淡々と組体操をしたりストレッチをするだけなので、体力や技能のことだけでいえばバスケットや陸上よりよほど楽だ。でもそれは、ペアを組めずに余ってしまう羞恥や心細さを気にしなければ、の話だ。
おとなの誰かに相談しても、ばかばかしい、と笑われ、そんなことを気にしていちいち休むな、そんなことでは社会でやっていけない、などと怒られるに違いない。それでも、翅には大問題だった。いっそ熱でも出ればいいのに、となんど思ったかわからない。
枠のなかの木曜日の五限目を、じっと見つめた。
体育だけじゃなくなるかもしれない、とも思う。学活でときどきある学級会だって、前に出て書記をするのはもうたくさんだった。それでも、体育と違って役割がある以上翅がいないことが目立ってしまう。わたしも誰かに学級委員を押しつけられたらな、と頬杖をつきながら皮肉っぽい笑みが浮かんだ。
目覚めた瞬間、泣きだしたいのをこらえているような分厚い灰色の雲が覗いていた。くもりなのではなく、実際に雨なのだと、風が通ってくる網戸の隙間からたちのぼってくる濡れたコンクリートのほのかな匂いでわかった。一縷の期待を持って天気予報を見たけれど、午後から晴れるというわけでもなさそうだった。
「今日の体育は雨ね」
はい、と母からたたんだ体操服のセットを渡される。このあいだ着なかった体操服は、きれいなまま洗濯機にいれた。ありがと、と受け取りながら、憂鬱で仕方なかった。
けがで見学ならまだしも、二回も連続で保健室に行っていることにしたらきっとおかしいと思われる。今日はがんばって出よう、と自分を励ました。
心をくだく思いで体育に臨んだ。思った通りペアを組まされる。ペアを組んだ人から座る、というルールも、足が蝋みたいにつめたく固まってしまいそうなくらいほんとうに大きらいだった。またきみか、というふうに体育の先生の顔が残って立ちすくんでいる翅を見て訳知り顔になった。いつも翅が余っていることに気づいているのなら、ペアでやらせる競技はいいかげんやめてくれればいいのに。せめて、身長順に並んだ前後のペアで、と最初から指定してくれればいいのに。
ペアを組んだのは同じクラスの石井さんという子だった。今日は二組の誰かが休んでいたのでほんとうなら先生と組まされるはずだったけれど、体育委員の北野さんが代わりに呼ばれ、先生と組むことになった。そして、北野さんとペアを組んでいた石井さんが翅のところへやってきた。
こういうときにペアを組んだのは初めてだ。話したことも、ほとんどない。いつも長い髪を二つ結びにきっちり結わえ、聞き役になってにこにこしているまじめでおとなしい人だ。吹奏楽部でフルートを吹いている、ということだけ、知っている。
「平野さんって、一年生のとき吹部に見学来てたよね?」
だから、ストレッチ中に話しかけられ、びっくりした。背中を押す手が止まる。
「え、なんで知ってるの」
石井さんは、こちらを振り向いてはにかみながら笑った。
「すごく熱心な子がいるな、って。ホルンパートによく行ってたよね? 吹部に入るんだろうなあ、って思ってたから入部手続きの日いなくてびっくりしたよ」
うれしかった。見られていたことやそれをまだ覚えられていることは恥ずかしかったけれど、なによりもこんなふうに話しかけてくれるとは思わなくて、久しぶりにつくりものじゃない笑みが広がり、あまいものを口にしたみたいに頬がやわらかくほころんだ。思いきっておしゃべりをつづけた。
「吹部、入りたかったんだけど、親に反対されて入部しなかったんだ」
「え、そうなんだ」石川さんの表情がわずかに曇る。気を遣わせたくなくて、「フルートだよね? 楽器」と矢継ぎ早につづけた。「うん、そうそう」と石川さんも表情をゆるめた。
「もうすぐ定期演奏会あるんだよね。今年の曲フルートパート難しいから、練習に必死」「え、期末もあるのに大変だね」「ほんとそうなの、この時期になんで!? って言いたくなる」「朝練とかいつもやってるもんね、放課後も遅いし」「そうそう、ぶっちゃけやめたくなったこといっぱいあるよー、先輩の前じゃ絶対言えないけど」
おしゃべりは間を気にすることもなくテンポよく楽しく進んだ。こんなリラックスして誰かとたわいもないおしゃべりをするのはいつぶりだろう――。あたたかくやわらかな陽射しに照らし出されたみたいに、翅は思わず目をほそめてしまう。友だちをつくろうと躍起だったころは、なんとか会話をつづけることに必死で、緊張するばかりで楽しいとはほとんど思わなかった。相手もこちらの緊張が伝わるのか表情が愛想笑いのままこわばっていることがほとんどだった。おしゃべりはたいてい尻切れとんぼに終わってしまい、相手も翅も、どこか会話が終わったことにほっと気がゆるんだ。
でも、石川さんは素で楽しそうだった。翅に気を遣って話を盛り上げようとか、笑わせようとかそういうこわばった気ばりはほとんどなかった。同じクラスになったのは初めてで、吹奏楽部の女の子たちとかたまっていることが多く、かかわる機会はほとんどなかった。でも、この子なら気が合うかもしれない。
体育のあいだ、翅の心は気持ちよくゆるんで、それでいて胸はたっぷりの水を吸収したスポンジみたいにいっぱいにふくらんでわくわくとはずんでいた。咎められない程度の声量でおしゃべりをつづけ、ふたりでくすくす笑った。たくさん笑ってほしくて、おもしろい子だと思われたくて、頭をフル回転させておもしろい話や失敗談をひねりだし、次々披露して、石井さんを笑わせつづけた。いまが授業中なのがもどかしいくらいだった。
チャイムが鳴り、挨拶もそこそこにあっけなく列に戻っていく背中を、熱のこもった目で、名残り惜しい気持ちで見つめた。誰かに対して、こんなふうな思いをいだくのはほとんど初めてかもしれない、と思った。
7
翅は石井さん――ヤヨちゃんと友だちになった。
うれしい気持ち半分、もどかしくてさびしい気持ち半分だった。ヤヨちゃんはもともと友だちが多いし、属しているグループも前のクラスから固定している。移動教室のときや昼休み、いっしょに過ごしたくてもヤヨちゃんはべつのクラスメイトとつるんでいる。
そこからひきはがして「わたしといようよ」とは、到底言えない。けれど正直なところ、ヤヨちゃんがグループをそっとはずれて自分と仲よしコンビになってくれればどんなにいいだろう、と心の奥底では思っていた。ヤヨちゃんとふたりでならんで登校したり、遠足もふたりでバス席にならぶ。想像のなかのふたりはもう親友で、ヤヨちゃんのいちばんの親友は翅だ。
実際には、ヤヨちゃんにはもう親友がふたりもいる。北野さんと真希ちゃん。吹奏楽部のフルートパートの三人組だ。注意深く観察していたけれど、入る余地はなさそうだった。
なにより、ヤヨちゃんはふたりと話しているときとても楽しそうだ。グループぜんたいでおしゃべりしているときは頬笑みながら聞き役に徹しているけれど、三人で話すときは少しぶっきらぼうなくだけた口調になり、平気でどついたりもする。男子みたいに苗字で呼び捨てたり、悪口を面と向かって言ったりもしているけれど、三人のリュックには見えない絆のあかしのように、おそろいのクマのキーホルダーが色違いでぶら下がっていた。
ヤヨちゃんは、翅と目が合えば笑みを返してくれるし、トイレでかち合えばあの体育の日のようにおしゃべりをしたりもする。きっとヤヨちゃんも翅のことを意識してくれている。でも、これ以上仲を深めるのはなかなか難しそうだった。体育はあの日以来、休むのがくせになるのがこわくて休まず出席しているけれど、ヤヨちゃんはいつも固定で北野さんとペアを組んでいるので、また一緒に授業を過ごすことはできなかった。
ヤヨちゃんと仲よくなって、教室でひとりぼっちであることがみんなの前で浮かび上がる場面がよけいつらくこたえるようになってきた。いままでは、みんなというひとかたまりだった二年一組が、ばらばらとほどけかけている。ヤヨちゃんは、もう「みんな」のなかのひとりではない。自分の唯一の友だちだ。
だから、ヤヨちゃんがひとりぼっちである翅をどう見ているか、どう思っているのかがまっさきに気にかかった。ヤヨちゃんもいたたまれない気持ちになっていたら身体が焼きつきそうなほど恥ずかしくてつらいけれど、気にしていないとしたらそれはそれでうんとさびしくて悲しくて、つらい。
翅は週の何回かの授業中を図書室で過ごした。しんどいときは給食の時間以外、ほとんど丸一日を図書室で過ごす日もあった。教室にいつづけるのを我慢することに疲れてしまったのだ。
三回目に授業を休んだ日、島田先生に呼ばれた。びくびくしながら面談に臨んだけれど、ひと言も叱られず、悲しい顔もされなかった。
「遠山先生はやさしいから、しんどいときは図書室で休んでなさい」と微笑むだけだった。その一言のなかにいろいろな言葉や気持ちが凝縮されているのを感じ取り、そんなことを言わせている自分がきらいになりそうだった。島田先生のことは、ほんとうはそんなにきらいじゃないのに。
翅が図書室にいるあいだ、遠山先生はなにも言わない。カウンターのなかで宿題や予習をしたり、本を読んだり、なにもせずにぼんやりしていても、なにも口出しされなかった。
これじゃあほんとうにただのさぼりみたいだな、と心底くつろぎながら思った。けれど、教室で過ごしていると吐き気がしたりおなかが痛くなってしまうので、図書室に逃げ込むしか手立てがなかった。
みんなが授業を受けているあいだ、自分だけがこんなところにいていいんだろうか、と頭に思い浮かぶと、ゆるみきっていた身体がたちまちこわばり、心臓をきゅっと紐で引き絞られるように胸がせまくなり、どきどきといやなふうに高鳴った。教室にいるのを我慢しているときとはまた違う心細さと居心地の悪さだった。
いったいいつまでこの応急処置はゆるされるのだろう。三年になれば受験もある。授業をこんな頻繁に休むわけには行かなくなる。勉強がわからなくなってついていけなくなる可能性だってある。いまだって、ただでさえ苦手な数学を休んで、またみんなとひらきができてしまう。休んでいるあいだに、クラスのみんなが翅抜きで楽しんで、絆を深めているかもしれない。そうなればますます翅の居場所はなくなり、たとえ席はあっても、二年一組から翅はしめ出される。夏休みが明ければ、二学期は文化祭や合唱コンクールなど、クラスが団結して行う行事は目白押しだというのに、翅は二年一組の一員としてやっていけるのだろうか。
虫が卵を産みつけるみたいに、あっというまに胸に不安がびっしりと巣食い、いろんな色の絵の具をめちゃくちゃに混ぜたみたいな色で、真っ黒に塗りつぶしていく。たどりつくのは、いつも同じ問いだ。
どうして――どうして自分だけが、みんなと同じことをできずにくじけてつまずいてしまうのだろう。翅じゃなくて、ほかの誰かの役目でもよかったはずだった。小学校であれほど追いつめられたから環境を変えたのに、また、取り残されたのは翅だった。自分にはなにか、神様にしか見えないしるしでもついているのだろうか。おとなになっても、それは変わらないのだろうか。
新品の筆箱を持っていったら取り上げられて上履きで踏みつけられたこと。音楽の時間、合唱をしていたらふいに「いきがくさい」と隣の女子に耳になすりつけるようにささやかれたこと。遠足のバスは翅の隣だけがいつも空席ではやしたてられたこと。見て見ぬふりをしている先生が目を閉じる瞬間を見てしまったこと。夜中にうなされて飛び起きたら、両親が心配そうに部屋を覗きこんでいたこと。ベランダに出された自分の机を運びながら、「しね」という文字を見つけてはっと頭の一部が白く冴えたこと。夜、電話しながら母が涙を静かに流して手をふるわせていたこと。学区外の中学に通うことが決まった日の晩ごはんがちらしずしで、父が怒って、母が泣いたこと。ぱらぱらと風で勝手にページがめくられるように記憶がコマ送りでしっかりと脳裏によみがえる。吐き気を必死にこらえながら、これは呪いだ、と思った。この呪いは、翅の人生を、これからもがんじがらめに縛りつけてほどけない。
胸がたかぶって、熱い海が身体の内側でざぶりと大きく揺れ、いけない、と思うまもなくぽろぽろと涙がはじかれるようにあふれた。いっぱいになったものがあふれて外にこぼれるように、止まらなかった。
声は漏らしていないのに、遠山先生が、翅を見てはっと息を飲むのがわかった。泣いているのはごまかせなくても、せめて泣き顔を真正面からとらえられないようにうつむいた。喉の奥がぐんぐんと腫れ上がっているみたいに熱を持って、込み上げてくるしょっぱいものを飲み下すのもいちいちくるしかった。息苦しさにくちびるをひらいたら、あかちゃんのようなしゃくり声が漏れた。
先生はなにも言わない。ただ、呆然とした表情のまま、ポケットティッシュを取り出して翅のまえに滑らせた。頭を下げる余裕もなく、むしりとるようにティッシュを引っぱり出し、洟を噛んだ。
「くるしい?」
先生がぽつりとつぶやく。いちど嗚咽をもらしてしまうと、止まらなくなってしゃくりあげながらごうごうと泣いた。家では声を上げて泣くこともできなかった。母が飛んできて、おおさわぎになる。
ほんとうは、いつも泣きたくてしかたがなかったのだ。どうしてわたしだけなの? と翅の前を通り過ぎる誰もに問いただしてだだをこねたくてしょうがなかったのだ。
自分が平野翅だからなのか。翅が翅である以上、どれほど努力して愛想笑いを振りまいて媚びへつらっても、いつも「みんな」の輪に入れずにひとりぼっちになってしまうのは翅の宿命でどうしようもないことなのだろうか。
だとしたら――と翅は思う。わたしはいつまでわたしのまんま、生きていかなければならないのだろう。一生、ずっと、死ぬまで、変わらないのだろうか。
「先生は、誰かきらいな人はいますか」
ひとしきり泣いてしまうと、泣くことにも疲れて、嗄れた声でたずねた。
「いないよ」
間があった。嘘をつかれたとは思わなかったけれど、ほんとうのことをきっぱりと言っているのだとは思わなかった。
「子どものころは? わたしくらいのときは? クラスにいませんでしたか?」
先生はこたえない。いじけた気持ちになって、翅はいじわるな声をつくってつづけた。「きらいで、いじめたくなるような子って、いませんでした? いたでしょ? みんなからきらわれてて、浮いてる子、先生のクラスにもいませんでしたか? 覚えてないんですか? どうなんですか?」
怒られるかもしれない、と思いながらちゃかすような口調でまくしたてる。先生は、なにも言わなかった。翅をにらみつけることもなく、くちびるをきゅっと結んだままパソコン画面を見つめていた。
「いたよ。中学のときも、高校のときも、そういう子は、必ずいた。どういうクラスでも、ひとりはいた」
静かな声ではあったけれど、断言するようなはっきりとした言い方だった。
自分から訊いたくせに、いざその返答を先生の口から聞くとうらぎられたような思いだった。胸をまんなかからびりびりに引き裂かれるような気持ちでその言葉を聞いた。
「いまから言うことは、教師としてでも、おとなとしてでもなくて、かつてあなたと同じ中学生だった人間として、言うね」
あらたまった言い方に、戸惑う。翅は黙って先生を見つめた。いったいなにを言われるのだろう。こわい、と思うのに、吸い寄せられるように、先生の目を見つめた。
「どうしようもないんだと思う。あなたはたぶん、なにか悪いことをしたとか、性格に問題があるとか、そういうことではないと思うの、けっして。でも、選ばれてしまったんだよね」
先生は、翅がなぜとつぜん、きらいな人はいるかとたずねてきたのかぜんぶ見通している。そう思った。
「……二年一組に、ですか」
しぼりだすようにつぶやくと、静かにうなずき、すっと翅から目をそらす。
「ごめんね。残酷なことを言っているのは、わかってる。教育者として、間違ってるのかもしれない。でも、たまたま平野さんだった、って言うだけのことだと思う。受け入れろとまでは絶対言わないけど、でも、事実としてそうなんだよ、恐らくは」
花いちもんめにいちどだけ誘われたことがある。女子のあいだで廊下を使って花いちもんめをするのが流行っていた時期があった。翅は参加することもなく、にぎやかな声が廊下に響いているのを教室の隅で聞こえないふりをするだけだった。
あんたもやろうよ。やりたいんでしょ?
急にあいつがしゃべりかけてきたときはびっくりした。とっさのことに、うろたえてこたえずにいると、いいから来てよ、とせっかちに手を掴まれ乱暴に廊下に連れ出された。びくびくしながら反応をうかがったけれど、女の子たちはみんなにこにこしていた。翅を歓迎しているようにも見え、肩透かしをくらいながらも照れくさいような気持ちでグッパーに参加し、おずおずと手をつないだ。同学年の子と手をつなぐのはほんとうにひさしぶりのことだった。
あの子がほしい、あの子じゃわからん、相談しましょ、そうしましょ――名前を呼ばれた子は、えー、と身をよじらせて悲鳴を上げながらも、どこかうれしそうに列をはずれ、前に出てじゃんけんをする。次々に列の顔ぶれが変わっていき、翅が手をつないでいるチームの子はどんどん取られていく。
楽しい、と思った。あはは、とみんなが笑っているときに自分も笑っていい、ということはこんなに気持ちがよくて、楽しいことなのか、と思った。いままで、みんなが笑っているときは自分が笑われてばかりだったのだと、思った。
相談しましょ、そうしましょ――きいまった、で、誰が呼ばれるかどきどきしていても、「翅ちゃんがほしい」とはなかなか言われない。相手チームはだんだん人数が増え、横に伸びる。じゃんけんはあいこになることはほとんどなく、味方の子は一回で負けてあっさりと相手チームについてしまう。
ふと、お気に入りの服に絵の具をつけてしまったのに気づいたみたいに、いやな予感がした。
心臓が急に大きくせり出してかけあしをするように疾く鳴りはじめる。まさか。そんなことあるはずない、こんなに楽しいのに、気のせいだ――。とうとう翅とふたりきりになった味方の子が相手チームに向かって「かんべんしてよぉ」と本気でいやそうな顔で身体をくねらせた。早く手を離したそうなそぶりでもあった。
次の番でも、翅は呼ばれなかった。
当然のように翅はひとりぼっちになった。勝ーってうれしい花いちもんめ、と長くながく横に伸びた列が翅に向かって歩いてきて蹴っ飛ばす真似をする。直接心臓を蹴りつけられたみたいに、翅の身体は大きくびくつく。負けーてくやしい花いちもんめ、とひとりで言い返した声は、みっともないほどか細くふるえ、ひとりで足を突き出してばかみたいだ、と顔が真っ赤になった。
相談しましょ、そうしましょ――翅はひとりでそれをやって、いちばん初めにとられた子を指名することにした。じゃんけんで負けたら負けたでかまわない、と思った。ひとりぼっちが終わるのなら。
きーまった。
「翅はいらない!」
勢いよくみんながこちらに足を踏み出しながらそうさけんだ。
翅はなにが起こったか飲み込めず、ぼう然と立ち尽くした。ポップコーンがはじけるようにみんながいっせいに笑う。
ばかじゃないの。あんたなんかほしいわけないじゃん。一生ひとりで花いちもんめやってれば? 誰もあんたの仲間になんか入りたくないけどね――翅を誘ってきたあいつが、笑いながら言った。笑っている顔が目の前にいくつもならんでいた。
ぶるぶるとくちびるが、身体がふるえた。自分の身体が熱いのか冷たいのかもわからなかった。翅は背を向け、廊下を駆け出した。笑い声はますます甲高くのびやかに響きわたり、耳にこびりついて離れなかった。
花いちもんめをやった記憶は、それ以外、ない。する前は、楽しそうだな、と思って見ていたけれど、そのことがあってからこの世でいちばんだいきらいなあそびに変わってしまった。
もしいま、二年一組で花いちもんめをしたら、どうなるのだろう。結果はもうわかっているから、絶対にしたくない。
平野翅がほしい。
誰も、そう言ってくれない。翅は、誰でもいいから自分のそばにいてくれる子がほしいのに。
母とふたりで夕食を食べているとき、体育祭が終わったころから教室にいつづけることがしんどいこと、ときどき図書室で過ごしていることを告白した。島田先生が事前に事情を話してくれていたので、「そう」とうなずいた母の表情は穏やかだった。
「そういう場所があって、よかったね。ほら、学校にすら行けない子もいるみたいだし……」
翅は笑い返せなかった。
一年前、吹奏楽部に入部することにあれほど過剰に反応し、半ばヒステリー的に反対していた母とは別人のようだった。嘆かれたり、悲しまれたりするよりはずっと楽で、うれしい変化のはずなのに、ものわかりのよすぎる母にいらだちすら感じた。
ねぇお母さん、わたしみたいな子が自分の娘で、悲しい?
