第4話 いざ、入浴!

〈4〉


「おお~」


 お風呂について思わずわたしは歓声を上げる。

 葛ノ湯のお風呂は事前に聞いていた通り露天風呂だった。岩で作られた広い湯船にはなみなみとお湯が蓄えられて周囲を覆う木々などが程よい野性感を生み出している。もう時刻は夜になっているので空には満点の星空が広がっていた。


 思っていたよりも立派な露天風呂だ。


 どことなく時代の年輪を感じさせる趣もある。

 もしかしたらこの旅館は結構歴史がある老舗なのかも知れない。


「さてと……」


 はしゃぐのは終わり。

 普通の人ならば優雅にお湯に浸かり「あら風情があるわね」なんて事を言いながらクロールを始めるのだろうけど、わたしはスライムである。


 入れば溶ける。

 でも、もしかしたら溶けないかも知れない。

 入ってみなければわからないまさにシュレディンガーの猫ならぬシュレディンガーのスライム状態。


 なんでわたしは自分の体で人体実験みたいな事をしているんだと思わないでもないけど今は考えないようにする。

 ちらりと後ろに待機しているお妙さんを見る。


 お妙さんは魚釣りで使うような大きな掬い網を持っている。もし、わたしがお湯で溶けてしまったらお妙さんがあの網で即座に掬い上げてくれる手筈になっていた。


 わたしがアイコンタクトで合図を送ると、お妙さんがコクンと頷く。

 それを確認すると「えーい」とぴょんと跳ねて露天風呂に張ったお湯へと飛び込んだ。





「全く愚かなスライムだ――」

 重苦しい声が聞こえてくる。

「久方振りにこの地にスライムが訪れたかと思えばこのような小娘とは――」

 誰の声だろう。とにかく重苦しい声だ。

「まったく世話の焼ける――」

 ふわりと何かが包み込むような感覚があった。

「まるであやつを思い出させる。気をつけよ二度はないぞ。そう何度も助けてはやらぬからな――」





「……ん」


 わたしが目を覚ますとそこは大広間だった。

 さっきの声……。わたしがキョロキョロとしていると、


「ああ、よかった。目を覚ましてくれて」


 心底ほっとしたような表情でお妙さんが団扇を持っていた。


「ほんとに水あめみたいになっちゃったから心配したんですよ」


 よっぽどドロドロだったらしい。状況から考えるとお風呂に飛び込んだわたしは案の定お湯でドロドロになりお妙さんに掬い網で救助され大広間に寝かされていたのだ。お妙さんから聞いた話も大体そのような感じだった。


 お妙さんが団扇で扇いでくれる風が心地いい。

 わたしが目を覚ますまでずっと扇いでくれていたという事なので本当にありがたい事である。


「じゃあ、ドロドロに溶けたわたしの体が勝手に網の中に入ってきたっていうんですか」


 ただ一つだけわたしが思っていた事とお妙さんの話の中に食い違いがあった。


 わたしはお妙さんが手際よくわたしの体をお湯の中から掬い上げてくれたと思っていたのだが実際はもっと手間取ったらしい。なかなか網の中に入れる事が出来ずにどんどん体が伸ばし棒で伸ばしたみたいに水面に伸びていってしまったのだ。それはもうわたしの体が伸びきって千切れてしまうくらいだったらしい。


 それは、危なかった。

 いくらスライムとはいえ千切れちゃったら大怪我である。

 下手したら死んでいたかも。

 しかし、そうなる事はなくわたしの体の方から勝手に網の中に入ってきたという。


 お妙さんはわたしが自分で入ってきたものと思っていたみたいだけど、お湯に浸かって体が緩くなり始めてすぐにわたしは意識を失ってしまっていたのでそれはありえない。


 ただ感触として消え行く意識の中で誰かがわたしの事を掬い集めてくれたような気がする。それにあの声。幻聴じゃなければ確かに誰かがわたしに話しかけていた。


「あの、お妙さん以外に露天風呂に誰か居ませんでしたか?」


 わたしが訊ねるとお妙さんはきょとんとした表情をした後「いいえ」と首を振った。


「そうですか……」


 わたしは少し考え込む。本当に誰も居なかったのか。


「あるいはお妙さんには見えなかったのか」

「幽霊でもいたんですかね。もしかしてこの温泉呪われちゃってるとか。だから温泉が出なくなっちゃったのかしら」


 自虐的な陽気さでお妙さんが言う。実際お化けのせいにでもしないとやってられないのだろう。はぁと溜息をついた後「せめて温泉が出てくれればもうちょっと活気も戻ると思うんですけど」とうな垂れた。


