チカちゃん

@_naranuhoka_

チカちゃん

エントリーシートもらってきた、と告げると、チカちゃんはくちびるを半開きにした。眉根がぐ、と寄る。

「うっそ、就活?」

「まぁ四年なんでね」

そろそろ手堅く堅実に生きようと思ってね〜と麦茶をコップに注ぐ。チカちゃんも飲む?と訊いたけれどチカちゃんは力なく首を振った。ペットボトルをテーブルに置いた反動で、用意していたふたつ目の空のコップが高い音を立てる。

「……そっか、そうなんだ」

まぁ色々あるよね、とチカちゃんが静かに呟く。裏切ったという罪悪感が胸まで上がってこないうちに「現実は厳しいっす」とはすっぱに返した。そうそう、現実見るの大事。夢は夢でうつくしーく取って置けばいい。そんで、結婚して主婦になって、娘にそれを語ればいいのだ。ママはねー昔小説家目指してたんだよー、えーほんと?みたいに。それはそれで素敵平凡人生だ。だいたいの人と同じでさ。就職して、お昼はお弁当か480円のから揚げ丼Sサイズで、休日はデートか本屋めぐり。趣味は読書と映画鑑賞。ベランダでミニ菜園。五百円貯金でもして小金貯めて。うん、どっこも悪くない。

「……楓夏は」

チカちゃんがゆっくりあたしを振り向く。

「それでいいの?」

麦茶を飲みほす。そして目をそらした。

楓夏はそれでいいの?はチカちゃんのくちぐせだ。そう訊かれるたび、あたしは自分が透明になって中身をていねいに見つめられるような感覚になる。問い詰めるのではなく、追及するのではなく、ただひたひたと見つめようとする真摯なまなざしが苦手だ。チカちゃんがあたしにそれを言う時は、大抵あたしの中で気持ちがかたまっていないから。チカちゃんは聡明なひとみでそのことを見抜いている。

「……まあ、楓夏がそれでいいならいいけど」

チカちゃんはくちびるを曲げて不器用に笑い、それどこの社のエントリーシート?とつとめて明るく話題を変えた。話題が変わったことに安堵しているはずなのに、なんとなく気持ちが萎んだ。チカちゃんの力無い微笑みに、あたしへの諦めを嗅ぎ取ったせいだった。


チカちゃんは幼馴染みだ。といっても付き合いはさほど長いわけではない。中二の時転入した先の中学で、おなじクラスになった。転校生のあたしはとりあえずちやほやされていて、クラスではおとなしいチカちゃんの存在なんてほとんど知らなかったし気にも留めていなかった。

図書委員で同じになり、やっと口をきいた。物静かで優等生然とした黒縁メガネのクラスメイトのことを、あたしは内心苦手だった。けれど曲がりなりにも同じ委員会なので、ぽつぽつと話くらいはしたと思う。本の整理めんどいよね、とか司書の先生可愛い、とか当たり障りの無いことを。打ち解けたいという意思はなく、そのときは単に気まずくなりたくないだけだった。

初めてカウンターの当番をした時も、あたしたちは並んで座って別々に本を読んでいた。雨の日だった。司書の先生は出張か何かで、誰も図書室にいなかった。

薄ら寒い部屋だったけれど、あたしは本に夢中だった。教室ではクラスメイトに合わせてあのマンガ面白いよね、今度実写化映画観にいくんだ、などとしゃべっていたが、あたしはマンガより小説のほうが好きだった。可愛くてきらきらした世界観が、あまり好きじゃなかったのだ。どちらかといえばあたしは地味な中学生ではなかったと思うし、そういうふうに振る舞って友達も慎重に選んでいたのだけれど、なんとなく、そういうのは違うな、と醒めた目で見ている自分がいた。でも、処世術としてあたしは楽しく過ごしていた。

お気に入りの作家の新作を読み終え、ふと隣を見るとまだ読書中だった。何読んでんだろ、なんてこっそり表紙を見ようとしたとき、ぱ、とごくごく小さな音がした。え、と顔を上げてあたしは驚いた。