ふいにそうたずねてしまいたくなる。母だって、翅が翅であることに絶望したくなることはなかったのだろうか。快活で友だちが多くて、バトミントン部に所属しているような明るい女の子が自分の子どもだったら、などと思ったことはないのだろうか。
「勉強わかんなくなったら、塾でも行く? 通信教材の方がいいかな」
「……いまは、まだだいじょうぶ」
「そう。まあ、まだ受験まで一年以上はあるからあせらなくてもいいわよね」
母のやさしい声がどうしてか神経を逆撫でする。食卓にならぶいろどりきれいなサラダや翅の好物のロールキャベツすらにくたらしく思えてくる。いっそそれらすべてを乱暴に振り落とし、風船を割りつづけるみたいに意味の通らないことを次々にまくしたてて、めちゃくちゃに傷つけてしまったら、どんなに気が晴れるだろう。
手負いのけもののような荒い衝動が自分のなかに唸り声を上げながらうずまき始めているのに戸惑って、「ごちそうさま」と席を立った。母はなにか言いたげだったけれど、なにも言わなかった。
母はきっと内心ではものすごく心配して、深いみずうみのように怒りや失望や悲しみを抱いていることだろう。翅を動揺させまいと、見せないでいてくれている。その意図が透けて見えすぎて、素直にやさしさや気遣いに感謝しようとは思えなかった。いっそのこと、「どうしてなの!」と金切り声を上げて髪を振り乱して嘆きわめいてくれたほうが、翅も母もよっぽどすかっとするんじゃないかと思った。
部屋にこもり、ベッドに寝ころぶ。母が洗ってくれたシーツは糊がきいて、陽の匂いがして心地いい。だからこそ、いまは翅の心をざらつかせた。
わたしはどこかがおかしいんだろうか。お母さんにすらいらいらしているわたしはいったいどうなってしまうのだろう。
一年後も、二年後も、ちっとも未来図を描けない。それどころか、一か月後すら、自分がどんな生活を送っているのか、想像することができない。むしろ、うんと遠い未来の、十年後の方が思い描きやすいような気もする。
自分は――きちんと、おとなになれているのだろうか。そのまわりで、笑ってくれる人はいるのだろうか。おたがい心をひらき合って、心から信頼できるような友だちはできるんだろうか。
母が階下で、お風呂が沸いたことを告げている。
寝返りをうつ。三日月が、墨汁で染めたような空のなかで、ほそめた目のようにするどく尖りながらかがやいている。
8
あと二週間で期末試験が始まる。遠山先生をはじめ、まわりのおとなたちはなにも言わなかったけれど、かえって不安になり、自主的に図書室に行く頻度を減らして教室で授業を受けるようにした。
ひさしぶりに教室に戻ってくると、なんだかここに自分の席が残っているのが不思議なことのように思えた。いまはとくべつゲストでここに参加しているような、ここは仮住まいであるようなふわふわとした感覚で現実味がなかった。
心配していたほど教室で浮くことはなかった。誰も、翅になにかしゃべりかけてくることはない。いつもどこにいたの? 保健室登校してたの? 今度からずっとこっちにいるの? 翅はひとりで教室を移動し、昼休みは遅れていた分の課題を進め、誰かと口をきくこともなく一日は過ぎた。授業でも、先生たちが気を遣っているのか、ランダムに選ばれるはずなのに翅はいちども当てられなかった。
もう、翅は二年一組のなかで透明な存在となっているのかもしれない。見えているのに、見えていないふりをされている。学級委員の仕事だけ、以前と同じようにたんたんと行った。
いるのにいない。そういう存在だとみんなに見なされているとしたら、自分がここにいる意味なんてあるんだろうか。
数学の予習をしながらふと、顔を上げた。その拍子にヤヨちゃんと目があった。一瞬浮かんだ期待をかき消すために、どうせすぐにそらされるんだろう、と判断して胸にクッションを引きつめて傷つく覚悟をしたけれど、ヤヨちゃんは視線をはずさなかった。ただ、にっこりと微笑んだ。
それだけでも胸がいっぱいになっておなかの底が熱くなったのに、おしゃべりの輪からゆるりとはずれてなんと翅の席までやってくるではないか。ぎょっとして固まっていると、ヤヨちゃんは翅の席の前に来て、窓に寄りかかった。
「ひさしぶりな感じするね」
ヤヨちゃんの声に、演技っぽさや気張りはほとんどなかった。同情や憐憫でしゃべりかけにきてくれたのだとしたらやだな、と思っていたから、ほっとした。
「……だね」
どんな表情を浮かべればいいかわからず、うなずいたきり顎は沈んでしまった。
「翅ちゃん、いま図書室にいるんだよね? この前、給食食べ終わったあと上に行くの見えたから、もしかしてそうかなって」
びっくりした。その表情だけで伝わったのだろう、やっぱりそうだよね、とヤヨちゃんはうすく微笑んだ。
「わたしさ、ちょっとうらやましかったよ」
思いがけない言葉に、翅は思わず顔を上げた。
真正面から目が合う。ヤヨちゃんはもう笑っていなかった。くやしそうな、なにかをこらえているような、見たことのない表情だった。
「……なんで?」
先生公認で授業を休むことが、うらやましい? わからないわけでもないけれど、くわしい事情を知らないとはいえそれを翅に言うのはいくらなんでもあまりに無神経なんじゃないか。
ヤヨちゃんは、すっと目線をどこかに流す。
「わたしもね、教室にいたくないな、って思うことはときどきあって、最近ほんとそういうことばっかり考えてて。なんというか、翅ちゃんが授業に来なくなって、図書室にいるってわかったとき、さき越された、って思ったの」
言いたいことが飲み込みきれず、戸惑ったまま黙ってヤヨちゃんの襟元あたりを見つめる。見上げていると、話さないでいたあいだに前髪が伸びたことがよくわかる。目が半分、おおわれていた。
「でも、ヤヨちゃんはわたしとぜんぜん違うじゃん。友だち、いっぱいいるし楽しそうじゃん。北野さんとか、真希ちゃんとか、仲いい子といつも一緒で……」
おろおろしながら、思ったことを反論する。ヤヨちゃんはふっと表情をわずかにゆるめた。
「そうかもしれない。翅ちゃんが教室に来なくなったのは、たぶん、その……一組のなかでつるむ子がいないからなんじゃないかなあ、って思ってた」
友だちがいないことを遠慮がちに指摘され、翅は思わずうつむいた。やっぱり、わかっていたのだ。
「わたしは、とりあえずは友だちはいるし、いつも一緒にいる子たちのことは、きらいじゃない。でも……ときどきつらいんだよね」
「……なにが?」
ひなたから陰に移動するみたいに、ヤヨちゃんは少しだけ声量を落とした。
「去年から同じグループだったからつるんでるだけで、べつに大して好きってわけじゃないんだ。フルートパートのふたりは、まあ、部活もあるから仲よくしてるけど、ときどき気詰まりっていうか、うっとうしいな、ひとりにしてくれないかなって思っちゃうことがあって。でも、同じ楽器の子たちだから距離置くわけにもいかないし。なんだろ、わたしってずーっとここにいるしかないのかなあ、って思ったらしんどくなっちゃって」
翅は黙り込んだ。
率直に感想を言うとしたら――ヤヨちゃんはあまえている、としか思えなかった。去年からのつながりがあるきらいじゃない友だち、同じ部活で同じパートのふたりの親友。その安定したポジションを手にしながら、どうしてしんどいと言うのだろう。
「誰かとうまくいってないの?」
ヤヨちゃんはわずかに口元に笑みを浮かべて、かぶりを振った。
だったらどうして――。翅の困惑を読み取ったのだろう、「なんというか」と言葉を選びながら口火を切った。「うまく言えないんだけど、あの子たちと一緒にいると、閉じ込められてるみたいだな、って息苦しくなることがあって。すごいひどいこと言ってるんだけど、でも、春からずっとそうなの、学校に来るの、たまにしんどくて」
そんなの勝手だ。わがままで、ぜいたくだ。もしヤヨちゃんが仲のいい子じゃなかったら「自慢?」とつめたく言い捨てて追い払いたいくらいだった。でも、いつもにこにこしているヤヨちゃんが心の奥底ではそんな後ろ暗いことを考えていたことがあまりに意外で、鼻白む気持ちよりもギャップに戸惑う気持ちのほうがずっと勝っていた。
「うまく言えないんだけど……ここから逃げられて、よかったね。正解だと思う」ヤヨちゃんはくちびるを曲げて皮肉っぽく笑った。「正直、わたしにはそんなことできないもん。学校休むとか、保健室登校するとか、明日やってやろう、って寝る前に思っても、実際は絶対行動に移せないもん。翅ちゃんは勇気あるね」
あいまいに笑った。怒りやいらだちはほとんど消え失せていた。ヤヨちゃんの声は寄りかかっているガラスを傷つけそうなほど切実で、単に気まぐれに友だちから離れたい、と言っているのではないことが伝わってきたから。
あのさ、と軽く咳払いしてから口にした。
「……ヤヨちゃんも図書室来る? 司書の先生、やさしいよ」
ずいぶん思いきって言ってみたけれど、ヤヨちゃんは笑って首を振った。
「ごめん。わたしは……まだそこまでの勇気ないや。やめとく」
「……そっか」
翅だけの図書室という駆け込み寺をほかの誰かに分かち合いたくない、という勝手な思いと、ヤヨちゃんも一緒にいてくれたら図書室で過ごす心細さや罪悪感が薄れるかもしれない、という期待がごちゃまぜになったまま、それでも勇気を振り絞っての提案だったのだけれどあっさり断られてしまった。いざ断られると、自分だけが取り返しがつかないところに行ってしまったのではないか、と不安がキャンプファイヤーの炎に照らしだされた影のようにぐんにゃりと歪みながら大きく伸びた。
「翅ちゃん、休み時間とかも、図書室にいるんだよね?」
「うん」
「……わたしもたまに、行っていい?」
笑ってうなずくと、ヤヨちゃんはほっとした顔になり、やっと笑顔を見せた。
その日以降、ときどき、ヤヨちゃんと図書室で期末試験の勉強をした。中間試験のころと同じように一年生がさわがしいこともあったけれど、ヤヨちゃんと隣り合って勉強していると不思議と気にならなかった。
ほんとうは毎日一緒に放課後を過ごしたかったけれど、グループの付き合いをおろそかにはしたくないらしい。翅と図書室で勉強しない日は、グループの女の子たちに混じって後ろめたそうに教室を出て行った。その背中を視界の隅でとらえていると、胸が端っこからもやもやと粘ついた糸にからみつかれるような気持ちになって落ち着かなかった。
あの子たちとわたし、ほんとうはどっちが好きなの?
ふいに、胸のもやもやをすっきりさせたくてそんな子どもじみた問いをしてみたくなる。きっと困らせてしまうだけで、あきれるだけだとわかってはいるのだけれど。
もしも、ヤヨちゃんとふたりでつるむようになったら、図書室に行かなくてすむようになるのだろうか。
そんなことを、どうしても考えてしまう。期待して自分ひとりだけあまやかな想像をふくらませてあとからがっかりするときの、どうしようもなく足元からびょうびょうと吹きつけてくる木枯らしのような容赦のないさびしさやみじめさは、もういやと言うほど味わい尽くしてきたというのに。
でも、ヤヨちゃんは期末試験当日に学校を休んだ。
次の日も、その次の日も――とうとう、期末試験期間のあいだ、いちどとして教室に現れることはなかった。
あのころ、月曜日は大きらいな曜日だった。
一週間が始まるから、という単純な理由だけじゃない。今日でなにもかも終わるかもしれない、土日のあいだにあいつらが飽きて翅のことなんてわすれてしまうかもしれない、と期待してしまうから。
月曜日だけじゃない。今日から新しい月だから。夏休み明けだから。クラス替えをしたから。転校生が来たから。いろんな節目があるたび、普段は固く引きしめている心がわずかにゆるみ、そこに風が入り込むみたいにもしかして、という思いが胸をよぎった。いちど思いついてしまうと、ありえないって、奇跡が起こるわけないじゃん、となんど打ち消してみても学校にたどりつくまでふわふわとした足取りは戻らなかった。翅の上履きだけが無造作に玄関に放り捨ててあったり、ランドセルを叩かれて「平野菌、きったねー」と言いながら追い抜かれたり、教室に入るなり顔の前で黒板消しをぱん、とシンバルのように叩かれたりして、翅の心はこれでもかというほど踏みつけられ、教室のすみのすみまで蹴飛ばされる。
そういう仕打ちを受けるたび、教室のなかでわたしだけが心を持っていないと思われているんだろうな、とそんなことを思った。みんな、あたりまえのように翅の悪口を普段と変わらない大きさの声で言い、笑いながら机や椅子を蹴って倒した。それが聞こえていたり視界に入っているはずの子たちも、悲痛そうな顔をするわけでもなく、まぁ翅ちゃんだもんね、という顔をして見て見ぬふりをしていた。傷ついたり、悲しんだり、怒ったりする部分を翅が持っているはずがないと思っているみたいだった。
いちいち泣いたり怒ってわめいたりすればよかったのかもしれない。でも、そんなエネルギーはもう残っていなかった。それらをやり過ごすふりをするだけで精一杯で、ぎりぎりまで擦り切れていた。
みんながあたりまえのように翅をいじめられっこだと思っていたけれど、翅はそれをあたりまえだと受け入れたことはいちどもない。こんなのはおかしい、とずっと思っていた。なんでわたしだけなの、とずっと心のなかで問うてきた。
翅は、小学校のアルバムを持っていない。捨てたのではなく、もらいに行かなかった。
卒業式の写真も入れるため、できあがるのは夏だったはずだ。去年の今ごろだっただろうか、小学校まで取りにきてください、という旨のハガキがリビングのごみ箱に捨てられているのを見つけた。取り出して読みたかったけれど、母がそばにいたから気がつかなかったふりをした。
次の日の朝にはごみ箱は空になっていた。
アルバムを取りに来るよう、小学校から直接連絡があったかどうかも、わからない。母はあのころのことをなにも言わない。
それでもふいに思いだす。思いだす、などとなまやさしい次元じゃない。ほんの数年前のことだ。忘れられるはずがない。むしろ、小学校を取材したテレビ番組が映ると母が過剰にいやがってチャンネルを替えた。翅はそんなあからさまなことではうろたえなかった。日常のなかで記憶がよみがえるきっかけを失くそうとするなど、とうてい無理な話だった。
なんど想像のなかでナイフを振りかざしたり、銃をかつての同級生に向けてつきつけたかわからない。ごめんなさい、翅さん、ゆるしてください。いままですみませんでした。ほんとうに、心の底から後悔しています。つらい思いをさせてすみません。たくさん傷つけてごめんなさい。もう二度としません。涙を流して、洟まで垂らしてみっともなく這いつくばって謝ってきても、翅はけして解放しない。笑顔でナイフを振り下ろし、頭に当てた銃の引き金を離す。同級生の死体の山を、土足で踏んづけて歩く。
思い描いているあいだは、なにも考えずにたんたんと、ひとりずつ罵声を浴びせたり心ゆくまで殴ったりすればいい。そのあいだは胸がすいて、ざまあみろ、と思えて気持ちいい。
けれど、ふっとわれに返ったときのなんとも言えないうすら寒さややるせなさといったらたまらなかった。ぞわりと背中が鳥肌を立て、だいきらいな気味の悪い幼虫を間近で目にしてしまったような言いようもないおぞましさがしばらくつきまとって離れなかった。
「ほんとう、すごかったんです。わたしの小学校」
キーボードを打つ音と、窓の外で降る雨音だけが響く。七月から出された扇風機は、今日は雨だからなのか動いていなかった。雨で曇り空だからなのか、奥の蛍光灯が切れているせいなのか、今日の図書室はいつもよりどこか薄暗い。
「ドッチボールは内野でも外野でも関係なくボール当てられたし、机のなかに三日前に余ってた牛乳パックつめこまれてなかみもれてたりもしたし、あとわたしがふたつむすびで登校したら綱引きが始まるんですよ。あれ、死ぬほど痛いんですよね。男子なんか加減しないで力任せに引っ張るから、頭がどっかに飛んでっちゃうんじゃないかってくらい痛かったな」
遠山先生はパソコン作業をつづけ、相槌はほとんど打たない。きっと顔を思いきりしかめたり、悲鳴をもらしたり、あいつらに対して本気で怒ったりするだろう、ととびっきりおそろしい怪談でも披露するみたいにどこか得意げな気持ちで話してはみたけれど、先生はほとんど感情を乱さない。時折、眉間に強く皺を寄せて目を閉じる。聞くのをやめているみたいに見え、躍起になって話しつづけた。
「わたしは、六年間みんなのごみ箱でした。玩具、って感じだったのかな、普段すごいまじめだったりやさしくて評判の子でもわたしには平気で残酷なこともできちゃうんですよね。ほら、着ぐるみって、なかに人が入ってるってみんなわかってるはずなのに、おとなでもばしばし叩いたりするし、ああいう感覚と似てたのかな。みんな、『平野だししかたない』って目で見てて、わたしがどう思ってるかとか傷ついてるかもとか、どうでもいいみたいでした」
窓ガラスに雨がぶつかってはまるくたわんですべりおちる。つうと流れたそれは下にとどまっていた雨粒とくっつき、大きく揺れて落ちる。
空は桃色が混ざったような灰色で、靄でけぶっている。水彩画を水で薄めたみたいにぼんやりとした空模様だ。いまはいくぶんが涼しいけれど、雨が上がったら制服が肌にしっとりとはりつくくらい蒸し暑くなるだろう。
あと一週間で夏休みだ。学校に来なくていい、というのは宇宙に放り出されるような途方もない解放感にあふれている。けれど同時に、一か月半もある長い休みを宿題以外でどうやり過ごしたらいいのかわからないという不安もあった。翅には部活も誰かと遊ぶ予定もない。
夏休みが明けても、自分はここに来るしかないのだろうか。いまはまだ学校に登校しているだけましで、そのころには登校すらままならない、という可能性だって、否定できない。
二学期からも、あのクラスが変わるわけではない。そのあと一か月は二年一組の学級委員でもある。それを考えると、身体の中心に泥の入った袋でも押し込まれたみたいにずんと重くなり、息を吐き出すのもくるしくなった。
「わたし、二学期からどうなるのかな」
口に出してつぶやいた。返事を期待していたわけではなかったけれど、ずっと押し黙っていた先生は「平野さん」と言った。「夏休みも、たまには図書室来なさい。お盆とかじゃなったら、平日はいつもと同じ時間に開いてるから」
夏休みも学校に来るなんていやだなあ、と一瞬げんなりしたけれど、でもどうせ行くところなんてないのだ、と思った。はい、と素直にうなずいた。
