残月

@_naranuhoka_

残月

今日で、ここ来るのやめます。

 左手で私の手をもてあそびながら、佐藤君は言った。うまく反応を声にできないまま、私は言葉を慎重に選ぶ。

「……彼女できたの?」

 こういう場面においての第一声として、正しいのかよくわからない。ただ、いま一瞬感じた驚きや怒り、悲しみを冷静なままの佐藤君にさらすのは少し悔しかった。あくまで落ち着いているふうでいようと思った。こちらは大人なのだから。

「違います」

ふっと吐かれた佐藤君の息が首すじにうっすら届く。つづく言葉を聞こうと耳をすましていたけれど、何も言わなかった。指の動きは止まないままなので、私は手をつないだまま、離せずにいる。

暖房のごうごうという音だけが準備室の中で冴える。結露して曇った窓ガラスに、夜露が墨のようににじんでいた。


受験生としての自覚なのかもしれない、というのが、私なりの解釈だった。高校三年、十一月。時期としては遅すぎるけれど、それが妥当だと思う。私に飽きたか、他に好きな女の子ができたのか。いずれにしろ、佐藤君は理由を教えてはくれないだろう。

佐藤君の進路は、よく知らない。なんどか訊いたが、返事はたいてい、要領を得ないものだった。美術部員でもないので、それとなく担任に聞くわけにもいかず、何と無く、大学には行かないのかもしれない、と思っていた。父親が三歳の時からおらず、母子家庭だと言っていたから。

成績は、よくも悪くもないようだ。試験期間も時々準備室を訪れ、私に触れるわけでも話をするわけでもなく、課題を広げることがなんどかあった。

関係を持ってから、ほとんど間をあけることなく、週に一回か二回ふらっと来ていた。二年になれば、三年になれば、さすがにそうもいかなくなるだろう、ぱたりと途絶えるだろう、と思っていたのに、いつまでたっても頻度は変わらなかった。模試のあとに来ることも、たびたびだった。私は叱らなかった。受験生としての自覚はないの? と問い詰めたくなることもあったが、生徒と不埒なことを及んでいる私にそんなことを言う資格などない。

あのあと、佐藤君はひとしきり私の手をもてあそんでぼんやりしていたが、電車の時刻に合わせて帰っていった。なにか、最後に一言言うかと思ったけれど、とくになにもなかった。私も、こういうときなにか声をかけるべきなのかどうか考えながらも、黙って見送った。

いずれ、こういう日が来るのだろうなとは思っていた。戒めのためにも、関係を持った日のうちから、そのことを考えていた。

三十一歳。大人ぶるつもりは毛頭ないけれど、夢を見るほどには若くない。この歳になってどうしてこんな不毛なことをしているのだろう、と私のセーターをたくし上げる佐藤君のつむじをぼんやり見下ろすこともあった。三十路にはいっても関係がつづいたとき、こちらから振り切ることもちらと考えなかったわけではない。それでもきっぱり関係を切る気にならなかったのは、佐藤君との関係があるにしろないにしろ、自分が他の男性とどうこう、ということにはならないだろうとわかっていたからだ。あってもなくても変わらないのであれば、わざわざ切る必要もないだろう、というせせこましい考えだった。

さっきまで触られていたてのひらになまめかしく動いていた指の感触がよみがえり、身体の芯が灯されたようにじんと熱を持ち始めた。

相手はもういなくなったのに、誰のための発情だろう、とむなしくなった。


佐藤君はとても大人しい生徒だった。とても、女教師に手を出してくるようなタイプには思えなかった。

人前ではそう振舞っている、というわけではなく、素で寡黙だ。おなじ大人しそうな男子生徒二、三人とつるみ、地味に黙々と生きている、という感じがした。若者らしいエネルギーや欲望が一切感じられず、所作が老人じみているようなところがあった。

唯一の接点だった、一年の時の芸術の選択授業でも、目立たない生徒の一人でしかなかった。油絵を日本画の手法で模写する、というコンセプトの授業で、彼はゴッホのひまわりを選び、丁寧に下絵を描き、人よりいくらか遅れて色塗りに入った。

「すごくよく描けてる。経験者?」

巡回で佐藤君の絵が目に留まり、思わず声をかけた。佐藤君は突然私に話しかけられ、一瞬戸惑いを見せ、ありがとうございます、と私に聞こえる最低限のボリュームに絞った低くかすれた声で言った。少しでも教室で目立ちたくない、自分の存在を誇示したくない、という意思を感じた。

