夜明けの祝福

@_naranuhoka_

夜明けの祝福

2013年執筆


 十七歳まではまだ少女。でも十八歳からはもう少女じゃなくなる。それから先はなんて名前でくくられるのかはまだ知らない。たった十二ヶ月経つだけで、わたしがいる階段の段数は、陽だまりの踊り場から一段上がってしまう。

 桜はもうすぐ咲く。ちょうど教室から見える中庭の大きな桜の樹の枝や幹は、花を咲かせる用意をして、ほんのりと土色に薄紅色を透かしている。血が通っているみたいだ。春の色は生きているから、とてもやさしい。 あの桜がようやく咲く頃には卒業してしまっているけれど、固い蕾がほころびる頃には、わたしは少女じゃなくなっている。十八歳まであと六日。いまはまだ、十七歳と三百四十九日。

 卒業式の翌日、わたしは十八歳の誕生日を迎える。


 高校生活三年間、最後の一年間は文字通り飛ぶように過ぎた。情報で習ったパソコンのフォルダみたいに、記憶がぎゅむっと圧縮されたみたいだ。あんまり矢みたいに一瞬だったから、三年生になってからの記憶はまだ思い出に風化していない。だから、懐かしいなんて感情はほとんど沸いてこない。まだ、国立大の前期の合格発表が終わっていないせいだろうか。

 センター試験も前期試験も終わり、教室はクラス替えしたばかりの四月の頃と同じような空気に包まれている。春からも一緒だかんな、同じ予備校行こうな、なんて自虐的な冗談で男子が盛り上がっていたりする。前期試験が終わってからずっと、前日にインフルエンザにかかったことでふさぎこんでいたクラスメイトの女の子も、吹っ切れたのかいまはグループの子たちと高らかな笑い声を上げてお弁当を食べていた。

 三月上旬うまれのわたし以外のみんなは、もうとっくに十八歳になっている。だからもう、制服を脱いでおとなになる準備をして未来を待ち構えている。 でも、わたしはまだスカーフにすっぽり守られた子供のままだ。スカーフが取れる卒業式、わたしはすこしは変われているのだろうか。

 あちこちに卒業の匂いがする。わたしたちが受験しているあいだ後輩が掃除した校舎のよそよそしい清潔さとか、回ってくる色紙の色とりどりの文字とか、先生たちの三年生を見る暖かい目とか、ブラスバンドが練習している仰げば尊しとか。そういうのが、わたしたちをかりたてている気がする。卒業の気分になるように。

  さっきクラスの女の子から回ってきた色紙は、まだ机の上にある。クラスメイト全員ぶんのかこみが初めからつくられていて、真ん中の方から順にカラフルに埋まっていた。 卒業してもまたあそぼうね、と、一年間ありがとう、のあいだくらいの親密さって、なんて書けばいいのかわからない。そんなに仲よくはない、けどメアドは知ってるし朝玄関で会ったら「おはよう」くらいは言う。ちかしいのもそっけないのもいやだ。でも早く埋めて次の出席番号の子に回さなきゃいけない。

 結局、迷いに迷ったけれど「一年間ありがとう。卒業してもお互いがんばろうね」と無難過ぎることを書いて次の子に回した。わたしには、クラスメイト全員ぶんの寄せ書きをもらいたがる子の気持ちがよくわからない。半数以上が別に中で仲よくない人なのに。

 卒業アルバムができあがったら、白いページもみんなで埋めるんだろう。みんなにとって、そのページがどれだけ多くのカラフルなメッセージで埋まっているかが重要なのだ。ちょっとでも余白があったら、友達が少ないみたいではずかしいらしい。ほんとうにメッセージを書いてほしい人なんて数えるほどしかいないわたしには、到底わからないけれど。

「津川! 学食、三年は半額らしいぞ! 卒業割引!」

ふいに隣のクラスの男子が入ってきてさけんだ。後ろの黒板に落書きしていた津川くんは「まじか!」とすぐさま反応して、ドラえもんを描いていたチョークを放り出し、「え、ちょ、いま行く!」と席から財布を取って教室を飛び出していく。

「アホだ」「なぜ信じる」などと、一緒にラクガキしていた男子はけたたましく笑い、後を追って廊下に出ていった。「バカ!お前、マジバカ!」「そんなうまい話あるか!」と、廊下から笑い声がかさなって聞こえてくる。

ぎや~はははは、と爆発するような大きな笑いが起こったあと、足音はやがて遠ざかっていった。ほんとうに食堂に行くらしい。「騙されるかね、ふつー」「素直すぎ」とその様子を見ていた女の子たちは苦笑していた。

  津川くんはしょっちゅうみんなからからかわれている。男子からは「天然バカ」と呼ばれ、先生たちにすら「津川はほんとうにバカだ」と授業中ネタにされていた。クラスのマスコット、と言えばいいんだろうか、男子からも女子からもいじられている。津川、津川、とことあるごとに呼ばれ、休み時間、教室からどっと笑い声が起こるときはいつだって、中心には津川くんがいる。なんで笑われているのかわからない、と言いたげな、素で困った顔をして。

 わたしはその表情が好きだ。ほかに、寸足らずのズボンからのぞくくるぶしが好きだ。笑うとすぐ赤く染まる耳たぶが好きだ。半ズボンの体操服姿になった時だけ見える、膝のうらの白さが好きだ。筆箱につけた、汚れたチャーリー・ブラウンのキーホルダーが好きだ。

 津川くんが、好きだ。

 津川くんとは去年から同じクラスで、でも口をきいたことはいちどもない。記憶の中にある、アイドルの雑誌の切り抜きみたいにかさなっている津川くんは、横顔か、背を向けているものばかりだ。 でも、津川くんの声を聴いているだけで幸福な気持ちになる。津川くんの意外と低い声がわたしの中に積もっていくのがただ好きだった。その中に自分に対して向けられたものはひとつだってないけれど、わたしの中には津川くんがいっぱいで、溢れだしそうだ。

 さっきの色紙の中にも、津川くんが書いたメッセージがあった。「一年間ありがとね~」という、男子らしい最小限のひとことだったけれど、それでもうらやましくってしかたなかった。津川くんの文字を、言葉を、誰にも見せたくないと思った。

