第2話 ようこそ葛湯温泉へ

〈2〉


 成田空港から群馬までは高速バスに乗って、それから少ない本数のバスを乗り継いでわたしは目的の葛湯温泉郷に辿り着く事が出来た。


 空港のお姉さんが作ってくれた旅のしおりはとても丁寧なものだったので途中怪しい所はあったもののなんとか迷う事はなかった。さすがにバスに乗っていて周りが森ばかりになった時は少し焦ったけど群馬とはそういう所だとネットで事前に調べていたので必要以上に取り乱さないで済んだ。


 看板に〈ようこそ葛湯温泉郷へ〉の文字を見つけた時は心底ほっとしたものだ。


「ここが葛湯温泉……」


 空港のお姉さんが言っていた通り葛湯温泉郷は寂れていた。人通りはなく通りには沢山のシャッターが閉められた建物が並んでいた。もはやほとんどゴーストタウンである。この分では温泉が出なくなってしまったというのも本当の事かも知れない。


「ま、まあ、温泉がなくてもせっかくのおじいちゃんの故郷だし」


 最悪それだけでも来た価値はあるというものだ。不安になりがちな心を無理やり明るくすると、気を取り直して街の中へ。


「まずは宿を探さないと」


 ちなみに泊まる宿は事前に予約してある。探すまでもなく予約してあった宿はすぐに見つかった。というのも営業していた宿がそこしかなかったからだ。


 仮にも観光地なのに営業している宿泊施設が一つというのはこれはかなりやばいのではないだろうか。まあ、今更だけど。


「すみません、予約していたモモという者なんですが」


 宿の入り口で掃き掃除をしていた女性に声を掛ける。


 綺麗な着物姿の女性はわたしに気がつくと、はっとした表情を浮かべて箒を持ったまま慌てて建物の中へ入っていってしまった。どうやらわたしの事を見てびっくりしてしまったらしい。


 まあ、この国ではスライムはかなり珍しい存在だから仕方ない。まして温泉街にやって来るスライムなんてそうは居ないだろうから思わずびっくりしてしまうのも無理はないのかも。


 程なくして着物の裾をパタパタとはためかせながら戻ってきた。


「は、はろー。あいふぁいんせんきゅー、えんどぅゆー?」

「……あの」

「うぇ、うぇるかむさんきゅー、おーいえー」

「……いえ、あの」

「こ、困ったわ通じてないみたい。め、めいあいへるぷゆー? おーけー?」

「日本語できますから」

「そう……日本語が。……え?」


 わたしが言うと着物の女性がキョトンとした顔で手元に持った日常英会話のミニブックとわたしの間で視線を行き来させる。


「失礼しました。日本語できるんですね。外国のお客様が訪れるなんて滅多にないものだから私慌てちゃって」


 え、そっち。どうやら彼女がてんぱっていたのはわたしがスライムだからではなくて、外国人だったかららしい。日本ではこっちのパターンもあるのかとわたしが知見を新たにしていると着物の女性はすぅと一つ深呼吸をした。


 それから居住まいを正すと、


「ようこそ葛ノ湯旅館へ。私は当旅館の女将をしております妙と申します。モモ様、歓迎いたします。さ、早速お部屋にご案内しますね。えっと、お荷物は?」

「あ、ちょっと待ってください。今出します」


 わたしはゼリー状の体をもぞもぞと震わせると、ズズズと体の中からトランクを吐き出す。


「す、すごいですね」

「スライムですから」


 キリッと決めた所で荷物を手渡す。ちなみにスライムは自分の五倍程度の大きさのものならば飲み込んで持ち歩く事が出来る。


 どうして自分の体積以上の荷物を体の中に入れておけるのかって? スライムはみんな体の中に四次元胃袋を持っているのだ。しかも牛みたいに何個もあって用途によって使い分けも可能。


 大体のスライムが一つは食べ物用に使って他は荷物運搬用に使っている。

 うーんスライムって便利。


 女将さんに部屋に案内してもらう。女将さんはどこかおっとりとした和服美人だった。周りのみんなからはお妙さんと呼ばれているという事だったのでわたしも彼女の事をお妙さんと呼ぶ事にした。


 その代わりわたしの事は気楽にモモと呼んでいいですよと言う。モモ様とずっと呼ばれ続けるのがなんかちょっとむず痒かったからだ。


 最初はお妙さんも「お客様なので」と抵抗があったようだけど、わたしがぜひにとお願いするとモモちゃんと呼んでくれるようになった。


 案内された部屋はしっかりとした和室で窓から葛湯温泉郷のレトロな景色を見る事が出来る。今でこそ寂れてゴーストタウンのようになってしまっているが、その景色からはかつては温泉郷として賑わっていた名残のようなものを感じ取る事が出来る。


 空に目を向ければトールキン帯の虹色の光がキラキラと輝いていた。


 わたしの生まれたアリゾナ州も晴れた日になると空にトールキン帯がよく見える場所だった。もしかしたらこの葛湯温泉郷もトールキン線量が比較的多い地域なのかも知れない。気のせいか体調もちょっといいような。