さっきまで降っていた雨は夕立ちだったのか、雲が立ち込めていた空からは少し白っぽい光がうすく漏れている。十四歳の夏、と口のなかでつぶやいてみたけれど、いまの自分とはあまりにかけ離れた響きに聞こえ、押し寄せてくる感情の波をやり過ごすためにぎゅっと奥歯を噛んだ。
迷ったけれど終業式は参加した。ヤヨちゃんの姿はあいかわらずなかった。さんさんと射し込むたっぷりの陽射しと壁からもにじんでくるような熱でこもった体育館で、校長先生の声を聞きながら翅は目をつむった。汗がつうっと鼻の先まで垂れて、落ちた。
9
蝉の輪唱が、幾重にもかさなって耳鳴りにように響き渡っている。
帽子をかぶってこなかったことをすぐに後悔した。髪の奥の地肌を焼きつけるみたいに強い陽射しが照りつけて、頭がぼんやりする。暴力的なまでにするどく刺し貫いてくる夏の太陽は、ひかりというよりもはやビームに近い。
さっさと目的地についてしまいたいけれど、急な坂道なので自転車を押して歩くしかない。午後一時、いまはいちばん暑くなる時間帯だと去年の理科で習った。木がたくさん植えてあるからか、蝉の鳴き音は身体のなかにまで入り込んでいるみたいに耳のすぐそばで響き、鼓膜をひっきりなしにふるわせる。
ヤヨちゃんの家は学校の南にある住宅地のマンションにある。住所は島田先生が教えてくれた。パソコンで地図を印刷したし、いざとなれば公衆電話をかけて迎えにきてもらえばいい。そう思っていたけれど、たどりつくかどうかよりもあまりの暑さでどうにかなりそうだった。
坂を上りきり、ようやく自転車にまたがる。地図を見ながらゆっくりと漕ぎ始めた。
――石井さん、家庭訪問してもなかなか話してくれなくて、親御さんにもほとんど話してくれないそうなのね。それで、誰となら話せる? って訊いたら、平野さんの名前を挙げてたの。
七月の終わり、まだ夏休みは始まったばかりのころに先生から電話があった。自分のことをなにか言われるのかと思って電話を受け取ったときはびくびくしていたけれど、相談の内容はヤヨちゃんのことだった。
「……ヤヨちゃん、なんで休んでたんですか? 具合悪いんですか?」
「体調は悪くはないみたいだけど……学校に行きたくない、って言ってて、いま部活も休部してるの」
まじめなヤヨちゃんが休部――。初めて話しかけられたころ、吹奏楽部のことを楽しそうに話していたことを思いだし、胸がキュッと痛んだ。
「それでね、もし平野さんさえよければ石井さんと会ってもらえないかな。親御さんも平野さんをすごく頼りにしてて、ぜひ会ってほしい、って言ってて」
「……ヤヨちゃんはなんて言ってるんですか」
先生はこうこたえた。
「『翅ちゃんなら来てもいい』って」
自分の名前を挙げていたのか――。ふいうちのことに、胸がどきんと大きく波打った。迷ったけれど、断り方がわからなくて承諾した。土曜日のお昼の時間帯を選んだのは翅だけれど、午前か夕方にしたらよかった、と額の汗をぬぐいながら思った。
マンション前には女の人が立っていて、翅を見て会釈をした。
「石井の母です」と女の人が挨拶する。こんにちは、と汗まみれの顔でこたえた。
「ごめんなさいね、こんなに暑いのに」
「……いえ」
エレベーターで五階に上がる。ここです、とお母さんがロックを解除して開けてくれた。
「弥生、平野さんが来てくれたわよ」
お母さんが部屋の奥に向かって声を上げたけれど、返事は聞こえなかった。靴を脱ぎ、部屋にあがる。「右が弥生の部屋」と言われ、ためらいながらノックをした。
ドアが半分ほどひらく。Tシャツとデニムのショートパンツを履いたヤヨちゃんが、立っていた。なんといえばわからず、おろおろしていると「ひさしぶりだね。おはよう」とヤヨちゃんが口をひらいた。「お、おはよ」とどもりながら返す。
「入っていいよ」
お母さんが後ろで何か言いかけたけれど、手をひかれ、部屋に連れられる。ヤヨちゃんがさりげなく後ろ手でドアを閉めた。想像していた通り、きれいな、女の子らしい部屋だった。
「いいよ、すわって。いまお母さんがのみものとか持ってくるから」
「……ありがとう」
同級生の家に遊びに来るのはほとんど初めての経験だった。なにかお菓子でも持ってきたらよかったんだろうか、と後悔しているとお母さんが麦茶とケーキを運んできてくれた。
「じゃあ、また」
あいまいなことを言ってお母さんがドアを閉める。「うん」とこたえたのはヤヨちゃんで、べつに喧嘩をしている様子はない。てっきり、親とは口もきいていないのだろう、と想像していたので少し肩透かしを食らった気がした。
ひさしぶりに会うヤヨちゃんは、初めて見る私服姿が見慣れなくて気恥ずかしい感じもあるけれど、やつれているわけでも顔色が悪いわけでもなく、いつもと変わらない様子だった。髪をほどいているので、意外なくらい髪が長くてそれにも少しびっくりした。
「ごめんねー。暑かったでしょ。ショートケーキ、好き? アイスとかの方がよかったかなあ」
「ううん、だいじょうぶ。イチゴ、好きだから」
いただきます、と言って麦茶を半分ほど飲み干してからケーキを一口頬張る。「喉渇くよね、自転車だったんでしょ」とヤヨちゃんがお茶をすぐに注ぎたしてくれた。
「夏休みなにしてた?」
「……宿題。作文ふたつと数学のワーク半分と、あと自由研究まるまる残ってるけど」
「え、ってことはあとは終わったの? めっちゃ早くない?」
ヤヨちゃんが目をまるくしている。夏休みになにもすることがないことを連想されるのが恥ずかしくなって「ぜんぶは終わってないけど。すぐ終わらせたいから」と早口にこたえた。
「そっか、えらいな。わたしずっと家にいるけどついだらだらしちゃう。まだ七月だしいっか、って」
さらりと口にしたけれど、やっぱり部活に行ってないんだ、とわかって生クリームがべたりと喉にはりついた。頬をこわばらせて黙り込んだ翅を見て、ヤヨちゃんはふっと息を吐いた。
「あれだよね。たぶん今日わたしがなに言ってたかあとから親とか先生に報告しなきゃいけないんだよね」
なんと言っていいかわからず、黙ったままでいると「そりゃそうだよねー。ただおやつ食べて遊んで終わり、じゃだめにきまってるもんね」とつづけてくちびるをゆがめて笑った。「じゃなきゃせっかく来てくれたのに意味ないもんね」
設定温度まで下がったのか、エアコンの音が止んだ。アパートの五階より低いところで鳴いている蝉の声が膜越しで聴いているみたいにくぐもって届く。から、と麦茶のなかの氷が溶けてガラスとぶつかる音がしてそれだけのことに肩をびくつかせてしまう。そのしぐさにヤヨちゃんは目を留めていたけれど、笑ってくれなかった。
「わたし、吹部やめることにした」
いきなり言われて、びっくりして目を見つめた。
「親とか顧問からは反対されてて、いまは休部ってことになってるけど、どのみちこんな長いあいだ離れてたらもう戻れないと思う。トレーニングも練習もずっとさぼってて、前と同じようには演奏できないと思う。うちの吹部、そこそこ強豪だから戻ったところで足ひっぱるだけだし」
「……なんでやめるの?」
ヤヨちゃんは目を伏せた。まぶたがふっくらとまんまるで、それなのに神経質にひくひくとわずかにけいれんしている。
「やんなちゃったんだよ」
くだけた口調がこの場面のなかで浮いて、とっさに意味を掴めなかった。
いやになったの、とヤヨちゃんは口のなかで繰り返した。
「みんなとおそろいだからよごれてもキーホルダーはずせないのとか、部活終わったら絶対フルートパートでジュース買ってから遠回りして帰るとか、学校ある日も土日もずっと吹部の子たちと顔合わせなきゃいけないのとか、そういうのぜんぶ、かったるくって」
気だるげに腕をもたげ、ケーキを載せていたアルミ箔をティッシュで包んで捨てる。なんとなく目を離せなくて、ごみ箱までカーブをえがくところをぜんぶ目で追った。音も立てずに吸い込まれる。
「部活もクラスも一緒でさ、逃げ場がない感じ、するの。べつにきらいじゃないんだよ。ぜんぜん好き。でも、そういうんじゃなくて、あの子たちがいやとかじゃなくて、でも、しんどくてしょうがなくてしにたくなるの」
しにたくなる、という予想もしていなかった言葉の重さに内臓がずんと地底まで引っぱられたみたいな気がした。そんなことで、なんで、と言葉のギャップについていけず、混乱した。
「自分でもあまえてるなあって思うよ。翅ちゃんも思ってるでしょ? でも、もう無理なんだよね。学校行ける気しない。転校したいわけでもないし、しても変わらない気がする。ここで不登校になって、高校もろくなとこ行けないのかなあ、行けないんだろうなあ」
ヤヨちゃんは膝を抱え込んだ。くちびるにはうっすら笑みがはりついたままだった。
「……二学期からも来ないの?」
「無理じゃないかな。部活も行ってないし、いまのクラス吹部の子たちいっぱいいるし。少なくとも二年のうちは難しいと思う」
患者さんの容態をチェックするお医者さんみたいに冷静な口調でつぶやく。そっか、としか言えなかった。
そんなのはずるいとか、あまえてるんじゃないのとか、言おうと思えば、言えた。ヤヨちゃんのことを責めることができるのは自分くらいで、だからこそこの家に招かれたということもわかっていた。それでも、そんな気にはならなかった。
「翅ちゃんは、なんだかんだ学校行ける人なんだから、ちゃんと卒業したほうがいいよ。わたしに言われたくはないかもしんないけど」
「……わたしだって、わかんないよ。二学期からどうなるかなんて」
「そっかな。でも翅ちゃんには図書室がある」
否定はしなかった。でも、まるで翅のほうがまだましだ、というような言い方にムッとした。そんなこと言うならヤヨちゃんもこればいいのに、わたしが図書室に誘ったときは「わたしはいいや」と断ったくせに、と不満に思っていると、それが伝わったのか「翅ちゃんにとっての図書室が、わたしにはないの」と小さな声でつぶやいた。「わたしにとっては、あそこはべつに自分の場所ではないから。だから家にいるしかないの、いまは」
翅はなにも言えなかった。ヤヨちゃんも、翅になにか言ってほしいわけでもなさそうだった。
結局、そのあとなにかして遊ぶわけでも、大しておしゃべりをつづけるわけでもなく、五時ごろに家を出た。
ほんとうはもっと早く帰ってもよかった。帰ってしまいたかった。でも、「まだ外暑いよ。涼しくなるまでここにいたほういいよ。門限まだでしょ」と引き留められた。ケーキもとっくに食べ終えてしまい、本棚のマンガを借りて読んだり、部屋の雑貨を見て時間をつぶした。ヤヨちゃんはなにをするでもなく、ぼんやりとした面持ちで手足を投げ出して座っていた。「アルバム見ていい?」と卒業アルバムを指さすと、断られるかと思ったら「いいよ」と返ってきた。自分が手にすることのなかった大仰な、上質な布の表紙を開く。ページは一枚一枚、もったいぶるように厚い。ぱたんぱたんとめくると、知っている顔より幼いクラスメイトの顔をちらほらと見つけられた。
そういえば、とヤヨちゃんがつぶやいた。
「翅ちゃんって、小学校どこだっけ」
「……言ってもわかんないかも。わたし隣町の小学校出身だから」
いつもなら、嘘をついてごまかしていた。でも、ヤヨちゃんならべつにほんとうのことを言ってもいいか、と思ってほんとうのことを口にした。案の定、表情が引き締まり、あせったように目をしばたかせ、「え? 知らなかった。転校してきたってこと?」とたずねる。
「転校っていうか、中学に上がる前に引っ越したの。わたし、前の小学校でいじめられてたから」
さらりとした口調を装ったけれど、内心のどきどきして心臓が飛びだしそうだった。
初めて同級生に過去を明かした。遠山先生に打ち明けるのとはまったく違う意味合いだった。友だちの前で「いじめられていた」と告白することはとても勇気がいる。でも、自分が発している声を耳にしながら、思うほど傷つかなかった。
「……そうだったんだ」
さすがにヤヨちゃんもショックを受けたように顔を白くして表情を失くしている。以前だったらそういう反応にいちいち傷ついたり、「でももう昔のことだから」とすぐさまフォローを入れただろうけれど、いまは不思議と感情は穏やかだった。無理に場を和ませようとも思わなかった。びっくりするよね、とおとなみたいに苦笑いしてヤヨちゃんの反応にうなずくだけだ。
「うちの小学校、中学までほとんど全員が持ち上がりだからさ。学校と親が相談して引っ越して、いまの中学に来たの」
「……そっか」
「あのころは六年間ずっといじめられてたけど、学校休んだことは一回もないの。ちゃんと教室で授業受けてた。中学に入っていまさら、単に友だちがいないとか居場所がないとかっていう理由で教室に行けなくなったのもへんな話だよね。あのころのほうがよっぽどつらかったのに」
ヤヨちゃんはくちびるをきゅっと結ぶ。嘘だ、ひどい、かわいそう、でも自分が話を聞いてつらく思ってるのを翅ちゃんに見せちゃだめだ隠さなきゃ、と頑張っているところまで透けて見えた。遠山先生に過去のいじめについて打ち明けたときのことを思いだす。あのときは反応の薄さに拍子抜けしてつまらなくすら思ったのに、具体的な話をしていないヤヨちゃんがあからさまに動揺して傷ついているのを見ると、これ以上あのころのことを話そうとは思えなかった。
「……翅ちゃんさ、強いね」
ぽつりとヤヨちゃんが漏らした。
「え?」
「ごめん、昔のこととかぜんぜん知らなかったけど、引っ越すくらいつらい目に遭ったのにちゃんと学校通ってたんだもんね。それってすごいことだと思う」
強いのだろうか――一年生のころは、昔のことを忘れ、人生を一から違うペンキで塗りかえるみたいに自分を変えようと躍起だった。うまくいかなかったけれど、二年にあがりクラス替えをして、立て直そうと学級委員にまでなって奮闘した。
いったいなにがあんなに自分を奮い立たせていたんだろう。いまの自分にはないなにかが翅のなかの火車をしじゅうかりたててやみくもに走らせていたとしか思えない。あのころずっとたぎっていた怒りとエネルギーはもう、ほとんど残っていない。
「翅ちゃん、強いね。ごめん、いまからひどいこと言うけど、友だちいないのに学級委員やって、春山さんの代わりに副リーダーまでやって、それだけでもすごいなって思ってたのに、そういう過去を乗り越えて中学来てたんだね。すごい」
ごめん、最低なこと言ってるのわかってるんだけど、ごめん、とヤヨちゃんが手を合わせながら謝る。実際、ひどく残酷なことを面と向かって言われているのはわかっていたけれど、その実感はなく、怒りは湧いてこなかった。過去を乗り越えた、と言われても、自分とは関係のない異国や前世の話をされているような気持ちになった。
ごめん、へんなこと言って、とつぶやいて、ヤヨちゃんは膝を抱え直してうずくまった。翅も何も言わなかった。
五時になり、自転車で坂を下って帰った。
ヤヨちゃんのお母さんは何も訊いてこず、ただ玄関まで見送ってふかぶかと頭を提げられ、おとなにそんなふうな対応をされるようなことをしたとは思わなくてたじろいだ。
下り道では一切漕がなくてもジェットコースターのように自転車がすべっていく。夕日に目をすがめながら、もしも坂道が逆だったらむしろヤヨちゃんは学校を休まなかったんだろうか、とふと思いついたけれど、そんなことないか、とすぐに打ち消した。しっかりとハンドルを握り直し、前を見つめる。
その夜、島田先生から電話があり、今日話したことをかいつまんで報告した。
ほんとうはもっと聞き出したいのだろうけれど、先生はときどき相槌を打つだけで無理に引き出そうとはせず、「ありがとうね、ほんとうに」となんども丁寧にお礼を言った。
母はもっとあからさまに「どんな話したの?」「また夏休み会って遊んだりするの?」と話を聞きたがった。翅が初めて友だちの家に呼ばれたことが驚きで、うれしくてしかたないらしく、前日からあれこれ口出しして、翅以上にそわそわしてげんなりさせた。
根掘り葉掘り聞きだそうとする母が疎ましくて、「吹部の子とうまくいってないから学校行きたくないんだって」と適当に話をまとめると、聞きとがめ、まあ、と眉をひそめた。
「ああそう。吹奏楽部なの。やっぱりあのとき翅を止めてよかった」
来た、と翅はうつむいた。もうダイニングを立ち去ってしまいたいけれどコロッケがあとひとつ残っている。黙って口に運んだ。時間の経った揚げものはずっしりと油を吸って重たい。
「やっぱりねえ、女の子だけの大所帯って、怖いものね。陰険そうで、厭になる」
その言い方に、かちんときた。
うるさいな、と思った。知ったふうなこと言ってばかみたい。ヤヨちゃんのことも吹部のこともなんにも知らないのに勝手なこと言わないでよ――。言い返したい言葉はあぶくのようにぶくぶくと頭を埋め尽くす。カマキリの真っ白くこまかく泡立った卵が浮かび、口のなかのものを吐き出しそうになってここぞとばかりに顔を思いきりしかめた。母はそんな翅のようすにちらりと目を留めたけれど、話をつづける。どこかおもねるような笑みが口元に浮かんでいた。実際に身体をもたれかけられたような近しさが急になまなましく迫ってきて、思わず息を止めた。
「でも、翅がよばれたのって学級委員だからなんでしょ? やっててよかったね、きっとしっかりしてるって先生にもその子にも思われてるのよ」
かっとなってかじりかけたコロッケを皿に乱暴に戻した。衣がぱらぱらとテーブルクロスにこぼれたけれど、かまわず席を立った。
「ごちそうさま」
吐き捨てるようにつぶやき、リビングを突っ切り、足音を乱暴に立てて二階に上がる。「翅! まだたくさん残ってるじゃないの。戻りなさい!」と母が怒鳴る。言い終わらないうちに部屋のドアを勢いよく音を立てて閉めると、間があってから「自分が食べた皿くらい片付けなさい!」と家ぜんたいをふるわすような金切り声が響いた。
こえー、と男子のようながさつな口調でつぶやき、お母さんがこんなふうにタガをはずしたような声で怒鳴りたてるのはずいぶんひさしぶりのことだ、と他人ごとのように思った。
明日の朝、自分のぶんの朝食はないかもしれない。べつにいい、夏休みだし。暑いのに朝からしっかり一汁一菜のそろったごはんをたべるのはまっぴらだった。なにかの願掛けみたいに休みでも朝も昼もしっかりと手の込んだ食事を用意する母のことを、どこかで憐れんでけいべつしていたことに、翅はうっすらと気づきはじめている。
10
夏休みは思ったよりもあっさりと日数が重なって、ティッシュペーパーを箱から永遠にひっぱりだすみたいにするすると消費されていった。