泣いていた。それも、涙ぐむというレベルでなく、号泣だった。いまの小さな音は、涙がスカートに落ちた音だった。

咄嗟に見なかったふりができないくらい驚いてしまい、かたまった。あたしの視線に気づき、彼女は慌てて涙をふき、赤い顔で無理やり笑った。

「……つい、」

もっと釈明があるかと思ったけれど、それ以上言葉はなかった。笑ってこの場を取り繕いたいと思っていたあたしはじれったくなったが、もうこの時点で、この子のことをいいな、と思う自分がいた。仲よくもないクラスメイトの隣で、読書中泣いてしまうところが、とにかくあたしの心にとっかかりをつくった。思わず口にする。

「近藤さん、何読んでたの?」

携帯小説だったら、あたしの心に灯ったものは冷めてしまうだろう、と構えたが、見せられた表紙は古い文庫本だった。

「とくべつ悲しい場面じゃなかったんだけど……でも泣けた。変だよね、ごめん隣で号泣して」

きまり悪そうに苦笑いする。たぶん、あたしに笑って欲しいのだろう、と察してはいたけれど、ちゃかしてごまかそうとかこの場をフォローしようという気は湧かなかった。ただ、この子も同じなんだ、と思ってどきどきした。がっかりしないように、あまり期待をかけないようにして慎重に尋ねた。

「本、好きなんだ?」

「うん。すごく好き。だから図書委員になって新刊読もう、って思って入ったの」

見つけた、という小さな感動があたしの胸でぶわんと爆発になって起こった。それは竜巻のようにぐるぐる回り、あたしの心を強くつよくせかした。

「近藤さん、」

「うん?」

あたしも好きなんだ、漫画より本派なの、文章書くのも好きなの、言いたいことが一斉に胸に浮かんだ。思いつき過ぎてどれを言えばいいかわからなくなり、一瞬頭がくらくらした。酔うとこんな気持ちになるのだろうと思った。

「あたし作家になりたいんだ」

言葉を言い切ってから熱が顔にわっと集まった。しまった、飛ばしすぎた、どうしようこんなの誰にも言ったことないのに、というかこの子と親しいわけでもないのに、と混乱するあたしに、彼女は微笑んだ。

「いいね」

いま思うととても簡単な、そっけないとも取れる返事だった。でも、その言葉は本心からだという心のこもった温かいものだった。安心しすぎてあたしは泣きたくなった。

「いいね、その夢」

「夢じゃないよ、現実にするよ?」

照れ隠しにおどけて顔を覗き込む。笑わせようと思ったのに、チカちゃんの浮かべていた表情があまりに優しかったから、あたしははずかしくなった。

「なれるよ」

あたしはうつむいてその言葉を聞いた。雨のしとしとと降る音が、やわらかな布のように耳を守っていた。


チカちゃんは司書の先生になるのが夢だった。それか編集部に勤めること。

「えー、出版社に勤めてよ、そんであたしの本ばんばん売って!」

「それもいいけど、図書室でこの本この学校のOGが書いたんだよー、って紹介するのも良くない?」

「あ〜。それも捨てがたい!」

帰り道が同じ方向だと判明し、あたしたちは一緒に帰るようになった。放課後特有のテンションで、そんなことを語り合っては笑っていた。あたしが作家になって、その本をチカちゃんが編集したら最高だなぁ、と夢物語に本気でわくわくした。チカちゃんはあたしが書いた小説を読んではメモ帳に感想を綴ってくれた。編集ごっこと称して赤ペンを入れることもあった。当たり前のように同じ高校に進み、あたしは文芸部に、チカちゃんは美術部に入った。部室が隣だったので、たまに挿し絵を描いてくれた。チカちゃんがイラストレーターになってあたし専属の表紙担当になってもらうのもいいなぁなんて思っていた。

とにかく夢中だった。あたしは作家になるだろうと信じて疑わなかったし、作家以外の何かになれるとも思わなかった。

そして関西の同じ大学の文学部に入り、あたしたちは同じアパートに隣同士で住んでいる。どちらかの部屋に入り浸ってあたしは文章を打ち、チカちゃんはあたしの打ったものを読んだ。何もかも始まったばかりだった。

あたしたちが二年の時に、あたしはようやく文学賞にひっかかった。謙遜表現ではなく、本当に「ひっかかった」というような受賞だった。あまり新聞広告を出さない中小出版社の、歴史の浅い文学賞だった。しかし受賞は受賞、とあたしは舞い上がった。チカちゃんは目を赤くしておめでとうおめでとう、と祝い、モンブランのブルーブラックの万年筆を贈ってくれた。念願のデビューだ、諦めなければ夢は叶う!なんてきゃあきゃあ騒いでいた。