 わたしだって、津川くんの言葉が欲しいのに。でも、わたしは色紙を回さない。

 たぶん、卒業アルバムも、せいぜいクラスの女の子にしか埋めてもらえない。 ねじれの位置みたいに、接点をなにも持たないまま、わたしたちは大学生、あるいは予備校生になってしまう。「高校の同級生」という、ただひとつわたしたちを結びつけている細い糸が、卒業式に断ち切れてしまう。

  去年まではみんなに同じ春が来た。春はひとつしかなかった。 でも、今度は二百四十人ぶんの春がそれぞれにやってくる。エンドロールが開けたら、わたしたちはみんな、紐を解いたネックレスのビーズみたいにばらばらになってしまう。


 塾から帰り、九時過ぎの遅い夕食を食べていると、「ただいま~」と軽やかな声がした。「あーさむ、お母さんお茶ちょうだいお茶」とお姉ちゃんがスリッパを鳴らしてダイニングに入ってくる。お茶を受け取り、飲みほす。

 東京の大学に通うお姉ちゃんが帰ってきて一週間経つ。大学は春休みが早い。わたしが第一志望の前期試験にぴりぴりしていたのにも関わらず、お姉ちゃんは帰郷してからずっと地元の友達と遊んでいた。そしてたぶん今日も。

「どこ行ってたの?」

「サイゼ。あと居酒屋。中学の友達と集まって飲んだんだ。超盛り上がったー!」

 ソファーにどっかり座って、するするとストッキングを脱ぎだす。「楓、行儀悪い」とお母さんにたしなめられても、平気な顔して生足になった。お姉ちゃんを見ていると、大学生ってほんとうに自由なんだなぁと思う。

  違う、そうじゃない。お姉ちゃんは高校生の時だって自由だった。塾帰りにマックに寄ったり、彼氏と遊んだり、クラスのみんなと花火をしに海へ行ったり。学校に行くのにも、朝からアイロンで髪をストレートにするので忙しそうだった。

  ふと思い出す。お姉ちゃんが最新のコテを買ってきたのは高校二年の時だった。「うわっすご!熱い熱い!」などとはしゃぎながら洗面所の鏡でコテと格闘していた。首にやけどをつくったり髪を焦がしたりしていたけれど、お姉ちゃんは三日で使いこなせるようになり、内巻きも外巻きもきれいにつくれるようになっていた。

 いちど、「泉もやってあげようか?」と誘われたけれど、「わたしショートだから、いい」と断った。髪が長くなったら巻いてもらおう、と思っていた。でも、お姉ちゃんはもう誘ってはこず、わたしの髪も肩を過ぎることはなかった。去年、受験勉強の時邪魔になるから、とせっかく伸びかけていたのに切ってしまったのだ。

 受験生のあいだ、いちども美容院に行かなかった髪は、肩のあたりを少し過ぎるくらいまで伸びた。いまなら、巻いてもおかしくないかもしれない。 卒業式の日、お姉ちゃんに「巻いて」って頼もうか。

 お姉ちゃんのときは、五時起きして朝からみつあみを編み込んだり、巻いたりしてかなり本格的な髪型にして卒業式に出ていた。夜、打ち上げから帰ってきた頃にはすっかりケープも取れ、なぜかポニーテールで帰ってきたけど、見せてくれた携帯の写真では、友達の中でお姉ちゃんの髪がいちばんきれいに巻かれていた。

「楓、ごはん食べないんならお風呂入っちゃいなさい」

「えっあるの? 食べる食べる!」

 お姉ちゃんがシチューだけよそってわたしの隣につく。「外に食べてきたのに、太るよ」とお母さんに意地悪を言われても、ふひっと笑うだけ。わたしだったら我慢して食べない。たとえ大好物のシチューでも。

「あーあさり入ってる! 今日シーフードじゃん、やりぃ」

 スプーンをかちゃかちゃ鳴らしながら、お姉ちゃんはいちども我慢なんてしたことがないみたいな笑顔でシチューをたっぷりと食べる。わたしは少しだけ残ったシチューの底を見下ろした。

「ごちそうさま。……お姉ちゃん、貝柱食べる?」

「食べる! あたし貝柱めっちゃ好き!」

  貝柱のかたまりをお姉ちゃんのお皿に移す。貝柱はわたしだって大好物だ。だから残して最後までとっておいていた。 でも、これはお姉ちゃんが食べるべきなんじゃないかとふと、思ったのだった。お姉ちゃんのほうが大好物を食べるのにふさわしいひとのような気がした。

  スプーンで貝柱をよそってお姉ちゃんのお皿に移す。この世界はわたしよりお姉ちゃんに似合うものばっかりで、いやになる。


「イズ!」

白い蛍光灯の光がリノリウムの床にはじかれている、八時すぎの薬局。わたしが並んだレジにいた店員の女の子がぴょんと顔を上げた。

 まんまるなくりくりまなこと真正面から目が合う。あっと声を上げて彼女をゆびさしてしまった。

「え……多香子? うっそ!」

  こんなところで会うかー!信じらんない、あんたほんとにイズ? 多香子は変わらない笑みを浮かべながら、キリシトールガムと紅茶をレジ袋に入れる。わたしはしましまエプロンの幼なじみをあらためて眺めた。

「え、ここでバイトしてんだ?」

「ん。あと少しで終わるからさ、ちょっとそこで待っててよ」

すみのベンチに移動して座り、買ったばかりの紅茶を開けた。『33Hの卒業打ち上げ決行決定!希望場所受付中』というメールが一斉送信で届いているのを確認して携帯を閉じる。

 少し紅茶を口に含んだところで、「イズ~」と多香子が荷物を抱えて駆け寄ってき た。勢いのままわたしに体当たりする。

「もー超ひさしぶり。イズ変わんないな! 元気してた?」

「そういや多香子と会うの、ほぼ半年ぶりだね」

  家すぐ近くなのにね~、とわたしたちは大きな声を上げて笑う。子供のように、遠慮なく。女子高生らしいことをするのはずいぶんひさしぶりだ。

  多香子は幼なじみで、家も近所だから、昔はしょっちゅうお互いの家に出入りして遊んでいた。わたしとお姉ちゃんと多香子で三姉妹のようにくっつき回っていて、わたしのことは「イズ」、お姉ちゃんのことは「かえちゃん」と呼び、近所のほかの子もまじえて鬼ごっこしたり缶蹴りして遅くまで遊んだ。毎日が楽しくて楽しくて仕方がない、朝が待ち遠しくてたまらない日々が、わたしにもあったのだ。