「美術部だった? 中学。それとも習いごと?」机の上の消しゴムのカスの量はちょっと笑ってしまうほど多い。几帳面に隅に小山をなしている。

「いえ……あの、特には」

無愛想ではないけれど、あまり話したそうに見えない。話しかけられるのは迷惑なのか、と思わず身を引き、他の生徒の方へ身体の向きをかえ、ふと気づき、ぎょっとした。

彼の膝の上に載せられた握りこぶしが、汗でぐっしょりと濡れ、ズボンを濡らして黒を濃くしていた。

顔は平静なのに、その動揺の現れのギャップがなんだか生々しく、思わず目をそらした。見てはいけないものだったかもしれない、と少し申し訳なく思った。同時に確信していた。この子は教師と話すことにすら緊張し、怯えてすらいる。

湧いてきたのは、庇護欲ではなかった。嗜虐心、だったかもしれない。腹の奥底でわずかにひくついたなにかに気づかないふりをして、それ以降話しかけることはしなかった。もちろん、巡回で助言をすることはあったが、個人的なことで声をかけるのはやめておこうと思った。佐藤君は、淡々と私の言うことに頷き、その通りに鉛筆や筆を動かした。真面目に制作に取りかかる佐藤君よりも、すぐに怠けたが

る他の男子生徒に発破をかけて促したり、せんせー彼氏いるの? 結婚しないの? などと友達のような口をきく生意気な女子生徒をあしらうことに忙しく、私は佐藤君のことなどほとんど意識の外にあった。

作品提出の最終日、間に合わなかった生徒を放課後美術室に呼び出し、来週まで、完成するまで毎日居残りなさいと言い渡した。怠けていた生徒のグループから離れたところに、佐藤君がぽつりと座っていた。

だりー、めんどくせえ、などと文句を垂れ流す生徒をなだめすかしたり叱り飛ばしたりしているうちに、一人、二人と終わらせていく。サボるような生徒に限って、元々の要領はよかったりする。

結局、締め切り日まで居残ったのは佐藤君だけだった。その日は美術部員が制作をしに何人も美術室に来たので、生徒は佐藤君一人ということもあり準備室でやらせることにした。隣の机で他の生徒の作品に成績をつけながら、完成を待つ。暖房から発せられる熱に乗って、版画のインクの匂いと埃が鼻をむずむずさせた。ストッキングの下で肌が汗ばんだ。

職人のように何色もの顔彩を使い分け、一番細い彩管で色を塗り重ねている。恐ろしいほどの集中力で、ホームルームが終わるなりやってきて黙々と準備を始めていた。あと小一時間で終わるだろう。

「先生」

声に顔を上げると、佐藤君と目が合い、目顔で呼ばれた。完成したのかと思い、立ち上がり上から覗き込む。

「ここの、凸凹に色が載らなくて」

見ると下塗りの部分が砂粒でも入り込んだようにぼこんと不恰好に盛り上がっていた。指で触っても、取れそうにない。

「削った方がいいですかね」

佐藤君が爪を立てようとしたので、私は慌ててその手を掴みとめた。勢いのまま、背中から抱きつくような格好になる。意図せず胸の重みをそのまま彼の身体に押しつけることになった。あ、と佐藤君が呻き声に近い声を上げる。つられて顔に熱が回った。それをごまかそうと、早口に威丈高な口調でさとす。

「だめ。そんなことしたら、そこだけ色が染み込んでむらになる」

手を離す。身体を起こすと、佐藤君の耳たぶの裏側は直視するのが躊躇われるほど真っ赤になっていた。寒さのせいではない。この部屋は十分、暖かい。

触りたい、と思ったときにはもう指が耳朶に触れていた。気づけば佐藤君の握るものは絵筆ではなく、私の左手に変わっていた。さっきまで佐藤君のつむじを見下ろしていたはずなのに、いつの間にか佐藤君が私の肩を机の上に押さえつけていた。

未成年に手を出せば淫行、罪に問われるのは自分。そんな意識が頭のすみにあった。けれど、止まらなかった。止まってくれなかった。止まる気はーーなかった、かもしれない。今思えば。

うわごとのように先生、と呼びつづける佐藤君の掠れ声にだけ耳を傾けていた。美術室と準備室を隔てるドアは分厚いので声が漏れることはないだろう、ということを計算するくらいには、私は冷静だった。