 幽霊……幽霊か。


「それもありえるかも」


 わたしがポツリと言うとお妙さんがえっという表情をする。


「幽霊というか、ちょっと幽霊に近いものですけど」


 わたしはそう言うと身を乗り出してお妙さんに迫る。


「お妙さん、わたしを温泉の源泉に連れて行ってくれませんか?」

「え、いや、それは危ないですから駄目ですよ」

「わたしどうしても温泉に入りたいんです」


 せっかくこうして長い時間をかけて日本までやって来たのだ。このまますごすごと帰る事なんて出来ない。出来る事は全部やってからじゃなきゃ帰れない。


「お気持ちはわかりますけど……」


 温泉の源泉といえば熱湯噴出す危険地帯。一般人の立ち入りは禁止なのはわかる。なのでお妙さんのこの反応もわかるけど。


「でも、今温泉止まってるんですよね。別に大丈夫ですよね?」

「そ、それはまあ……」


 ちょっと揺らいでいる。もうちょっと押せばいけそう。


「温泉出るようになって欲しくないんですか?」

「出るようになって欲しいですけど……」

「それなら想いは一緒じゃないですか。温泉が出て、もしスライムが入る事が出来たら沢山のスライムが世界中から観光にやってきてこの温泉郷もすぐに昔の賑わいを取り戻しますよ」

「そ、そうですかね?」


 後、もう一押し。


「もうがっぽがっぽですよ」

「がっぽがっぽ……」


 賑わいを取り戻した葛湯温泉を想像しているのかお妙さんがほぅとした顔で頬を紅潮させている。


「だからお願いします。わたしを葛湯温泉の源泉に連れてってください」


 わたしがダメ押しで頼み込むとお妙さんは瞼を閉じて少し考える。それから目を開くとわたしを見てゆっくりと口を開いた。


「わかりました」

「ほんとですか!」

「その代わり、私から絶対に離れないでください。普通に遭難しちゃいますからね。群馬の山林を舐めたら駄目です」

「はい、それはもう」


 お妙さんが注意するように言うのにわたしは元気よく返事をする。わたしだって遭難なんてしたくない。


「それで……うっ」


 源泉に連れて行ってもらえる事が決まって緊張の糸が切れたのかどっと疲れが襲ってきた。さらに身を乗り出そうとした所で地面につっぷして形状保持できないプリンのように潰れる。


「ちょっとモモちゃん。病み上がりなんですから無理しないでください」

「は、はい……」


 考えてみれば露天風呂で海上汚染をする流出オイルのようにビローンと広がったばかり、一旦死にかけた事による体に掛かる負担はかなりのものがあったらしい。


「夜も遅いですから今日はもうゆっくり休んでください。話の続きは明日またしましょう」

「はい……」


 力なく頷く。お妙さんの言う通り体力的にも体が動かない。わたしがぐでーとしていると「あ、そうだ」とお妙さんが厨房に行くと何かを持って帰って来た。


「これ、葛を使った水饅頭なんです。葛湯温泉の名物なんですよ。よかったらどうぞ」


 そう言うとわたしの前に丸い透明なお饅頭を置いた。透き通った中にあんこが入っているのが見える。これは水饅頭と呼ばれるもので日本のスイーツの中ではめちゃくちゃ有名という程でもないけどマニアックという程でもないくらいの立ち位置のお菓子なのだという事だった。


 作り方は葛の粉を溶かしてとろみをつけた液にあんこを入れて冷やして出来上がり。ちょっと見た目がスライムに似ているかも。


 相変わらず潰れたプリンになりながら水饅頭を手に取ると口へと運ぶ。しっかりとよく冷やされたひんやりとした口当たりにぷるぷるとした食感が清涼感を感じさせ、上品なしっとりとした甘みが疲れた体にじんわりと染みこんでくる。


「ありがとうございます。ちょっと元気が出ました」

「それはよかったです」


 わたしが言うとお妙さんがにっこりと微笑んだ。


「旅館の売店でも売ってますから是非買ってくださいね」


 そして宣伝も忘れない。

 葛を使った水饅頭は葛湯温泉を代表する名物で昔は周りの沢山のお店で作っていたらしいが、近年の葛湯温泉の衰退と合わせて作っているお店はもう一つしか残ってないのだという事だった。


 消え行く味というやつだろうか。

 おいしかったし帰る時に一つくらい買って帰ろうかな。そんな事を考えていると、


「じゃあお部屋にお運びしますね」

「はぅ」


 突然持ち上げられる。


「あ、いやでしたか? 動くの大変だろうと思ったんですけど」

「いえ、助かります」


 実際部屋まで動くのは面倒くさいので運んでもらえたら嬉しい。ただ急だったから変な声を出してしまったけど。わたしがそう言うとお妙さんがわたしの事を抱っこして部屋まで運んでくれた。


「いつの間にか布団が……」


 部屋にはすでにふかふかの布団が敷かれていた。わたしが夕食を食べている間に布団を敷いておいてくれたらしい。帰ってきたら風景が変わっていてちょっとビビる。


「うーん、ふかふか」


 さっそくもぞもぞと布団の中へ。

 横になるとすぐにわたしの意識は眠りの中へと落ちていった。

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