「やっぱ高校違うと会わないな。あんなに飽きるほど顔見てたのに」

「多香子が制服重視する! とか言って遠いとこ行くからじゃん」

  だって近くのってどこもめっちゃださい! 言うたらあんたのとこのセーラーも微妙だし!と笑うのでわたしは肘でどついてやった。幼なじみって特別だと思う。小学校とか中学校でもほかに仲のいい友達はいたけど、学校が別れてしまうと、たまに会ってもなんだか最近は話があんまりつづかない。思い出を語り合うぐらいで、共通項がなくなるとふいに沈黙になって、同級生の時にはありえなかった気まずさに包まれたりする。

 でも幼なじみは、ブランクとか関係なくいつも同じ距離感がある。そのことに、すごく、安心する。 わたしたちは先を争うようにして近況報告した。岩川と真子、中二から付き合ってたのにとうとう別れたらしいよー! うっそマジで! 多香子は自分のことはほとんどしゃべらず、噂話ばかりしゃべる。受験の話題を、わざと避けていることくらいわかっていたし、多香子は推薦で短大合格が決まっていることは秋にお母さんから聞いていた。だからわたしから切り出さなきゃいけないのはわかっていたけど、多香子が次から次に話をするので、わたしはなかなか言い出せなかった。

「受験さ。K大受けたんだよね」

 多香子の話が途切れるのを待って、とうとう切り出した。多香子がほっとしたような表情と驚いた表情を一緒に浮かべる。ほんとうは、わたしが話を遮るのをずっと待っていたんだろう。

「え、マジか。すんごいね、さすがじゃん」

「いやいやいや、まだ受かってないからすごくないって。多香子、推薦受かったんだよね。おめでとう」

 えへへ、と多香子が笑う。真っ黒になって遊んでいたわたしたちも、大学生になった。時間ってなんて残酷なんだろう。

「K大ってことはさ、東京だよね」

「……うん」

「楓ちゃんと一緒に住むの?」

  多香子の声は作りたてのわたあめみたいだ。ふわふわと包み込むようにやわらかい。

「……ううん、お姉ちゃんとはまた違うところに住む。離れてるからさ」

「そっかあ」

  いつから多香子はお姉ちゃんのことを「かえちゃん」と呼ばなくなったんだろう。お姉ちゃんがわたしたちと鬼ごっこや缶蹴りをしなくな り、マンガより雑誌を買うになって、外でなわとびするよりも友達とプリクラを取りに行ったりするようになってから、だろうか。

「卒業かぁ」

 わたしの声は、夜の薬局の雑音にかき消されそうになる。

「ほんと早いな」

 でも大学楽しみ!と無邪気に多香子は笑う。わたしはその声の余韻が完全に空気から消えるのを待ってから、こわいよ、とつぶやいてみた。そうだね、と言ってくれるのを待っていた。

 でも多香子は「大学生になったらやっと自由になれるね、うれし」とほんのり笑うだけだった。


 三年前の春。高校に受かった時、わたしはうれしさよりもまず不安におそわれた。勉強についていけるだろうか。まわりの子とうまくやっていけるだろうか。高望みしないでもう一ランク下の高校を受ければよかったんじゃないか、などと春休み中ずっと不安でいっぱいだった。

 四月から学校が始まっても、変わらなかった。 わたしはその不安や心配を、大学生になっても繰り返すのだろうか。

  中学も高校も大学も、わたしは未知の扉が怖かった。また1から始めなきゃいけないのかと思うと、おなかがしくしく痛んだ。

 どうしてわたしは変われないのだろう。お姉ちゃんやほかのみんなみたいに、まわりの変化を楽しめないんだろう。 わたしだって昔はこうじゃなかったはずなのに。

 いまではいつも鞄の中に痛み止めの薬が入っていないと不安になるくらい小心者で神経質で、怖がりだ。

「ただいま」

 よろよろとリビングに入る。めずらしくお姉ちゃんはわたしより先に帰っていた。「おかえりなさい」とポッキーをかじりながら言う。目はテレビに向かっていた。

「遅かったねー。どっか行ってたの?」

「ドラッグストア寄ってた。……あ、そうだ、久しぶりに多香子に会ったよ」 「へー。元気にしてた?」

「うん」

なつかしいね、と言ってポッキーに手を伸ばす。あんまり興味がなさそうで、多香子のバイトや短大のことをしゃべろうとしてたのを飲み込む。

昔のことをかんたんに忘れてしまうお姉ちゃんがうらやましい。うらやましくて、憎たらしい。

「……お姉ちゃん」

「うん?」

テレビからの光で、お姉ちゃんの明るいブラウンの髪にきれいな天使の輪が浮かんでいる。シャンプーのCMみたいだ。

「やっぱ、いいや」

 ダイニングテーブルの上にあったラップのかかったお皿をレンジで温める。窓ガラスに映るわたしの髪は真っ暗だった。その横に小さく映るお姉ちゃんの栗色にひかる髪。

  姉妹なのに、わたしたちはぜんぜん違う。

レンジから温まったお皿を取り出す。鶏肉とレンコンの甘辛煮、わたしはあんまり好きじゃない。

「今日さー、高校の時の友達にあったんだけど、これもらっちゃった」 と、お姉ちゃんがこちらにやってきて何か差し出した。

「……なに」

「カラオケのクーポン。わたしもう少ししたら帰るし、地元のカラオケのだから要らないんだよね。泉の高校から近いし、いいじゃん」

 だからあげる、と差し出される。

「いい」と断ると、「遠慮すんなってー」と、笑って押しつけられた。 「卒業式のあととか、どうせみんなでカラオケとか行くんでしょ?これ大人数対応だから持ってたら重宝されるよ~」

 にこにこと無邪気に笑う。お姉ちゃんは知らないのだろうか。クラス会や打ち上げに参加しない人もいるんだってことを。そういう選択があるということさえ、お姉ちゃんは知らないのだろう。知らないで生きてこられたんだ、とも思う。