佐藤君の絵は、机の上で未完のまま乾いていた。


夢だったのかもしれない、と美術室の戸締りをしながら思った。その方がお互いにとっていいだろう、と思った。

佐藤君は身体こそ震えていたが、表情は落ち着いていた。淡々と着衣を直す私に、佐藤君はなにも言わなかった。正直安堵した。

言い訳を並べてごまかされたり、丁重に謝られたりしたら、ひどく傷ついただろうから。

四年ぶりだった。ふと気づき、その頃佐藤君は小学生だったのかと思い、自分を嗤った。

異性と交際したことは二度だけだ。大学生の時と、同僚からの紹介。どちらもさしてつづかなかった。自分は異性への愛も愛されることにも執着はないのだな、と二度目に別れた時に思った。寂しい生き方になるだろうと予感したし、実際、それ以降淡々と過ごしていた。

ふと人肌恋しい瞬間や、誰かの腕にすがりたいと思う時もないわけではなかったけれど、大抵、眠ったりごはんを食べればなんとなくうやむやになった。一時の満たされない淋しさを埋めるために誰かと付き合うということが、億劫でしかなかった。

同年代の女が、恋に泣き、笑い、はしゃいでいる間、私はずっと一人だった。友達もいたし、実家もそう遠くない。まわりを羨むこともあまりなかった。

一生、誰にも執着せずにひっそりと過ごしていくのだと思っていたし、それで納得していたはずなのに。


幸い芸術の授業はそれ以降なかったので、佐藤君と顔を合わせずに済んだ。どんな顔をすればいいかわからなかったし、どういう対応をしても、お互い傷つくだろうと思った。いや、私の方は別にいいのだ。この歳にもなれば、忘れて記憶を封じ、なかったことにすることも容易い。ただ、まだ幼いほど若い佐藤君に、ほんのいちどの過ちで、これからによくない影響が出ないことを祈った。教師としてというより、大人として申し訳ないことをしてしまった、と済まなく思った。

暖房がききすぎる職員室があまり得意ではないのと、美術部にすぐに顔を出せるのとで、私は普段美術準備室で仕事をしていた。翌日も準備室で作業していると、そっと戸が開いた。

予感はあったけれど、いざ顔を合わせると、驚きと戸惑いを隠せなかった。まさか、という困惑と、やっぱり、という確信ーーもっと正直に言えば、安堵や嬉しさも、まったくなかったとは言えない。浮き立つ気持ちが一瞬とはいえ湧き上がったのを、私は気づかないではいられなかった。

「完成、したんで」

佐藤君は作品を私に差し出した。作品を持って帰ったことを知らなかったので、予想外な用事に面食らう。私情で来たのだと勝手な、かつ自意識過剰な勘違いをした自分に羞恥を感じ、くだらなく思った。

「……締め切り、過ぎたから駄目ですか」

なにも言葉を発さない私に、不安そうな声で言う。いいの、点はつけるから、と笑い返し、受け取った。とても完成度が高く、まじまじと見入ってしまった。恐らく、美術部に所属する生徒と同格、もしかするとそれ以上に優れているかもしれない。

「いい作品ね」

凹凸がそのまま残っていた。私がそれに目をとめたことに佐藤君は気づいていることを意識して、わざと爪で軽く引っ掻いた。佐藤くんが音を立てずに唾を飲み下したのが喉仏の動きでわかった。

「無理に取らなくてよかった」

微笑みかける。余裕ぶってはいたけれど、内心、挑発している自分にはらはらしていた。佐藤君は無言のまま私を見下ろした。冷酷なほど無表情だった。

うろたえればいいのに。みっともなく顔を赤らめて、嫌悪や困惑を露わにすればいいのに。子供のくせに、どうしてこの子はこんなに落ち着き払っているんだろう。

先生、

にゅっと琥珀色の武骨な指が伸びてきて、反射的に肩を跳ねさせてしまう。右頬をさっと撫でられた。それだけで、ざっと肌が粟立つ。その気配を読み違えたのか、佐藤君まで見るからにうろたえ、ばつの悪そうな顔をした。

