第9話 温泉復活
〈9〉
「あ、ああ」
「お妙さん、源泉が」
「温泉だ」
「温泉が出たぞ」
「やっとこれでまともに温泉旅館として経営できる」
長らく使われていなかった温泉用の蛇口から温かいお湯が出てくるのにその場に居る全員が「おお」と歓声をあげた。
仲居の伊藤さんと同じく仲居の小林さんが手を取って喜び、板前長の佐藤さんと板前の鈴木さんが満足気に頷き、支配人の田中さんは泣いている。
「お妙さん」
「ええ、本当によかった。これもモモちゃんのおかげです」
エンシェントドラゴンにお願いしてダンジョンをどかしてもらった後、葛湯温泉の源泉に再び温泉が湧き始めたのを確認してわたし達は葛ノ湯旅館に戻ってきた。
急に温泉が再度湧き始めた事にお妙さんはわけがわからないという様子だったがそこはちゃんと説明をした。
すなわち、温泉が止まっていたのは源泉に住み着いていたドラゴンの作るダンジョンが圧迫していたからで、自分が立ち退き交渉をした結果ドラゴンはどいてくれたという事である。
お妙さんからすればなんのこっちゃであろう。
何しろあれだけ大きく目の前にあった竜の巣も彼女の目には見えていない。特に変わった様子のないごく普通の風景として見えていたはずだ。そんな彼女に更に踏み込んだ概念であるダンジョンを理解してもらうのはかなり難しい。
いつか訪れるとされているレイヤー統合の日まで、人間に本当の意味で幻生を理解はしてもらえないかもしれない。
しかし、それでもわたしは出来るだけお妙さんに正確に事のあらましを伝えた。理解出来なさそうだからと誤魔化したり端折ったりせずにそのままを伝える。
超能力です、魔法です、神通力です。と言って納得させる事は容易い。
でもそれをしないのは草の根スライム時代から続くスライムの精神。たとえ相手が理解出来なくてもそのまま伝えるべしという教えなのだ。そうする事で段々と理解は浸透していくものだとかつてのスライム達が記した書物には書かれていた。
実際、アメリカやヨーロッパではそんなスライム達の活動もあって幻生は学説的地位を得ている。それに対して日本はまだまっさら、もし今ここでわたしが「神通力でなんとかしました、ドヤァ」みたいな事を言おうものならスライムは神になれるかもしれないが同時に人としての地位を失ってしまう。
これから先日本でスライムが人として生きていく為にも、ここで適当な事は言えない。
なのでわたしもそれに則ってちゃんとお妙さんに説明した。それから葛ノ湯温泉の従業員の人達にも説明する。こちらもわけがわからないという表情だったが
、幸いな事にお妙さんも葛ノ湯温泉の人達も真剣にスライムの言う事に耳を傾けてくれるいい人達ばかりだった。
「えっと、ダンジョン?」
「大変だったんですねぇ」
「ドラゴンってのは美味いのかい?」
「ドラゴン見てみたいなぁ」
「何はともあれ、ありがとうございます」
半信半疑ながらも頭ごなしに否定される事はなく受け入れようとしてくれているのは分かる。元々、わたしの方も完璧にわかってもらおうとは思っていないのでそれでいいのだった。
「じゃあモモちゃん。入ってみますか?」
従業員の佐藤さんと鈴木さん伊藤さんと小林さんと田中さんがそれぞれの仕事に戻っていなくなってからもわたしとお妙さんは温泉が露天風呂に溜まっていくのを見守っていた。そして温泉水が岩作りの湯船になみなみと注がれたのを確認すると、お妙さんがわたしに提案する。
「はい、お願いします!」
答えはもちろんイエスである。
何しろこの為に日本の群馬まで来て、山登りをしたりダンジョンを攻略したり頑張ったのだ。当然、入るに決まっている。むしろ入らないという選択肢があろうか。
わたしが元気よく返事をするとお妙さんが団扇やら網やらを持ってきて入浴の準備を整えてくれた。
「ちょっとでも体が溶けちゃうようならすぐに掬いあげますから安心してください。二回目なのできっと大丈夫なはずです」
そう手に魚釣りで使うような網を持って意気込む。
エンシェントドラゴンの話ではスライムが温泉に入っているのを見たという事だったので、多分大丈夫だとは思うんだけど一応である。
万全の体制を整えいざ入浴。
湯船の縁に立つとそのまま温泉の水面に飛び込んだ。
勢いよく上がる水柱。そして、
「モモちゃん、大丈夫ですか?」
やっぱりドロドロに溶けて湯船の隣で伸びていた。
「な、なんで~」
お妙さんに団扇でパタパタと扇いでもらいながら穴の空いた風船のように恨み言を零す。
温泉に勢いよく飛び込んだはいいものの、どういうわけかというべきかやはりというべきか、わたしの体は普通のお風呂に入った時のように溶けて水面に広がってしまった。
幸い今回はお妙さんが予兆が見えた段階ですぐに網で掬い上げてくれたので大事に至る事はなくのぼせたようにぐでる程度で済んでいるけどやっぱり温泉に入る事は出来なかった。
「エンシェントドラゴンはスライムが入ってたのを見たって言ってたのになぁ……」
巨大な体のドラゴンの姿を思い出しながら言う。こんな事で嘘をつくわけがないので、この葛湯温泉で確かにスライムが温泉に入っていた事はあるはずなのだ。
何か間違ってるのか、それとも何か足りないのか。
「なんで、入れないの~」
「ごめんなさい。力になれなくて」