けれど、あたしは現実を知ることになる。授賞パーティーこそあったものの、なかなか出版されなかった。枚数の問題かと思い、短編を書いては送ったが、出版社からの反応は乏しかった。ようやく本になったのは受賞から半年経っていた。あたしは三年になり、二十歳を過ぎていた。

でもまだ学生作家だもんね、話題性はばっちりだぜ!とそれでも望みをかけていたけれど、さして売れなかった。びっくりした。平積みされた自分の本を書店で見るたびに、昔の日記を公でさらされているようないたたまれなさに襲われた。それはまだましで、そのうち書店からあたしの本は消えた。ろうそくの火のように短い時間だった。

ーーなんで?なんでこんなに売れないの?

なかなか増えないネットの書評を睨みながら、あたしはいらいらしていた。国立の現役女子大生なのにどうしてこんなに反応が薄いのか。見つかるのは出来レース、と叩く掲示板ばかりだ。書評や感想はほとんど出てこない。

駄作じゃないから受賞したはずなのに。刊行した処女作を、かさぶたを剥がすような気持ちでそろそろと読み返してみても、とりたてて悪いものとは思えなかった。びくびくしながら読んだのは序盤だけで、普通に面白いと思ったし、文学賞に応募する前チカちゃんに校正を頼むため読んでもらった時に、「も、すごい面白かった。殻を破ったって感じ。一刻も早く応募した方がいい」と興奮した様子でせっつかれた。いつもは冷静なチカちゃんに褒めちぎられ、こっちが戸惑うくらいだった。理想の木材を見つけた彫刻家ががんがんと像を彫るごとく、時間をかけて推敲し、練り直し、完成体を応募した。もっと大手の出版社が主催する賞に応募すべきかもしれなかった。でも〆切がちょうど良いタイミングだったので、中堅出版社の文学賞に送った。デビューさえすればどこの賞でもいい、奨励賞とかでも、と軽く思っていた。

顔写真は少し眩しそうに目を細めてしまっている。初々しさがにじんでてわれながら気に入っていたのに。

「なんでだろうね」

司書の資格を取るために勉強していたチカちゃんは、困ったように顔をあげた。チカちゃんはいつも、無理に慰めようとはしない。

「私はあの作品がすごく好きだよ。だから絶対評価されると思うんだけど」

「でも売れないじゃん」

パソコン画面をスクロールさせながらいらだちで声を尖らせるあたしに、チカちゃんは何も言わなかった。ふてくされながらも、ごめんね、と簡単に言わないチカちゃんに感謝していた。沈黙が正解だった。

あまり他の友達に言いふらさなかったのはまだ賢明だったかもしれない。けれどサークルだけはどうしようもなかった。あたしたちふたりは同じ文芸サークルに属していた。あたしと同じような人間はたくさんいて、脚本家だとか映画批評家だとか作家だとかに憧れている人はいっぱいいた。むしろそういう人間しかいなかった。あたしは受賞後一ヶ月は我慢していたのだけれど、とうとう飲み会で受賞のことを暴露してしまった。

みんなの唖然とする顔がいまでも忘れられない。溜飲が下がるとはこういうことね、と内心思った。なんというか、文芸サークルはどこもそういう団体なのかもしれないのだけれど、やたらと衒学的なことを語りたがり、お互いが牽制しあっている感がにじみ出ているようなところだった。何者かになりたい欲求のかたまりみたいな連中が集まったサークルだったから、受賞を伝えた時には余計すっとした。くやしさのあまりか、なかなか「すごいじゃん」「おめでとう」の一言が出なかった。あたしは、サークルのみんなの、がつがつした強烈すぎる野心を露わにする感じが兼ねてから苦手だった。正直なところ、同族嫌悪も多少あったかもしれない。うんざりしながらもサークルをやめなかったのは、この瞬間を待ち望んでいたからだろうかとぼんやり思った。みんな本当に悔しそうだった。あたしはチカちゃん以外の人間に、夢への執着をあまり語っていなかったから、こんななんでもないやつが、と腹立たしくなったのかもしれない。あたしの隣でチカちゃんは黙ってにこにこしていた。テーブルの下でふれた右手が温かかった。