「……いいってば。わたしカラオケなんてほとんど行かないし」

「え!? 信じらんない、何で!?」

  返事をしなかった。しゃくしゃくしゃくん、とレンコンを噛むと、すじが前歯に挟まった。繊維がからまるからむかしから苦手だ。

「まーあたしが持ってても正直意味ないし。取り敢えず持ってればいいんじゃん? ね?」

勝手に決めて、クーポンをテーブルに置いてリビングを出ていく。わたしはやたらカラフルなクーポンの束を見下ろした。

 ふっと、さっき届いていたメールを思いだした。そして教室で聞いた津川くんの声を、思い出す。

  行こうかな。クラスの打ち上げ。


「卒業式の打ち上げ六時からココスね! カラオケも行くよー!」

 昼休み、クラスの副組長の女の子の声に、即、地割れのような歓声があちこちからひびいた。行く行く行くーっ!と津川くんがぴょんぴょん跳び跳ねて誰かにはたかれているのを、視界の隅で、捉える。

「予約するから、参加する人挙手してね!」

 はい、はい、とみんなが一斉に手を挙げている。超たのしみ、俺ココスのハンバーグ大好き!と津川くんがさけんでいる。じゃあハンバーグない店に変えようぜ、とほかの男子が笑っている。

 わたしは携帯をポケットの中でにぎりしめたまま、左手を外に出せずにいた。もう全員参加ってことでよくね? そう誰かが言ってくれればいいのに。でもみんななにも言わない。

 わたしは手を挙げられない。副組長は教室を見回した。

「これでぜんぶ?」 谷田ちゃん、と小さく呼んだ。わたしも行くかもしれないから数に入れといて。そう言うつもりだった。でも副組長はわたしの声に気づかず、「じゃあけってー。部活のお別れ会終わったらすぐ集合ね」とメモを閉じてしまった。

「酒飲みたい!」「持ち込むなよ津川!」――騒いでいる誰一人、わたしのか細い声に気づかない。

 お姉ちゃんからもらったクーポンは、鞄のポケットに入れてある。昨日、結局もらって束ごと入れておいた。 でもわたしには使えなかった。

 三月の空は水でできているみたいにたっぷりと青い。表面張力でぷるぷるふるえてるみたいだ。

 立ち上がって教室を出た。 わたしはお姉ちゃんになれなかった。 どうして、お姉ちゃんみたいになれるかも、なんて一瞬でも思ったんだろう。


 幼い頃、わたしたち姉妹はよく入れ替わりごっこをして遊んだ。「どっしーん」と言いながらお互いぶつかって、中身を入れ替わって遊ぶのだ。お姉ちゃんはわたしの本を読んで、わたしはお姉ちゃんの自由帳に絵を描いた。お姉さんぶって「いずみ」と呼べるのがうれしくって、お姉ちゃんに「おねえちゃん」って呼んでもらうだけで胸がどきどきした。ときどき、多香子の前でやってみせて、ほんとうに入れ替わったんだと信じこませたこともあった。

  わたしは、まだあの遊びをつづけているのかもしれない。お姉ちゃんがこの遊びをしなくなっても、ずっとひとりでお姉ちゃんに入れ替わろうとしてるのかもしれない。

そんなことできっこないのに。

 お姉ちゃんにはかんたんにできることが、わたしにはとっても難しい。スカートをあと三センチ短くすることとか、隣の席の子にルーズリーフを借りることとか、違うクラスに行って大きな声で誰かを呼ぶこととか、男の子に気さくに話しかけることとか、行事ごとの打ち上げに参加することとか。お姉ちゃんにはなんでもないことが、わたしには立ちはだかる壁みたいに思える。

 ベッドにばふんと寝転がった。合格発表は卒業式の次の日、つまり誕生日に発表される。 お母さんは、妹のわたしには地元に残ってほしかったみたいだけど、わたしは東京の女子大の法学部を受けた。お姉ちゃんの大学から、わざと遠いところを選んだ。でも東京には行きたかったのだ。お姉ちゃんのいない、東京へ。 お姉ちゃんとくらべても、負けてないくらいに充実した生活を過ごしたい。泉も楽しそうだね、いいね、ってお姉ちゃんに言ってもらいたい。

 泉と入れ替わってもいいかも、と思ってくれるぐらいに。


  三年生は午前までしか学校はないから、わたしはいつもの半分しか津川くんを見られない。HRのあいだ、机に名前を彫っている津川くんの手の甲に血管がぽこんと浮き出ている。わたしはそれを窓に映してがんばって見ていた。雨の日とか冬の夕方ははっきり見えたのに、春の午前は津川くんを全然うまく映してくれない。カッターシャツの白さだけが薄ぼんやりと浮かんでいた。

  ただ見ているだけなんて、なんて不毛なんだろう。お姉ちゃんならそう言う。津川くんメアド教えてー?って訊きに行く。一ヶ月後には付き合っている。でも、津川くんへの気持ちを認めることでさえ、一年かかった。あとの一年、津川くんだけを目で追いつづけた。窓ガラスの中の、津川くんを。

 津川くんは大阪の国立大学を受けている。教育学部。津川に勉強とか習いたくねー!と男子は笑っていたけれど、わたしは未来の津川くんの生徒がうらやましかった。先生だったら、窓ガラスに映さなくてもまっすぐ見つめていられる。ノートなんか取らずに、わたしは津川くんの声だけに耳を傾けたい。

  わたしは先生に恋するべきだったのかもしれない。先生だったら、挨拶もふつうにできるし、職員室に質問に行けば自然に話せる。バレンタインにチョコも渡せる。最初から恋に片思い以上のことはあきらめているわたしには、それがぴったりだったのに。

 でも、わたしが好きになったのは津川くんだった。朝、玄関で偶然会ってもおはようって気軽に言えない相手を好きになってしまった。

  お姉ちゃんが初めて誰かと付き合ったのは中一の冬、バレンタインの日にクラスの男の子に手作りのチョコを渡してそのまま付き合った。 「なんか思ったより楽しくない、女々しいし」と言って二年生に上がってすぐ別れてしまったけれど、わたしにはお姉ちゃんがまぶしかった。お姉ちゃんが彼氏と一緒に帰っているのを偶然通学路から見かけたとき、わたしはあわてて隠れた。お姉ちゃんは彼氏と楽しげに笑い、ときどき背中をどついたり、腕をつかんでぐるぐる回ったりしていた。小学生のわたしは、お姉ちゃんのことが誇らしかった。

  男の子からも女の子からも人気があって、いつも人といるお姉ちゃんには、全然遊びに行かないわたしがどう見えているのだろう。あたしの妹なのに陰気くさいな、なんてほんとうは思っているのかもしれない。

