@_naranuhoka_


 神楽は落ち込むと人妻の凌辱物のアダルトビデオで抜くらしい。「それの何がいいの」と問うと、「なんか、乱暴な気持ちになっちゃうんだよね、落ち込むと」とおどおどこたえる。とても乱暴な性衝動に突き動かされるような人間には見えない。

 神楽は銀縁のメガネをかけていてナナフシみたいにほそくてわたしより二センチ身長が低い。突風の日「ゴムないよ、買ってきて」とアパートを追い出してコンビニに行かせたら、20分経っても帰ってこなかったことがあった。窓を覗くとビニール傘の骨と同じくらい風で身体をしならせながら必死にレジ袋を腕で守っている神楽が見えた。しかも買ってきたコンドームはパッケージがよく似たワンパック使いきりのローションで、神楽はちんこごと萎れたけれど、わたしはげらげら笑いながらつけないでまたがった。神楽は、うお、っと唸っていいの、という顔でわたしを情けなく見上げたけれど、無視して腰を上下させていたら神楽は下から強く打ちつけてきて、本気の声が漏れた。窓の向こうでつむじ風が沸騰したケトルのように笛を吹いていて、すこし興奮した。安全なところに隔たれてぬくぬくとセックスしている、ということに。

「弓ちゃんって落ち込んだとき何するの」

 神楽はセックスする仲になる前と同じようにいまでもわたしをちゃんづけする。そういういところが、と思う。そういうところが、いつまでもセフレどまりなんだよなあ。

「神楽を呼びだす」

「ひでえ」

「わたしのオナニーに巻き込まれて光栄でしょ」

 ふんと鼻を鳴らすと、神楽は素で傷ついた顔をして、「麦茶もらう」とベッドからとんと抜け出して冷蔵庫へ向かう。裸の男の後ろ姿ってなんでこうも間抜けなんだろう。しりのあたりに哀愁を感じて、わたしは目をそらして煙草に火をつけた。

「むしゃくしゃしたら自慰するのは男でも女でも一緒でしょ?」

「まあ、わかるけど、身も蓋もない」

「自慰行為なんてそんなものでしょ」

 お茶を汲んだコップを持ってベッドに戻ってきて、飲む? とわたしに差し出す。「口移しでちょうだいよ」と言うと、神楽はあからさまに顔を赤らめて少し口に含み、くちびるを押し当てた。つめたい。

「弓ちゃんって好きじゃない相手にもこういう作為的なこと、平気でするよね」

 くちびるを離すと神楽が余計なことを言うので、もういちど自分から顔を寄せてくちづけた。喉の奥で神楽が唸った。


大丈夫、まだ手札はある。電車のドアの前に立って車窓のなかの自分と目を合わせる。リクルートスーツを着ているせいもあって、遺影のようだ。心細そうな顔をして、電車が地上に上がった瞬間さっとかき消えた。夕方の電車なので、あっという間に人がどやどやと乗り込んでくる。押しつぶされそうになりながら携帯を取り出してメッセージを打つ。

【面接今日終わった。家行っていい?】

既読はすぐについた。とにかくレスが早くなきゃいやだ、と以前ごねたら、それからは神楽は本当に秒速で返信するようになった。

【いいよ】

【いま九段下。もうごはん食べた?】

【いまパスタ茹でようと思ってた。弓ちゃんが来るならまだ茹でない】

【明太子が良い。それかカルボナーラ】

【たらこしかない】

【ちぇ】

【シーチキンと大葉ならあるよ。ツナのパスタにする?】

【そっちがいい】

【おけ 九段下ってことはあと20分くらい? 駅着いたらまた教えて ゆで始める】

可愛い女の子のイラストがピースしているスタンプを押す。そのままラインを閉じて、ツイッターとインスタグラムのタイムラインを流しみして駅に着くのを待った。

アパートに行くと神楽が「お、ジャスト」とつぶやいた。パスタをよそっているところだった。

「海苔もかけてね」

「味付け海苔しかない。おにぎり用の」

「それでいいよ」

 6畳しかない神楽の部屋は、必要最低限のものしかいおいていないわりに、シングルベッドとテレビとタンスと本棚とで目いっぱいだ。ぴったり横並びにくっつくようにして食べる羽目になるのも、関係の近しさのせいではなく、狭い部屋に本棚が二つも壁にひっついて分厚い文学全集が飛び出しているからでしかない。