なにが悪かったんだろう。デビューしてから毎日飽きもせず思う。サークルはデビュー後すぐにやめた。売れなかった時の予防線、なんかではなく、単純に、これから忙しくなるだろう、と思ったからだ。その根っこには「こんな人たちと付き合っている場合じゃない」という嫌らしい考えも、あったかもしれない。

でも実際は、そこまで多忙にはならなかった。予想より本は売れなかったし、話題にもならなかった。サークルをやめておいてよかった、と思ってしまった自分が情けなくて泣けた。季節は秋だった。

周りが徐々に就職のことを口にしだしたのが怖かった。リクルートスーツのセールのチラシがたくさん送られてきた。サークルであんなに〈俺は脚本家になる〉と騒いでいた先輩が、地味なスーツを着て髪を黒く染めているのを見かけて、かなしくなった。

ーーもしかして、あたしだけ?

チカちゃんは一年の時から、あたしの作品の校正をしながらもきちんと資格を取る準備を進めて勉強している。国語の教諭免許も視野に入れているらしい。

ーー夢、叶えたのにね。

卒業アルバムを引っ張り出して、ベッドに寝そべった。もったいぶるように重いページをぱたんぱたんとめくりはしたものの、自分のクラスの個人写真のページにたどり着いて思わず目をそらしてしまう。用心してこわごわ自分の顔をながめた。目を見開きすぎてきらきらしている目を見てしまうと、胸がきゅうとすぼまった。

あたしはアルバムを閉じ、パソコンを立ち上げた。

「しゅ」と打っただけで、「就活」の文字が検索候補に浮かんだ。あたしはゆっくりとクリックした。


何から始めたらいいかわからず、とりあえずスーツを仕立てた。入学式の時のスーツしか持っていなかったし、六千円弱の安物だったので、新しくスーツの専門店で買おうと決めた。

こういうとき絶大に頼りになるはずのチカちゃんに相談しなかったのは、罪悪感か、意地か。たぶん、就活にふんぎることに自分自身決めかねているせいだ。

ーーだって、売れないし。現に食べてけてないし。

二作目も一応出した。一作目よりは売れたのだけれど、問題が起こった。悪いことに、一昨年なにかの賞を取ったベテラン作家の作品と、設定が酷似していたのだ。それはネット上で話題になり、ものすごい勢いで叩かれた。処女作はほとんど反応がなかったのに、ひどい皮肉だった。

意識したつもりはなかった。でもあたしはその本を確かに読んでいた。その作家のファンだったから、当然だ。

盗作のことを剽窃というのだと初めて知った。ネットの批評だ。怖かった。その作家のファンでなかったらさほど気にしなかったかも知れない。でももし耳に入ったら……と心配になり、出版社に刷新をとめてもらった。もう、にっちもさっちもいかなくなっていた。気を取り直して三作目を出しましょう、とは言われなかったし、書けるとも思えなかった。

真新しいスーツを二着部屋に掛けただけで、「堅実な女子大学生」になった気がした。むなしくはならなかったけれど、もう文学少女気取りじゃいられないんだな、と漠然と思った。来週はこのスーツを着て就活の講義に行くつもりだった。

夢の残骸の片づけなんて、こんなものだ、と思ってみたけれど、あまりすっきり頷けなかった。黒く染めた髪が、スタンドミラーの中で蛍光灯に照らされている。


作家になるなら東京か関東の方がいいんじゃないの?

チカちゃんが異を唱えた。高二の夏。地元の図書館の休憩所でのことだ。あたしの膝には受験情報誌の八月号が載っていた。たまたま取材されていた大学の中に、ひそかに志望しているところが載っていて、実はあたしこの大学行きたいんだ、と告白したところだった。

「でもそれはあんま関係なくない?現にあたしの好きな作家さんで東京在住じゃない人いるしっ」

それはまぁね、とチカちゃんが紙パックの抹茶ラテを啜る。

「……もしかしてチカちゃんは東京願望あり?」

あまりプレッシャーをかけないようにスマイルを浮かべながらたずねた。チカちゃんはうーんと呻り、「……まあ、行くなら東京かな、ってぼんやりと思ってたよ」と告げた。少なからずへこんでいる心を悟られないよう、雑誌に目を落とす。