わたしが思い悩んでいると、お妙さんが申し訳なさそうに言った。
「ああ、いや別にお妙さんを責めているわけではっ」
しゅんとした様子で団扇を扇いでくれるお妙さんにわたしが慌ててゼリー状の体をちょこんと尖らせて手を振る。
そんな時だった。
「ほほぅ、これは珍しい。またこの地でスライムを見られるとは」
老人の皺枯れた声が聞こえてくる。
「あ、源さん。いらしてたんですか」
お妙さんが言うと老人が挨拶をするように軽く手を上げた。
「誰ですか?」
わたしが訊ねるとお妙さんが手の平を向けながら紹介してくれる。
「源さんです。葛の湯旅館に古くから水饅頭を納品してくれている老舗のお菓子屋さんのご隠居さんなんですよ」
源さんと紹介された老人は伸びているわたしに視線を移す。
「どうもスライムのお嬢ちゃん」
そして深い皺の刻まれた顔をくしゃくしゃにして笑顔を作った。
「ど、どうも。ええと」
「源さんと気楽に呼んでくれていいよ」
源さんがフランクに言うのにわたしも力を抜くと、
「それでは、わたしの事もモモちゃんと気楽に呼んでください」
わたしが言うと「モモちゃんとは。クラブでめちゃくちゃ可愛い女の子と同じ名前じゃ。素晴らしい」と源さんが満足そうに頷いた。
「モモちゃんはわざわざアメリカからここまで温泉に入りに来てくれたんですよ」
「ほぅ、温泉に」
「色々頑張って温泉もまた湧くようにしてくれて――」
そう言うとお妙さんが源さんにこれまでの経緯を説明してくれた。
「なるほど、温泉が湧かんかったのはダンジョンが原因じゃったか。そうかそうか」
源さんが顎を擦りながら何度も頷く。
「源さんはあまり不思議がらないんですね」
それまでのお妙さんや葛ノ湯旅館の人達はこの手の話に対してどこか雲を掴むような反応を返してきていたがこのおじいさんには全くそういう様子は見られなかった。逆にわたしが不思議に思って首を傾けていると、源さんが「なんて事はない」と微笑んだ。
「わしが子供の頃にはこの辺りにはスライムが多かった。それでわしもスライム達からその手の話をよく聞いておったのだ」
「スライムの療養地だったって」
わたしが言うと源さんが頷く。
「そう、この辺りは日本有数のスライムの療養地じゃった。だから日本中からスライムがよくこの地を訪れておったのだ。葛湯の温泉を目当てにな」
「!?」
温泉という言葉に思わずビクンと反応してしまう。
「モモちゃんも温泉に入りに来たという事じゃが、それは誰かから聞いたのかな?」
「はい、おじいちゃんがよく懐かしそうに話していたので。おじいちゃんは日本からアメリカに移民してきたスライムだったんです。今はもう亡くなっちゃったんですけど」
「ふむ、そうじゃったか。日本からアメリカに渡ったスライムは馴染むのに苦労したと聞く。おじいさまもさぞご苦労なさったでしょう」
「そうだったらしいですね」
わたしも話に聞いただけだけど、スライム大移動時代のスライム達の間では長く出身国の話題はタブーだった。
国を捨ててきたという移民スライムの負い目と受け入れ国側のスライムの目もあっての自主規制が敷かれていたのだ。お母さんが日本に対していい印象を持っていないのもお母さんが子供の頃はまだギリギリこの風潮が残っていたからで、お母さんはおじいちゃんから日本の話など一度もしてもらった事がないらしい。
「だから葛湯温泉の事もスライムの間ではすっかり忘れられちゃったんだと思います」
「しかし、モモちゃんはおじいさまの話を聞いて来てくれたわけじゃな」
「まあ、わたしの頃はもうそういうのなかったので」
それまでの反動からだったのか、おじいちゃんは孫のわたしにはよく日本の事を話してくれた。
わたしがはにかむように言うと、源さんは心底嬉しそうに顔をくしゃくしゃにした。
「スライムが日本を去ってから長くこの地でスライムを見る事もなくなっていたが、またこの地で温泉に入るスライムが見られるとはの。温泉が再び湧いたという話を聞いて来てみれば予想外に面白いものが見られそうじゃ」
そして楽しそうに声を弾ませる。
「あの、源さんでも……」
そんなわたし達の会話に遠慮がちにお妙さんが割って入ってくる。
「モモちゃんを葛湯温泉に入れても溶けてしまって入れないですけど、本当に葛湯温泉の温泉ならスライムでも入れるんでしょうか?」
どこか自信なさげながらもその質問は核心を突いていた。葛湯温泉で昔スライム達が温泉に入っていたのはもう疑う必要はない。でも、現実問題として葛湯温泉を復活させてもスライムが入れる温泉にはなっていない。
しかしその質問に対する源さんの回答は非常に歯切れのいいものだった。
「そりゃそうじゃろう。ただ葛湯温泉の湯を張っただけではスライムの入れる温泉にはならん。スライムが入れるようにするにはもう一手間加える必要があるからの」
「え、そ、それは?」
わたしとついでにお妙さんも思わず身を乗り出す。
そんな逸るわたし達を落ち着かせるように源さんはまあまあと手で押さえた。
「まあちょっと待っておれ、一っ走り家まで戻って持ってくるからの」
そう言い残すと源さんはゆっくりとした足取りでわたし達の前から去っていった。
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