「面接どうだった?」

「なんか、うまくいかなかった。ディスカッションあったし、落ちたかも。わたしディスカッション苦手なんだよね」

「あれって役割が3割できを決めてるみたいなところあるよね」

「ほんとそうだよ。声がデカいか手を上げるのが早いかじゃなきゃ勝てない」

 神楽が作る料理は一品ものが多く、パスタにしろチャーハンにしろシンプルなものが多い。けれど、わたしがレシピも見ずに冷蔵庫にあるもので適当につくる名前のつかない料理よりずっとおいしい。なんというか、味が安定している。それはそのままお互いの性格を反映しているような気がしてくやしい。

「そういえばネットフリックスで面白そうな映画見つけたから後で見よう」

「えー映画ぁ? 一回見始めると長いじゃん」

 空になった皿を流しにおきもせずに、神楽にもたれかかるようにしてべたべたする。神楽は困ったように笑って、「皿流しに持って行って、シャワー浴びてきなよ」と言った。言われた通り皿を持って立ち上がり、流しの前でブラウスを脱ぐ。ワンルームだからどこで着替えても相手に見られてしまう間取りだ。

「ねえ、リクスーの女の子ってちょっとそそらない?」

「はいはい」

「タイトスカートがエロいのはあまりにあたりまえっていうか安直だから、わたしあえてパンツスーツ派なんだよね。スカートの子ばっかだから逆に目立てるし」

「目立ってなんかいいことあるわけ」

「あの子スタイルよくなーい? って人事がわたしだけえこひいきしてくれるかも」

「はいはい」

 神楽がわたしの軽口を無視してパソコンを立ち上げた。エントリーシートでも書くのだろう。さっさと下着を脱いでお風呂場に入った。

「神楽。こうたーい」

 お風呂から上がり、身体からも髪からも雫をしたたらせたままキャミソール姿で神楽に抱きつく。「身体か髪かどっちかはちゃんと拭いて」と言いながらも、神楽はマイナビからログアウトして作業を止めた。

「はやくしてきて。したいから」

「わかったから、ドライヤーして」

 神楽はわたしの、あまりにストレートな性欲をちゃかさないし笑ったり、ましてやひいたりしない。おどおどしながらも淡々と受け止める。そういうところがいいよね、と思う。思うだけだ、言いはしない。

 雑にドライヤーを済ませ、ベッドにばふんと寝転がる。濃いネイビーのシーツからは、柔軟剤と神楽の匂いと、かすかにわたしが吸っている煙草の匂いがした。

 シャワー音をじっと聞いていると、やがて止まった。「ちゃんと乾かしなよ」と呆れ声が降ってくる。

 くるりとひっくり返って神楽に向かって手を伸ばす。「待って、髪乾かすから」と神楽がベッドに腰を下ろしてドライヤーで髪を乾かし始める。わたしは身体を起こして背後から抱き着き、耳たぶをくちびるで挟む。

「しようよ」

「危ないから」

 熱風が顔に当たり、悲鳴を上げて神楽の脇に顔を突っ込む。そっと吐息を吹きかけると、神楽が身をよじった。

「なんか焦げ臭いよ、大丈夫?」

「弓ちゃんがくすぐるから俺の髪の毛が犠牲になった」

ドライヤー音が止まる。神楽の脇を舌で舐めていると、押し倒された。頰を上気させて、神楽がわたしを見下ろしている。

電気をつけたままいちどした。途中で、窓が網戸になっていることに気づいて慌てて閉めた。エアコンをつけていないので、夜風を遮断してしまうとあっという間に部屋が蒸し暑くなった。神楽はあまり体力がないくせに、しているときは発熱しているみたいに身体が熱くなる。熱いきれでまた肌が汗ばみ、裸同士でくっついていると、離れるときにびちっと濡れた音がする。

「今日泊まる。朝もしようね」

「ごめん、明日授業あるから、一限」

「もう単位取り切ったんじゃなかったっけ?」

「日本映画の授業。木原先生の授業だから聴講したくて」

「ふうん」

単位にならない自由聴講など大学四年間でいちどもしたことがない。神楽はわたしと違って成績も優秀だし、まじめだ。授業くらいサボってよ、といちど朝の支度をする神楽を邪魔したら、「俺、皆勤賞だから」と困ったように笑ってアパートを出て行ったことがあった。そもそもわたしは一限の授業は時間割に組み込みたくないくらい朝寝が好きだから、進んで生活に苦難を差し込むような人間の気持ちがわからない。