「でも具体的に目標にしてる大学はないんだよねー」

「えっそうなの!?じゃあーー」

一緒目指そうよ!と安易に口走りそうになり、慌てて口をつぐむ。チカちゃんはあたしの葛藤など筒抜けだ、という顔をして苦笑した。

「でも、確かに関西も悪くないかもね」

「でしょ!?おっとりしっとり〜って感じでさ。チカちゃんが近くにいてくれたらあたしもうれしいし……」

志望大学の決まっていない人間にこういうアプローチをするのはずるいな、とわれながら厭らしく思ったけど、チカちゃんはあっさりと「いいよ、じゃあ関西も視野に入れる。私も楓夏がいたら心強いし」と頷いた。

「マジ!?やったー、じゃあ大学生でも校正は頼んだぜ!」

「って狙いはそれか」

チカちゃんが苦笑いする。窓から差し込む陽射しが輝いていた。十七歳の夏だった。その年齢と季節だけで、十分世界とたたかえると思った。可能性がぴかぴかに光っていると、信じていた。

結局高二の冬の、初めてのマーク模試で、チカちゃんはあたしと同じ大学を第一志望にして出した。返却された結果を取り替えっこして判明した。あたしはD判定でチカちゃんがB判定。一緒に行こうなんて言わなきゃよかったと思ったのは一瞬で、あたしは「チカちゃん!」と抱きついた。絶対成績上げて一緒に行かなきゃ、と誓った。

チカちゃんは相変わらず優等生で、常に文系のトップ層だった。張り出された模試の順位表でチカちゃんが三位になった時、才女だ才女、東大行けるんじゃん!とぎゃあぎゃあ騒ぐと「さっき先生に東大模試のパンフレットもらった」と淡々と返ってきて冗談が冗談にならなかった、という思い出もある。

チカちゃんと春休みにオープンキャンパスに出かけた。古書街で本を一冊ずつ買い、大阪にまで足をのばして観光した。あと一年がんばるエネルギーを注入するみたいに。

あの時のエネルギーが欲しい。なにか、目標に向かってまっすぐ突き進むための巨大な力を欲しい。さほど時間が経ったとは思えないのに、一体どこに消えてしまったのか。

十代の頃、あたしはときどき自分が若すぎることが厭になることがあった。不自由云々が理由なのではなく、「若いからなんでもできるね」という世間の、あたし個人ではなく若者全般にむけられるまなざしが厭だった。あたしが本読みであるせいもあって、若いことが無条件に神聖視されて〈ひかりを目一杯浴びていまを全力で生きている〉というような書き方をされるのを見ては眉をひそめたくなった。

小説ほどじゃなくても、あたしはそれなりに自分の生活や人生を楽しんでいたから、本来なら、そうだよ、いいでしょ、と得意になるべきだったのかもしれない。でも、その理由は若いからとか体力的なエネルギーが余っていたからなんかではないとわかっていた。だからいらだっていたのだ。

〈あのころのきらめきを描いた青春小説!〉なんていう惹句を見かけると、おとなになったら全速力で生きられないんだろうか、とひそかに不安になった。変わりたくないな、と思う一方で、変わらなきゃだめなのかな、とも思った。

あたしはまだ、二十一歳なのに、その頃のことをなつかしんでしまっている。まだまだ走りたいのに。まだまだ走れるのに。


ひたすらエントリーシートをうめていると、チカちゃんがひょいと覗き込んできた。

「どう、進んでる?」

「結構疲れた……」

はいはいお疲れー、とチカちゃんが肩を揉んでくれる。

「楓夏はこういうの得意そうじゃない?」

「自分でもそう思ってたけど……長所とか特技とか結構難しい」

心理描写とか風景素描は得意なんですけどね!と自虐ネタに走る。チカちゃんは笑ってくれなかった。黙ってあたしの髪を梳く。

「楓夏」

春の空に飛び立つ寸前のたんぽぽのわたげのような優しい声に、あたしはどきりとする。髪を触られているから、そこから感情が伝わりそうで怖かった。

「んー?」

「就職しても……文章書くよね?」

慎重な言い方だ。本当はもっと違う言い方をしたいのかもしれない。

作家は続けるの?あるいは、諦めたわけじゃないよね?と。

あたしは少し笑ってしまう。文章なんて書かないから就職するのだ。同時にかなしいと思った。チカちゃんが、こんなすがりつくようなことを口にするような人だとは思わなかったから。