ヤヨちゃんの家を訪れた夜に喧嘩して以来、母とはどこかぎくしゃくしている。あのあと、べつに謝ってもいない。母が折れて、なんとなくうやむやになった。翅は正直、どちらでもよかったし、どうでもいいと思っていた。口はきくし笑いあったりもするけれど、どこか作りものめいた団欒で、しらじらしさがしこりのように漂いつづけ、あの晩の空気がふたりのあいだに戻りそうになる瞬間はいくつもあった。そのたびに母はことさら声を張り上げて話しだしたり、用事を思いだした、と言わんばかりに席を立って翅から距離を置いた。
翅も自然と母とふたりっきりになることを避けるようになり、ごはんを食べ終わるとすぐにダイニングを出たり家にいても自分の部屋にこもることが多くなった。お盆過ぎには宿題は日記以外すべて仕上がってしまった。
あれから、先生から再度訪問を頼まれたり、ヤヨちゃんから何か電話があることもなかった。
あれはまぼろしだったんだろうか、とぼんやり思いだすこともあった。記憶のなかのヤヨちゃんは、夏とは思えないほど色が白く、輪郭も水彩画を水で溶いたみたいにぼんやりとしてなんだかこの世の人じゃないみたいだとすら思った。あの冷房の効いた綺麗なマンションで、外に出ることをはなから諦めた文鳥みたいに過ごしているんだろうか、と想像することもあった。
あっというまに二学期になるんだろう。そして、学校が始まる。
壁にかかったカレンダーを眺める。なんの予定も書かれていなかった。ふいに夏休みのあいだいちども図書室を訪れていないことを思いだし、空気を求めて水中から顔を出すみたいにがばりとベッドから起き上がった。
行かなくちゃ。
いま行かなければ、きっと夏休みのあいだ結局いちども行けない。根拠のない予感が強くあった。この勢いのまま、学校に行かなければぐずぐずとベッドで時間を溶かすだけだ。
この気持ちが消えてしまわないうちに、いそいで一階に降りてシャワーを浴び、母がクリーニングに出しておいた制服に身を通した。荷物を持って一階に降りると、リビングで洗濯物をたたんでいた母がいぶかしむように見咎めた。
「いまから学校? 何しに行くの? 水筒にお茶入れるから待ちなさい」
早口で言うのを無視してマンションを出た。
二時半過ぎ。いやになるほど暑い。飛びだしてきたくせに、もう一歩も踏み出したくない、と思うほど湿気を含んだ熱気が身体を押しつぶしてくる。じりじりと網膜まで焼きつけてきそうな陽射しがたっぷりと降り注いでいた。
ひるみそうになったけれどエレベーターを降りて、夏休みだし徒歩じゃなく自転車で行こう、と駐輪場に向かった。ヘルメットをかぶり、自転車にまたがった。
風もなく、お湯のなかを泳いでいるみたいにあつい。たっぷりの湿気をかきわけるようにしてぐんぐんと漕ぐ。通学路の半分ほどの地点の信号待ちでひっかかり、木陰に入って待った。
ふっと視界の隅に違和を覚え、そちらに視線を引っぱられた。おそらく自分と同じ年ころの私服の女の子が三人、こちらを見て何かゆびさしている。ぎょっとして思わず自分の恰好を見下ろしたけれど、別段おかしなところはない。不安になってスカートをぱたぱたと手で持ち上げてはたいたり下ろしたりしていると、彼女たちがゆっくりとこちら近づいてくる。
勘違いではなく、彼女たちははっきりと翅のことを見据えていた。いったいなんなんだろう。
少しだけ胸が疾く鳴りはじめる。そのいやな予感をみとめたくなくて、下を向く。
そして、人が近づく気配があった。カラフルなスニーカーのつまさきがうつむいた視界のさきに入った。
「まだ気づかない?」
真ん中の子が言った。ヘルメットをかぶった頭をゆっくりもたげる。真正面から目が合った。
くっきりと二重の線が走るネコのような目。日焼けした浅黒い肌、左目の横にふたつ並んだほくろ。めくれあがったくちびるからこぼれた犬歯。ざらざらと砂がこすれような、女子にしてはやや低いかすれた声。
気を失って倒れると思うほど強い衝撃が、頭のさきから足までをかみなりのように刺し貫く。
目のうらが血をしぶいたみたいに真っ赤に染まった。いや、真っ黒に塗りつぶされたのかもしれないし、真っ白く漂白されたのかもしれない。水中に無理やりひっぱりこまれたみたいに耳鳴りがしてうまく音が掴めない。
片足で自転車を支えていた身体がバランスをくずし、派手な音を立てて自転車が倒れるのがわかった。ひとりが大げさなしぐさで飛びのく。視界から色を失い、それがどんなふうに倒れたのか、自分がきちんと立っているのかもわからなかった。急に地面がゼリーのようなふにゃふにゃと頼りないものになったかのように足下がおぼつかない。あーあ、と三人が笑う。なにそれ、うちらと会ったことにこんな驚く? ウケる、見てよ平野の顔真っ白だよ。
「うちらいまイオンで遊んでたの。いまからカラオケ行くとこ。したらあれ? あの中学生平野に似てない? とかってリサが言いだすからさ、うそだーって思ったらほんとにあんただしさ、もうびっくりだよね。二年ぶりでしょ? どこに引っ越したとかは聞いてなかったのに再会するとか奇跡じゃん。元気してた?」
まくしたてられ、唾の飛沫が顔にかかる。うっすらと視界に色が戻り始めた。戻らなくてよかったのに、とも思う。目の前に広がる光景は、地獄以外のなにものでもない。
ああ――翅は胸に穴が開いてもいいからこの祈りが通じてほしいと思った。これが悪夢なら、早く醒めてわたしを解放してほしい。
なぜこの三人がいまさら翅の前に現れたのだろう。そうだった、この女はこんなしゃべり方で、声で、話していると小鼻がわずかにふくらみ、歯茎がまる見えになるのだった。あのころ、猛烈な勢いで罵倒されたり大声であざけられている最中、ぼんやりとこの顔を見つめて観察していたからよく覚えている。
「ちょっと冴、こいつあんたと会ってショック受けてるよ」
仲間のひとりが苦笑して袖を引っぱる。仲野理紗。にやついて翅をじろじろねめつけているのは三田島灯音。覚えている。いやになるほど、あのころのことを、あの教室を、あそこで起こったことを逐一、鮮明に覚えている。
なんでいまさら。
再会する場面をなんども思い描いてきた。学校の帰り道の道路脇で、買い物中のデパートで、新学期に転校生を紹介される場面で、おとなになって同窓会の席で、誰もいない荒れ果てた街のなかで。そのたびに翅は目が裂けるくらい思いっきりにらみつけ、拳を振り下ろしたり、思う存分うらみごとをわめき、思いつくだけの罵詈雑言をぶちまけ、胸ぐらを掴んでショベルカーみたいにがくがくと同級生を揺さぶる。ナイフで胸をえぐるようにふかぶかと刺し、泣きながら謝罪し、命乞いを述べながら地べたに這いつくばる姿をいちべつしたのち、あのころ投げつけられた小石の何十倍も大きな岩を頭に向かって容赦なく投げ下ろす。
あいつらとの再会が現実になったいま――翅は彼女たちの前で立っているのが精一杯だった。にらみつける余裕もなかった。ただあるのは、いますぐこの場面を終えて立ち去りたいという思い、ただそれだけだった。自分ぜんたいが祈りそのものになったかとすら思った。
いまごろはもう図書室にいて、遠山先生と会っているはずだった。カラカラと音を立てる扇風機の生ぬるい風に当たりながら、先生が出してくれたお茶でも飲んで夏休みの話でもしているはずだった。はやくあの、ひなたぼっこしているネコのおなかみたいにぬくぬくした穏やかであたたかいところへ行きたい。
「どう、いまの学校。ブレザーか。ってことは城山中? だっけ? 楽しくやってる? いじめられてない? 中学の方がいじめってえぐいもんねー。金巻き上げたりムービー撮ったりするの。その点うちらは良心的だったよね!」
きゃはは、と小型犬のようなけたたましい笑い声を上げる。わきのふたりも合わせて笑ったけれど、仲野理紗はどこか憐憫のようなものをまなざしににじませ、三田島灯音は観察者のような冷酷な目で翅を見下ろしていた。一緒だ、と思った。こういうのもぜんぶあのころから変わってない。
この人たちは一生このままで、変わることなどない。もちろん、翅に謝ることも、申し訳ないと心から後悔することも、絶対にありえない。
奥歯がギュッと鳴った。けものが唸るような響きだった。けれど威嚇とは程遠く、きっと翅にしか聞こえていない。
視界ははっきりとクリアになって三人の顔をはっきりと見据えることもできた。掴みかかって引き倒し、めちゃくちゃに頭突きして、殴る。叩く。蹴る。そうできたらどんなに気持ちがいいだろう――。たとえすぐほかのふたりに押さえこまれてやり返されるとしても、翅の人生ぶんの怒りと憎しみがこもったこぶしの一撃を超えることはないだろう、ともわかっていた。せめて、大きな声で罵り、わめき散らして、視界から、この街から、翅の人生から、追い払ってしまいたかった。
ほら、ちょうど左足の後ろあたりに大きめの石がころがっている。あの石の尖った方を頭に振り下ろしてやればいい。そうしたらどんなに胸がすかっとするだろう。それか、リュックに入れた筆箱のなかにあるはさみをこっそり取り出して、寄りかかるように体重をかけて胸に突き刺してしまえ。あざやかな血がシャワーのように噴き出て、三人とも顔面蒼白になって慌てだすにちがいない。そのようすは、いったいどんなに愉快なことだろう。
「ってかまああのときは子供だったし。小学生でしょ。幼かったよねー、うちらも。やること可愛かったし」「瀬野ちん確実に気づいてたのに平野のことぜんっぜんかばわないの、おとななのに」「あったあった。あきらか平野の背中に上履きの跡あるのにつうって視線そらしたことあったよね」「よく考えたらあいつがいちばんえぐかったんじゃない?」「んで親バレしたら熱血教師ぶって『平野をいじめるな!』ってさ。ほんとしらけた」「あーあ、いままでわすれてたけど、平野がいなくなってさびしいな。うちの学校来たらいいのに」「冴、受験のストレス発散しようとしてる」「あは。ばれた?」
矢継ぎ早に会話が繰り出される。もはや目の前に翅が立ちつすくんでいることなどどうでもいいみたいだった。
ぎゅっと、親指を埋め込むみたいに手を強く握りしめる。腕も足も動かないのに、ここだけは意思通り動くのがにくたらしかった。
どうして、と思った。
どうしてわたしは、このうちの誰かに飛びかかって押し倒して全身の力をかけて首を絞めたり、ヘルメットで腹に思いきり体当たりして頭突きを食らわせないのだろう。いま、三人とも油断しきって勝手におしゃべりしている。この、人生で二度と訪れないであろう絶好のチャンスを目の前にしていながら、どうしてわたしの手は、足は、動かないのだろう。せめて自転車を起こして毅然とした顔で三人を見据えたらいいのに、その気力すらどうしても出てこない。
そうだ。あのころだってそうだった。家ではどれだけでも暴力的な想像をはたらかせることができて、心臓がひきちぎられそうなほど呪っていても、反抗しようとか歯向かおうという気力はいつだってこいつらの前では削がれた。つねに心臓を握りしめられているみたいに力が出なかった。ただただ、この地獄が早く過ぎ去ればいい、とうつろな目で教室の時計ばかり見つめていたんだった。
「やばい、バス来るよ。行こう」
三田村灯音が腕時計に目を落としてつぶやく。まじ、乗り遅れたら死ぬじゃんいそがないと、とほかのふたりもあせった顔になり、足早に翅の前を通り過ぎて行った。あまりにもあっけなかった。あやうく、もう行くの? と声をかけそうになった。そんなあっさりと、自分との再会を終わりにされるとは思わなかった。
結局自転車倒れっぱなしだったね、そういや。びびりすぎて動けなかったんじゃないの? いまごろ漏らしてたりして。きゃはははは、と際立って甲高い笑い声が聞こえ、やがて三人の声は遠ざかり聞こえなくなった。
車の轟音や声明のように降り注ぐ蝉時雨が、ゆっくりと翅を現実の世界に押し戻す。
どっと汗をかいた。脇や背中がびっしょりと濡れ、つめたいくらいだった。ぶるりと身震いし、こわごわとかがんで自転車を起こす。
行かなきゃ、学校。図書館いつ閉まるかわかんないし。声に出して言ってみた。心臓がポンプのようにせわしく打ちつけ、血を送り出していた。
自転車に乗る気力もなく、仕方なくヘルメットをはずしてかごに放り、押して学校に向かった。自転車を倒れたままにしていただけじゃない、ヘルメットもずっとかぶりっぱなしだった。ださかった。それもあとで笑われるかもしれない。せめてこれだけでも脱げばよかった。
ものすごく暑いはずなのに、自分だけ冷房の効いた部屋から出てきたみたいな感覚だった。車の轟音や横断歩道の信号の音にいちいち肩がびくりと跳ねた。
早く図書室行きたい、と思った。さっき起こったことを反芻するのも怖くてただただぼんやりと目の前の景色を見つめた。
やっと学校につき、のろのろと三階に上がった。閉まっていたらどうしよう、と思ったけれどちゃんと戸が開いていた。ふらふらと吸い込まれるようにして中に入る。
「あら、平野さんじゃない」
遠山先生がめずらしく驚いた声を上げた。ほかの生徒はいなかった。
「一回も来なかったからこのまま夏休み終わるかと思ってた。暑かったでしょ、今日は猛暑日みたいよ」
のんびりとしたおしゃべりに、返事もできなかった。喉が渇いていて、そればかり考えていた。
「お茶ください」
話を無視されて先生はムッとしたように口をつぐんだけれど、黙って麦茶を汲んできてくれた。「ほかの生徒いたら出さなかったからね。ここ、ほんとうは飲食なんてもってのほかだし」とつけ加えたのはもしかしたら皮肉だったんだろうか、と飲み干してから思った。ぬるかったけれどおいしかった。
いったいなにから話せばいいんだろうか。さっきかつての同級生と偶然出くわしたこと、報復のチャンスを目の前にしてなにもできなかったこと、夏休みの始めにヤヨちゃんの家に訪れたこと、そこで話したこと。ああ、いちいち思い起こすのもわずらわしい。
なにも話したくない――。ただここでぼんやりとぬるい風で涼んでいたい。ヤヨちゃんは自分の場所じゃないから、と図書室に来ることをやんわりと断ったけれど、母と仲違いしているいま、翅にとってはここが心休まる唯一の場所だった。
夏休みはもう十日ほどしかないのに、どうしてもっと早く来ていなかったんだろう、と後悔しかけた。でも、今日図書室に行こう、と思い立ったりしなければこの街であいつらと再会することもなかったのだ、と思うとひゅっと心臓が宙づりにされたような気がした。二度と自分の人生に顔を出すことはないだろうと思っていた。それなのに。あんな、間抜けなかたちで再会して、あっけなく過ぎ去ったなんて。
「先生、七月に小学校のときの話したの、覚えてますか」
あの反応の薄さのことだから、覚えてない、と撥ねつけられるかもしれない、と覚悟していた。でも、先生は「覚えてるにきまってるでしょう」となぜか怒ったようなはっきりした声でこたえた。少しびっくりしてしまった。
「……さっき、学校来るとき、小学校のクラスメイトに会ったんです」
先生が目を見ひらく。「偶然?」と訊かれ、もちろん、と力強くうなずいた。
「そうだったの……」
「いつも、想像してたんです。万が一また会ったら、あんなこと言ってやろう、とか、しんじゃってもいいからぼこぼこのめためたにしたい、って思ってたんですけど、ぜんぜんそんなことできなくて、情けないなって思って。せっかくの復讐のチャンス、自分で無駄にしちゃいました」
ほんとうはもっとはすっぱな口調でさばさばと話したかったのに、声はか細く、不安定に揺れた。泣いているわけでも泣きそうなわけでもないはずなのに、少しでもつつけばいまにも泣きだしそうな声色だと自分で思った。
いいや、ほかの生徒が来ても知らん顔していよう、と思ってカウンタ―のなかに入って隣に腰かける。先生はなにも言わなかった。
「結局、こんなもんなんですね。想像してた再会の場面とぜんぜん違う……」
「そりゃ、そうよ」
慰める口調でも言い聞かせる口調でもなかった。抑揚のない声で相槌を打って、また黙り込む。いつもの歯切れの良さはなかった。先生もまたショックを受けているのだと、わかった。
「もう、めちゃくちゃうらんでて、あいつら全員いますぐしねばいいのにって毎日思ってたのに、いま言わなきゃずっと言えないし絶対後悔するってわかってたのに、早くどっか行ってくれないかなってしか考えられなかった」
「うん」
「すっきりしたいからとか復讐したいからとかじゃなくて、わたしのために、言いたかったんです。わたしはずっとあなたたちのことを怒ってて、しぬまで呪いつづけて一生あなたたちがわたしにしたことを覚えててゆるさないから、って。じゃないと小学生のわたしがかわいそうだから、ちゃんと突きつけてやりたかったのに、言えなかった。そんなのどうでもいいから早くどっか行ってよ、わたしの前から消えてよ、って頭のなかそればっかで」
「うん」
「わたし、また勝てなかった」
ふわっと涙で視界の底が揺らぐ。流すまい、と目を大きく見ひらく。泣きたくなかった。負けたみじめさを、涙で押し流したくなかった。視界ぜんたいが度の合わないメガネのレンズ越しに眺めているみたいにぼやけてにじむ。
「それは違うよ、」
「違わないです。わたしほんとうは忘れてなんかなくて、チャンスさえあったらあんなやつらみなごろしにしてやるのに、ってずっと、心の底では呪ってたんだって、今日、わかって、」
先生はなにか言いかけて、口をつぐんだ。
「でも、こんな思いするならいっそにくしみごと忘れてたらよかった、って」
カラカラ、と扇風機が首を回している音ばかり響きわたる。
「わたしばっかり、呪われてる。もう一生こうなんだ、引きずられて、わたしだけ何回も何回も思いだしてしにたくなるくらいくるしむんだ、って。誰にもそれをぶつけられないのに、でも捨てられないで抱えこんで、ばかみたい。だって、向こうはわたしと再会したことにべつに動揺してるわけでもなくて、大したことだと思ってないし、どうせ今日わたしと会ったこともすぐ忘れる」
ふうるりと涙が眼球から剥がれ落ちるようにして頬を滑り落ちた。耳たぶがじんじんと膨れあがっているみたいに熱かった。
先生はなにも言わない。
翅も黙っていた。プールから上がったあとみたいに気だるくてしんどくて仕方なかった。話が尻切れとんぼで沈黙が気まずい、とかほかの生徒が来たらすぐにカウンターをでなきゃとかそういうことにも頭が回らなかった。ただただ椅子に体重をかけ、もたれつづけた。
「私ね」
空気がふわりと揺らぐ気配があって、先生が口をひらいた。
「私は、親友をみごろしにしたことがある」
翅は息をするのも忘れて先生を見つめた。――いま、この人はなんと口にした?