「弓ちゃんはいたかったらいていいよ。ポストに鍵入れといてくれれば」

「帰ってくるまでいようかなあ」

「バイトもあるから、夜8時くらいまで帰ってこないよ」

「んー。ま、また明日考える」

「うん」

 神楽はどれだけわたしがだらしなくても、恋人でもないのに傍若無人にふるまっても呆れたり怒ったりもしない。そこまで卑屈にならなくてもいいのになあ、と思うのだけれど、従順なのは好都合だからありがたく享受し続けている。付き合おう、とかいつになったら彼氏にしてくれるの、とかわめいたりもしない。こんな言い方したくはないけれど、完全にわたしの犬だ。

 神楽はわたしを裏返して、後ろから突いてきた。甲高く喘いでいると、弓ちゃん、出すよ、と言って動きが激しくなり、やがてわたしの中で達したのがわかった。

「神楽はセックス上手くなったよね」

「そうかな」

始末しながら神楽は首をひねる。

「比べようがないからわからない。まあでも時間の配分とかはできるようになったかも」

「そうだね」

初めて神楽としたとき、まだ童貞だった。兎みたいにふるえている、ということこそなかったけれど、神楽は白い顔をして恐るおそるわたしを脱がせ、おっかなびっくりという感じで動いていた。じれったくなってわたしが上に乗って跨ると、お約束のようにあっという間にいってしまい、「ごめん」と顔を青くした。

付き合っていない女とセックスをして童貞を捨てる、それはサボったりずるをしたりしないで真面目に地道に人生を積み上げてきた神楽にとって初めての悪事だったのかもしれない。それについて神楽がどう罪悪感や自己嫌悪を処理しているのか、わからないし、なるだけふれないようにしている。神楽も神楽で、本音ではどう思っているかわからないにしろ、わたしの前でそれを吐露することはない。

神楽がわたしを好きなのは知っていた。わたしたちが所属している軽音部でそれを知らない部員は多分いなかったと思う。

弓ちゃん弓ちゃんとそれこそ犬のようにまとわりつき、わたしが別の先輩と付き合いだすと周りが笑っていじることもできないくらい落ち込んだ。ふつうな程度には異性に不自由していないわたしが、ガリ勉、としか言いようのない見た目とそれを裏切らないキャラの神楽に興味を持てという方がおかしい。そもそも、楽器も弾けないし大学デビューしてやろうという意気込みもない神楽が軽音部に所属していること自体ずっと謎だった。

「神楽ってさ、わたしのどこがいいと思ってるの」

寝転がってたずねる。Tシャツにトランクス姿の神楽はとっくにベッドから降りてまたパソコンを立ち上げていた。エントリーシートを打っている。

「げんきで可愛いところ」

「そればっか。見た目がタイプだったってことじゃん」

悪い気はしない。それに、見た目が武器であることは自分で十分承知した上でふるまって生きてきたので、当然といえば当然だ。

「まあ自分とはかけ離れた人種だなあ、とは思うよ。たとえ自分の高校が共学だったとしても、弓ちゃんみたいな女子怖くて話せなかったと思う」

「確かに高校の時は神楽みたいなシダ植物系男子とはしゃべってなかったなあ」

「なんだその総称、ひでえ」

「ひなたには咲いてないでしょうよ」

 だいたいいつも、教室の真ん前で大声でしゃべっていたり男子グループで一番権力がありそうな人とばかり付き合っていた。就活が始まる寸前まで付き合っていた彼氏も、軽音部で一番かっこいいと評判のボーカルの先輩だった。商社に入ってばりばり働いており、この人と結婚してもいいかも、と思っていた矢先、だんだん会う頻度が落ちた。家に行っていい?とかごはんたべよう、という連絡をことごとく無視し、なんだか雲行きがおかしいと思っているうちに、向こうがどうやら浮気しているということをインスタグラムで知って、別れた。一応わたしが別れを切り出したけれど、振られたも同然だった。