「だって、仕事あっても文章は書きつづけられるし。部活みたいなものだよね」

チカちゃんの声が揺れた。振り返ると、チカちゃんの目が赤く染まっていた。

「チカちゃん?」

「またなれるよ。楓夏には才能あるよ。そうじゃなかったら賞なんて取れない」

あんなにぺしゃんこにされたのに、あたしはまだ、期待されている。それが幸せなのか不幸なのか、わからない。

チカちゃんの言葉はありがたかった。できたてのあったかいわたあめにやわやわとつつまれていくみたいにあまったるい気持ちになる。もっと聞いていたかった。いい気持ちでいたかった。自分が、夢を叶えられた成功した人間なんだと思えるからだ。

でも、もうそれはできない。

「無理だよ」

くちびるの端で笑う。あたしは今チカちゃんをあざわらっているのだろうか。

「もうさ、無理なんだよ。だってうちらもう二十一だよ?やばくない?そろそろ諦めつけなきゃだめじゃん?おとななんだからさ」

チカちゃんがあたしを見据える。本心を見抜こうとするように。

あたしだってこれが自分の本心だとは思えない。でも、夢とか本心とかやりがいなんかでは、もう生きていけない。それはもう、この一年でいやというほど感じてきたことだ。

「だって作家なんて、現実的に無理だよ。食べてけてないし、実際。てかもう作家じゃないし」

「楓夏は作家だよ」

「違うよ。ネット見れば?すごいことなってるからさ。受賞のときもまぁそれなりに叩かれたけどその百倍くらい悪口言われてる」

チカちゃんはあたしから目を逸らさない。眉がハの字になっている。

「楓夏はそれでいいと思ってる

の?」

「……いいも何もないよ。あたしは夢より確実な生活が欲しい。いいかげん保守的に生きたいの、もう」

吐き捨てた言葉を噛みしめる。そうだ、もうあたしは少女小説のなかでは生きられない。チカちゃんだって同じだ。

返事はもうなかった。チカちゃんは立ち上がり、カバンを掴んだ。

なに怒ってんの、とふてくされた気持ちになったが、玄関に向かったチカちゃんがつぶやいた。

「……楓夏」

「なに」

少し身構える。

「ごめん。私結構、楓夏に夢押しつけてたかもしんない」

思いがけない謝罪に面食らい、なにも言えずにいたらぱたんとドアが閉まった。いまからひとりになる合図のように。

ーーあやまんないでよ。

勝手に口がへの字になる。

ーーチカちゃんのせいじゃないし。あたしのせいだし。

思いだす。チカちゃんに初めて自分の書いた小説を読んでもらったときのことを。いま思うととても稚拙な、中学生女子の心のポエムみたいなこっぱずかしいものでしかなかったけれど、チカちゃんは読後こう言った。

ーー楓夏ちゃん、これ面白いよ。ねえ、もっと書いて。あなたの力を世の中に出すべきだよ。

図書室の一件以来、一気に仲良くなったとはいえ、まだ付き合いが浅いのにこともあり、あたしはうれしがるポーズを取りながらも内心、お世辞半分かな、ぐらいに斜に構えて受け取っていた。舞い上がりすぎてあとで落ち込むのが嫌だから。そして、せっかく見つけたチカちゃんというひとを、嫌いになりたくなかったから。

でも、そのうちにチカちゃんがそれを本心から言っていたのだとわかった。チカちゃんはおべっかをあまり言わない。言葉の選び方は誰よりも慎重で繊細だけど、嘘を並べたりはしない。

あたしが持つごくごく小さな才能の放つ、蛍のような淡すぎるひかりに気づいてくれたのは、チカちゃんだけだった。そうなのかなぁ、と頬をふくふくさせて首を傾げるあたしにチカちゃんはまっすぐなひとみで言った。

「たとえ楓夏ちゃんが自分に才能なんかない、って思ってても、私は楓夏ちゃんの書くものには才能があると思うし、楓夏ちゃんの小説のファンだよ。だからずっとずっと書きつづけてね」

あたしは照れてしまい、「ふ、ふうん」などと大した返事は出来なかった。ほんとうは心がひゅうんと空まで飛び去ってしまいそうなくらいうれしかったのに、そのことをチカちゃんに言えなかった。チカちゃんは照れたりせず、いつも言葉を惜しまなかったのに。湯水のように激励と叱咤と賞賛を浴びせてくれた。湯水のようだったからこそ、あたしはいま簡単に捨てようとしている。