「……インク、ついてたから」

嘘だ、と思ったけれど、佐藤君の指には確かにインクがついていた。

「ありがとう。……もう、帰んなさい」

椅子を回転させ、顔を背ける。頬を触られただけで朱に染まった今の顔を見せられない。

ごめんなさい。

佐藤君が部屋を出る時、戸を締める音に紛れて謝られた気がした。羞恥でさっと全身の血が逆流するような感覚に、くちびるを強く

噛みしめる。あんな青臭い子供にどうして謝られなければならない。立場は本来逆のはずだ。私はそんな惨めな女ではない。

勢いよく部屋を出た。佐藤君は十メートルほど先で、肩を跳ねさせ振り向いた。

「佐藤君」

「……はい」

おずおずとこちらに戻ってきた佐藤君の手を掴み、部屋に連れ込んだ。鍵を後ろ手で締めると、彼はほっとしたようにわたしの腰を強く抱きよせた。むっとするような強いインクの匂いの中、私は自分の肩に置かれた佐藤君の手をじっと見つめていた。武骨に盛り上がったそれを、飽きることなく、ずっと。

共犯者だと思った。同じ秘密を共有することでお互いを牽制し、だからこそふたりを強く結びつけた。佐藤君の、夏の草いきれのようなとめどない量のエネルギーが一心に私へ向けられ、底のない壺になったような気持ちでそれらを受け入れた。圧倒されていた。欲望の強さは、彼の生きている強さそのものだった。佐藤君自身、それを持て余してどう扱えばいいかわからずにただやみくもに私にぶつけてきた。

先生、

掠れた呻き声で名を呼ばれるたび、からだからかくんと力が抜け、血が強く満ち引きした。生きていることを強烈に実感した。

そんなあやうい関係など、最初から壊れることを前提につくったことくらい、わかっていたはずだ。いつだってはらはらしていた。いい大人である自分から終わらせなければならないと自覚していた。

いつかは、いつかは、と、先延ばしにしては佐藤君と肌を合わせ、抱き合った。すればするだけ離れられなくなることをわかっていながら、見えない振りをした。大人として、教師として、女として、最低だった。それでも、ひとたび後ろ暗い欲望に引き摺り込まれれば抗う気などほとんど湧いてこなかった。

くだらない見栄とプライドのために、いちどであればごまかしがきいた過失を退路を切って自ら念を押した。なかったことにする選択肢もあったのに、佐藤君がわたしより先にしましょそれを選ぼうとしているのを感じた瞬間、屈辱を覚えてしまった。そんなくだらないもののために、生徒を道連れにしたも同然だった。共犯、などではない。佐藤君は被害者ですらある。

だめな大人でごめんね、と謝ることすら許されていないような気がした。佐藤君の躯から発せられる熱で、すべてをうやむやにしてしまいたかった。

いつか手酷いしっぺ返しを食らうことも、ちゃんとわかっていた。わかっていたのだ。


やがて冬が来る。準備室を訪れる生徒は誰もいない。

三年生と階が違うので、佐藤君を校内で見かけることもほとんどない。それでも、ふと廊下を歩いている時に痩せた背の高い男子生徒を見かけると目で追ってしまい、決まり悪く思った。未練がましいにもほどがある。

日常に戻った。それだけだ。なにも失っていない。私にできるのは、卒業するまでに、佐藤君がわたしとの過失を自分の中で清算するなり昇華するなりして進路に向き合ってくれることを祈るだけことだった。

傲慢だろうか。端から佐藤君は、私個人など見ていなかったのかもしれない。若い男の子なら、よくあることだ。その方が後腐れがなくてよほどいいとすら思った。私はどこまでも身勝手だった。

帰り際、ふと窓ガラスに映った自分の顔にまったく生気がないことに気づき、薄くわらった。

捨てられて当然だ、そんな女。


計ったようなタイミングで母から見合いの話が来た。年に何度か話を切り出される度、仕事を理由に断っていたが、もう潮時かもしれない、と思い休日を利用して実家に帰った。相手は隣町の不動産の跡取りだった。条件も申し分ない。三十一という自分の年齢をかえりみても、もうこれ以上の案件は無いだろうと思い、向こうが用意した料亭で食事を取ることにした。

歳は私より五つ上で、若白髪が混じっていたが優しそうな人だった。お互いに口下手で会話が弾んだとはお世辞にも言えなかったが、こういう人と結婚すれば一生大事にしてもらえるのだろう、と薄ぼんやりと思った。

とりあえずは付き合ってみませんか。もちろん、結婚を前提に。

帰り際、拙い口調で言われ、断る理由も無いままに頷いた。相手に好意がない以上は承諾しなかった二十代の頃とは訳が違う。もう、市場から降ろされようとしている。むしろ喜んで交際を受け入れる立場にいるのだった。