就活をしなければならないという精神的に不安定な時期に恋人を失い、わたしは半狂乱になった。いますぐ別な男で穴埋めしなければ、と思ったときにそこにいたのが、神楽だった。

「啓介君と別れたの」

 部室でもたれかかる勢いで距離を詰めると、ソファの上で神楽はわかりやすく身体を硬くした。ほかの後輩が来たらやばいかな、と思いながらも、どうにかこの場で神楽を手籠めにできはしないか、と計算しているわたしの方がよほど余裕があった。彼氏ともなんどか部室で途中まではしたことはあったから、死角をどう用意するかばかり目を走らせていた。

「神楽、今日家行っていい?」

「そういうのはちょっと・・・…」

「おねがい、今日ひとりでいたら頭がおかしくなりそう。わたしのこと見張っててよ。この世に食い止めて。お願い」

 大仰に言い立てる。神楽は本気で困惑しているように見えた。結局しつこく食い下がるわたしに負けて、家にあげた。

 泊まる泊まらないでひと悶着があったあと、神楽はりちぎにも押入れの奥から布団を出して敷こうとした。じゃあ寝よう、おやすみとベッドにもぐりこもうとするので、わたしはベッドのなかに勝手にもぐり込んだ。せっかく家に上がったのだから、何の爪痕も残せないのはいやだった。

「何するんだ」

「こっちの台詞だよ。神楽、一緒に寝ようよ」

「なんで」

「さびしいから」

 神楽は身を起こし、ぱちんと間接照明をつけた。すこしもエロティックな雰囲気ではないのは、神楽があまりにもまじめな顔つきをしているせいだった。

「弓ちゃんが失恋してつらいのはよくわかったよ。気が済むまで話し相手くらいにはなるから」

「そういうことじゃないってば。言わせないでよ」

 かったるくなって、傷心の身をよそおうことをやめて服を脱いだ。神楽は目をまるくした。

「服を着ろよ」

「神楽ってもしかして性欲ないの?」

 断られることなどはなから想定していなかったので頭が真っ白になった。自分が露出狂の男性になっていたいけな少女に性器を露出しているような気持ちになって、恥ずかしさに顔があつくなっていく。

「弓ちゃんは俺じゃなくてもいいのかもしれないけど、俺はそうじゃないから」

 気まずさに黙り込んだ。神楽は神楽で、自分の気持ちがわたしにばれているから家におしかけてこられたことをきちんと把握しているようだった。

「いや、気持ちはわかるよ。俺は誰かと付き合って別れたことはないから想像でしかないけど、誰かとそういうことをすることによって、先輩にやつあたりしたいんだろ」

「そうだよ」

「だからってよりによって相手を俺にするのは、あんまりだな」

 神楽は意固地にわたしのほうを見ようとしない。じっと手を組んで、前を見据える。わずかに指が痙攣のようにふるえていた。

「神楽。しようよ」

「弓ちゃん」

 神楽は目をつぶり、ふうっと息を長くながく吐いた。

「ごめん、今日はちょっと勇気がない。ベッドで寝たいならここで寝ていいよ。俺は布団で寝る」

「やだ。一緒に寝ようよ」

抱きついてなし崩しにしてしまおうとしたけれど、神楽は静かなトーンでやめて、と言ったので、黙って離れた。神楽はほんとうに布団に戻ってしまい、そのまま会話もなく寝入ってしまった。

ほとんど眠ることなどできなかった。起きた後絶対に顔を合わせたくなかったので、始発のある時間にそっと家から出た。白い朝日を疎ましく思いながら、しかめつらで電車に乗り、自宅のアパートに戻った。散々だ、と思った。もう二度と神楽と顔をあわせたくない、とも。

けれどどういう因果か、わたしたちはまた会って、関係を持つこととなった。その経緯はいまいち覚えていない。神楽から連絡があったんだか大学で会ったんだか、とにかくわたしはまた神楽のアパートに行き、セックスをした。神楽の動きはつたなく、必死だった。自分の動機とあまりにかけ離れていて、急速に気持ちが萎えた。「やんなきゃよかったな、神楽もこんな感じで童貞捨てるはめになってかわいそう」と終わってもいないのにそんなことを考えながら神楽の上で動いた。

