第10話 葛湯温泉の隠された効能
〈10〉
しばらくすると源さんは紙袋を抱えて戻ってきた。
「これは……」
「葛粉ですか?」
わたし達の前にドスンと紙袋を置くと源さんが「そうじゃ」と頷く。紙袋の中に入っていたのはお菓子作りに使われる葛粉だった。
「葛粉は溶かして熱を加えるととろみがつく性質を持っていてお菓子作りでとろみをつけたり固めたりするのに使われるものじゃ。代表的なものに葛粉を溶かしてとろみをつけたお湯に砂糖を入れた葛湯や葛粉を水に入れて固めたものをうどん状に細く切った葛きりなどがあるな。旅館に納品している水饅頭にもこの葛粉が使われておる」
「あ、水饅頭食べました」
「おお、うちの水饅頭を食べてくれたか。どうじゃった?」
「とってもおいしかったです」
わたしが言うと源さんがそうかそうかと嬉しそうに頷きを返す。
「それでその葛粉をどうするつもりですか。まさかそれを温泉に入れるって言うんじゃ……」
「まさかも何ももちろん入れるに決まっとるじゃろ。何の為に持ってきたと思っとるんじゃ」
お妙さんが恐る恐る言うのに当たり前というように源さんが言った。それにお妙さんはブンブンと頭を振ると、
「葛粉なんて入れたら温泉がどろどろになってしまいますよ。お風呂に葛粉なんて落語のネタでしか聞いた事がないです」
ありえないという風に否定した。
「ローション風呂にするの? いわゆるスライム風呂ってやつ? でもそれ無駄だよ。スライムはローション風呂でも入れないから、試したスライムがいないわけないでしょ」
それを継ぐようにわたしも否定する。
どろどろとしたローションのお風呂ならスライムでも入れるのかというのはもう大分前に結論が出ている。スライム風呂ならスライムも入れるだろうというのは誰も思いつくような安直な考えだ。かく言うわたしも実際にやってみて無理な事は実証済みである。
「それにローション風呂はわたしが求めてるお風呂とはちょっと違うというかなんというか……」
入浴目的って感じではないよね、ローション風呂は。とわたしが目を泳がせながら言葉を濁していると源さんが「まあまあ、先を急ぎなさるな」とわたしを落ち着かせた。
「モモちゃんは、なぜ葛を使った水饅頭が葛湯温泉の名物になったのか知っとるかな」
「水饅頭が名物になった理由?」
「そう、ちなみに水饅頭が名物として出来たのは葛湯温泉がスライムの療養地として賑わっていた時じゃ」
スライムの療養地として賑わっていた時に出来た名物。となったら理由はもう一つしかないだろう。
「スライムに似てるから?」
数多のゼリー会社が通った道。スライムが沢山いる場所だからスライムに似た水饅頭を名物にしようとしたに違いない。
「それもある」
「それも?」
という事は他にもあるのだろうか。わたしが怪訝な顔をしていると源さんが続けた。
「一番の理由は当時この場所に大量の葛粉が集まってきていたからじゃ。大量の葛粉があったので自然と葛粉を使ったお菓子が作られるようなった。そして、その大量の葛粉が集まってきていた理由がスライム用の温泉なのじゃよ」
「という事は、温泉に葛粉を入れていたのは本当なんだ」
そこまで言うのだからそこに嘘はないだろう。わたしが改めてその事を飲み下していると「だからそう言っておる」と源さんがやれやれと息を吐きながら言った。
「温泉に葛粉を入れていたのはわかりましたけど、それじゃやっぱりドロドロになってしまうんじゃ。スライムはドロドロのお風呂に入っていたんですか?」
お妙さんが言う。お妙さんとしてはやはりそこが気になる所らしい。まあ、お妙さんでなくてもそこは気になる所だろう。わたしだって気になる。
「スライム達は葛湯の温泉でローションプレイを楽しんでたの? ちょっと知りたくなかった真実だなぁ」
「だから先を急ぐなと言っておる」
わたしが冗談混じりに言うのに源さんが目を細めて返す。
「結論から言うと、温泉に葛粉を混ぜてもとろみはつかん」
先を急ぐなと言っておいて結論から言うとはこれいかに。それはともかく、
「え、そうなの?」
「そうなんですか?」
思わずわたしとお妙さんがハモる。その輪唱に源さんは静かに頷くと、
「そもそも葛粉が糊化つまりとろみがつく温度は大体五十五度じゃ。対して葛湯温泉の温度は大体四十二度じゃから葛粉を入れてもドロドロになどなるはずもない」