両親に交際することを伝え、そのまま自宅に戻った。大したことはしていないのに、ひどく身体が重かった。

最後にされたくちづけは、こちらが戸惑うほど不器用だった。蝶が止まったような弱い弱い重ね方は、交際への躊躇をそのまま如実に表しているような気がした。ああ、この人は別に私とこういうことがしたかったわけではなくて、私への気遣いであり儀礼的な挨拶なんだろうな、とそこまで透けて見えてしまった。いい意味でも悪い意味でも、正直な人なのだろう。

別に、傷つかない。いまさら、そんなことでは。


家族以外の人と年を越したのは初めてだった。自宅に呼び、蕎麦を食べ、テレビを観て、穏やかに過ごした。彼がわたしに好意や愛情を持っているのかどうなのか時間が経ってもよくわからなかったが、おずおずと求められれば黙って差し出した。淋しいのはお互い様だ。二人でいるというよりも、ひとりぼっちが二人いるような気がした。

このまま私はこの人と結婚するのだろう。それとなくだが、古風な価値観を持つ彼が家に入ることを望んでいることもわかっていた。それなりに苦労して手に入れた教師という職に未練や愛着がないわけではないけれど、それはそれでよかった。もう、準備室にいたくなかった。廊下を歩いてくる足音がないか、耳を済ませるくせが抜けず、かと言っていまさら職員室で作業をするのにも慣れず、どうやり過ごしていればいいかわからなかった。見かけた時は、見つけられる前に踵を返すことも二度ほどあった。

年明けの学校は大学受験のために絞り切った空気が漂って張り詰めていた。三が日が明けたばかりなのに、三年生の生徒は黙々と学習室や教室に篭っている。佐藤君はどうしているのか。センター試験は、受けるのだろうか。進学率は高い高校だが、皆が皆進学するわけでもない。秋頃から職員室で面接練習をする生徒も何人かいた。

不意にすれ違ったのはセンター試験を一週間切った週末のことだった。本当に不意打ちだったから、誰なのかよく考えもせずに前を歩いてきた生徒の顔を凝視してしまった。佐藤君は困惑したように何度か瞬きした。すれ違いざまになにか声をかけるべきなのか、その前に目をそらすべきなのか、何もわからない。

かすかに唇が開かれた気がした。気のせいかもしれない。佐藤君は結局何も言葉を発さなかった。そのまま履き替え口に吸いこまれていく。

今度もこちらが捨てられたと思った。捨てられたと感じることすら私には許されていないのに、屈辱と情けなさで簡単に泣きそうになった。

なぜ、この子はこんなにも平気そうなのか。皮膚ごと引き剥がされるような痛みに苛まれているのは、私だけなのか。佐藤君を思いだすだけで、見かけるだけで、血を煮るような地獄を味わっているのは、私一人なのか。そうなのか。

わーん、と子供のように声を上げて泣こうにも、涙を流す気力すらない。背中にとりすがろうにも、振り払われる痛みを思えば腕を伸ばすこともままならない。元からそんな権利はないのだ。執着も依存も、してはならない。ましてや佐藤君はまだほんの高校生で、進路を前にした岐路に立っている。こちらから手離してあげなければならなかったのに、結局佐藤君にさせてしまった。

佐藤君は私がまだ見ていることに気づかないまま、スニーカーに履き替え、ドアを押して出ていった。その姿は闇の中で溶け込み、一瞬で見失う。

動く体力もなく、ぼうと立ちすくんでいると、先生どうしたんですか?と女子生徒に怪訝そうに声をかけられ、愛想笑いで取り繕い、その場を立ち去る。すがりつくべき相手は別にいるではないか。その温もりは確かに私に向けられたもので、私が望んでいい熱だ。

でも私が焦がれているものはそんな生温いものではない。

恋に恋する十代の少女のようにみっともなく感傷に浸りつかる自分をどこかで冷酷に見つめながらも、反芻をやめられない。どうしてこんなに執着が消えないのだろう。熱の中に取り込まれて気を遣ってまぎらわそうにも、私が見ているのは別の男だ。手を絡めただけでぐっし

ょりと汗で濡らした手のひらだけを、繰り返し繰り返し思いだしている。


  季節は簡単に過ぎていく。春の萌しとまではいえないけれど、晴れた日は土の匂いがふと風に運ばれ鼻をかすめる。

  センター試験が終わり、国公立の前期試験が終わり、ふれれば頬を切りそうなほど尖りきった空気は和らいで、校内は卒業の雰囲気に包まれていた。

  期末試験が終わる頃、私は正式に婚約を申し込まれた。交際期間はそう長くはなかったが、異存はなかった。激情はなくとも、穏やかに暮らしていけるだろう、そう思った。

  そして、三月いっぱいで教員を辞めることにした。離婚でもしない限り、私が教壇に上がることはもう二度とない。

  職員室で祝福を受け、どこから漏れたのか通りざまに見知らぬ生徒から結婚のことをからかわれたり祝われたりすることもあった。こそばゆくはあったけれど、プロポーズを受けた時よりもこうして他者から祝福を受けて初めて、素直に幸福を感じた。