「その子も、平野さんみたいな子だった」
夕日が、とろ火の炎のように白い壁を染め上げていた。
「今日、ごめんね、無理やりよんじゃって」
あの日、階下まで見送りながらヤヨちゃんは静かに言った。
ううん、とだけ返した。友だちだからいいんだよ、と思ったけれど、照れくさくて言わなかった。そして、できるだけ感情がこもらないように、エレベーターのなかの防犯カメラの画面を見つめて「あのさ」とつづけた。
「わたしともっと前から、クラス同じになった最初から仲よくしてたら、ヤヨちゃん、学校ずっと来られてた?」
思い上がりだとあきれられてもいい、と思いきってたずねた。粗い画面のなか、ヤヨちゃんが翅をじっと見つめているのがわかった。
少しのあいだ考えていたあと、「ごめん、わからない」と言った。
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
正直で、真摯に考えてのこたえだとわかっていたから、だからこそ翅は自分の顔が真っ赤になるのがわかった。訊かなきゃよかった、とこっそりうなだれていると、「でも」と言葉がひるがえった。
「翅ちゃんと同じクラスでよかった、とは思ってるよ。これは、ほんとう」
念を押すように言われ、うん、とうなずいた。思ってもみない熱のこもった言葉に、耳が赤くひかるのがわかった。わたしだってそうだよ、と喉まで出かかって、でもどうしても口にすることはできず、エレベーターを降りて駐車場で手を振って別れた。
ときどき、その場面を噛みしめるように反芻した。
もし自分があのときちゃんと「わたしもヤヨちゃんが一組にいてくれてよかったって思ってるよ」と伝えることができるような子だったら、わたしは誰かからいじめられるような子じゃなかったのかもしれない。でも、いじめられることがなかったら照れずにきちんと言葉にできていたかもしれない、とすぐに思って、どんなときにもあの過去はつきまとってきて、この人生から切り離されることはないのだと、心の底から思い知らされた。
逃げられない。街ごと引っ越したというのに、翅の足首にはあの小学校からはびこる蔦がひっしりとからみついていて、がんじがらめになっている。
11
わたしの同級生で、自殺者がひとりだけいる。幼馴染の楡崎美紀という女の子。亡くなったのは中学二年の秋。平日の、学校の屋上から飛び降り自殺して、死んだの。
自殺、幼なじみ、中学二年生。ぼんやりと遠山先生がつむぐ言葉に耳を傾けた。身近な人の同級生が自分と同い年のときに自殺した、という衝撃的な話を聞いているはずなのに、フィクションのラジオドラマを聞き流しているような、ふわふわとした感覚だった。現実味や実感がうまく湧いてこない。この感覚のまま、聞いていたい、と思った。
そう思ってないと、絶対に、たどりついてしまう。
「美紀はずっといじめられていたの。主に女子から。クラスで無視されて、嫌がらせもたくさん受けてた。二年間同じクラスだったから私はぜんぶ見てきた。美紀がなにをされていたか、教室でなにが起こってたか、ぜんぶ」
きっと美紀という女の子は、自分ととても似ているのだと、気づいてしまう。
「家が近所で、保育園から同じだった。あの教室のなかで、あの子の幼馴染は私だけだった」
時計は五時五分前を指している。夏休み中の閉館時間は五時だと、戸に張り紙がされていた。でも、先生は気づいていてそれをかまわないと思っているみたいだった。
「おとなしくて友だちの少なかったあの子を助けるとしたら、私しかいないんだって、ちゃんとわかってた。いじめられてるとき、美紀が時々私の方をじっと見てるのも、ぜんぶ気づいてた。でも私は先生を呼んでくるとか誰かに注意するとか、しなかった。目もわざとあわせなかった。ずっと」
「……好きじゃなかったんですか。その子のこと」
どうだろ、と首をかしげ、「そんなことなかったと思う」と言った。「小学校のときまでは普通に仲よくしてたし、そもそも美紀がいやな子だからいじめられてた、ってわけでもなかった。ただ、ほかの子よりちょっとおとなしくて、勉強が少し苦手で、運動も苦手で、それだけだった。だから、ちょっとみんなが見くびってて、下に見られてるような子だった」
翅は黙り込んだ。
どんな顔をして聞いていたらいいのかわからない。べつに自分のことを言われているわけではないのに、先生の方を見ているのもつらいくらい、いたたまれなくて仕方なかった。
「言ってしまえば、自分が美紀と同類だと思われるのが嫌だったの。あの子の幼馴染だってことも中学では隠してたし、訊かれたら美紀が近くにいても否定した。最低でしょ。恥ずかしかったの、美紀が幼馴染で、昔から友だちだったこと。ふたりだけで話すときは美紀って呼んでたけど、みんなの前ではみんなと同じように『楡崎さん』って苗字で呼んでた。もちろん教室では、話しかけたりもしなかった」
聞きながら、鼻白んだ。顔がだんだんとこわばるのがわかった。
怒ればいいんだろうか。同じいじめられっことして、美紀さんの代わりに翅が先生を強く非難したり、罵るべきなんだろうか。
先生はそうしてほしいのかもしれない。そうじゃなければよりによって自分にそんな話を打ち明けるはずがない。ああこれ、ヤヨちゃんの家でも同じこと思ったな、と思った。
「昼休み、美紀は屋上から飛び降りたの。教室の真上から飛び降りたから、落ちているところを私たちは見ていたの。誰かに自殺を命じられたとかいじめの一環じゃなく、自分の意志で死を選んだ美紀を」
舞姫のようだった、と先生は言った。
スカートがひるがえり、髪がなびき、手足が不思議なかたちに曲がり、まるで空中で舞を踊る人のようだった。自分で死を選び、次の瞬間には死んでしまう人とは思えないほどきれいな一枚絵だった、とひとりごちた。
「即死だった。四階の高さからコンクリートに叩き付けられたから、助かるわけなかったの。美紀は確実に自分が死ねるように、屋上から飛び降りたの」
射し込んできた夕日がまぶしい。図書室ごと洗い流そうとするみたいに夕焼けの明るさで床一杯が染まる。押し寄せてくる波に浸かっているみたいだ。
「遺書もあった。『一生ゆるさない』ってだけ、一言」
最後の中学一年は怒涛に過ぎて、あまり覚えてない、とつぶやいた。
「おまえたちは全員、一生十字架を背負って、生きなきゃいけないんだって、あの子のお父さんが学校に来てみんなに言ったの。一生、死ぬまでわびつづけろ、でも美紀は生き返るわけじゃない、だからずっと謝ってろ、忘れるなって」
ふう、と小さく息を吐く。
「私ね、平野さんのこと、美紀と重ねて見てた。ずっと」
翅は先生をじっと見据えた。そらされなかった。
「この子、美紀に似てるな、ってずっと思ってた。美紀に責められてるみたいで、正直ね、平野さんの話聞くの、時々つらかった」
黙っていた。「すみません」と謝れば皮肉になるし、きっと遠山先生を傷つけることができる、とわかっていた。でも、翅は黙ってうなずくだけだった。
先生の目が赤く濡れてひかっていたからだ。
「あのとき、あなたが保健室じゃなく図書室に来たのも、あのころの罰なのかもしれない、って思うこともあった」
「……だからわたしが図書室登校するのをゆるしてくれたんですか?」
ふ、と口元がゆるみ、かぶりを振った。
「そういうわけじゃない。どういうかたちであれ、生徒を守るのは、教師としてあたりまえのことでしょう。もちろん、保健室登校のほうがあなたにとって都合のいいことが多いからそっちを勧めることもできたかもしれない。でも、わたしは平野さんが保健室に行くんじゃなく、これからも教室から逃げてくるときはここに来てくれたらな、って本当は思ってた」
教室にいたくないんなら無理していなくていい。ほんとは学校も休んでもどうってことないの。でも学校に来なきゃ、って思ってるなら登校だけして保健室でもここでもいいから、みんながいないところで休みなさい――。授業中、初めてここに来たときに遠山先生が言ってくれた言葉を思いだす。
「……なんでですか? わたしを助けたら、罪ほろぼしになるってことですか?」
ひくりと先生のくちびるが動く。「そうじゃない」と強く否定したけれど、すぐに眉が自信なさげに下がった。
「もしかしたら、そうだったかもしれない。贖罪……ってわかるかな、平野さんを助けることで罪をつぐなうことになるとまでは思わなかったけど、でも、確かにどこかで救われていた」
「……美紀さんみたいな、教室ではじかれてる生徒を助けてるから?」
先生はこまったようにくちびるを噛んで黙っている。
「そんな、助けたとまでずうずうしいことは思ってない。でも……そうね、そうなのかもしれない」足を投げだすような、どこかなげやりな言い方だった。「あなたをここでかくまうことで、自分の罪ほろぼしみたいなことをしている気になれていたのかもしれない」
時計は五時を回っていた。きっといま、校舎には生徒はほとんど残っていない。
自殺してしまったかつて同い年だった女の子に、ぼんやりと思いをはせた。
自殺するほど追い込まれていた、っていったいどんないじめを受けていたんだろう。あいつらがさっきちらっと言っていたように、金銭面で追い詰められたり、ものを取り上げられたり、暴力を受けたりしていたんだろうか。いじめられても学校をきちんと休まないで通っていたんだろうか。行きたくなくても、毎日きちんと登校していたんだろうか。
もしそうだとしたら、わかるよ、と言ってあげたい。学校を休む、ということはとても勇気がいることで、かんたんにできることじゃない。翅にとって、学校に行くことと、学校を休むことはけっして同じ重さの選択肢じゃない。
ときどき、ニュースキャスターや評論家がいじめが原因で起こった事件に対して「自殺するほどつらいんだったら学校なんて休んでしまっていいんですよ」「逃げることはかっこ悪いことでもみじめなことでもないんですよ。我慢してまで通う必要はない。いますぐ逃げたらいいんです」といかにも慈悲深い顔をつくってコメントしているのを見ると、けっして間違ったことを言っているわけでもないのに、なぜだか内臓を直接撫でられているみたいにゆるい吐き気が喉までせりあがってきた。
ほんとうにそのとおりだとは、思う。いじめられたら、逃げればいい。「いじめてくるやつにガツンといやだって言ってやればもういじめてこないはずだ」「いじめをするような人間なんて、相手にするな。子供だなあ、って笑ってやれ」などと言われるよりは、ずっとましだ。自分だって――翅がもし、普通の中学生で、いじめの相談を受けたら「転校すればいいじゃん」「保健室登校して教室から距離を取ったら?」などとしたり顔でこたえるかもしれない。
でも、翅はいじめを受けた被害者で、いちどそれを実行している。あの小学校から逃げた。家を引っ越してまで、自分が生きていく環境を、家族を巻き込んでひっくり返して一新させた。
それでも、翅が生まれ変わったわけではない。いじめられた過去がなくなるわけでもない。翅は翅のままだ。これからも、ずっと。
だから、引っ越した先でも教室のなかでただひとり浮いている。居場所がないから、教室を逃げて図書室にいる。
「小学校までは、美紀はべつにいじめられてはいなかったの。おとなしい子ではあったけど、誰にでもやさしい子だったし、誰かからきらわれているわけでもなかった。中学で、目をつけられたのね。教室の、『上』の子たちに」
乾いた涙が頬をひきつらせて、動かしにくい。
「彼女たちが美紀をいじめるなら、じゃあ……って、誰も美紀をかばわなかった。無視したり、しゃべりかけたりしなくなった。私も、そうしてたの。自分もなにか言われたり同じ目に遭ったらどうしようってばっかり考えてたから」
先生の表情はきびしい。指がせわしなく膝の上で組んだりほどかれたりしている。
「そのくせ、陰でふたりきりになったら『美紀』って前と同じように下の名前で呼んでしゃべったり、友だちぶって一緒に帰ったりもしてた。教室でのことは絶対口にしないで、テレビのこととか宿題のこととか、世間話してた」
そうしていないと、自分も加害者になるから。みんなが見ていないところでは仲よくしてたから、わたしは美紀の味方をしていた、となにかあったときに逃げ道ができるから。
「最低でしょう? 美紀のことなんて考えてなかった。少しでも慰めになれば、とか愚痴を聞いてあげよう、とかぜんぜん考えてなかった。自分を守るための言い訳ばっかり探してた。なにかあったら……っていう前提がもうちゃんとあったの。それくらい、美紀はひどいやり方で追い詰められているって、ちゃんと見てたし、わかってた。覚悟してた、とまではいかないけど、無意識のうちにどこかでは意識してたんだと思う」
そして――とうとう、中学二年の秋に美紀さんは飛び降り自殺をした。「一生ゆるさない」と遺書を残して。
「みんなもきっとどこかではこのままつづけていたらその延長線で美紀が死を選ぶかもしれない、って思ってたと思う。でも、誰もやめなかった。わたしも、教室では赤の他人みたいな顔で、知らんふりしてた。もしかしたら、裏では仲よくしてたことがかえって美紀を傷つけてたかもしれない、ってあとから思った」
翅は溜まった唾を飲みくだした。
ひどい、人として最悪ですね。そんなふうに吐き捨てれば、少しはすかっとするかもしれない。昼過ぎにあいつらになにも言えなかったぶん、やつあたりまがいにひどい言葉を先生にぶつければ少しは気が晴れて、溜飲が下がるのかもしれない。きっと先生は怒らない。怒れるはずがない。爆発する翅を、ただただ受け止めるだけだろう。
それでも、どうしてなのだろうか。先生に対してそんなたぐいの言葉をぶつける気にはとうていなれないでいた。昔の、自分とは関係のないところでの話だからだろうか。先生が図書室に翅の居場所をつくってくれた恩人だからだろうか。先生が過去のことを後悔して、反省しているのが伝わってくるからだろうか。
わからない。もしかしたら、翅が美紀さんの代わりに激しくなじり、責め立てて、罵ることを先生は望んでいるのかもしれない。そのほうが、先生はほっとするのかもしれない。
でも――だとしたら、だからこそ絶対に言いたくないな、と思った。だって、翅は美紀さんではない。翅が先生に対して怒ったところで、先生がゆるされるわけでも、したことが消えるわけでもない。
「美紀は……私のずるさをわかっていたと思う。だからこそ、教室でこっちを見てるとき、助けてっていうよりも、もっとひややかで、冷静で、ひきょうものって言われてるような気がして、だからこそ見られなかった」
翅はまっすぐに先生を見つめた。先生もわざわざ身体ごと向き直って、翅と向かい合った。
「こんな話をよりによって平野さんに打ち明けるのは、間違ってるかもしれない。私に対して、仮にも教師のくせに、って軽蔑したり、がっかりしてるよね。でも、平野さんには言わなきゃいけないような気がしてた。もう、ずっと前から」
「……先生が、昔友だちに対していじめをしていたってことですか」
わざと強い言い方を選んだ。先生はひるむことなく、むしろ挑むように翅から視線をはずさないまままっすぐ顎を下ろした。杭を打つみたいに。
「そうだよ」
なにも言えなかった。自分が言うべき言葉なんて、なにもないような気がした。
うらぎられた、とまでは思わない。いじめをしたことがある人間が先生になっていいはずがない、とも、思わない。でも、よわっているところを助けてもらった遠山先生がじつは自分がもっともにくむべきところにかつていた人間だとわかったいま――自分が気づいていないところではだかを見られていたようないたたまれなさと心細さと羞恥と警戒心が、洪水を起こしたみたいにめちゃくちゃに入り乱れている。どれを自分の感情として心を保っていればいいのかまるでわからない。
先生は、もし美紀さんのことがなければ翅を図書室においてはくれず、保健室で休むよう言い聞かせたんだろうか。もし翅が元いじめられっこで、いまも教室でひとり隔離されている生徒でなければ、ここまで親身に寄り添ってくれることはなかったのだろうか。
翅は黙ってリュックを背負い、カウンターを出た。
いつもなら「さようなら」と言って別れるけれど、「しつれいしました」と職員室を出るときみたいに事務的に挨拶を言い、図書室を出た。
引き止められるかもしれない、と思っていたけれど、先生はなにも言わなかった。
なんども寝返りを打った。眠れなかった。目をつむると、制服の女の子が空から落ちる映像がモノクロでちらついた。そのたびに心臓がばくばくと前にせり出すように波打った。
遠山先生の話を聞いて、自分が傷ついているのかどうかもよくわからなかった。確かにショックだったけれど、だからといって先生をきらいになったというわけでもない。ただ、遠山先生は純粋に翅を助けたいと思ったから図書室でかくまってくれていたわけではないのだろうな、と思った。
もしも図書室がなければ、司書さんが遠山先生でなければ、翅はきっと学校に行けなくなっていた。かろうじて保健室登校をしていたかもしれないけれど、図書室にいるよりずっとしんどかったような気がする。よくわからない。先生をかばいたくて、そう思いたいだけなのかもしれない。
先生はかつて、自殺するほどつらい思いをしていたクラスメイト、それも幼なじみをみごろしにした。そして、その女の子によく似た生徒である翅を教室から守り、図書室においてくれた。
寝返りを打つ。記憶のうらに押し込めていた、今日の昼間にあいつらと再会したことがくるりと反転して現れる。思いだしただけで全身にどっと汗をかいた。おぞましさに思わずタオルケットをきつく身体に巻きつける。
どうしてふたたび出会ってしまったんだろう。今日出会わなければ、気づくこともなかった。この呪いにずっとくるしめられているのは被害者の翅だけで、一生それは変わることはないのだということに。
忘れた方がいいんだろうか。忘れられるはずなどないこともちゃんとわかっていた。それでも、忘れて幸せに生きることがなによりもあいつらに対する復讐になるのだと、六年生の頃お世話になったカウンセリングの先生にしつこく念押しされなくても、内心反発しながらあのときからどこかでわかっていた。
でも、それはつまり、あのころの、六年間くるしめられつづけた翅を見捨てることになる。
どうせあいつらはすぐに忘れ去るのに、翅までも忘れてしまうのはあまりにも不憫で、憐れで、やりきれない。そんなことはとうてい、耐えられない。
それに――幸せになるもなにも、この中学校でも翅は失敗してしまった。唯一の友だちは教室からいなくなった。図書室でひとり、息をひそめてどうにか過ごしている。小学生のころ伝記で読んだ、アンネ・フランクの隠れ部屋のことを、ぼうと思いだした。
これはいったいいつ終わるのだろう。
美紀さんもそう思ったに違いない。自分を取り巻いている地獄に終わりが見えないことに絶望して、死を選んだ。同級生の目に焼きつくようなやり方を選んで。
あと、十日もすれば夏休みは終わる。教室にはきっと戻れない。でも、図書室にも、戻る自分をうまく思い描くことができない。想像のなかで、翅はどこにも行けないで、砂漠にも似た荒野でひとり立ち尽くしている。
12
もくもくとスプーンを機械的に動かす。ときどきスプーンを嚙んでしまって、金属の味に歯がきんとしびれた。
最近では夕食を食べながら、翅は口もきかなくなっていた。母はふたりきりの夕食が無言になるのがいやなのかあれこれとしゃべりかけてくるけれど、正直、うっとうしい、としか思えなかった。露骨にそっけなくふるまう自分の態度に怒ってむすっと黙り込んでくれたほうがよほどましなのに、母はめげることなく、邪険にあしらっても笑みすら浮かべてなおも取り繕うとする。その必死さやけなげさが、かえって鼻についてますます翅はいらいらした。
この日もそうだった。夕食のカツカレーを食べながら、母は自分のパート先の話を始めた。うだるように暑いのにカレーが献立だったのでそれだけでうんざりしていたのに、母は翅の不機嫌の芽に気づかないで、あるいは気づいていても知らん顔しているのか、「それでそのときレジ打ちの河田さんがね」とどうでもいいことをしゃべりつづけている。
いつもなら相槌を適当に打って聞き流すけれど、この日はそれすらもわずらわしかった。翅はひと言も発さず、うなずきもせず、うつむいてもくもくとカレーを食べた。
翅が一切自分の話に耳を傾けておらず、ひとりごとを垂れ流しているだけになっていることに気づいた母は、さすがに気恥ずかしげな表情になった。くちびるをわざとらしくとがらせ、「なによ、ちゃんと聞いてよぉ」とどこかあまえた声を出す。場を和ませるつもりで言ったのだろうけれど、その言い方が翅の癇に障った。きもちわるい、とすら思った。
弓矢を放つために弦をきりきりと限界まで張るみたいに、目をすがめてつめたく一瞥を投げかけ、あのさ、とつぶやいた。母が、うん? ととりすがるように微笑む。
「……うっさい」
黙って食べたいんだけど、とつづけようとしたら、耳奥を刺すような金属の悲鳴にも似た甲高い音が響き、思わず肩が跳ねた。
母が乱暴にスプーンをテーブルにぶつけたのだと、母の張り詰めた表情でわかった。いきなりダイニングが冷凍室になったような激しい空気の変化にたちまち身体が凍る。
「さっきから、人が気を遣って一所懸命話してるのに、なんなのよそのなめくさった態度は。調子に乗るんじゃないわよ」
刃物を突きつけるようなとげとげしい声にすくみ上がる。母がけわしい顔で翅をにらみつけていた。さっきまで浮かんでいた、媚びるような笑みはとうに消え失せていた。
「だいたい最近のあんたはお母さんをなんだと思ってるのよ。ごはんもそんなしんきくさい顔で食べるんならもうなにも用意しません、自分で好きにしたらいいわ。こないだだって、ごはんがまだ途中だったのに片づけもせずどすどす部屋に引っ込んで、謝りもしないで、次の日も知らん顔して人が作ったごはん食べて。なにからなにまで養われてる身分で、あんた、なにさまのつもり?」
畳み掛けるように怒鳴られ、なにも言い返せない。表情ひとつつくれない。