「就活が終わるまでにしよう」と終わるなり神楽は言った。「終わりを決めておかないと、諦めがつかなくなるから」

 結局明白なかたちでは神楽はわたしに告白をしなかった。させないようにしむけてしまったのはわたしだ。それをわかっているから、「何それ」とちゃかすこともできず、うんとうなずいた。

「でも弓ちゃんは、就活中に彼氏できそうだよね……」

「まさか。それどころじゃないよ」とっさに否定しながらも、そうだろうな、と内心では思っていた。就活は普段会えない不特定多数と会う機会でもある。先輩に振られたことに傷つき腹を立ててはいたけれど、それなりに新しい恋に前向きでもあった。

「もしそっちに彼氏できたらその時点でやめよう。でもできなかったら、内定が出るまでは家に来たりしてほしい」

「どっちの内定?」

 神楽は一瞬黙り込み、「どちらか一方でも」と言った。わかった、とわたしはうなずいた。

 以来、わたしたちは週に二日ほどのペースで会っている。デートはしない。どちらかの家でしか会っていない。典型的なセフレ関係だと思った。

 女性が搾取されているイメージがあるから、そういう関係性を持つことにどこか陰鬱な印象を持っていたけれど、なんてらくなんだろう、というのが正直な関係だった。神楽にとっては地獄の始まりだったろうけれど、自分に好意を持っている相手を選んだのは正解だったと思った。相手がほしがっているものを適度にあたえていれば、自動的に自分にとって居心地のいい場所が勝手に用意されているのだから。もはや先輩の顔色をうかがいながらつきあっていたころよりもよほど快適ともいえた。

 けれど就活は思っていた以上にてこずっていた。要領はいいほうだと思っていたのに、就活の準備や自己分析を怠っていたせいで、就活解禁から三か月たっても少しも内定が出ない。そして、自分が一体何になりたいのかもよくわからずにいた。

 あなたの人生の挫折はなんですか? そしてそのときに起こした行動はどのようなものだったのか教えてください。

 大した挫折なんかない。のらりくらりと要領よくらくして生きていることこそ大学ではよしとされていたのに、就活では途端に苦難を乗り越えてきた人間が評価されるらしい。そのあほらしさにどうしてもいらだってしまい、ほかの就活性のように猫をかぶるということがばかばかしくてできずにいた。嘘をついている自分を俯瞰した自分が眺めて「あほらし」とあくびしているせいだ。

 神楽は神楽で、就活は難航している。最初から大手の出版社だけを志望に絞っているらしい。「一次試験、三万人が受けているんだってさ」とげっそりした顔で帰ってきたり、「大学のときから出版でバイトしてコネもっとけばよかったなあ」とめずらしく愚痴を吐いたりしてわりと苦労しているようだ。わざわざ茨の道を進もうとする気持ちもあまりよくわからないけれど、正直、苦労している神楽の姿を見てほっとしているところはあった。

神楽だって、わたしが泣きながらエントリーシートを印刷したり「またおとされた!」とメールを確認してはわめいているのを見て安心材料にしているんだろう、と思った。

「もし二人とも内定でなかったらどうする?」

「それはないと思うけど、留年かな」

「後輩と一緒に就活やり直すなんて絶対やだ。一緒に株式会社やろう」

「何の会社?」

「就活性と企業をつなげる人事系の会社」

「なんかもうそのビジネスの構造、百番煎じくらいだと思うよ」

「いいじゃん、そのなかのトップになろう」

「就活で惨敗した学生が就活業界のトップになったらめちゃくちゃ面白いな」

 お祈りメールが来ても、面絶で手ごたえを感じられないまま帰路についても、神楽と話して暗い笑いに昇華させていれば、それなりに気がまぎれた。

もともと神楽とわたしは軽音部の同期だったにもかかわらず、神楽が出版社の編集を目指していることや塾と本屋のバイトを掛け持ちしていることを知ったのは関係を持ってからだった。わたしは神楽がずっと苦手で、意図的に遠ざけようとしていたからだ。彼氏がいるのに神楽が一向にわたしへの好意を隠そうとしないことに苛立ち、わざと邪険に扱っていた。物欲しそうな目を向けられても、優越感を感じるどころか、安全なところから出ずにうろうろし続ける態度に嫌悪感を覚えていた。いま思えばそれは、同族嫌悪だった。