  わたしたちはたまたま姉妹だったから仲良くできた。もし同級生だったら、お互い違うグループに属して、口もきかなかったにちがいない。


 晴れの日は、心も気持ちよく突き抜けてゆるむ。朝起きた時は、指で髪を梳かすと頭皮が冷たいくらいだったのに、登校する時間には日が出て暖かくなっていた。 お昼はみんな学食に行って、昼休みの教室にはほとんど人が残っていなかった。最後だから、って思うとやっぱり惜しいらしい。わたしはいつもどおり教室でごはんを食べた。

「みんななんだって食堂行くかねー、別に明日だって空いてんのにさ」

 誰かが小声で言う。だよね、とわたしも思う。津川くんも仲間と学食へ行ってしまった。「今日の定食のエビチリは俺のもんだ!」「津川ダッシュ!」――わたしは、津川くんが小さなおにぎりを三口で食べるのを見たかったのに。 午後から卒業式予行がある。学食だけじゃない。もうお弁当も最後だった。 教室の中は、光のこまかい粒がひとつひとつ目に見えそうなくらい明るかった。細胞のすみずみにまでその光が満ちているみたいに、あったかい。 お弁当のナプキンをたたみながら、時計に目をやる。

 まだまだ時間があった。他の子たちもお弁当を終えて携帯をいじっていたけれど、そんな気分になれなかった。ひさしぶりに、なんだかからだが陽射しを求めている。

図書室に行くと、「羽柴さん!あらぁ、ひさしぶりだね」とカウンターから司書の先生が声をかけてくれた。今年はともかく、一、二年生の頃、わたしは図書室の常連だったので名前を覚えてもらえている。

「もうだいぶ来てなかったねぇ。夏から? いやもっとかな」

「本、ずうっと断ってたんですよ」

 読んじゃうと止まらなくなるから、とつづけると、先生は少しだけ気の毒そうな顔になり「三年生だもんねぇ」とうなずいた。

 南の棟の端にある図書室は、教室よりさらにあったかい。さらに、ストーブも焚かれている。塵が日光の中きらきらと舞っていた。わたしは新刊コーナーに目をやる。 ふぅ、と先生が息をついた。

「羽柴さんももう卒業だね」

 わたしは大江健三郎を手に取った。目次だけ見て、戻す。

「早いね、三年間。ついこないだまで一年生だったのに」

  歳は取りたくないね、と先生は優しく目じりに皺を寄せる。

 わたしだってそうだ。わたしはいつも、わたしの時間においてかれている。

「卒業して忙しくなると思うけど、時々は思いだしてね」 先生は眉を下げて微笑んだ。それは、けして忘れられることのない人だけが口にできる言葉だと思う。先生も、ほんとうはそのことをわかってるんじゃないか、そこまで考えて、自分のひねくれた考え方にうんざりした。どうして人の好意を素直に受け取れないのだろう。子供の時から、面と向かって言われる自分への褒め言葉を信じきれない卑屈なところがある。自分に自信がないせいだろうか。

「大学生になっても、頑張ってね」

 わたしはへたくそにうなずいた。大学生になれないかもしれませんよ、なんてへそ曲がりなことを言おうとして口を閉じる。最後の最後に先生を困らせるなんてばかみたい、と思ったからだ。そこまで子供じゃなかった。それに、悲しさとかさびしさはそういう言葉でまぎらわせられるわけじゃない。かえってむなしくなるだけだ。

 チャイムが鳴り、「お世話になりました」と頭を下げて部屋を出た。卒業おめでとう、と背中で声がして、くちびるにきゅっと力を込める。

 ほんとうはおめでたくなんか、ないのに。


「お姉ちゃ、」

 ドアを開けてすぐ、固まってしまった。「え?誰?」「楓の妹じゃね?」――たくさん人がお姉ちゃんの部屋にいる。テーブルの上には缶ビールがたくさんあった。帰ってきた時、なんか靴多いな、とは思ったのだけれど、どうせ物持ちのお姉ちゃんのだろうと勘違いしたのだ。まさかお姉ちゃんの友達が来てるなんて思わなかった。

「んー泉? なに?」

 酔っぱらって赤い顔をしているお姉ちゃんに「なんでもない」とだけ早口で言ってドアを閉めた。自分の部屋に戻る。

  明日は卒業式だから、朝髪を巻いてもらいたくて頼むつもりだった。でも、いいや、どうせ朝頼めばいいし。お姉ちゃんが二日酔いしやすいたちだってことは頭の隅に追いやる。

 制服は、アイロンをかけてハンガーにかけてある。三年間使ったスクールバッグも、学習机のわきのフックにきちんとかかっていた。ローファーも、さっきお母さんが磨いてくれたのが玄関にある。三年前の入学式の前夜となにも変わっていないのに、明日からそれらを必要としなくなる。いったい代わりになにを身につけるんだろう。

 ベッドに寝そべって、携帯を開く。アドレス帳の、〈高校〉のグループで振り分けていたメアドを、一瞬迷ったけれど、どうせ要らないんだから、と思いっ切って全件削除してみた。三十人近くのメアドが消え、アドレス帳が一気にすかすかになった。あまりにあっけなくて、してはいけないことをしたみたいで気持ち悪い。

 次に受信ボックスをひらいて、不必要なメールを削除した。メールの選択削除って、自分で過去を都合よく切り取ってカスタマイズしてるみたいだ。 メールがどんどん消えていく。

 最初は気持ちがよかった。優越感もあったし、胸がすっとした。でも、続けていくうちに自分の表情から弱々しく笑みが失せるのがわかった。わたしが持っていたもののほとんどは、ほんとうはいらないものだったのかもしれない。そんなふうに感じたせいだった。 くやしくなって、途中でやめた。

「持ち物って持ち主をまんま表してるんだよ」と言うお姉ちゃんの言葉を思い出したから、なんて思いたくない。


 いつもより早く目がさめたけれど、張り切ってるみたいだからベッドの中ですこしまどろむ。なんとなく、光が白っぽい。とくべつな日だから、わたしの脳が勝手にそう見せてるだけなのかもしれないけど。