確かに水溶き片栗粉が存在する以上、片栗粉を水に溶かしてもとろみは出ない。過熱する事で初めてとろみがつくのだ。葛粉も多分同じなのだろう。それが何度なのかは知らなかったけど、少なくとも温泉の温度でとろみがつく事はないらしい。
「それに葛湯温泉の成分によって葛粉は葛粉のまま完全に分解されて溶けてしまうので例え加熱したとしてもとろみがつく事はないじゃろう」
「葛粉は葛粉のまま?」
妙な言い方にわたしが引っかかりを覚えていると、源さんが話を続けた。
「葛粉は本来水に溶ける事がないのじゃよ。熱を加えて糊化させる事で初めて溶けるものに変化するのじゃ。しかし葛湯温泉の温泉水では糊化する事なく葛粉のまま溶ける。そして、その結果葛湯温泉のある一つの効能を劇的に向上させる。それが葛湯温泉にスライムが入る事が出来る理由なのじゃ」
「そ、それはっ」
核心に迫りそうな言い回しにわたしの気分は最高潮。そんなわたしをクールダウンさせるように源さんはまあまあと押し返すと、
「それは、口で言うよりも実際に見てもらった方が早いじゃろう。お妙さんグラスとスプーン、それにコーヒーフレッシュを一つ持ってきてくれんか?」
そうお妙さんに指示を出した。わけがわからないという様子ながらもお妙さんが言われた通りにグラスとスプーン、それにコーヒーフレッシュを一つ持ってくる。
ちなみにコーヒーフレッシュというのはコーヒーなどを頼むとついて来るミルクっぽいけど実はミルクでもなんでもない小さなポーションに入ったアレである。主に食物油と水を乳化剤で混ぜ合わせてミルク色に着色されている。
「おお、ありがとう」
源さんは礼を言ってそれらをお妙さんから受け取ると、つかつかと露天風呂の湯船へと足を進めグラスに温泉水を汲むと戻ってきた。
そしてその温泉水の入ったグラスにスプーンで葛粉を一掬いするとそのままサラサラと入れる。そのままスプーンで渦を描くようにかき回すと一瞬白く濁ったかと思うとすぐに全て溶けて透明に変わった。
それはまるで塩や砂糖を水に溶かした時のようだ。やっぱり片栗粉で例えてしまって申し訳ないけど、水溶き片栗粉はどんなに頑張ってかき回しても透明にはならない。
その事からも何か普通とは違う事が起こっているという事はわかった。そしてそれは次の工程に移ると更に顕著になり誰の目にもはっきりとわかるようになる。
「よく、見ておれ」
そこにコーヒーフレッシュの容器のフタのつまみの部分をパキンと折って開けるとトロリとグラスの温泉水の中に入れる。普通ならばコーヒーフレッシュを入れたコーヒーが茶色に染まるようにコーヒーフレッシュが拡散して温泉水も白く濁るはずである。
しかし、そうはならなかった。
「え? 混ざらない?」
グラスに流し込まれたコーヒーフレッシュは拡散せずに白い玉となって温泉水の中を浮いていた。丁度無重力に水を浮かせた時のようにコーヒーフレッシュがコーヒーフレッシュ本来の形を保持している。
「これが葛湯温泉にスライムが入る事が出来る理由なのじゃ。コーヒーフレッシュのような液体ですら保湿する圧倒的保湿力。元々葛湯温泉は保湿効果に優れた温泉じゃったがそこに葛粉を加える事でその保湿効果は異次元に達する。人間が入る分には保湿効果が高すぎて温泉の効能が浸透していかないので逆効果じゃが、これがスライムとなると実に丁度よくなる」
「葛湯温泉にこんな隠された効能があったなんて……」
源さんが言うのにお妙さんが目を瞬かせながら言葉を零す。
「自分の所の温泉の効能も知らないなんて女将失格ですね」
「スライムが居なくなってからはスライム用の温泉を作る事もなくなってしまったからの。お妙さんが知らないのも無理のない事じゃて」
落ち込むお妙さんをフォローするように源さんが言った。
それも仕方のない事だ。スライムがいなくなってしまったらスライムの温泉を作る技術など伝承していく必要がないのだから。
下手をすれば永遠に失われていた。
でも、こうして覚えてくれていた人が残っていたのは幸運だった。
「とにかく、これでスライムでも温泉に入れるって事なんだよね?」
そして最も重要なのはそこである。
「左様」
わたしが確認するように言うと、源さんが力強く頷きながら言った。
「スライムでも温泉に入れる」
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