わたしは人とまっすぐぶつかって、喧嘩したり深いところまでとことん話し合う、という濃厚な人間関係を築いたことがほとんどない。ことなかれ主義だし、親友と呼べるほど仲がいい同性もほとんどいない。高校のころから、一番仲がいい人は常に彼氏だった。

 男の人と付き合っていないと、自分の輪郭がぼやけてしまう。水彩画を水で溶いたみたいに。

 就活は自分がどんな人間かアピールする場だ。自分という商品をいかに高値に見せて買い取らせるか。仕組み自体はいやになるほどわかっているのに、選考がなかなか進まないのは、わたしがわたしのことを大して把握できていないからなのだろう。


 六月になった。内定解禁の時期になるとまわりの就活生は内定が出て就活を終わらせているか、内定を持った余裕のある状態で就活を続行している。わたしはまだ最終選考にすら残っていない。それがどれだけまずい事態なのか、いまいち現実味を持てないままぼんやりと半袖用の就活のブラウスを二着買った。これを買わずに済んでいる同い年の人たちのことを考えまい、と思いながら一万円札を出す。バイトを休んでいるから、出費がかさむたびに自分の精神が削られる。

 元彼の啓介君から連絡が来たのはやっと最終面接の選考案内が届いた晩のことだった。

初めて最終面接に呼ばれ、やっと一歩前進したことがうれしくてひさしぶりにコンビニでデザートを買って帰ると、もう二度とみることはないと思っていた名前でメッセージが届いており、心臓が凍りついた。

【弓、ひさしぶり。就活の具合はどう? もし内定出てたらお祝いしよう】

 どういう風の吹き回しなのだろう。ぺたんとワンルームで女の子ずわりしたまま眺めやってしまう。既読をつけないまま、いったん買ってきたプリンを黙々と食べた。

 啓介君とはあまりいい別れ方ではなかった。神楽には話し合って別れた、と説明したけれど本当はラインで別れるというあまりにもお粗末な終わり方だった。ちゃんと会って話したい、という言い分は聞いてもらえず、電話をかけても出てくれずに切ってしまう。仕方なく【じゃあもういい。ここで終わり。ばいばい】と投げやりに送り付け、既読がついたところでトーク履歴を削除した。ブロックする勇気がなかったのは、そうまで拒まれてもまだどこかで引き留めてほしい気持ちがあったからでしかない。

 よくもまあぬけぬけと、と怒り狂う気持ちと、付き合っていたときのあまやかなせつなさが胸のなかで混ざり合う。水と油のようにけっして入り混じるような感情ではないはずなのに、それはやがて懐かしさに収斂されていく。

【就活まだ終わってない。内定もまだ出てない】

 無残なかたちで振られた元恋人に醜態をさらすのも恥ずかしかったけれど、それ以上に、誰かにもたれかかれるものならもたれかかってしまいたいという欲求に負けて返事をした。すぐに返事が返ってくる。

【そうなんだ、苦労してるみたいだね。気晴らしに飲もうよ】

 あっけない速さで誘われ、とっさに返事を打てない。けれどもったいぶったてわかっている。どうせ自分は会いに行くのだ。手ひどく自分を裏切ったかつての恋人に慰めてもらうために。

 犬がOKしているスタンプを送り、あさっ一九時に池袋で待ち合わせた。啓介君の家はそこから三駅だから、おそらく向こうの家で寝ることになる。自分の家の近辺を指定してくるということはいま彼女はいないのだろうか。よくわからない。

 よくわかったのは、啓介君がわたしのことを舐めくさっているということ、気があるのかどうかは知らないけれどまだ自分を悪からず思っている自信があって連絡をよこしてきて、実際そのとおりであるということ。それだけだ。

 己のプライドの低さにため息が出たけれど、ひさしぶりに誰かとデートするということに単純に心が潤ってくるのがわかる。明日は久しぶりにパルコに行って夏物を買おうと思った。


 ひさしぶりに会う啓介君はすこし痩せたようだった。すごくやつれてたり劇太りしてたらいいのに、と思っていたのに、三か月前最後に会ったときと変わらずしゃらくさいイケメンでがっかりした。