 布団の中で、伸びをして起き上がった。

「……お姉ちゃんは?」

階段を降り、ダイニングに入る。

「楓なら酔いつぶれて眠りこけてるわよ、起きてこないって」とお母さんがお茶を汲みながら言った。 なんか用あった?と訊かれ、べつに、と洗面所に入る。つめたい水で、一気に肌が引き締まった。同時に、頭の隅の細胞からひえびえと冴え渡るような気がした。 棚に置かれたコテがちらりと視界に入る。

  髪なんか巻いても、意味ないのに。なに気合い入れてんの、って笑われるだけだ。なんで最後に巻いてもらおう、なんて思ったんだろう。 はしゃいでいた気持ちが、水溜まりが乾いてくのを早回しで見てるみたいにすーっと自分の中で小さくなって、消えた。

 櫛を通して寝癖を直し、なでつけてダイニングのテーブルについた。お母さんが「泉、今日帰り何時?」と声をかけてくる。

 トーストをかじりながら、遅くなるかも、と返す。

「打ち上げ?」と訊かれ、うんとうなずいてしまった。

「そう。楓の時も遅かったしねぇ、お母さんたちも夜は外で食べてくるから」

  わたしは黙ってコーヒーを飲んだ。

  じゃあ行ってくるね。

  結局お姉ちゃんは起きてこず、そのまま家を出た。春の匂いが風になって鼻をかすめ、髪を揺らす。 巻かなくてよかったんだ、と思う。


  式のあとの最後のホームルームが終わってもみんな教室に残っていた。ホームルームで配られたアルバムをみんなが見てさわいでいる。 「津川やべえ!ピースしながら目ぇ完全につぶってるし」「うっせー!」――わたしはやっぱり、最後まで津川くんの声を拾ってしまう。 式の最中も、来賓の話の時にかくん、とうなだれてしまっている津川くんのつむじだけ、見ていた。

 うちのにも書いて書いてー、と誰かのアルバムとともに油性ペンがあちこちで回っている。「泉も書いてよ」と頼まれ、ちいさいちいさいコメントを、持ち主が誰なのかわからないまま、流れ作業のように残していく。持ち主の子だって、べつに誰が書いたかなんてどうでもいいのだ。ただ余白を色とりどりの文字が埋めていればそれでいい。わたしの、「羽柴泉」の言葉が欲しくてわたしに頼んでくれる子なんていない。

  いつのまにか、わたしのアルバムにもそれなりにコメントで埋まっていた。「33H一生ダチ!」と太いつよいピンクで書かれていたけれど、全然ぴんとこない。一生どころか一瞬だ。こういう定型文を書いたときだけ、わたしたちは仲間とか親友になったりする。

  津川くんに、なにか書いてほしい。べつに書くことなんかなくてもいい、大学でもがんばれよとかそういうのでいいから、わたし個人への言葉なんて贅沢は言わないから、「大学でもがんばれ」みたいな走り書きの一言で全然かまわないから、わたしに言葉を残してほしい。そうしたらわたしは、津川くんを思い出にしてしまえる。感傷とか寂しさとかずっと抱えてきた想いとかを、懐かしいという感情に瓶詰めできるのに。

そう思いながらも、わたしは何にも言えない。言えないから、津川くんはまだ思い出になってくれない。 立ち上がった。アルバムをしまい、マフラーを巻きつけ、鞄を肩に背負う。

 と、 「うわっわわっ」 誰かに背中からぶつかられた。それが津川くんだと知り、津川くんの下で身を固くした。

 からだが心臓になったみたいだ。ばねみたいに体の内側で体当たりを繰り返す。 「ちょっ何すんだよもー、人にぶつかったじゃんか、ちったぁ加減しろよなー」 津川くんが仲間に向かってさけんだ。半分だけわたしを振り返り、「わりーね、羽柴さん」と言う。うん、としか言えなかった。

 顔に熱がうわーっと回ってきて、火がついたみたいに火照る。仲間の元へ戻っていく津川くんの背中を見られなくて、急いで教室を出た。廊下はつめたい空気で涼しいのに、頬の熱は冷ましてくれない。

 初めて名前、呼ばれた。よりによって、最後の日に。

  やっぱり打ち上げ、参加すればよかった。それはいまからでも間に合うから、どうしようかなぁと鞄をぐるぐる回してしまう。なにかしてないと足がふわふわと地面から浮いてしまいそうだった。

 わたしはそういう小さいちいさい幸せで、からだの中がいっぱいに満たされてしまう。最後の最後にこんなことをするなんて、神さまは意地悪だ。

  一階では後輩があわただしく動いていた。部活ごとの送別会の準備らしい。横目で通りすぎ、玄関で靴を替えた。あまりにあっさりしていて、誰かにちょっと待ってよ、と呼びとめられるんじゃないかと思ったけれど、わたしをとめる声なんてなかった。

  外に出る。まったくひとけがなくて、寒気がした。

 桜はほころびかけてはいるけれど、まだつぼみだ。

 まだ三時なのに、どうしたらいいんだろう。

 耳にはまだ、津川くんの声がぶつかった温度ごと残っている。

 

 がんばって六時まで駅近くの市立図書館で本を読んだり後期試験のための小論文の対策をしていたけれど、もう限界だった。集中しようにも、周りの子供がうるさくて、目の前の机にいた学生カップルを見ていたくなくて、立ち上がった。外はもう、昼の名残が夜に押し出されそうになっていて、ぎょっとしてしまう。タイムワープしたみたいだ。

 荷物をまとめて、トイレの個室に入る。マナーモードにしていた携帯を取り出した。

【新着Eメールはありません】

  画面に浮かぶ文字をぼんやり見つめる。やがて暗くなり、消えた。もう打ち上げ始まってるのかな、と思ってみる。やっぱりいまから参加してもいいかな、って幹事の子にメールしたら、すぐに返ってくるのだろうか。

 新規メールを作成し、宛先の〈アドレス帳引用〉から副組長のものを探そうとして、途中であ、と力が抜けた。昨日、クラスメイトのメアドを一掃したことを忘れていた。

 ごつ、と頭を戸にぶつけて寄りかかる。半開きのくちびるから笑いが漏れた。

 ばかみたい。自分から消しておいてやっぱりすがろうとするなんて、かっこわるい。

 代わりに、メール作成をやめて、アドレス帳を開いた。〈西多香子〉を探しだし、通話ボタンを押す。 四コール。なかなか出ない。じれったくて、個室の中をぐるぐるしてしまう。