ーーごめん。

隣の部屋にいるはずのチカちゃんに頭を垂れた。空の底が夕闇に染まっていた。


久しぶりに書いた。

小説を。

長時間画面をにらんでいるせいで、パソコン用メガネの奥の目がちらちらと勝手に痙攣する。頭も痛い。視神経がどうかなっているにちがいない。強いエナジードリンクを二本飲んだので、うっかり眠ることはないが、疲労が消えるわけではないので、確実に肩にのしかかる。手が止まるたび投げだしたくなったけれど、あたしは必死に食らいついた。

いまやめたらもう書けない、という予感があった。確信と言ってもいい。

賞に送るためじゃない文章を書くのは中学生ぶりだ。プロットもなにも用意してない。けれど不思議とさくさくと進んだ。読んでもらうかも決めていない。でも、書き終わらせたかった。それで決着を着けようとは思わないけど、書かなければいけないと思った。書かなければわからない。だいじななにかが。

ーーチカちゃん、あたし第三審査通ったよー!次で落ちるかもだけど!やばい!

二十歳のあたしの声がする。

ーーえーおめでとう!すごいすごい、賞に近づいたね。もしだめだとしても、ここまでたどり着いたことは絶対収穫あるよ、おめでとう。

中三のときふたりで考えた筆名、「遠峰紗織」はチカちゃんの下の名前である「理紗子」から一文字取った。楓夏の字は入れないの?とチカちゃんが言ったけれど、いいのいいのと決定した。ふたりの名前の合作もいいけれど、いつかペンネームの由来をインタビューされた時、あたしはこう答えるつもりだったのだ。

ーー親友の名前から一文字取りました。こういう人になりたい、と思えるような女の子なんです。

結局、あたしみたいな作家のところにインタビューなんて来なかった。

でも、あたしはまだそれを、チカちゃんに伝えていない。

机の引き出しには、レターボックスがある。チカちゃんがいままでくれた感想の束。授業中回した手紙。推敲のメモ。あたしはまだ、自分の少女の部分を捨てられないでいる。あの頃の夢は、夕方のアサガオのようにひっそりとしぼんでいこうとしているというのに。

キーボードをがむしゃらに叩く。鳥が鳴いている気配がしてカーテンを開くと、もうすっかり朝になり空が白んでいた。からからから、と窓を開ける。生まれたての光の粒をまとった風が、頬を優しく撫でた。


隣の部屋のチャイムを押すと、パジャマのチカちゃんがドアを開けた。起きたばかりの目で、「楓夏?」とたじろぐ。あたしの目の下が真っ黒だからなのか、昨日喧嘩別れしたのに訪ねてきたことに困惑したのか、いまはどうだっていい。

「読んで」

印刷したばかりの原稿の束を渡す。事態が呑み込めない様子で、チカちゃんは戸惑ったままそれを両腕で抱えた。

「チカちゃんごめん」

チカちゃんは困ったようにあたしを見ている。

「あたしに才能あるって言ってくれたのに、あたし作家になれなかった」

「楓夏」

「一緒の大学まで来てもらって、チカちゃんが東京行くの、邪魔しちゃったし」

「それは違うよ」

眉を下げたチカちゃんが、くちびるを開いた。

「私がここに来たかったんだよ」

開けっ放しのドアの向こうで、チカちゃんの頬の産毛が朝陽で金色に照らされている。

「私は楓夏の生き方をそばで見てたかったの。楓夏が夢をかなえるのを、見てたかった」

「……でも東京行ってたら出版社就職もできたし」

「そんなの、べつにいいよ。あたしは楓夏の作品を校正したいんだから」

あたしは洟を啜った。チカちゃんがぽんとあたしの頭を撫でるから、盛大に泣き崩れてしまった。

「チカちゃん〜」

「ほらもう、泣かないで。入んなよ、ね」

チカちゃんが笑いながらあたしを抱きかかえ、中に入れてくれた。

「……チカちゃん」

「何?」

「あたしまだ、作家になりたい。就活はするけど、でも作家になりたい」

チカちゃんがあたしの手をふわっとにぎった。

「なれるよ」

チカちゃんの手のしたで、あたしの手のひらがふるえている。

「楓夏ならなれる。無理して割り切ること、ないよ」

あたしは作家にはなれない。でも、作家になってよかったと、心から思う。

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