 しばらく部屋でゴロゴロしているとお妙さんがわたしを呼びに来た。


「モモちゃんお食事の準備が出来ましたので、大広間の方にいらしてください」


 あ、もうそんな時間なんだ。わたしが葛湯温泉に着いたのは色々と道中まごついたせいでかなり遅かった。その為、わたしが着いてすぐに夕食の準備をしてくれていたようだ。


 食堂に行くと大広間に一人分の食事が用意してあった。え、もしかして今日泊まってるのわたしだけ? まさかの貸し切り状態に面食らいながらもそそくさと夕食の用意された席の前へ。


 メニューはすき焼きに天ぷら、山菜の炊き込みご飯に貝のお味噌汁。それにデザートで白玉汁粉が付いている。これぞジャパニーズ旅館料理。すき焼きは一人分の小さな鍋で固形燃料を使って煮立たせるタイプ。やっぱり旅館と言ったら固形燃料だよね。これだけでテンション上がってしまう。アメリカで予習してきた通りである。


 わたしが固形燃料で盛り上がっていると、女将のお妙さんと板前さんと仲居さんと支配人さんがやってきた。

 それぞれ向かいの席に座ると改まった表情でお妙さんが話し始めた。


「本日は当旅館にお泊り頂きましてありがとうございます。こちら板前長の佐藤さん、こちらは板前の鈴木さん、こちらは仲居の伊藤さんと同じ仲居の小林さん、こちらは支配人の田中さんです」


「こんにちは佐藤です」

「こんにちは鈴木です」

「こんにちは伊藤です」

「こんにちは小林です」

「こんにちは田中です」


「は、はぁ」


 ちなみにこれでこの旅館の全従業員らしい。よほどお客さんに飢えていたのか全員で挨拶に来てくれたようだ。


 しかし意外とこの旅館従業員が多い。


 いやまあ、この規模の建物ならこのくらいは居て普通……というかむしろ少ないくらいだと思うけど、何しろ今日のお客さんはわたし一人である。一人相手にこの数でもてなされると過疎地のガソリンスタンドで無駄に全員で窓を拭いてくる店員を思わせる。


「佐藤、鈴木、伊藤、小林、田中……」

「さあモモちゃん、冷めてしまわないうちにどうぞお召し上がりになってください」


 わたしが必死に顔と名前を一致させていると、女将のお妙さんがそう言って仲居の伊藤さんに固形燃料に火を付けるように指示を出した。すると仲居の伊藤さんが仲居の小林さんに固形燃料に火を付けるように指示を出して仲居の小林さんが固形燃料に火をつける。固形燃料に火をつけた事を仲居の小林さんが仲居の伊藤さんに報告をすると、仲居の伊藤さんが女将のお妙さんに固形燃料に火をつけた事を報告した。


 それを受けて女将のお妙さんが「よく煮えたらお食べになってくださいね」とわたしに微笑みながら言った。


 こ、これがジャパニーズTETUDUKI。

 かの噂に聞く日本の意思決定の伝統様式。それを生で見られるなんて感動である。


 ではお言葉に甘えてとゼリー状の体をツンと尖らせてお箸を握る。

 そこでふと全員の注目がわたしに集まっている事に気が付いた。


 どうやらアメリカスライムであるわたしがどのようにご飯を食べるのか気になっているようだ。ふふん、ならば見せ付けてやらねばなるまい。家で自炊している時のわたしはとりあえず料理を皿に持ってガバッと覆いかぶさって取り込んで終わりだが今日のわたしは一味違う。


 何しろ今日のこの日の為にお箸の使い方をみっちりと練習してきたのだから。

 さあ、わたしの鮮やかな箸使いを見るがいい。


 わたしはさっと手際よく刺身を一切れお箸の先で掴むとそのまま醤油の入った小皿にちょんちょんとバウンドさせるとそのまま一気に口の中へと放り込んだ。

 おお。という歓声が周りから巻き起こる。


「なんという箸捌き」

「アメリカ人なのにお箸使えるんだ」

「スライムなのにお箸使えるんだ」

「スライムってあんな上品にご飯を食べるのね」

「ビューティフォー」


 溢れ出る賞賛の嵐。


「訓練してますから」


 キリッと表情を決めるとカチカチとお箸を開閉させる。異国の地で祖国とスライムの両方のイメージアップに貢献するわたしめっちゃ偉いと思う。外食でガバるガバラーのスライムはちょっとはわたしを見習うべき。


 わたしがふふんと満足気にしていると、


「さあみんな、あんまり見てたらお客様が食べづらいでしょ。そろそろお仕事に戻ってください」


 お妙さんがそう言うと名残惜しそうに旅館の従業員達が去っていった。別にわたしは見られながらでも特に気にしてなかったのだけど、まあ確かに全員に見守られながら食べ続けるというのもなんだかおかしな話なのでその心遣いがありがたい。


「じゃあ、ごゆっくり」


 そう言い残すとお妙さんも去っていった。

 大広間にはわたし一人。


「あ~、緊張した~」


 一人になって思わずぐでる。いくら練習をしてきたと言っても本番でお箸をうまく使うのはものすごいプレッシャーだった。緊張の糸が切れて足元から潰れたお饅頭になってしまうレベル。


 そんな感じでぐでっていると、グツグツとすき焼きが煮えたらしい。

 割り下のいい匂いが鼻腔を擽る。


「……誰もいないよね?」


 わたしはキョロキョロと周囲を確認してから。


「いっただっきまーす!」


 ガバァと投げ網のように体を大きく広げると、そのままテーブルに並べられた全てのお料理に覆いかぶさった。

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