「やせたね。筋トレしてるの?」

「まあ、絞ってはいるよ。一時期酒で太っちゃったから。弓もやせたね。顎のところがとがってる」

「そう? 失恋したからストレスで肉が落ちたのかも」

 カウンターパンチを食らわせると、ハイボールを飲んでいた啓介君は苦笑いした。

「それを言われたら、俺は何も言えないな。まあ、その節はごめん。ひどかったよな」

「ほんとだよ。就活のストレスよりもずっとずっと傷ついた」

 言い募るうちに目頭が熱くなり、涙がにじんでしまう。啓介君はテーブル越しにわたしの頭を撫でた。懐かしい気持ちをどうにかおいやり、わたしは低い声を出す。

「浮気したくせに元カノの頭撫でるんだ」

「ごめん。いまはもう、誰とも付き合ってないよ」

 その言葉を聞いた途端、傷つけられまいと警戒していた心の緊張が一気にほどけた。ああいま「やりなおそう」的なこと言われたら断れないかもしれない、と思って身構えていたけれど、一向にその一言は出てこず、話は無難にわたしの就活の話に移った。先に就活を終えて社会人二年目の啓介君は、それなりに真摯にアドバイスをくれた。

「今日泊まっていい?」

 自分からはけして言うまい、と思っていた台詞が飛び出してしまう。啓介君が間をおかずに「いいよ」とうなずいたのでかろうじて恥ずかしさが拭われた。

「弓はいま神楽と付き合ってるのかと思ったよ」

 煙草に火を点けながら何気なく言われ、硬直した。この場でまさか神楽の名前を彼の口から聞くとは思っていなかった。

「何それ。付き合ってないよ。誰かが言ってたの?」

「まあ、サークルの連中なんて会えば噂ばっかだからな。複雑ではあったけど、まあ神楽はずっと弓のこと好きだったみたいだし、それもいいのかもなあ、って思ったよ。なんだ、単なるデマか」

 付き合ってなどいない、期限をもうけて寝ているだけだ。それ以上の関係ではない。けれど啓介君とよりを戻す伏線をこの期に及んで諦めきれず、そのことは口にはしなかった。見た目もキャラも正反対のふたりは、サークル内でもあまり交流していなかった。

 結局店を出てすぐ啓介君の部屋になだれこんだ。俺以外の誰かとした? と訊かれて「してないよ」とうそぶくと、安心したように唇をふさぎ、ぬめった舌がわりこんできた。さっきまで同じものを食べていたのに、妙に煙草の味がする。ぬるいお湯のようにさらさらした神楽の味に舌が慣らされているせいだろうか。手際よく下着をはずされ、あっというまに裸にむかれる。

 ばかみたいだ。どうせこの人もそれなりに遊んでいるんだろうけれど、元カノであるわたしもその一因に入れ込むタイミングをはかっていたのだろう。就活で弱っているタイミングと重なっていたのは、もしかしたらどこかでわたしの就活がうまくいっていないという情報をつかんでいたからなのかもしれない。そう思うとかつては熱のこもった視線で見上げ続けていた元彼のせせこましさにうんざりした。けれどひさしぶりにこなれた人とセックスして興奮して、夢中でむさぼった。

 明日神楽の家に行って先輩とセックスしたことを報告しよう。神楽の顔がショックと怒りで青くなったり赤くなるところを想像したら少しだけ元気が出た。


 たまには差し入れでも持っていくか、と思ってサンマルクのチョコクロワッサンを買って神楽の家に向かった。神楽は顔を上気させてドアを開けた。

「お疲れ」

「おつ。チョコクロ買ってきたからあとでデザートで食べよ。まあ夕食これでもいいけど」

「夕食はもう俺がつくったよ」

 中に入ると、テーブルには焼き餃子だのだし巻き卵だの唐揚げだのやたらと豪華だった。

「へえ。豪華じゃん。もしかして内定、」

「出たよ」覆いかぶせるように神楽が口にした。「第二志望の出版社から内定出た」

 思わず神楽の顔を見上げた。神楽の顔はこわばっていた。わたしの反応を推し量っているのだ、と気づいて、あわてて口角を持ち上げる。

「え、おめでとう。よかったじゃん。就活終わったってことでしょ?」

「うん。第一志望は結構早い段階で落ちてたから、もう全部の選考は辞退しようと思ってる」

「へえ。なんて出版社?」

 神楽が口にした出版社はわたしでも知っている大手の出版社だった。すごいじゃん、と素で感想をもらすと、神楽は「ありがとう」と言った。あくまでも静かな声だった。

「夕食、冷めないうちに食べよう」

「うん」

 言ってくれればお酒とかもっと豪華なデザートでも買ってきたのに、と笑いかけても神楽はぎこちなく「うん」と言うだけだった。いつも一品料理しか作らないのに、どのおかずもとてもおいしかった。