母は本気で怒っていた。叱言ではなく、翅に対して本気で腹を立てているのだと、めったに使わない「あんた」という突き放したつめたい呼び方と、針のようなまなざしのするどさでわかった。おそろしい剣幕に射すくめられて口も動かない。
「えらぶって、高飛車で厭な子、人がこんなに気を遣ってなんでもやってあげてるのに、なんでこんな、反抗的なの。まさか学校でもそんな態度友だちに取ってるんじゃないでしょうね」
「そんなわけないでしょ」
反射的に言い返す。母は「どうだか」とせせら笑った。翅の神経を逆撫でするような言い方をわざと選んでいるのだと、わかった。
「家族はいちばん小さな社会なのよ。ここでやっていけなかったら、ましてや学校なんて大きな規模の社会でやっていけるわけないわよ」
翅は黙り込んだ。
「現に学校、行けなくなったじゃない。図書室だろうが教室に行けないなら同じことよ。かわいそうだからお母さんずっと黙ってたけどね、要は、あんたは社会から逃げたのよ。どうするの? もう、転校はできないのよ? この歳で引っ越しをまたやるなんて私はまっぴらごめんよ。お父さんだって毎日早くに出なきゃいけないしお母さんだってパートしんどくってしょうがないのに、」
「うるさい!」
かっとなって、はじけるように大声でさけんだ。怒りなのか屈辱なのか悲しみなのかわからないものが、眼球を押し出すように熱くさせ、さけるかと思うくらい見ひらいた。
母は顔を真っ白にして、ぎゅっとくちびるに醜い皺を寄せて噛みしめた。そして、わっと顔を覆って泣きだした。
それを見下ろしながら、こぶしを握りしめ、ぶるぶると全身をふるわせる。泣きたいのはこっちだ、と思った。去年まではなかったはずの数本の白髪が明かりの下で容赦なく照らしだされていた。
ああ――。どうしてこんなことになってしまったんだろう。
逃げたさきではあたたかな幸福が待っているはずだった。学校であったことを食卓で話すにぎやかな団欒や、家に友だちをよんで遊んだり、お泊まり会をしたりする楽しい未来を思い描いていたはずだった。いま目の前に広がる光景はそこからはかけ離れた地獄絵図でしかない。親に対してやつあたりまがいに怒鳴りつける反抗期の娘と、それに泣かされて肩を大きくふるわす年老いた母親。一昔前のドラマのなかのありふれた構図に自分たち親子がすっぽりと当てはまっていることに気づき、心底ぞっとした。
こんなはずじゃなかった。この役目はなにも、自分でなくてもよかったはずだった。それなのに、選ばれるのはいつだって翅だ。どこに行っても、まわりのなかで自分だけが最初から糸でつながってるみたいに貧乏くじを引かされている。
そんなこと、誰でもいちどは考えるような陳腐で幼稚なひがみなのかもしれない。でも、こんな思いをなんどもなんども繰り返しもういやというほど味わうはめになっているのは、やはり自分だけなのではないか、としか思えない。十四年間、ずっと。
身体のなかで激しい竜巻が唸り声をあげながら渦巻く。腹の底からこみ上げてくるどす黒い衝動のままに、翅は空になったガラスのサラダボウルを掴んで両手で思いきり振りかざした。
そのまま床にたたきつけようとはずみをつけて、でもできなかった。ほんとうはこんなことがしたいわけではなかった。母親をもっと困らせて怒らせたいとも思わなかった。突き上げた腕をよろよろと下ろしたら、いま自分が置かれている状況のあまりの情けなさに涙が零れた。
早くここから出たい、そればかり思った。この人生から、翅は逃げたかった。自分が自分でしかないということは、こんなにも絶望的なことなのだと、ぼんやりと思った。いっそ、自分なんてやめたかった。
窓のぶんだけある夜空はブラックコーヒーのように濃い。今夜は星ひとつひかっていない。いっそ、子供のころのように癇癪を起こしてわあんと声を上げてしまいたかったけれど、泣くまい、と熱を持ったまぶたにぎゅっと力を込めた。
あのころは、母の温かな大きな手で頭を撫でられ、胸に抱き寄せられれば自然と嗚咽も止まったけれど、いまはもう、泣きやむときには自分でなんとか飲み込むしかないのだ。
翅が使った切り札は引っ越しをしたことだけではなかった。切り札、というほど有効なカードではないけれど、学級委員に立候補することだってとても勇気がいる決断だった。それでも、学級委員にさえなれば自動的にみんなの信頼を得て、仲よくしてもらえるかもしれない、そう思って飛び降りる覚悟で手を挙げた。
そんなことだけでは、だめなのかもしれない。ベッドに寝ころびながら、天井をにらみつけた。今夜遅く、父が帰ってきたらきっと母は泣きついて、父に翅を叱るよう頼むだろう、と思って階段の下で足音通り過ぎるたびに息をひそめたけれど、いつまでたっても階下に呼ばれなかった。もう母は不登校になり下がった反抗的な娘のことなどあきらめて突き放してしまったのかもしれない。もはや母の期待をうらぎってしまったことに申し訳なく思う気持ちすら湧いてこなくなってしまっていた。
小学校のときと決定的に違うのは、二年一組には、明確に翅の敵がいるわけではない、ということだ。春山さんや神田くんの顔が浮かんだけれど、ふたりだってべつに翅に危害を加えてくるわけではない。体育祭が終わった直後はさすがにあたりが強かったけれど、図書室で過ごすようになったころには、ふたりとももはや翅になんか興味もないみたいだった。だから、たとえあのふたりになにか、やり返したところでなんの解決もない。なにもされていないのだから。それに、あのふたりがいるから二年一組いられなくなったというわけではない。
わたしの敵、って誰なんだろう。
クラスメイトをひとりひとり、思いだしてみたけれど、団子状にくっついた顔ぶれが溶けて、あいまいな記憶がもやもやと蜃気楼のように浮かんでは消えるだけだった。島田先生。ヤヨちゃん。遠山先生。両親。そして――小学校時代、徹底的に翅をくるしめ、踏みにじり抜いたあいつら。
最後に思いだした顔ぶれだけは、輪郭がはっきりとして、炎で胃をあぶられたみたいに怒りがぶり返した。でも、いま翅があいつらをなんらかの方法で倒したところで、胸はすくかもしれないけれど、翅のこれからの人生が直接なにか変わるわけではないのだ。
いったいどうすれば。
あと一週間で二学期が始まる。図書室登校をつづけるにしろ、教室に戻るにしろ、ヤヨちゃんのように学校じたい休んでしまうにしろ、これからのことを考えて、腹を据えて、決めなければ。
学校に行く、行かない、教室に行く、行かない、なんてほんとうはどっちでもよかった。自分が楽に呼吸ができるのなら、どっちだってよかった。翅が知りたいのは、考えなければならないのは、どうしたら翅が翅であることを肯定し、自分の生きたい人生を好きなようにのびのびと生きられるか。
それだけだった。
明るい音楽が店内に流れている。のんきで鈍感な空気に身を置いていると、むしろ存在を隠してもらっているみたいでほっとする。
次の日の午後、翅は、ヤヨちゃんとふたりでドーナツショップにいた。
「セールのチラシ入ってたから、今日の午後行かない?」
口実をくるしまぎれに見つけ、思いきって午前中のうちに電話をかけると、「いいよ、じゃあ一時にね」とあっさりと承諾された。家にいたくなかった。ひとりではいられず、かといってこの前のこともあり、図書室に行くのもなんだか気が引けて、どうしていいやら途方に暮れていたから心底ほっとした。
セールだからか店内には平日なのに人が多い。クラスメイトがいたらいやだな、と思ったけれど、中学生らしい客は知らない子だけだった。自然と、さかなが水草のなかに逃れるように窓際のいちばんすみの席につく。ヤヨちゃんもとくになにも言わなかった。
「夏休み終わるねー」
オレンジシュースをストローで啜りながらヤヨちゃんが呟く。そうだね、とドーナツを齧りながら小さく相槌を打つ。ほろほろとこぼれ、粉がトレーに落ちる。新作のブルーベリー味を好奇心で頼んでしまったけれど、ベリーとクリームチーズの濃厚すぎる風味に口も鼻もいっぱいにふさがれるような気がして、ひとくちめでトレーに戻してしまった。
「わたし、ずっと家にいたんだよね。結局、一か月半のあいだずーっと」
ぽつりとヤヨちゃんがつぶやく。
「なんか、家でひとりでいるの、じわじわつらかったな。息苦しいっていうか、ずーっと、毎日同じ日が来てて、前に進んでる感じが全然しないんだよね。なのにちゃんと、日付だけどんどん変わっていくのが怖いし、気持ち悪くて」
「……そっか。それ、わかる」
「だよね」とヤヨちゃんもうすく笑った。「なんかね、そうやって自分の部屋に閉じこもってぼーっとなんにもしないで過ごしてると、あーいま地球が終わって人類が滅亡してもいいや、みたいな気持ちになってくるんだよね」
微笑みを残したまま物騒なことをさらりと口にするので、内心ぎょっとする。でも、翅だって、明日や未来に希望を持って生きているわけではない。むしろ、学校が始まらないのなら世界が終わったほうが案外ほっとするような気もする。
「出ていきたいよ。いっそ、この街ごと」
え、と反射的に声をもらした翅にちらりと目を向け、「わたしたち、もうここにいてもしかたないんだ、って思わない?」とつづけた。
「……どういうこと?」
「ここじゃないところに、逃げるべきじゃない?」
ここじゃないところ、という響きに胸がどきんと高鳴った。体育祭当日、学校に行かずに高架下でしゃがみこんでいた日のことを思いだす。
「……それって家出するってこと?」
ヤヨちゃんはあいまいに笑って、首をかしげ、「でも、そういうことかもね」とつぶやいた。「家にいることだって、『ここにいつづけること』だもんね」
ヤヨちゃんの言いたいことがよくわからない。
「親とうまく言ってないの?」とたずねた。それなら翅も同じだから、愚痴や悩みを共有して、わかりあえるような気がした。でも、ヤヨちゃんは黙ってかぶりを振った。
「そうじゃない。まあ、うまく言ってないのはまあそうだけど、でも、そういうレベルじゃないっていうか」
「うん」
「ひっくり返したいの、目の前のことぜんぶ。人生ごと」
大仰な、まるで物語の台詞のような言い回しに思わずヤヨちゃんをじっと見た。時間差で恥ずかしくなったのか、翅とは目をあわさないまま「って、思ってたの、ずっと。夏休み入る前からずっと」と怒ったようにつづけ、うつむいた。
「わたしね、ここから出たいんだ」
「うん」
「ここにいつづけても、しかたないと思う」
「そうだね」
翅は、力強くうなずいた。自分だけが透明な狭い水槽のなかに閉ざされて暮らしつづけるような日々はもうごめんだった。その水槽を夏休みのいまなら、ヤヨちゃんとなら、こわせるような気がした。
「出たい。出たいよ」
ヤヨちゃんは強い口調で言い切った。わずかに語尾がふるえていた。
もしかしたら、と思った。ヤヨちゃんは翅が思っているよりもずっと思いつめて、なにかにくるしんだり悩んだりしているのかもしれない。ふいにそう思った。
「出ようか?」
おずおずと問いかけると、ヤヨちゃんは思いがけなかったのかびくっとして翅を見た。
「わたしも、ここから出たい。どっか、ここじゃないところまで、行ってみたい」
もしもそういうところがあるのなら、というのは、口にしなかった。まるで、こたえをさき回りしているみたいで、いやだったから。
翅ちゃんならそう言ってくれるって思ってた、とヤヨちゃんはつぶやいた。
「いま、夏休みじゃん。逃げるなら、いまのうちだと思うんだよね」
「……そうだね」
「いましかないよ。逃げるなら」
明日、一時に駅で会おう、とやくそくした。ストローを包んでいた紙の袋が、コップの底に張りついた水滴を吸ってぐしゅぐしゅに縮れていた。
13
何食わぬ顔でリュックを背負って一階に向かう。運悪く洗濯物を干しに二階に上がってきた母とかちあったけれど、とくになにも言われなかった。無視しているのはお互いさまだけれど、それはそれでなんだかしゃくだった。自分で水筒にお茶と氷を入れてリュックに詰め、家を出た。
ヤヨちゃんはさきに待合室に入っていた。翅の姿を目に留め、目を落としていた時刻表をたたんだ。
「行こう」
「どこ行くか見てたの?」
時刻表を指さすと、少し恥ずかしそうに「まあいちおうね」とはにかむ。「せっかくだし東京のほうに行こう」
東京、という響きに胸がときどきしたけれど、それを押し隠してわかった、とうなずいた。千円近い切符を購入して、ホームに向かう。
「各駅しかないね。快速がほんとうはいいんだけど、まあしかたないか」
頭上の電子掲示を見ながらヤヨちゃんがつぶやく。ふだん、車で移動することしかない翅にとっては正直よくわからなかった。ホームがいくつもわかれているのに迷わず一番ホームに降りたヤヨちゃんがおとなっぽく見えた。
「来た、あれに乗るよ」
電車がホームにすべるようにやってくる。ボックス席は空いていなかったので、ふたりで横並びのシートに座った。
「いつも電車使ってるの?」
ヤヨちゃんはああ、と苦笑して「吹部の外部の練習とか大会は基本みんなで電車に乗って移動するからね。だから慣れてるのかも」と言った。
そっか、とこたえた。気まずいとは不思議と思わなかった。だって、もう吹奏楽部や中学校なんてしがらみから断ち切れた遠いところへ向かうのだから。
ふしゅう、と気の抜けた音でドアが閉まり、一拍の間ののち電車が走りだす。セーラー服の高校生や、お年寄り、サラリーマン風の人たちが、ぽつぽつと一定の間隔を空けてたたずんでいた。
「翅ちゃんのリュックなに入ってるの? いっぱい詰まってそう」
ヤヨちゃんがのけぞるようにして翅の背でつぶれているリュックに目をやっていた。恥ずかしくなって、肩をすくめた。
「お茶とかお菓子とか……タオルとかティッシュとか、あといろいろ」
ヤヨちゃんはふんわりと微笑みを浮かべたまま、ふうん、とうなずいた。そして前を向く。これ以上詮索されなくて、内心ほっとした。
昨日の夜荷物を詰めながら、折り畳み傘は必須でしょ、着替えとか持って行った方がいいのかな、生徒手帳もいるかもな、などとあれこれ荷物をベッドの上に広げながら、試行錯誤していた。結局、着替えも生徒手帳も出した。お年玉の三万円は、財布とは別に封筒に入れてリュックの底に隠すようにしまい込んだ。
どれくらい今日のことが現実味があることなのか、正直よくわからなかった。自分だけが気張って大荷物で言っても恥ずかしいし、かといってあんまり身軽だとヤヨちゃんをがっかりさせてしまうような気がして、通学で使う黒いリュックを選んだ。いかにも中学生、という感じが恥ずかしくて、交通安全のお守りは出るときにはずした。
十分おきにいくつもの駅に停まる。五個目あたりで心配になり、いくつめで降りるの? とたずねると「たぶん一時間以上乗るからまだまだだよ」と言われた。乗っているお客さんが増え、身をちぢめるように膝の上で手を組んだ。
三十分を過ぎた頃には、高いビルが車窓をちらほらと流れる。街のようすが明らかに変わり始めた。乗り込んでくる人の出入りも激しくなる。甲高い声でおしゃべりをしながら入ってきた短いスカートの中学生のグループと目が合い、さっと目をそらしてうつむいた。ヤヨちゃんとおしゃべりして気をまぎらわせたかったけれど、人が多くてとてもしゃべれるような環境ではなかったし、ヤヨちゃんは腕時計をちらちら見ながら落ち着かないようすだった。
「着いたよ。ここで降りよう」
だから、ヤヨちゃんにそうささやかれたとき、ようやく出られることに少しほっとした。
電車を降り、ベルトコンベアーに載せられたお弁当のおかずのように自分の意思ではなく人の波に押し流されるままエスカレーターで階下に降りると、駅は巨大な地下迷路のようだった。ぼう然とたちつくしていたくても、足を止めているとたくさんの人たちがせわしく、迷惑そうな顔をして足早に追い抜いていく。
自分たちが住んでいる街の駅とはぜんぜん違う。ヤヨちゃんも隣で声を失っているのがわかる。行こうか、と声をかけるとうなずいて改札口に向かった。圧倒されていることをさとられまいとなんでもない顔をつくっていたけれど、内心どこに行けばいいのかもよくわからず、あちこち目を泳がせながらはらはらしていた。ほとんど泣きだしそうだった。
人の流れに沿って歩くと、「改札口」の文字が見え、自分が知っている風景につながってほっとした。切符を機械にぎこちなく滑りこませ、改札を抜ける。でも、まだ外には出られず、まだしばらくは駅のなかのようだ。広大な広場があってどの方向にも階段がある。「どっち行けばいいのかな」とつぶやくと、「こっち行こ」と手を引かれる。たぶんヤヨちゃんもわかっていないんだろうな、と思いながら、ひっぱられるまま階段を登った。南出口②、と頭上に看板があった。
駅のロータリーに出る。どこを向いても知らない風景が目の前いっぱいに広がっていた。夏なのに靄が薄くかかっていて、なんだか異国のような雰囲気がした。駅から出たはずなのに、どこに行けば街につながっているのかよくわからない。そっと振り返ると、宇宙基地のような横にも縦にも大きな建物がそびえ立っていた。
よくわからないまま、エスカレーターを降りるとバスの停留所へ出る。ここから街に行けるらしい、とひとまずほっとした。
「どこ、行こうか」
「うん……」
ひっきりなしに車の轟音がする。車だけじゃない、なんて人が多い街だろう。はぐれてしまったらだめだ、と思い、離しかけていたヤヨちゃんの手を握りなおした。目に映る建物はあたりまえのようにすべてが高く、ふつうにまっすぐ前を見ているだけでは視界に入りきらない。空が、普段見ているものよりずっと狭い。
「おなかすいてる? マックとかスターバックスとかならどこにでもあるだろうし、行く?」
たずねると、ヤヨちゃんはあいまいに首をわずかに傾けた。
「うーん……いまはいいや」
そっか、とつぶやいた。翅も、そんなになにかを食べたかったというわけでもない。とりあえず、自分たちのなじみのあるところへ行って落ち着きたいと思っただけだ。
立ち止まってぼんやりしていてもしょうがないので、どちらともなく歩きだす。原色に近い色とりどりの大きな立て看板や広告がいろいろな高さに点在している。いまは平日の昼間なのに、私服のおとなやスーツ姿の人も多い。なんでこんなに人があふれているのだろう。
どこに向かっているのかわからない、でもそれを口に出してはいけないような気がして、ふたりとも黙りこくってただまっすぐ歩いた。信号待ちで止まると、お互いの意向を探りさぐり方向を変えることもあった。道を何回も曲がったら帰るときわからなくなるかもしれない、とひそかに思ったりもしたけれど、いまはあまり考えないことにした。よけいなことを言って、現実感に襲われるのがいやだった。
このままじゃ、だめだ。なんのためにこんな遠くまで来たのか、わかりやすい意味がほしい。翅は思いきって提案した。
「ねえ。プリクラ撮ろうよ」
ヤヨちゃんが目をまるく見ひらく。そんなつまらないこと、と笑い飛ばされるかと思ったけれど、大きくうなずいてくれた。
「いいね。わたしも翅ちゃんと撮ってみたい」
目的がはっきり決まると簡単だった。人の多い方向へ歩きだす。ごちゃごちゃと店が建ち並ぶなか、ヤヨちゃんは「ここ、ゲーセンだよ」と翅の手を引っぱった。優等生のイメージのあるヤヨちゃんがゲーセン、という言葉を使うので、なんだかびっくりした。
狭い店内は耳の穴をすべて埋め尽くそうとするような大音量でJ―POPが流れ、その隙間を縫うようにきゃらきゃらと女の子の甲高い笑い声があちこちで弾けている。うんと高いピンヒールや原色のファッション、日に焼けたむき出しの手足がそこらじゅうにあふれていて、人並みにもみくちゃにされながら目がちかちかした。ヤヨちゃんは気にならないのか、それとも翅よりも人混みに慣れているのか、「すごい、最新機種ばっかり! どれにしよう!」と目をきらきらかがやかせて興奮している。吹奏楽部の子たちと来慣れているのだろうか。
「これにしよ」
きょろきょろと見回していると、ヤヨちゃんに手を引っ張られた。言われるがまま二百円ずつお金を入れる。
〈猫のポーズ! かわいくなりきってニャーン〉〈友達と仲良しアピール! 顔をカメラに近づけてね〉
画面の中でモデルのような女の子がしゃべって指示をする。うまく真似できず、「翅ちゃん顔! 引きつってる!」とヤヨちゃんに笑われた。
撮り終わり、落書きコーナーに移る。「わたしプリクラ撮るの初めてだよ」と言うと、「このペンでスタンプとか文字とか描けるから、やってみなよ」と教えてくれた。目を大きくしたり足を長くみせたり画像を加工するたびにきゃあきゃあ小鳥のようにはしゃいでいると、ヤヨちゃんが得意そうに「いまのプリクラってなんでもできるんだよ」と言った。
出てきたシールはミシン目で切り取れた。〈やよい&つばさ 東京参上!〉とヤヨちゃんがめずらしく丸文字を使っているのが新鮮だった。
「ねえ、マルキュー行ってみない? 一回行ってみたかったんだ―」
まるきゅう、がなんなのかわからなかったけれど大きくうなずいた。プリクラを撮ったからか、ヤヨちゃんがいきいきしているのがうれしかった。
ヤヨちゃんに連れられた建物にはゲームセンターにいた女の子たちより少し年上の子たちが多かった。どのお店にもモデルのようにお化粧をばっちりした店員のお姉さんがいる。
「ねえ、あの店員さんの格好すごくない?」「この洋服可愛い! 翅ちゃんに似合いそう!」などとぺちゃくちゃ騒ぎながらあちこちのお店をひやかした。店員さんに話しかけられたときはどきどきしたが、ヤヨちゃんがすまし顔で対応した。うちらお金ないんですよー、田舎から来た中学生なんで! けらけら笑いながらお店をあとにしたら、なにか大きなことを成し遂げたみたいに気持ちよかった。うちら東京のお店でちゃんと断れてる! 初めてなのにすごくない? と笑い、はしゃぎ、ハイタッチまでした。地元のショッピングセンターだったらとてもそんなことできない。けれど、ここには自分たちを知っている人がひとりもいないのだ。みんな自分のことに夢中で、翅たち中学生がふたりさわいでいたところで注目している人なんて誰もいない。そう思うだけで、大きな声を上げて走り回りたいくらい楽しかった。人混みさえなければ端から端まで大声を上げながらダッシュしたいくらいだ。