 七コール目で「はいよー」と多香子が出た。ほっとする。

「あ、多香子ー? ね、いま暇? いまから帰るんだけどさ、よかったらどっかごはん行かない? 卒業祝いってことでひさしぶりに」

「あーっ……ごめ、イズ」

 言葉の途中で多香子が言った。明らかに声に困惑を感じ、はっとする。

 胸を満たしていた熱い高揚が急速に冷めていく。

「私いま部活の送別会で焼肉屋にいるんだわ。悪いけど、あとでね」

その時、やっと多香子の後ろにたくさんの人の声があるのに気づいた。そして、騒がしいJ-POPが流れていることに。

「ごめんごめんほんと。せっかく電話くれたのに」

 顔が真っ赤になるのがわかった。恥ずかしくてしかたなかった。たぁこ、なに電話してんのー彼氏ぃ? 誰かの声に、「違うし幼なじみ!女だから!」と多香子が携帯から離してこたえる。早く切ってしまいたい、と思った。

「ううん、こっちこそ邪魔してごめん。じゃあ、楽しんで」

「じゃーねー」 携帯を切る。通話時間は一分もなかった。

 トイレを見下ろしながら、わたしなにしてるんだろう、と思った。 かし、と髪を掻く。期待していたことへの恥ずかしさよりも何よりも、たったいま起こした行動や言動、自分という人間を心底くだらないと思った。

 今日、卒業式なのに。いったいなにやってるんだろう。


 知らなかった、と思う。多香子が「たぁこ」と呼ばれてることとか、しっかり居場所を持っていることとか、わたしの誘いを断ることとか。多香子にも、多香子の世界があるってこととか。

 コンビニに入って一時間経つ。食欲なんかなかったけど、駅ビルをまわるのにもあきて、夕食に菓子パンを買ってそのまま店で食べた。携帯をいじってりぼんやりして時間をつぶしていたけれど、店員さんが長居しつづけるわたしをにらんでいる。お客さんも少ない。もう何時間もひとりで過ごしすぎて、時間の感覚がおかしくなっていた。外はもう真夜中の準備をしているなんて信じられない。

  もう一個なにか買おうかな、ピザまんとか。べつにおなかすいてないけど。とにかく帰りたくなかった。両親から、今日は親戚の家に泊まるとメールがあった。帰ってもどうせひとりだ。

 カウンターを降りる。コンビニの前を、高校生の集団が通り過ぎていくのを見て、あわてて棚の奥に回った。

 そうっと覗き込む。うちの制服だ。でも、文系の違うクラスだった。ほっとしたのか、がっかりしたのか、自分でもわからない。 ボーリング行こうぜ! とうっすら声が聞こえる。えー疲れるムリ! カラオケ行こカラオケー、笑い声がぱらぱらと上がる。集団は過ぎていった。

  ふう、と息を吐く。

 ばかみたい。あの人たちが、じゃなく、隠れてあの人たちを見ているわたしが。

  今だけじゃない。ずっとそうだった。わたしはいつも、みんなのことを遠くから見るだけで、仲間に入らなかった。三年間、ずっと。 でもほんとうは、みんなの中にわたしも入りたかったのだ。みんなと普通に、気軽にしゃべったり遊んだり、ノートを貸したり借りたり、誕生日を祝ってもらったりしたかった。お姉ちゃんみたいに、派手なやり方じゃなくてもいい、うまれてきた日をおめでとうって祝福されたかった。わたしってこの程度だし、とか、わたしだから、というくだらないいじましい理由なんかで、ほどほどのところで我慢したくなんかなかった。べつにいいや、あんまり興味ないし好きじゃないし、という顔をしながら、周りのことをずっと外から羨んだりひがんだりしていた。

 明日、誕生日なのに。 わたしは誰にも祝ってもらえない。誰もわたしの誕生日を知らない。

  誕生日まであと二時間。

 わたしがいまのわたしから変われるとしたら、今日と明日の境目しか、時間がない。


 自転車をぐいぐい漕ぐ。向かうのは、海。

 道は一本に突き抜けていて、ブレーキはほとんど使わなかった。 ポケットの中の携帯はやっぱり震えない。誰からのメールも受信しない。

 昼間あんなに暖かかったのに、頬を切る風はひどくつめたい。耳をちぎっていこうとするみたいに鋭くて、痛くてたまらない。

 でも、ほんとうに痛いのは耳じゃないということに、ずっと前から気づいていた。

 ペダルに力を込める。耳元で金属的な音が鳴る。

 海を見よう、と思った。ひとりきりで、海を見ながら誕生日を迎えよう。とにかく、このまま家に帰れない。このまま夜の街を歩いていてもなにも変わらない。

 無心で自転車を漕ぐ。言えなかった言葉が、ふつふつと勝手に記憶からこぼれてくる。

  わたしも打ち上げに行っていい?

 津川くん、よかったらメアド教えてくれないかな。

 卒業式の日、わたしの髪を巻いてほしい。

  実際には外に出てこなかった自分の声が、からだのなかで渦を巻いていく。わたしのなかには、言えなくて心の中で反芻するだけだった言葉がたくさんたくさん積み重なっている。どれも他愛ないことだ。小学校の卒業式、憧れていた先生にサインを頼みに行きたかったけれどみんなに囲まれていたのであきらめたこと。ピアノをやめたいと言えずにいやいや高校受験までつづけたこと。新しいコートじゃなくて楓のお下がりでいい?とお母さんに言われてうなずいてしまったこと。そういうちいさいちいさいわだかまりが、お腹の底でぷつぷつと泡立っている。忘れていると思っていたのに、わたしはしっかりと覚えていた。最後まで口にできなかったことを、忘れることができなかった。

 ひとつひとつはちいさくても、どんどん積み重なってわたしはそれらにからめとられて身動きできなくなっている。

 はっ、と大きく口を開けた。白いかたまりになって息が後ろに飛んでいく。

  海が見えた。立ち上がって漕ぐ。スカートが風をはらんでぐわんとふくらみ、マフラーがひるがえって頬をぴしっと打つ。自転車を漕ぐ脚の筋肉がひきつりそうだ。鼻のあたまで夜風を掻き分けていく。

 行かなきゃ。

 あそこまで、辿り着かなきゃ。


 いずみぃ! 早く早く!