「じゃあもう、わたしたちのこれもおしまいだね」

 神楽から切り出される前に自分から口にした。神楽は箸を止めて、わたしの目を見た。

「実は内定はもう四月に出てたんだ」

「え?」

「別の内定。そこは教材関係の出版社で、あんまり志望度は高くなかったから、保留にしてた。第二志望が通ったから、そこは断るつもり」

「ふうん」

 内定がそんなに早い段階で出ていたとは知らず、心臓がだばだばといやなふうに急いた。からあげの下味はずいぶんと塩辛い。もしかしたら神楽も動揺しながら料理していたのかもしれない。

「なんで黙ってたの」

「先延ばしにしたかったから」

 何を、までは言われなくてもわかっていた。塩分が舌にからみつき、水で流し込む。

「弓ちゃんのこと、好きだったから、こういうかたちではあったけど、付き合えてうれしかったよ」

 別れ話をされているのに餃子を食べるのも変かな、と思って箸を置いた。置いてしまうと、なんだかもう二度とこれらを食べる気などしないだろうな、と思った。別れの夜のための晩餐を神楽がせっせと用意したのかと思うと、口にしたくなかった。

「弓ちゃんは、俺のこと可哀そうだから近くにおいてたんだよね」

 神楽の声はあくまでも淡々としている。

「たとえ憐れなところを好かれているのだとしても、俺は弓ちゃんのこと嫌いになれなかったな」

女という性はある意味とても楽だ。脱げば必ず誰かは欲情してくれる。そのわかりやすさは、就活という見えない敵と戦っているわたしにとっては、とても大切なおまもりだった。

「そういうあさはかなところも、ばかだなあと思ってたけど好きだったよ」

「それってあんたもわたしのことかわいそうだなって下に見てたってことでしかないじゃん」

 神楽は虚を突かれたように黙り込んだ後そうかもね、とつぶやいた。

「今日は泊まんないから。っていうか食欲なくなったからもう帰る」

「弓ちゃん」

「内定おめでとう。わたしはもう少し時間かかりそうだよ」

 自分がいま何の表情を浮かべているかわからないままへらへら言い、立ち上がって鞄を肩に背負った。

「弓ちゃん」

 神楽が立ち上がる。

「弓ちゃんが内定出るまでは、家に来ていいよ。じゃなきゃ弓ちゃん、もたないでしょ」

「うるさい!」

 怒鳴ると神楽はわたしの腕をぐいと引き寄せた。あっけなく神楽の胸に抱きとめられ、だらだらと涙が出た。

「今日、言うか言わないかずっと迷ってた」

 ふれあっているのに、神楽の声はとても静かに凪いでいた。この人とくっつきあってキスしたりセックスしまくっていたことなど、わたしの幻想なのかもしれない、と思うくらいに。

「本命じゃないとしても内定が出たことを黙ってたんだから、二個目の内定を言おうが黙ってようがもう同じことだ、ってわかってたけど」

 神楽がわたしの背中をとんとんとやさしくたたく。子供をあやすみたいに。

「かわいそうじゃなくなってごめん」

 わたしはずるずるとはなをすする。一秒でもこの家になどいたくないのに、二度とこの部屋に来ない自信が、いまはすこしもない。

「好きだったよ」

「いまは好きじゃないってこと?」

 神楽は黙っていた。

「わたしは神楽のこと全然、一回も、好きだともかっこいいとも思ったことなかったよ」

「知ってる」

「全然タイプじゃないし、神楽のちんこ舐めながら元彼のことばっか思い出してたよ」

「うん」

「わたしみたいな可愛い子とエッチするチャンスなんて、神楽には二度と来ない。大きな出版社の内定出たからって調子載らないで」

「うん」

 神楽はつったったままわたしの背中をずっとずっとさすっている。座ることも立ち去ることもできず、わたしはいつまでもしゃくりあげた。キスをするたび、神楽のめがねがずれていて笑い転げていたことを、いまになってなぜか、思いだした。

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