「ねえ、これおそろいで買わない?」
どのお店でもひやかすだけで、ほとんど商品を手に取らなかったヤヨちゃんが雑貨屋さんでキーホルダーを取った。ミニサイズのネコのぬいぐるみがぶら下がっている。七百円。いつもならひるんでしまうくらい、自分たちには高価な買いものだった。けれど、おそろいで、と言われたのがうれしくて買ってしまった。ヤヨちゃんはピンクのリボンがついているのを、翅は黄色のリボンがついているのをそれぞれすぐにリュックサックにぶら下げた。それだけで、自分は最強の中学生になれたような気がして、むくむくと元気が湧いた。
「ねえ、歩くの疲れたしカラオケ行って休まない?」
ヤヨちゃんに言われ、「そうだね」とうなずいた。コンビニでお昼を買ってから隣の建物の地下にあるカラオケに向かう。昼間なのにずいぶんと薄暗く、自分たちが踏み入れてはいけない領域のようにも見えた。中学生だけで入れるんだろうか、と内心不安だったけれど、ヤヨちゃんがてきぱきと受付を済ませ、あっさりと部屋に通された。すいていたのだろうか、ふたりだけで使うには広すぎる部屋だった。
「すごーい、ミラーボールあるんだ」
ヤヨちゃんがリモコンを操作すると、七色にかがやきながらくるくると回り出す。ヤヨちゃんの顔やパンの包装やコンビニの袋の上に龍のうろこのようなひかりが色を変えながら通り過ぎていく。まるで宇宙みたいな部屋だ。
靴を脱ぎ捨て、ソファーに裸足で登る。ヤヨちゃんがめちゃくちゃに冷房の温度を下げたせいで、汗がすうすうと冷えていく。どっかりとあぐらをかき、コンビニで買ったお菓子のようなパンを開け、コーラで流し込むと、さけびたいくらいおいしかった。母が添加物を気にしていつも買ってくれないので、よけいおいしく感じる。ヤヨちゃんもサンドイッチに勢いよくかぶりついていて、くちびるについたマヨネーズを手で乱暴に拭い取る野性的なしぐさは、なんだかジャンクフードを食べ慣れた都会育ちの女の子みたいだった。ねえ、とヤヨちゃんがにやりと笑う。
「せっかくだし歌おうよ。三時間パック取っちゃった」
「え、でもわたし、ほとんど歌なんて知らないからいいよ」
「いいじゃーん。ほら、翅ちゃんもマイク持って」
小学生のころ流行っていたアイドルソングをおずおずとデュエットする。吹奏楽部だけあってヤヨちゃんは歌が上手だった。音楽の時間に習った合唱曲まであったので、笑いながら歌った。「うまいじゃん、翅ちゃん」とヤヨちゃんが拍手の真似をするのでなんだか恥ずかしかった。思いきってのびのび歌うと、気持ちがよかった。
窓も時計もないので、時間の感覚がない。それどころか、この空間だけ、ふだんの暮らしとは切り離されて、ここにいれば親も学校の先生も自分たちのことを探しに来ないような気さえした。ヤヨちゃんが時間のことを言い出す前に次々曲を入れ、リクエストした。
けれど、ヤヨちゃんは冷静だった。「あと四分で三時間経つね。出よう」とあっさりと言い、放り散らかしたごみをてきぱきと片付け始めた。もう少しここにいようよ、と引き留めたかったけれど、それも怖いような気がして、黙って靴下を履き、荷物をまとめた。汗が引いたスニーカーは、ひんやりとしていた。つまさきから現実に戻っていく感覚がある。のろのろと立ち上がり、ヤヨちゃんのあとにつづいた。
地上に出るのがひどくひさしぶりに思えた。もう陽が傾きかけている。さっきよりも通り過ぎる人の年齢層が上がったようだ。「ごみ。捨ててくるよ」とヤヨちゃんが翅の手から袋を奪い、自販機横のごみ箱へ向かっていく。ほんの十メートルくらいしか離れていないのに、ばらばらになるのが心細くて仕方なかった。戻ってくるヤヨちゃんも、心なしか顔がこわばっている。
さっきまでの底抜けに楽しい気持ちを取り戻したい。けれど、うまく言葉が出てこない。「とりあえずどっか行く?」とヤヨちゃんが首をかしげて向こう側を見る。「うん」とうなずいたものの、自分たちに当てがもうないことはわかっていた。それでも少しでもこの時間を引き延ばしたくて、人通りの多い方へ歩きだす。
「すみませーん」
少し変わった発音で話しかけられ、ぎょっとして立ち止まる。やけににこにこ笑う黒人の男性が行く手をふさぐように立っていた。「この場所、わかりますかー」
親しげにスマートフォンの画面を見せてくるが、東京の地図の画面だ。こたえられるはずがない。「うちら、知らないんで」と後ずさったが、「そんなこと言わないで」と言い、なんとヤヨちゃんの手首をぎゅっと握ったではないか。翅の喉から壊れた笛のようなでたらめな悲鳴が洩れた。
「行こう!」
ヤヨちゃんの手を握って走り出した。ちょっとー、と半笑いの声が追いかけてきて、こんがらがるようにして駅前の広場まで走る。ベンチまでたどりつき、ヤヨちゃんが「もうだいじょうぶ」とちいさな声で言ったので足を止めた。ヤヨちゃんはうずくまるようにしてベンチに坐り込んでしまう。
「怖かった。どっか、連れてかれるかと思った」
そばで見ていただけの自分さえあれほど怖ろしかったのだ、ヤヨちゃんはどんなに怖かっただろう。自分の肩を抱くようにしてふるえている。
そっと隣にすわる。鳩がふっくりとした身体を揺らして足下に集まってきたのを見て少し微笑ましい気持ちになったけれど、餌をくれないとわかったのかすぐに飛び去ってしまった。
「どっか、お店に入って休む? マックとか」
おそるおそる声をかける。「うーん、食べものはいいや」と気力のない声が返ってきて、無神経なことを言ってしまったと後悔しかけたが、ヤヨちゃんはのろのろと顔を上げた。
「でもどこかで休みたい。行こ」
ふらりと立ち上がる。さっきの人通りとは逆方向に歩きだす。そっちにお店は少ないのはわかっていたけれど、なにも言わずについていった。
ビルの隙間から乾いた風が吹きつけて、眼球が染みるみたいにずきずきと痛む。もしかしたらこまかいちりでも入ってしまったのかもしれない。思い込みだ、とはわかっていても、空気がどこか黄色っぽく濁って見えるような気がしてならない。
隣をちらりと盗み見ると、ヤヨちゃんはくちびるを真一文字に引いて、険しい顔で少し下を向いていた。ぎょっとするほど顔に翳りがあって思わず手を離しそうになる。少しでも気を紛らわせてほしくて、翅はねえ、ほら、とことさら声を弾ませてどうでもいいことをしゃべりつづけた。「あの男の人、すっごいおっきいね。バスケの選手みたい」「見て、ここのモスバーガー、二階建てだよ。初めて見た」「ってかいちいち横断歩道広いよね」――最初こそヤヨちゃんは翅の気遣いを感じたのか、笑みを取り繕って相槌を打っていたけれど、だんだんとそれも間遠になった。翅も、話しかけるたねを見つけられず、なによりもはしゃいでいるふりをしてしゃべりつづけることに疲れてしまった。もくもくと歩くのでいっぱいいっぱいだった。
信号が赤になった。立ち止まって待つのが嫌で、こっち行こう、と青信号の方を目顔で示した。歩きだす。
無心で渡っていると、ふいに、前につんのめりそうになった。ヤヨちゃんがこちらと手をつないだ腕を前に突き出したまま、ぼうとしたうつろな表情で足を止めていた。翅が振り返っているのに目を合わせようとしない。何してるの、危ないよ――そうせかそうとしたら、ヤヨちゃんが悲しげに言った。
「無理だよ」
「え?」
「無理だよ。うちらもう、どこにも行けないよ。行けないんだよ」
ぐしゃりと顔が歪み、それが泣き顔に変わる直前に、ヤヨちゃんはつないでいないほうの手で顔を覆った。青信号が点滅している横断歩道の真ん中で、ふたりは立ち尽くした。
「早く渡れ! 轢かれるぞ!」と一番前にいたトラックの運転手ががなりたて、よろけるようにしてとっくに赤に変わった信号を渡った。すぐさま、背後で車が唸り声を上げて走りだす。
「ヤヨちゃん、」
肩に手を置こうとしたけれど、たわむように跳ねるのを見て寸前で手が止まる。ヤヨちゃんの身体が、痙攣するように大きくわなないた。
「もういい。帰ろうよ。わかったから。わたし帰りたい。帰りたい」
ヤヨちゃんはだだっこのように泣きじゃくりながらそう言った。怒るように、ここに来たことをくやんでいるみたいにも見えた。笛の音のような嗚咽が漏れるたび、身体がばねのようにくの字に曲がって大きくふるえた。
自分も泣いたほうがいいんだろうか、とも思ったけれど、翅はただただ手をつないだまま、肩をふるわせるヤヨちゃんを見つめつづけた。力が抜けているのか、もう離したがっているのか、つないでいる手は手のひらの面ではなく点でわずかに触れているようなつなぎ方だった。乾いた眼球がひりひりして、その痛みだけが、身体の感覚のなかでただひとつ、鮮烈だった。
立ち尽くしている女子中学生ふたりを見下ろして嗤うみたいに、陽が白くにぶく、はりはりとかがやきつづけている。また同じ改札口を通って来た道を戻るなんて、信じられないことのように思えた。高い建物がまるで格子のように自分たちを取り囲んでいることに気づいて、翅は口を歪めて自分をわらいたくなった
いじめられたことがある子どもなら、誰でもそうなのかもしれない。翅はときどき、想像することがある。
六年間、壮絶ないじめを受けてきたいじめられっこのプロとして、いじめられている子たちになにかアドバイスしてくれませんか? そんなふうにインタビューされたら、きっとこうこたえる。
あなたが生き延びるには、三つの選択肢しかありません。それは、「戦う」「逃げる」「変える」です。
ひとつめの「戦う」――これはまず、無理に等しいです。そもそも戦うことができるような子であれば最初からいじめられるような状況に追い込まれていないからです。ときどき、「勇気をもって立ち向かわないと。ちゃんと『いやだ』って言い返さないと伝わらないよ」「いちどわっとやり返したら相手だって怖気づいて、もうちょっかい出してくることもないさ」などと信じられないようなことを平気で口にする人もいるかもしれませんが、そんなこと、できっこないんです。「じゃああんたが代わりに言ってよ」と言っても、誰もが口ごもるはずです。それに、勇気を振り絞って立ち向かったところで、いじめがなくなるかは、わかりません。悪化する可能性だって充分あります。
わたしは、「耐える」ことも「戦う」ことのひとつだと思っています。きっとおとなはそれは「逃げる」ことなんじゃないか、と言うかもしれませんが、いじめられても教室にいつづける、という時点で戦っていることと同じような気がします。じつは、この「耐える」を選んでいる子がたぶんいちばん多いので、みんな「戦う」ことを選んでいるのです。ただし、この策は自分の持久力にかかっています。マラソンのようにゴールがあるわけではなく、どれくらい耐え抜いたらいじめが終わる、となどやくそくされているわけではありません。
ふたつめの「逃げる」――たとえば「学校を休む」ことがこれにあてはまります。ひとつめの「戦う」よりはまだ現実味があるかもしれませんが、これができない子もたくさんいます。不登校や保健室登校すればいじめから逃げられる、だから、教室なんて無理して行かなくていい、学校なんて休んじゃいなさい。それでもだめなら転校したっていい――。まるでさも仏のように慈愛深い笑みで言うおとなもたくさんいます。けれど、それはとても勇気がいることだということを、彼らはわかっていません。だからこそ、勇気を持って休む必要があるんだよ、と無理やり手を引っぱろうとする人も、ときどきいます。それは間違ってはいないと思います、けっして。でも、わたしはこれが最善の策だとは思いません。
どうしてかというと、わたしはこの方法の最大の手を使ったのに、また同じことの繰り返しになってしまったからです。
三つめの「変える」――これはとてもあいまいです。ぶちこわす、と言い換えてもいいかもしれません。つまり、いじめられているいまの状況をこわす、変える、なくす、ということです。原因である根本をどうにかひっくり返すのがいちばん有効だから。
だからこそ、いちばん大変なことです。
自分を変える。教室の雰囲気や空気を変える。人間関係を変える。どちらにしよ、大掛かりで、長期的なことです。具体的にはどうすればいいのか、いまのところ、わたしにもわかりません。
わたしは「耐える」を最初選びました。小学生のわたしには、それしか選択肢はありませんでした。それでもだめだ、このままでは自分がこの教室のなかでころされてしまう、と思いました。先生と両親が話し合った結果、わたしがしんでしまわないように二番目の方法を試すことになりました。「逃げる」のなかでも「変える」にいちばん近い、誰でも使えるわけではない最後の切り札――「いまの学校から転校する」を使いました。正確には、あいつらがいない世界で人生を生きなおすことにしました。これを選ぶことができるいじめられっこはほんとうに少ないと思うので、わたしはまだ運がいい方なのだろう、そう思いました。
これで一件落着、と誰もが思いました。
でも、そうはいきませんでした。逃げたさきでも、いじめられこそはしなかったものの、うまくみんなとなじむことができませんでした。問題の原因の根っこは、あの小学校ではなく、わたし自身にあったのかもしれません。
わたしだけが透明な膜に包まれて、誰ともつながらず、だだっ広い海のような教室でひとり瓶のなかに閉じ込められて漂流しているような気がしていました。クラスに居場所がなくなり、わたしは教室からときどき逃げて、息継ぎするみたいに図書室で暮らしています。
そして、その図書室も、はたしてほんとうに自分の居場所なのか、よくわからなくなっています。
思いつくかぎりのことを試し尽くした翅は、次になにを選べばいいんだろうか。
美紀さんが選んだ自殺は、「逃げる」のほんとうのほんとうの、選んではいけないはずの、金色に透ける薄いベールを挟んだ向こう側の究極の選択肢だった。
おとなになればいつかぜんぶ、大したことじゃなくなる、泣いていたことも悩んでいたこともすべて遠い昔の笑い話になる。人生ぜんたいで考えたら、あなたの六年間はほんとうにちいさなできごとでしかない、そんなふうに思える日が必ず来る。時間が経てばあなたが想像もつかないくらい、人生はゆたかですばらしいものだってきっと思える。カウンセリングの先生は、引っ越しが決まったことを報告した日、そう言って励ました。翅はうなずきもせず、相槌も打たず、ただ黙っていた。
内心、できっこないにきまってるのになんてことを言うんだ、と怒り狂う一方、実際、そうなんだろう、とあきらめにも似た思いをはせることができた。五歳のころ、すべり台から落ちて顔を思いっきり砂利に叩きつけられたことも、自分はしぬんじゃないかと思うくらい泣きさけんだことも、痛みはとうに薄れ、黄ばんだ痣として小さく薄く額のすみに残っているだけだ。きっと、遠い未来、小学校六年間受けたことも膝小僧の小さな痣くらいにしか思いださなくなる日も、あるんだろう、と無理やり想像した。
でも、そんなこといまの翅にとってなんの救いにもならない。たったいま、翅が心が打ちくだけるほどほしいのは、安寧した未来のやすらぎではなく、「ふたり組をつくってください」「好きな人同士で班をつくりましょう」と言われてもいちいち動悸が激しくならず、自分と同じ重さで翅のことを好きでいてくれる友だちがいる教室であり、明日の理科の小テストいやだなあ、次の体育なにやると思う? なんてどうでもいいこと仲のいい子とぐちりあったり、隣の席が誰になっても「ごめん、シャー芯一本くれる?」とすんなり頼みごとをできるような、そんな居場所だ。
それだけだ。それだけのことなのに。
14
夏休み最後の日、そうとう思いきってヤヨちゃんを誘って図書室に行くことにした。結局、図書室くらいしか自分には行くところなんてないんだ、とあの日街の真ん中に立ち尽くして天啓のようにわかってしまったのかもしれない。
断られるかな、と半分あきらめていたけれど、ヤヨちゃんは思いのほか翅の誘いを喜んでくれた。
「行く行く。ありがとー、電話してくれて。うれしい」
ううん、と返しながら、だいじょうぶ? と訊いてしまいそうになる。学校に行くの平気なの? そのほかにも言いたいことはたくさんあったけれど、わたしがそんなことを言ったらヤヨちゃんは今度こそ誰にも会わなくなるんじゃないか、と気づいて、「じゃあ一時ね」とだけ言って電話を切った。あの日のことは、ふれなかった。
眠る前、どんなことを話そうか、あれこれ考えた。いろんなことが浮かんでは消えた。
結局、決まらないままやくそくの時間になり、学校に向かった。この前図書室に行った日、あいつらと出くわした交差点が近づき、ひくひくと心臓がひきつれたけれど、誰もいない。あたりまえだ。どこかほっとしていながら、どうしてか、拍子抜けしている自分もいた。まさかまた再会したかった、そんなはずは絶対にありえないのに。でも、もしまた会ったら今度こそ復讐してやる、といまだにそんなことを想像せずにはいられない自分がいることに気づかされ、みじめな気持ちになった。
いるわけがない。あれはほんとうに、偶然が重なりあった奇跡の確率だったのだ。
校門で、木陰に入ってヤヨちゃんが待っていてくれた。「ごめんね、暑かった?」と声をかけると、「いま来たとこ」と微笑む。
静まり返った玄関はひんやりとしている。明日登校日なのにぜんぜんそんな感じしないよね、としゃべりかけたけれど、ヤヨちゃんは返事をせず、どこかぼんやりと遠くに目を投げかけていた。
どうしたの、と言おうとして、階上からかすかに吹奏楽部の演奏が聴こえているのに気づいて、口をつぐんだ。
よけいなことは言わない方がいい、知らん顔をして話をそらそう、と思ったけれど、沈黙で伝わった。「夏休み最後とか関係ないんだよね。うちの部はさ」とはすっぱにヤヨちゃんがつぶやいて、口を曲げて笑ってみせる。翅は笑い返せなかった。
「……どうせ今日も練習やってるんだろうなあ、とは思ってたからべつに、いいけどね。行こ」
上履きに履き替え、すたすたとヤヨちゃんが廊下を歩いていく。慌てて後を追った。夏休みの校舎はなぜだか足音がいつもよりよくよそよそしく響く。
夏休み最後の図書室は、いつもより生徒がたくさんいた。宿題を最終日になんとか片付けようとしているのか、男子のグループが口も利かずにすみのテーブルを陣取ってワークを広げていた。髪をうっとうしげに書き上げながら肘をついて読書感想文を書いている女の子もいた。
「こんにちは」
遠山先生は翅を見てもさして動揺することもなく、友だち連れであることにもとくに言及しなかった。なんとなく、さびしさとくやしさがあったけれど、「こんにちは」と返すだけでカウンターには寄らなかった。いいの? と言いたげな顔をしてこちらを盗み見するヤヨちゃんも、なにも言わずに黙ってついてきた。雑誌コーナーのある奥のソファーに荷物を降ろし、腰かける。このスペースでは雑談ができる。
「明日から学校だね……」
自分から切りだした。「そだねえ」と他人ごとのようにヤヨちゃんがひらべったい声で相槌を打つ。
「……ヤヨちゃん、どうする?」
「どうって?」
ほとんど間をおかずに訊き返され、たじろぐ。あいまいにぼかした訊き方をしたから伝わらなかったのかと思い、言いなおそうとしたけれど「どうしようもないよ」とヤヨちゃんはばっさりと斬り捨てた。「一学期と同じ、振り出しに戻るだけ。学校は、行かないかな」――いま現に学校にいるにもかかわらず、来ないかな、ではなく、行かないかな、という言い方だった。自分と学校をとうに切り離して考えているのだ、とはっとした。
「でも、今日来てくれたじゃん……」
「それは別だよ。授業ある日じゃないし、ここ図書室だし」
あきれたように笑われ、なぜだか哀しくなった。ヤヨちゃんが、薄い膜の向こうにいるように、遠くに感じられた。
「わたしはいいから、翅ちゃんこそどうするの。明日だよ、学校」
ひるがえって自分に向けられ、口ごもる。
そうだ。もう、明日から二学期は始まる。母と大喧嘩した夜から、一週間あれこれと考えていたけれどこれからの自分の身の振り方は一向に決められなかった。とりあえず始業式は出るつもりだった。明日は授業がなく、始業式と課題提出と、そのほかこまごまとした新学期に向けての学活があるだけだ。でも、その次からはどうするのか。なにも決められなかった。
誰かと話したかった。話を聞いてほしかったし、意見を言ってほしかった。でも、母にはなにも言いたくなった。だから、ヤヨちゃんに連絡して、「明日図書室行かない?」と電話をかけたのだった。
「……まだ、ちゃんとは決めてない」
「そっか。そうだよね」
ぽん、と足を投げだし、ソファーにもたれかかる。ヤヨちゃんも同じように、しなだれかかった。少し離れたところにいる生徒たちは、自分たちのことなんか見ていないみたいだった。水槽のなかのさかなを見るみたいに、ぼんやりと眺めた。
「図書室、あんま来たことなかったんだけど、いいね、ここ。お昼寝とかできちゃうじゃん」
ヤヨちゃんがゆるみきった声でつぶやく。そうだねえ、と翅もだらしない声で返した。
心地いい。このまま、ふたりでだらだらとソファーで過ごして夏休みを終えるのも悪くないかもしれない――。もしひとりで来ていたら、たくさんの生徒にひるんで、こんなにくつろぐこともなく、きっとすみで読書するのがせいぜいだったに違いない。
「……こんなふうに、ふたりだけで授業受けられるんだったら、毎日教室行くんだけどなあ」
だよね、それめっちゃいい、と賛同されるとばかり思っていたけれど「そんなのできないよ」とさっきとは打って変わってどこか張り詰めた冷静な声で言い返され、頭の一部がはっと醒めた。思わずむっとして、弛緩しきっていた頬がたちまちこわばる。
無理なことは翅だって百も承知だ。だから、もしもの話で、同意がほしくて言ってみただけなのに、なにもそんなふうに、空気をこわすような言い方で頭ごなしに否定しなくてもいいのに。
「そんなのわたしだってわかってるよ。そうだったらいいなってだけの話だよ」
言い返すと、ヤヨちゃんも不満気に口をとがらせた。身体を起こして、翅をにらみ返す。
「おとぎ話みたいなこと言われたら腹が立つの。それが無理だからうちらふたりとも教室行けてないんじゃん」