  お姉ちゃんの声がする。まだ、わたしたちが同じ時間を過ごしていた頃の、お姉ちゃんとわたしが入れ替わってあそべた頃の声が。

 まってよおねえちゃん、砂があつくて歩けないよ。

 先行っちゃうよ! きゃーつめたい!

 やだやだやだ、水かけないでよー!

 わたしたちはもう、子供じゃない。あの頃と違う世界に飛び込まなきゃいけない。


 23時46分。やっと海に着いた。こんな時間に海にいるなんて、実感が湧かない。潮の匂いは感じているのに、ちっとも現実味がない。 遊歩道で自転車から降り、砂浜と道路を分けているガードレールをまたいで越える。つんとした海の匂いがする。

 潮騒がこんなに近い。

 急坂の砂浜に積み上げられたテトラポッドを、ひとつひとつゆっくり降りる。バランスを崩して海に落ちそうになり、あわてて壁に手をつく。

 ぱんっ、と意外と大きな音を立てた。 壁に手をついてからだを支え、荒い息を整えて、もういちど携帯を取り出す。

 23:52。ぎりぎり間に合ったみたいだ。

  壁から手を離し、もう一段テトラポッドを降りた。その上で足に力を込めて落ちないように踏んばる。前髪が汗で額にはりついていた。

  そうっと海を見下ろす。空よりも真っ暗で、見つめているとなにかが出てきそうで怖い。昼間の海とはまったく違う。昼間より潮騒が大きい。かすかに水面がさざめいていた。月も出ていない。波打ち際で砕ける波の白さが闇の中で際立つ。のたうちまわる生き物みたいで気味が悪い。 打ち寄せては砕ける波は、わたしを呑み込もうとしてるみたいだ。

  呑み込んじゃえばいい。波が引いたら、わたしがわたしじゃなくなっていればいい。 波の音が、心臓の音と重なって、混ざりあう。肌が潮風になぶられて汗が冷えていった。

 23:55。あと五分。

 あと五分でわたしは十八歳になる。十八歳になってしまう。こんな、夜更けの海で。

 どうして子供は大人になってしまうんだろう。いつまでわたしは子供でいるつもりなんだろう。わたしはいったいなににせかされて、ここにいるんだろう。 わからない。わからないからここに来たんだ。 髪が煽られ、スカートがばたばたとひるがえる。セーラーが背中で持ち上がっているのがわかった。マフラーは自転車のかごの中だ。寒い。歯が鳴る。でも、気持ちいい。ひゅうっと海から運ばれてきた風でそのまま持ち上がってしまいたい。

 はっ、はっ、と絶え間なく吐き出される白い息が視界をぼやかす。23:59。

 あと四十秒。

 わたしは目を閉じた。わざわざ夜中に自転車を飛ばして海まで来たことが、急にくだらない、ばっかみたい、そんなふうに思ってしまいそうになった。

  行けなかった打ち上げ、教えて、と言えなかった津川くんのアドレス、巻かれていない髪、わたしの知らないところで楽しんでいる多香子、前歯で噛むと挟まるレンコンの繊維、四月から通うはずの東京の大学、似てないねって友達に言われたお姉ちゃんとのプリクラ、片方のページだけコメントで埋まった卒業アルバム、司書さんに言えなかった素直なお礼の言葉、最後に聞いた津川くんの声、何時間も歩き回って時間つぶしした卒業式の放課後。

 いろんなものが、わたしの足元をぐらぐらさせる。わたしをがんじがらめにする。 もう、そういうのはいやだ。

 目を開けた。

 あしたまであと7秒。

 あと7秒で誕生日になる。息を整えてカウントを始めた。

 ご、よん、さん、に、いち。

 ゼロ。

 しゅるりと結び目を引っぱってスカーフをはずした。

 空に放る。

 わたしの幼い部分が、遠くに、遠くに舞い上がっていく。それはすぐに赤い点になって、闇にまぎれて見えなくなった。

 じっと目をこらす。空をにらみつける。風にさらされ、眼球がつめたくなる。

 東京に行ったくらいで、わたしは変われない。髪をきれいに巻いたり、ピアスを開けたり、流行りの服を着こなしたり、男の子と気さくにしゃべるようになったり、そういうことができるようになるわけじゃない。

 そんなこと、わかっている。

 でも、ここにいたらいまのわたしからは一ミリも変われない。

  このままじゃだめだ。すこしでも、いまのわたしから変わりたかった。お姉ちゃんみたいになりたい、わたしであることをやめたい、と思っている自分を、すこしでも変えたかった。十七歳までのわたしの延長線上に十八歳のわたしがいるのはだめだと思った。

だからわたしは海に来た。 そしてもうすぐ、東京に行くのだろう。きっと。

  にぎりしめていた携帯が、ふるえた。

 Eメールだ。受信は0:00ぴったりだった。

【誕生日&卒業おめでとう!】

 お姉ちゃんからだった。 たくさんのデコレーションで、闇の中、ちかちかとカラフルに光っている。いまわたしが家にいないことを知っているはずなのに、余計なことは訊かずにお祝いだけしてくれた。

  ありがとう、と声に出して呟いたら視界の底が揺らいだ。涙を指ではじく。でも、あとからあとからあふれてくる。

  す、と息を吸った。 おもいっきり、さけんだ。

 言葉や意味のあることではなく、ずっと溜まっていたものを、ぜんぶ、吐き出す。 海はぜんぶ吸いとってくれる。わたしはずっと、ずっと、さけびつづけた。海に吸い込まれて、声の名残は残らない。 でも、わたしは忘れない。誰も聞いていなくたって、ひとりぼっちだったって、わたしはわたしという聴衆を消すことはできない。

  やがて声が嗄れて、出なくなっても、海に向かってさけびつづけた。涙でくちびるが濡れる。寒さでしびれた手の甲で、ぐいとぬぐう。 海鳥がキュウ、キュウ、と鳴いている。

  刻々と、わたしの十八歳の日々が始まっていく。

 肩で息をついた。手で掴んだ膝小僧のつめたさを、いとおしいと思った。忘れちゃだめだ、と思った。

  もう、わたしは少女にもどれない。

 でも、前に進むのがいやだなんて思わなかった。 洟を啜り、両足にぐっと力を込める。強くまばたきして、まぶたに残った涙を外に流しきる。 海と空との境界線がわからなくなった水平線を、いつまでも、いつまでも見つめつづけていた。


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夜明けの祝福 @_naranuhoka_

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