あれ以来佐藤君とは会っていない。三年生は、後期試験がある生徒以外はほとんど登校していないから、当然といえば当然だった。

  私のことなど忘れていて欲しい、どうか自分の進路にだけ向き合っていて欲しい。本音なのか建前なのかなどどうでもいい、私にはそう祈ることしか許されていない。その祈り自体に、滝のような身勝手と傲慢が幾重にも重なって組み込まれていることも重々承知している。

  けれど、どれほど考えても、あのとき他にどんな選択肢があったのか、私にはわからないのだ。


  卒業式が終わり、授業もないのにほとんどの生徒は帰らずに下級生も上級生も廊下で輪をつくっていた。こういうときに、なんとなく一人では帰りたくないという気持ちもわからないではない。芸術の授業を取っていた生徒が数人、アルバムを持ってコメントを書いてくださいと美術準備室までわざわざ足を運んできた。結婚が決まったせいか、とりわけ女生徒には懐かれて、幸せわけてくださいと真剣な声で握手を頼んでくる子もいた。

これから部活ごとに送別会がある。佐藤君は部活に属していない。友達もそう多い方ではないように見えたし、もうとっくに帰っているのだろうか。

  美術部員には、先生も送別会に参加してくださいと声をかけられていたが、あまり顔を出す気はなかった。おそらく結婚の祝いも兼ねているのだろうとは想像がつくが、主役はあくまで卒業生であるべきだ。祝福なら浴びるほど受けている。

準備室にいると生徒に引っ張り出されかねない。職員室に行こうと戸締まりをしていると、ふと手元がうっすらと翳った。振り向こうとしたのを押し止めるように声がした。

「先生」

耳に届いた途端、背骨から尾?骨にかけてぐにゃりと溶けて、その場に崩れ折れそうなった。のろのろと振り向く。逆光ではあったけれど、かちりと目が合った。

「……結婚、」聞きたくない、と咄嗟に思った。「するんですね」

賑やかしい喧騒が遠い。力無い微笑みを浮かべ、佐藤君が右手と左手を後ろ手で組んだ。

「……あなたは」訊く権利など微塵もないことを知りながらも訊かずにいられなかった。「ここを、離れるの?」

佐藤君は遠い北の地方の大学名を口にした。「恐らくはそこです」淡々とした口調からは、薄い微笑み以外、何の感情も読み取れない。

もう会うこともないでしょうね。

げんきでね。

どうか忘れてしまって。

なにも掛ける言葉を持たない。目を見ることもできず、視線が下を向く。土埃で薄汚れた上履きは、わずかにふるえていた。

「すきでした」

爪先が向こうを向く。そのまま、音も立てず階段を降りてゆく。

リノリウムの廊下がふわっと揺らぐ。

はっと前を向いた時には、すでに佐藤君は踊り場を曲がって降りて行くところだった。

そうか、

そんな簡単なこと、

唇が勝手に歪み、わらってしまった。ひびわれた笑い声が喉をこじあけ、漏れ出す。

来月には、式を挙げる。先生と呼ばれることはもう二度とない。

もう、佐藤君以外の誰にも「先生」と呼ばれたくなかった。あの切実な、喉仏からぐんと押し出したような低い声を、最後にしたかった。無意味だとわかっていても、耳をふさいだ。せめて、今日だけは、佐藤君の声で締めくくりたかった。くだらない感傷でも、浸かっていたかった。

そうか、恋か。この、胃の底から躯が灼けつくような痛みは、そのせいだったのか。わからなかった。知らなかった。三十一にもなって、まったく気づかなかった。

卒業、おめでとう。

それすら言うことを忘れていた。 お互いに祝福を口にしなかったのは本心ではないからだと思うのは、あまりに驕っているだろうか。

少なくとも、私は佐藤君がこの町を出ていくことをおめでとうなんて思っていない。だから私は教師を辞めるのだ。この学校にいる意味を、失ってしまったのだから。

空に目をやれば昼の月がぽかりと浮かんでいる。その生白い三日月を横顔になぞらえてしまわないうちに、歩きだす。


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