なんでいまそんなこと言うの、とくちびるの端がわずかにひきつれた。夏休み最後にせっかく唯一の友だちに会えたのに、なんでこんなくだらないことで言い争ってるんだろう。さっきまで漂っていた、ぬくい、穏やかでやすらいだ空気は消えうせかけている。
しばらくにらみあった。ふっと空気がわずかに揺れる気配がして、風が吹いて向きがわずかに変わるみたいにしてヤヨちゃんがさきに視線をそらした。なにか場をフォローするようなことを言ってくれるのかと一瞬期待したけれど、翅から顔をそむけるようにソファーにもたれかかってしまう。そして、もうなにも言わない、と決めたように目を閉じてしまった。
仲なおりするならいまだった。いまヤヨちゃんが笑って謝ってくれれば、このつめたく濁ったいやな空気も解けた。それなのに、その機会を自ら放棄している。そんなふうに見えて、胸の底が氷を押し当てられているみたいにじんじんと温度を失くしていく。あせるように疾くなった心臓の音がわずらわしい。
母だけではなく、友だちとまでいさかいになるなんて、ほんとうに最悪だ。心の底から、くだらない、と思った。なんでこんなところでまでしくじらなければならないんだろう、と思うと目じりが熱くなった。図書室にヤヨちゃんを誘ったりしなければよかった。そもそも、遠山先生と気まずいのに、図書室に行こうとなんかしなければよかった。
ばかばかしい、と心のなかで吐き捨て、ふてくされてそっぽを向きかけたけれど「わたしはさ」とちいさな声がした。すぐに振り返るのはくやしくて、背を向けたまま固まり、次の言葉を待った。
「もう、あきらめちゃってるから。翅ちゃんとは違うよ」
「違うって、なにそれ」
振り返ってにらむ。また険悪な雰囲気になるかもしれない、と思ったけれど、つっかかる声色になった。翅ちゃんとは違う、という言い方に、突き放したような、居丈高さを感じたからだった。
「わたしはもう、どっちにしろだめだったんだと思う。なんだろ、なんとかしなくちゃって気持ちがもうすっごい薄くなってて、ほとんどなくなってる」
うっすらと目をひらく。表情から一切気力を感じられず、戸惑った。
「もう、完全に学校に戻れなくなってもいいかなって、それくらいのレベル」
吹奏楽部の演奏が開け放した戸から聴こえている。音楽室は図書室の一階上なので、さっきよりも音がよく通る。
「翅ちゃんが思ってるより、わたし、だめなの。ぜんぜん違うよ」
「……高校行けなくていいの?」
口にしてから、的外れなことを言っているな、と思った。「そんなことも考えらんない、ってこと」とどうでもよさそうに、どこか食い違ったこたえが返ってくる。それでも、なんとなく、ヤヨちゃんの言いたいことは伝わった。
「よくないよね。それは、自分でもわかってるよ。でも、一回しくじったらもう、ぜんぶやる気なくなっちゃった。人生とか、進路とか、人間関係とか、ぜんぶ」
ヤヨちゃんは、顔も手足もほとんど日焼けしておらず、抜けるように白いままだ。夏休み一か月間、きっとどこにも出かけていない。あの日、電車に乗って東京まで出かけたこと以外。
「だから、翅ちゃんってすごいなってあのとき話聞いて思ったんだよ。わたしならそんなに、立てなおそうってがんばれない」
「立てなおす、って」
ヤヨちゃんはきっと、もう以前の自分に、暮らしに、戻れないと思っている。対して翅は、なんとか自分の人生を自分の思うように変えたいとがむしゃらだった。自分が自分である以上、もうどうしようもないんだ、と無気力だった時期もあったけれど、いまは、できるだけなんとかしたい、と思っている。だからこそ、ヤヨちゃんの意見を聞きたくて、勇気を振り絞って電話をかけた。
「わたし、どうなるのかな。親とかの前では、もうどうでもいいじゃん、ってふりしてるけど、ほんとうはすっごい不安だよ。夜もぜんぜん眠れなくなった。びっくりするくらい目の前が真っ暗で、ぜんぜんさきが見えない。って、東京まで行ったとき、やっとわかったんだよ」
ヤヨちゃんはぐっと喉を鳴らしてうつむいた。なにも言えなかった。それは翅だって同じだった。
しばらく、おたがいになにも言わなかった。視線を持ち上げると、こちらを見ていた遠山先生と目があった。すぐにそらしてしまおうかとも思ったけれど、まなざしの強さに気圧された。つう、と視線をすべらせて隣に目をやると、ヤヨちゃんは目を伏せて自分の足元あたりをぼうと見下ろしている。
ふいに翅の視線に気づき、こちらを見て力なく笑った。
「ごめん。わたし、さき帰るね」
「えっ、」
うそでしょ、なんで? という間もなく、立ち上がってさっさとリュックを背負ってしまう。
「じゃあ。ごめん、また」
あまりにあっさりと背を向けようとするので、慌ててヤヨちゃんの手首を掴んだ。
「なんで? なんで帰っちゃうの? 具合悪いなら送っていこうか?」と早口でまくしたてると「ごめん……」とうつむいてしまう。
「翅ちゃんが悪いとかじゃ、ないよ。でも、なんか、学校にいるの、きつくて」
思わず口をつぐんだ。押し黙ってしまった翅を見て、気遣うように微笑んで「だいじょうぶ。ひとりで帰れるから。家で休みたいだけ」と言った。無理に引き止められず、翅は手を離し、だらんと下げた。じゃあわたしも帰る、とは言わなかった。ヤヨちゃんはひとりでいたいように見えたから。
「ごめん。じゃあね」
「うん……」
またね、と言おうとして、やめた。明日、ヤヨちゃんは学校に来ない。そして、たぶんこれからも。
先生は相変わらずこちらを見ていた。ヤヨちゃんがカウンター前を通り過ぎるとき、先生がなにか話しかけた。ヤヨちゃんは億劫そうに、でもふかぶかとおじぎをして、図書室を出て行ってしまった。
ひとりでソファーにいてもしかたがない。しばらくしてから、リュックを背負ってカウンターに向かった。先生は最初から翅がここにくることをわかってたみたいに、大してこっちを見ないまま「なか、入ってもいいよ」と言った。ほかの生徒たちはほとんど自分たちを見ていないのを確かめてから、入って隣に腰かけた。
「さっきなんて言ってたんですか? ヤヨちゃんに」
「やよちゃん? ああ、そういう名前なの。『また図書室来てね』って、それだけ」
先生は普段図書室にあまり来ないヤヨちゃんのことを知らない。当然、七月から不登校になっていることも。
「……なんで、ですか」
先生は首を少し傾げ、「なんであの子にわざわざ声かけたかってことかな」と翅の言いたいことを汲み取ってくれた。「なんとなく、平野さんと同じ匂いがしたから。夏、ここでたまに一緒に勉強したりしてたよね」
「……はい」
でももうできないと思います、とつづけた。「どうして」と先生が静かに言う。
「ヤヨちゃん、いま、不登校なんです。明日からも来ないと思います」
あまり説明になっていない。先生も、要領を得ていないような表情で耳を傾けていたけれど、うん、うん、とうなずいて、それ以上問いただそうとはしなかった。
「先生……美紀さんが自殺したあと、なげやりになりませんでしたか?」
先生は目をしばたかせた。いきなり話が飛んだことに戸惑っているのか、もっとほかのことに動揺しているのかはわからない。
かまわず話をつづけた。
「べつに、ほかのことでもいいんですけど、もうどうでもいいや、人生なんてどうなってもいいや、って思ったり、したことありませんでしたか?」
先生は間をおいたのち、口をひらいた。
「あるよ。美紀のこともそうだし、ほかにもいままでたくさん、あったよ。誰でもあることだと思うよ、それは」
「……そういうとき、どうしてきたんですか?」
手を組んで、そうね、とわずかにうつむく。
「美紀が死んだときはね、なんというか、自分の一部も一緒に死んじゃったような気がしてた。学校生活のなかでもあんまり笑えなくなったり、冗談とか、人の陰口とかも言えなくなったり、わたしだけじゃなくて、学年ぜんたいがそういう雰囲気だった。少なくともあのクラスは、美紀がいなくなったあとはみんな、ぎすぎすして、あんまり騒いだり、笑ったりした記憶がないの」
でも、と翅を見た。
「私が司書を目指したのは、美紀のことがあったから、というのも理由のひとつにある」
「……なんでですか?」
半ば抗議するような言い方になった。いじめによる友だちの自殺をきっかけに、教師や養護の先生、カウンセラーを目指した、というのならまだわかる。学校からいじめをなくそう、とか、いじめられている子を救いたい、という意図を読み取れるから。
でも、司書は、子どもを守るような職業ではない。たまたま翅がここに来ただけで、図書室は本来、子どもを守るためにある場所ではない。
「最初は、先生になろうかな、と思ってたんだけど、それらしすぎていかにも偽善的というか、正義感、って感じでかえって嘘っぽいような気がしてね。いっそ学校から離れた職にしようかな、っていろいろ悩んだんだけど、図書室の先生になれたらいいな、って思ったの」
「……その理屈、よくわからないです」
先生は少し笑って「図書室ってどういう子が来るところだと思う?」と逆にたずねた。
話をそらされているような気もしたけれど、一応思いをめぐらす。図書室に来る子――当然、本を読むのが好きな子。あとは、自分のように静かで、おとなしい子が多い気がする。そうこたえると、先生は「もうひとつあると思うの、私は」と言った。
友だちの少ない子――。
思わず赤面した。そして、あっさりと図星を指されたことに、やつあたりとはわかっていても少し腹が立った。
先生はたんたんと、「図書室はひとりで来る子が多いの」と言った。「逆に言えば、図書室ってひとりでも来やすい場所なの。学校で、唯一」
そうかもしれない、と今度は素直に思った。昼休みの過ごし方がわからなかったとき、図書室があってよかった、と心の底から思った。小学生のころは、本さえあればひとりぼっちも少しはやり過ごせた。
どれだけ友だちがいようが、読書はひとりきりの行為だ。本さえ広げれば、自己完結した世界を創り上げられる。
「そういう子たちにとって、教室以外の、居心地のいい場所を守ってあげられたらいいなって思ったの」
「……じゃあ、美紀さんのこと、結局関係なくなっちゃったんですね」
意地悪ではなく、単純にそう思ったからつぶやいた。でも、先生は「そうでもないよ」と首を振った。
「美紀も、よく本を読んでる子だったから。私たちの中学の図書室って、あんまり雰囲気よくなくて、あんまり利用してる子がいなかったんだけど、私が学校の司書になったら、誰かの落ち着く場所をつくってあげたいな、って思ったの。もし図書室があたたかい場所だったら、美紀は思いとどまったかもしれない、っておとなになってから思ったことがあって」
「……じゃあ、美紀さんみたいな子のために、逃げ場所をつくりたかったってことですか」
確かめるようにつぶやくと、「休憩室、のほうが近いかな」と先生が言い換えた。その言い方のほうがやさしくていいな、と思った。
「話がそれたけど、もうだめだ、どうなってもいいや、って思ったこともある、けど、でも投げだすなんてできないよ。少なくとも、私は」――断言するような強い口調だった。
「……どういう意味ですか?」
先生はさらりと言った。
「私は美紀に生きることを投げださせたから」
翅は息をのみ、押し黙った。
「だって、そうでしょう? そんな人間に、ぜんぶ放り投げるって選択肢ははなからないと思う」
たんたんと念を押すようにつづける。翅にではなく、自分に言い聞かせているみたいだった。
「だから、もうだめだなあ、って思っても、美紀のことを思いだすと、背すじがすっと伸びるの。絶対、投げちゃだめだ、って無理やりでも自分を奮い立たせないとだめなの、私たちは」
「……贖罪、ですか」
「ちゃんと覚えてたのね」と先生は微笑んだ。「そうね、そういうつぐない方しか、私たちには結局残されていないから」
ふう、と息をついた。
明日からも図書室登校をつづける、それでもいいのかもしれない、と思った。自分のような生徒を守ること、それは遠山先生の本望でもあるはずだ。それに乗じて、こたつにすっぽりともぐりこむみたいにこのあたたかな場所でぬくぬくと守られつづけるのもいいかもしれない。それは遠山先生を救っていることにもなるのだから。
でも――ほんとうにそれでいいんだろうか?
「さっき、ヤヨちゃんが言ってたんです。一回しくじったからもうどうでもよくなった、って。だから、もう学校に行く気が湧いてこない、って。でも、わたしは、そうじゃないって思うんです」
「うん」
「確かに絶望的だって思うけど、でもなんとかしなきゃいけない気がするんです。ずっとこのまんまじゃ、いやなんです。だって、あきらめたところでわたしってわたしだし」
先生は黙って翅を見つめて、わずかに口元に笑みを浮かべている。
「わたし、変えたいです。わたしのために、変えてあげたい」
口にして、ああそうか、と思う。わたしはずっと、ほかの誰でもないわたしのために人生をよくしたい、と思っていたんだ。
母が泣きながら嘆くからでもなく、あいつらに復讐したいからでもなく、クラスメイトにばかにされたくないからでもない。自分のために、自分を、自分の世界を、自分の人生をよりよくしたかった。
そうだね、と先生がうなずいた。翅にしか聞こえないような、ちいさな声だったけれど、心を直接温かな手ですっぽりと包まれているような途方もない安堵にふれて、泣きだしそうになった。
「それがわかった時点で、平野さんは自分のことを受け入れられてるよ」
「……そうなのかな」
「そうだよ。自分の人生を自分で引き受けた、ってことだよ」
すごいことなんだよ、と先生は翅の目をしっかりと見つめて、押し込めるように言った。
「図書室はね、生徒を守るためだけの場所じゃないの」
先生は目じりにやさしく皺を寄せてにっこりと微笑んだ。
「悩んで立ち止まっている生徒をはばたかせるために、背中を押してあげる場所でもあるのよ。ここは港でしかなくて、時が来たら船を海に押しだしてあげないといけない」
「……港、ですか」
胸がなぜだかどきどきしてきた。
「そう。平野さんの舟は、いまが漕ぎだすときなのかもしれないね」
先生は、きっといま、翅の背中を押している。
「じゃあ、もう図書室に来ちゃだめってことですか」
すがるように、責めるように言っても、先生は微笑んでいるだけだ。不安と心細さに思わず膝の上で手をぎゅっと握る。
「だいじょうぶ。海があるところには必ず、港はある。平野さんの港はここだけじゃないよ。あなたの味方をしてくれたり、応援してくれたり、休ませてくれる人や場所は絶対、いる。このさきずっと、あなたがどこへ行っても」
翅は目を固くつむった。海が見えた。いろいろな記憶が水面に浮かんではきらめきながらゆっくりと沈む。
「だいじょうぶ。何回休んでも、平野さんはちゃんと走りつづけられる。隣で走ってくれる人も、絶対あらわれる」
温かく湿ったものが手にふれた。先生が、両手で翅の握りこぶしを、クリームを塗りこむみたいにやさしく撫でていた。
「いつでも、図書室は開いてるから。また来なさい。だいじょうぶ。あなたは自分の呪いを自分で解けたんだよ。だからだいじょうぶ」
そうかな、と拗ねるようにつぶやく。そうだよ、と先生が大きくうなずく。いつのまにか空が暮れかけ、ひぐらしが鳴いているのが聞こえた。もう、夏が終わろうとしているのだと、思った。
「港は、港でしかない。きびしいことを言うようだけど、ずっとそこに留まっているわけにはいかないんだよ。待っていても誰もあなたの手を引いて連れて行ってはくれないの。あなたの目の前にはもっと広い海があるんだから、迷ってぐずぐずしてないで、自分で漕いで、行きたいところまで行かなくちゃ」
ふいに涙がぽろぽろと零れた。もう、来ません、と声に出して言ったら、さらに涙があふれた。
静かに嗚咽を漏らして身体をふるわせる翅の背中を、ほかの生徒から守るように、先生がいつまでもいつまでもやさしく撫でつづけてくれた。
夕食はいつものように母とふたりきりだった。
母はもう、あの日から無理におしゃべりをしようとしない。どこか無気力に、たんたんと機械的に箸を動かしてニュースに目を向けていた。
「……お母さん」
思いきって話しかけると、ゆっくりと目があった。
「うん?」
「ずっと……ごめんなさい」
言葉を端折ってしか、謝れなかった。それを補うつもりで箸を置いてちゃんと頭を下げた。「ああ……」と母がどこかやわらかい声でつぶやいた。
「いいのよ。お母さんも、悪かったわ。やつあたりみたいにひどいことたくさん言って、ごめん」そう言って少しうつむいた。「引っ越しのことだって……翅がほんとうにつらいんだったら、お金のこととかお母さんたちのこととか気にしないでもいいんだからね。お母さんと翅だけ違う街で暮らして、お父さんには単身赴任してもらうことだって、できないわけじゃないんだから」
「ううん、それはだいじょうぶ」
きっぱりと首を振ると、かえって母は心配そうに顔を少し曇らせた。
「ほんと? 明日、どうする?」
「行く。しばらくは、ここでがんばってみる」
まだ心配顔ではあったけれど、母は頬をゆるめ、「そう」とうなずいた。
しばらく、黙って食べ進めた。ふいに母が「そういえば」と言った。「明日から九月ってことは、もうすぐ誕生日ね」
忘れていた。九月十日。翅は秋に十四歳になる。
「翅が生まれたのって、早朝だったのよ。雲ひとつない、きれいな秋晴れだった」
「前聞いた。とんぼが飛んでたから、『翅』って名前にしたんでしょ?」
小学四年生のころだったか、名前の由来を調べる宿題で母に「どうしてこの名前にしたの?」とたずねたことがある。自分の名である、あまり見慣れない「翅」という漢字が蝶やとんぼなど、昆虫の羽という意味だということを知ったときはほんとうにショックだった。可愛くない、と思った。国語の時間に発表したときも、案の定クラスメイトに「虫の羽だって、きもーい」「うその読み方じゃん。へんな名前」とからかわれ、苦い思いをした。
「そう。あの朝飛んでいたとんぼの翅が陽に透けて虹色にきらめいて、あんまりきれいでね。でも、それだけじゃないの」
母はそのときのことを思いだしているのか、ほんのり頬がばら色に上気している。ひいき目なしで、お母さんってほんとうは美人なんだな、と思った。
「つばさ、って言葉じたい、いろいろな意味があるの。たすける、とかつり合いが取れて美しい、とか、舟、とか」
「舟?」
図書室で遠山先生と話したことを思いだしてどきりとした。「そう、おもしろいでしょう」と母が少し得意げに言う。
「翅の名前にはいつか広い世界へはばたいていけますように、って意味が込められてるの。つばさってね、『思うままに』って意味もあるの」
「思うままに……」
母の言葉をそのままなぞる。
「そう。懐かしいなあ。名前の理由がとんぼの羽なんてかっこ悪い、って小学生のとき翅が泣いたのよね。せっかく覚えたのにしばらく名前はわざとひらがなで書いてた時期もあったじゃない」
「そうだね……」覚えているとは思わず、苦笑いしてしまう。
「でも、お母さんはほんとうに気に入ってる。かっこいいじゃない、普通の鳥の羽の『翼』よりも、仰々しくなくて、洒落てて」
うん、としっかりとうなずいた。自分の名前にそんな理由が込められていたなんて、知らなかった。
「がんばろうね。明日からも」
母の言葉に、またまぶたが熱くなったけれど、それをこらえてにやりと笑って見せた。
「『つばさ』だからだいじょうぶ。いつか、ちゃんと飛べるよ」
そうね、と母が顔をくしゃくしゃにして、泣き顔すれすれの笑顔になった。自分だけじゃない、母もずっと一緒に戦ってきたのだと、このときやっとわかった。
その夜、翅は手紙を書いた。
石井弥生さま
今日は一緒に図書室に来てくれてありがとう。
明日から学校だね。しばらくは来られないのかな。
わたしは明日からがんばって教室に行こうかな、と思います。あと一か月はあのクラスの学級委員だし、ちゃんとまっとうしないといけないかな、と思ったのと、もしかしたらもうだいじょうぶなのかも、と思えたから。
ヤヨちゃんがいない教室でやっていけるのかものすごく、ものすごく不安だけど、少しずつでもいいから、前に進みたいなと思っています。もしだめだな、と思ったらちゃんと休む。今日、遠山先生にはもう来ません、と言ったけど、また図書室に行くかもしれない。逃げるのにも勇気がいるけど、それは大切なことなんだと、勇気がいるからこそ価値があることなんだと、一学期に実感しました。わたしはやっぱり、図書室に逃げたのは正解だったのだと思う。
九月十日はわたしの誕生日です。日曜日なんだけど、よかったらわたしと一緒に遊びませんか? お祝いしてほしい、というよりも十四歳になる日に一緒に過ごしてほしいのです。
ヤヨちゃん。もう自分の人生がどうなってもいい、と言っていましたが、それでもいつか、わたしたちはここじゃない場所に行けるんだと思う。高校に上がるときだったり、おとなになるときだったり、とほうもなく遠いことかもしれないけど、きっとそうなんだろうな、と思えるようになりました。
それはヤヨちゃんのおかげでもあります。初めて体育で話しかけてもらったとき、ほんとうにうれしかった。人生変わるかも、って本気で思えたくらい、わたしにはうれしいできごとでした。ヤヨちゃんと友だちになったことで、いろんなことに救われました。ありがとう。
ヤヨちゃんはわたしの港のひとりだと思っています。意味がわからないと思うので、今度会ったら説明するね。
眠くなってきたので、ここまでにしようかな。おやすみなさい。
追伸 誕生日なんだけど、いま思いつきました。ヤヨちゃんと一緒にとんぼが見たいです。秋のとんぼの羽はわたしの名前の由来でもあります。虹色に透き通るとんぼの翅は、きっととてもきれいだと思う。きっと見に行こうね。
いつでもヤヨちゃんからの返事を待っています。
翅より
一羽の舟 @_naranuhoka_
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。一羽の舟の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます